第二章
七月二十七日(月)
バイトを終え帰宅すると、僕はまた昨夜と同じようガラス戸の前に腰を下ろした。三線のケースも目の前に用意はしたが、中身は取り出さずに真澄が声を掛けてくるのを待った。きっと、また真澄が声を掛けてくるに違いないと僕は思っていた。
「こんばんは純さん、アルバイト、お疲れ様でした」
真澄は僕の予想、いや期待を裏切らなかった。
「真澄さんも、お疲れ様でした」
姿の見えない相手と話すのはやはり少し勝手が違った。視線のやり場に少々迷った。ともあれ、まず僕は、昨夜、真澄と別れてからネットで調べたことを真澄に報告した。
「やっぱり、そうだったのね」
真澄の声には僕の話に驚いたような様子はまるでなかった。もう、その件には興味はないといった調子で早々に歌のリクエストをしてきた。
「今日も、純さんの歌、聴かせてもらえるかな?」
「ああ、喜んで」
社交辞令ではなく本音だった。僕は本当に真澄に聴いて欲しいと思っていたのだ。
真澄には、八重山の島の歌の二曲目、「鳩間島の歌」を聴いてもらった。
七月二十八日(火)
その夜、僕と真澄の関係は劇的な変化をとげることになった。
夕食を外で済ませ、鍵を開けてアパートの自室に入った途端に僕の背筋に寒気が走った。寝室に見知らぬ女性が立っていた。彼女はもう少しで肩に届くかという短い髪をした美しい女性だった。年齢はまだ二十歳そこそこといったところに見えた。しかし、彼女がこの世のものでないことは一目で分かった。彼女の体は輪郭がかなり朧気で、その体を通して後ろの部屋の壁が透けて見えていた。
僕は玄関で立ち尽くしたまま、どうにか冷静さを失うまいと必死になった。とりあえず、一つ深呼吸をして、それから口を開いた。
「君は、一体、誰なの?」
僕の狼狽えた様子を見て彼女は申し訳なさそうに答えた。
「純さん、私の姿が見えちゃったのね」
真澄の声のようだった。
「もしかして、真澄さん?」
僕は半信半疑だった。
「そうです、ごめんなさい。私、嘘をついていました。でも、どうか信じて。私、純さんを怖がらせたくなかったの。だから、普通の人間だって嘘をついたの、どうか、それだけは信じて」
真澄の言葉には切実な思いが感じられた。その言葉を聞いて僕の背中にあった寒気は波が引くように消えていった。
「信じるよ」
僕がそう言うと真澄は少し安心したように自分の正体を語った。
「私、幽霊なの。より正確には地縛霊という奴。成仏もできず、この部屋に縛りつけられたままどこにも行けないの」
「なるほど、そういうことだったのか」
僕が納得すると真澄は更に謝罪の言葉を口にした。
「本当に、ごめんなさい。純さんの歌が素敵だったので思わず声をかけちゃったの。まさか聞こえるとは思わなかったから」
僕は何だか真澄が可哀そうになった。
「そのことはもう謝らなくてもいいよ。ああ、立ち話もなんだから、そっちに座ってよ」
僕はキッチンにあるテーブルを指差した。
「失礼します」
真澄は宙を浮いているかのような足取りで移動して、椅子を引くこともないまま、気づけば椅子に腰掛けていた。僕は靴を脱ぎ真澄の向かい側に座った。
「真澄さん、よかったら、身の上話を聞かせてくれないかな。どうしてこの部屋の地縛霊になってしまったのかという、そのいきさつを」
少し酷な気もしたが知りたいという思いが勝った。
「うん、全部隠さずに話すわ。私にはその義務があると思うの。でも、どこから話したらいいのかな?」
真澄が話の進め方に少し困ったようだったので、僕はとりあえず彼女の誕生日や出身地を聞いてみることにした。
「まずは、真澄さんの生年月日を教えてくれないかな?」
「生年月日は昭和三十七年、西暦で言うと一九六二年七月六日です」
ちょうど両親と同じ年の生まれだったので、真澄は生きていれば四十八歳だとすぐに分かった。しかし真澄の姿も話しぶりも両親とはおよそ異なり、二十歳そこそこにしか思えなかった。
「出身は何処なの?」
僕は予定通り次の質問をした。
「住所を言っても分からないと思うわ。要するに青森の山の中の小さな村よ」
「なるほど」
真澄の出身地の詳細は必要なかったので僕は話の本題に近づくことにした。
「で、東京にはいつ来たの?」
「中学校を卒業してすぐに来たの。私、中卒で近くの町工場に就職したの。実はこの部屋、会社が寮として借りていたものなの」
中卒で上京して就職というのは、三十数年前の話としてもかなり稀なケースに思えた。気になったので僕は尋ねてみた。
「真澄さんは、どうして、中卒で、しかも遠く離れた東京で就職したの?」
真澄は一瞬ためらったような表情をしたがすぐに答えた。
「私の母は十七歳で私を産んだの。母は、中学を卒業すると、すぐに家を飛び出して東京に行ったらしいの。荒れた暮らしをしていたみたい。突然に戻ってきた時にはお腹が大きくて、村では騒ぎになったって。堕胎が手遅れになってから男に逃げられたらしいの」
「結構すごい生い立ちだね」
ドラマの中でしか聞いたことのないような話だと思った。
「小さな村だから、私の生い立ちなんて、みんなが知ってたの。だから、私は子供の頃から周囲に白い目で見られていた。学校でも友だちなんてぜんぜんできなかった」
ふと、高校時代の自身のいじめ被害が頭をかすめた。
「それは、辛かったね」
同情からそんな言葉が漏れたが、真澄の辛さは僕の比ではなかったのだろうと容易に想像がついた。
「うん、学校も辛かったけど、家にいる時の方がもっと辛かった。母は祖父母の家に戻ってきてから、働きもせず昼からお酒を飲んでた。育児も放棄してしまって、お祖母ちゃんが仕方なく私の面倒を見ていたの。母がそんな風だったから祖父母も村では形見が狭かったみたい。私は祖父母の厄介者だったからあまり可愛がってもらえなかった。母は育児を放棄した癖に、機嫌が悪いとよく私に暴力を振るったの。家は本当に針のむしろだったわ」
「そんな家だったら、確かに逃げ出したくなるね」
いじめにあっていた時期でさえ僕には温かい家庭があったのだから、僕は真澄より遥かに幸せだったのだと思った。
「でもね、もっとひどくなったのよ。中学二年の冬に、祖父母の車が事故にあって二人とも亡くなったの。それからは、祖父母が亡くなって入った保険金とわずかばかりの貯金を食いつぶす生活で、母の暴力も激しくなったわ。だから、私は中学を卒業したら逃げ出すことにしたの。中学の先生も私の事情はよく分かっていたから、東京での働き口を探してくれたの」
上京が真澄の人生の好転に結びつかなかったのは既に明らかだった。僕は更に続く真澄の辛い物語を聞くのが苦しくなってきた。しかし、それでも聞かずにはいられなかった。
「東京に来てからはどんな生活をしていたの?」
「私は働きながら都立の定時制高校に通ってたの。卒業後は二部の大学に行きたかったから節約して学費のための貯金をしてたわ」
働きながら学費をためて二部の大学を目指す。当時はそんな生徒たちも珍しくはなかったのだろう。今どきの定時制高校生の実態とはおよそかけ離れた話だと思った。しかし、そうまでして真澄が何を学びたかったのか僕は是非知りたいと思った。
「大学で何を学びたかったの?」
ずっと暗かった真澄の口調が、その後、少しだけ明るくなった。
「笑わないでね。私、国文科に行きたかったの。本が好きだったから、図書室司書とか、国語の先生とか、本に関わる仕事がいつかしてみたかったの。資格を取って、そういうしっかりとした仕事につけば、一人でも立派にやってゆけると思ったのもあるわ」
「学費を貯めながらの生活は大変だっただろうね」
「うん、服なんてほとんど買ったことが無かったし、映画もろくに見られなかった。テレビとかも買えなかったから、図書室で本を借りて読んでた。あと、恥ずかしいけど趣味で詩とか小説とか書いて懸賞とかに応募してたの。賞には全く縁がなかったけどね」
「なるほど、君も自分で詩とか書いていたんだね」
「そう、純さんが作った歌に興味が湧いたのは、そのせいもあると思う」
真澄がそう言った後、僕は次の質問を少しためらったが聞かずにはいられなかった。
「それで、聞きにくいんだけど、君が死んだのは何歳の時?」
「十九歳の時よ」
そう聞いて真澄が二十歳そこそこに見える理由がわかった。
「どうして死んじゃったの?病気か何か?」
真澄はやや俯いてから、か細い声で答えた。
「私ね、自殺しちゃったの」
それからゆっくりと真澄は自殺の理由を語りだした。その辛そうな声に僕は心が痛んだ。聞かなければ良かったかと少し後悔した。
「母が借金をして借金取りが私の所に来たの。私が学費のために貯めていたお金は全部借金取りにもって行かれちゃった」
「ひどい話だね。それで、それを苦にして命を絶ったということ?」
僕の問いに答える真澄の声は更に辛そうになった。
「ううん、それだけじゃないの。私は、もう一度頑張って、お金を貯めようとしたのよ、でも、悪いことは重なるもので、今度は勤めていた工場がつぶれちゃったの。この部屋は会社が寮として借りていたものだったから、当然、立ち退きを迫られた。私は、住む場所も、仕事も、貯金も失って、誰一人頼る人もいない東京に投げ出されることになったの。私には帰る場所もなかったから、全くの八方ふさがり。ああ、こんな人生もういやだと思って、この部屋で自ら命を絶ってしまったの」
正に不幸を絵に描いたような真澄の境遇に僕はしばらく声が出なかった。
「辛い人生だったんだね」
気分が沈み月並みな言葉しか出てこなかった。しかし、その後の真澄の言葉は更に僕を暗い水底へと突き落とした。
「うん、でも、死んだ後も辛かった。気がつくと私は成仏もできず、この部屋に縛りつけられていたの。私が死んでから、色々な人がこの部屋で暮らし始めて、そして、去って行ったわ。でも、誰一人として、私がここにいることに気がつかなかった。死んでから約三十年間、私は本当に孤独だった。純さんが、ここに来るまでは」
誰にも気づいてもらえず、ひたすら孤独に耐えるだけの約三十年間。わずかひと月足らずの僕に対する無視と嫌がらせなど比較にもならない辛い日々。しかもその辛い日々には終わるあてなどまるでなかったのだ。どれだけ辛かったのだろうか?想像もつかなかった。
しかしやがて、一つの疑問が浮かんだ。僕はすぐさまそれを真澄に向けた。
「ねえ、どうして、今まで誰も君に気づかなかったのに僕だけが気づいたのかな?」
真澄はうつ向きがちだった顔を上げて僕の方を見た。それから自信なさげに自らの考えを口にした。
「純さんには、たぶん霊感があるのよ」
「そうかな、僕は今までに君以外の幽霊を見たことは一度もないけど」
「純さんの霊感はきっと弱い物なのよ。どんな霊でも見られるわけではなくて、何かの拍子に身近な存在にだけ反応する場合があるんじゃないかな?」
「なるほどね」
真澄は同じ部屋にいて、似たような趣味を持っていたので反応した。そう考えれば、真澄の考えには納得がいかなくもなかった。
「辛い話をさせて御免ね」
僕が謝ると真澄は小さく首を横に振った。
「いいえ、謝らなければいけないのは私の方よ。私、純さんが出て行くまで屋根裏にでもいますから」
いかにも申し訳なさそうな口ぶりで真澄は更に続けた。
「私がここから出ていけたらいいんだけど」
それきり真澄は俯いて黙り込んでしまった。それから僕が次の言葉を発するまで少し気まずい沈黙が続いた。
「どうして僕が出て行くことになるの?」
沈黙を破って出てきた僕の言葉はひどく真澄を驚かせたようだった。跳ね返るように顔を上げた真澄はまっすぐに僕の方を見た。
「だって、純さん、幽霊のいる部屋でなんか暮らしたくないでしょう」
つい視線を逸らしてしまったが、僕は真澄の言葉自体は否定した。
「いや、僕は出てゆくつもりはないよ。僕は気にならないよ、真澄さんがここにいても」
僕が視線を逸らしてしまったのは、自分の言葉には少々嘘があったからだった。幽霊と共に暮らすなんて、全く何の迷いも無く出来るものではなかった。でも、真澄を見捨てて一人で逃げ出すのはあまりにも可愛そうな気がした。
「そんな。純さんの好意に甘えることなんて出来ないわ」
「いいんじゃないかな、甘えても。君は十九歳。まだ未成年だろう。一応、僕はもう成人してるからね」
「でも」
真澄は泣きそうな顔をしていた。
「別に真澄さんといると僕が呪われる訳でもないんでしょう。今までここに住んでいた人たちがそういう目にあったことがあるの?」
真澄は大きく左右に首を振った。
「無いわ。近くに大学が出来てからは、ほとんどが学生さんだったけど、みんな元気に旅立っていったわ」
そういう不安がまるで無かったわけではなかったので僕は少し安心した。
「じゃあ、問題は無い訳だ」
「だけど」
真澄は本当に申し訳なさそうにしていた。
「ああ、その代わりに真澄さんにお願いがあるんだ。僕の歌作りを手伝って欲しいんだ。実は八重山の九つの島の歌を全部作りたいと思うんだけど、まだ、出来ているのは三曲だけだから、あと六曲も作らなきゃいけない。真澄さんの意見も聞かせて欲しいんだ。真澄さんだって小説や詩を書いていたんだから、僕に貴重なアドバイスができるんじゃないかな?」
その言葉を聞いた時、初めて真澄の顔が少し嬉しそうな表情に変わった。
「純さんの歌作りの手伝いができるなんて夢見たいな話だけど、本当にいいの?私、純さんの傍にいても何もしてあげられないのよ。掃除も、洗濯も、炊事も、何も出来ないのよ」
「いいよ」
そう言った僕に翻意を促すかのように真澄は少し痛いところをついてきた。
「私は奈々さんの代わりにはなれないのよ」
その時、僕は自分でも気づいていなかった気持ちを言い当てられたような気がした。確かに僕は奈々さんを思い出にしきれないまま、初めての一人暮らしを始めた心の隙間を真澄で埋めようとしているのかも知れなかった。
「真澄さんがどうしても僕に出て行ってほしいなら、無理にとは言わないけど」
僕は少しずるい言い方をした。
「そんなことない。私、できるなら純さんの歌作りの手伝いをしてみたい」
暗かった真澄の目が生者の輝きを取り戻したように見えた。
「じゃあ、決まりだね」
「すみません、よろしくお願いします」
真澄は目いっぱい低く頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくね」
こうして、生きている僕と幽霊の真澄の奇妙な同居生活が始まった。
七月二十九日(水)
「おかえりなさい」
夜、食事を済ませ部屋に戻ると僕は真澄の言葉に迎えられた。キッチンに立つ真澄の姿は朝見た時よりも輪郭が少し明確になり、体の透明度も下がっているような気がした。
僕がリュックを寝室の机の上に置くと、早速、真澄がリクエストをしてきた。
「純さん、今のところできているもう一つの島の歌を聴かせて」
「ああ、いいよ」
僕はガラス戸の前に二つ座布団を並べてから三線をケースから取り出し腰を下ろした。
「真澄さんはこっちに座って」
僕は自分の右側の座布団を示した。
「うん」
真澄はやはり宙を歩くような足取りで移動すると僕の隣に腰を下ろした。
「竹富と鳩間の歌を聴いてもらったけど、今のところできているのは、あとは小浜島の歌だけなんだ」
「小浜島ってどんな所なの?」
「ああ、そうだね。小浜島は八重山諸島のちょうど真ん中にあって、大岳(うふだき)という山の頂上に上ると与那国を除く八重山の島が全て見えるんだ。あと有名なのはシュガーロードっていうサトウキビ畑の中の一本道かな。トゥマールビーチという奇麗な浜もあるね。小浜島は、昔、朝のドラマの舞台になったのでいくつか縁の地もあるよ」
「それで、小浜島の歌にも何か背景があるの」
僕を見た真澄の目が輝いていた。真澄は小浜の歌にも興味深い裏話があるのを期待しているようだった。
「残念ながら、小浜の歌には竹富みたいな深い背景はないんだ」
「へえ、そうなんだ」
真澄は少しがっかりしたようだった。そして、僕は真澄の期待を裏切るような、さして面白くもない歌の背景を語った。
「今年の春休みのことだったんだけど、石垣島でいつも泊っているティダヌファハウスという宿で知り合った人たちと三人でレンタカーを借りて島を回った時の話なんだ。一人は三十くらいの普通の会社員の女性で、もう一人は十八歳で高校を卒業したばかりの女の子だった」
「八重山では知らない人と一緒に行動することってよくあることなの?」
ユンタクの有る八重山の宿の雰囲気を知らない真澄にすればもっともな質問だった。
「そうだね、珍しい話ではないね」
「そうなんだ」
真澄は自分には未知の世界があるのだという口ぶりだった。
僕は深い話を期待していた真澄のテンションを更に下げるような話を続けた。
「歌のヒロインのイメージは主に女子学生の方、やたら明るい子だったね。ティダヌファハウスで会った子だったこともあって、歌のタイトルは『ティダヌファ』にしたんだ。『ティダ』は『太陽』、『ヌ』は『の』、『ファ』は『子』、つまり『ティダヌファ』は『太陽の子』という意味なんだ。でも、僕はその子に対しても、もう一人の女性に対しても恋愛感情を持っていたわけじゃないんだ。だけど、良い思い出になったよ。天候にも恵まれて海も奇麗だったしね」
「なるほど、話を聞く限り前の二曲と比べて明るい歌みたいね」
「そういうこと。まあ、とにかく聴いてみてよ」
「うん」
僕は三線の糸を巻くとイントロを弾き始めた。「ティダヌファ」は他の二曲と比べるとテンポも速くメロディーや歌詞も明るく作ってあった。イントロが過ぎ、耳を澄ましている真澄の隣で僕は歌い始めた。
石垣の宿で会った君は正に
ほんのひと時の旅の道連れ
離島桟橋から君と船に乗って
波しぶき浴びて行った小浜島
大岳(うふだき)に登り島影を数えて
キビ畑抜けて着いた砂浜
瑠璃色に輝く海から寄せる波
白い砂の上に続く足跡
八重山の空の太陽にように
明るく笑う君はティダヌファ
港で手を振る君が小さくなる
二人で登った山が遠くなる
この船が立てる白い波はやがて
あの砂浜で届くだろうか
君が砂に書いた僕たちの名前は
波がすぐに消してしまったけれど
心に消えない旅の思い出を
描いてくれた君はティダヌファ
聴き終わると真澄は確認を求めた。
「二人の女性との思い出を一つにしちゃったわけね?」
「そうだね」
「でも、砂に名前書くなんてあたりはちょっと作り過ぎじゃない?」
一般的に言えば真澄の言う通りだった。
「そう思うのは無理もないね。でも、これ、いかにも嘘っぽいけど実話なんだ。十八歳の子は本当に僕たちの三人の名前を砂浜に書いたんだ。すぐに波で消えたのも本当の話」
「へえ、そんなこともあるんだ。現実の世界も捨てたもんじゃないわね」
真澄の声にはまだ半信半疑という雰囲気がこもっていた。たぶん、歌詞のその部分が実話だと思う人はいないだろうと僕自身も思っていたので、それは気にはならなかった。真澄の態度からして高評価は期待できないと思ったが、僕は一応感想を聞いてみることにした。
「それで、どう思ったこの歌?」
「うん、悪くないと思うな」
前の二曲に比べると極めて淡白な真澄の反応を受けて、僕は褒められているのか、けなされているのかよく分からなかった。そんな僕の様子にはお構いなしに真澄は次の要求をしてきた。
「純さん、とりあえず純さんが今までに作った歌。全部聴かせてくれないかな?八重山のアルバム作りのお手伝いをするために聴いておきたいの」
「ああ、もちろん。」
答えた後、僕はそれまでに作った歌を次々と真澄に歌って聞かせた。その中には島そのものの歌とは言えないが八重山を舞台にした歌、その他諸々が含まれていた。
真澄は「じゃあ、次をお願い」と言うだけで、感想を感口にすることなく、ただただ僕に歌うことを求めた。僕が自作の歌を全て歌い終わると真澄は宙を見つめてつぶやいた。
「純さんの歌の世界。ちょっとわかったような気がする」
「ありがとう。それで、どう思ったの?」
気になったので尋ねたがはぐらかされた。
「今日はもう遅いから、その話は明日にしましょう。じゃあ、おやすみなさい」
真澄は立ち上がるとキッチンの方に行ってしまい、その後は姿を見せなかった。
七月三十日(木)
帰宅時、アパートのドアを開けると、「おかえりなさい」という真澄の声が聞こえた。「ただいま」と答えながら僕は靴を脱いだ。
真澄はキッチンのテーブル前に置かれた椅子に座っていた。僕はテーブルを挟んで真澄と向かい合って座った。
「さて、早速だけど僕の歌を全部聴いた感想を聴かせてくれないかな?」
「うん、基本的にはどれもみんな良い歌だと思った」
僕を見る真澄の目には嘘の色は見えなかった。しかし「基本的には」という言葉がかなり気になった。
「ということは、良い歌ばかりだけど問題もあるということだね」
一瞬ためらったような表情を浮かべてから真澄は口を開いた。
「気を悪くしないでね。一つ一つの歌に問題があるわけじゃないの。歌詞もメロディーもみんな良くできていると思う」
「じゃあ、どこが問題なのかな?」
僕には真澄の意図するところが良くわからなかった。
「純さんの歌は切ない歌詞のスローバラードが多いでしょう。それは悪いことじゃないと思うの。だけど、九つの島の歌でアルバムを作るなら歌詞もメロディーもバラエティが必要だと思うの」
「なるほど」
確かに真澄のいう通りだと僕は思った。かつて自らも創作に携わっていただけに的確な指摘だった。真澄の意見は更に続いた。
「今まで聴かせてもらった三曲はどれも良い歌だけれど、全部が旅での出会いと悲しいお別れの歌でしょ。だから、残りの六曲はそうじゃない歌を増やしていく必要があると思うの。そうね・・・」
真澄は少し考えてから問いを投げかけてきた。
「ねえ、純さん、旅で出会った人と再会したこととかないの?」
思い返してみると、そういうことが一度だけあった。しかし、それはたぶん真澄が期待するような再会ではなかった。
「なくはないかな」
「それ、どんな話?聞かせてみてくれない?」
「いいよ」
僕はその時の話を真澄にすることにした。しかし、それは真澄にとって興味深いとは思えないすぐに終わる話だった。
それは去年の夏休みのことだった。ティダヌファハウスのユンタクで、たまたま僕を含む二人の男子学生と二人の女子大生が出会った。宏君、早苗さん、真由美さん、それに僕。全員大学一年生で、みんな一人旅だった。
四人ともみな東京の大学生でということもあり、話が弾んだ。僕の三線に合わせて沖縄系の歌を一緒に歌ったりもして、すっかり大学の合コンのようなノリになっていた。
その最中、まだ原付の免許しか持っていなかった早苗さんが、翌日はスクーターで石垣を一周するつもりだと言い出した。それならば四人でレンタカーを借りて島を回ろうという話になった。
翌日、僕たちはレンタカーで島を回った。見る場所によって海の色が違う細い入り江の川平湾。石垣島の一番細い部分の両側の海岸線を見下ろせる玉取崎。地球が青い球体だと分かる最北端の平久保崎。僕たちはそれらの主だった観光地を巡った。移動中の車内はあれこれと話が尽きず賑やかだった。
女子二人のリクエストにより、景色の良いジェラート屋や、美味しいという評判のケーキ屋にも立ち寄った。平久保﨑でもソフトクリームを食べたりと、男子としてはかなり甘ったるい旅でもあった。
その当時、僕と真由美さんにはそれぞれ交際相手がいたが、宏君と早苗さんは共にフリーで、旅の最中に二人は急速に接近しているように見えた。
その晩は一緒に居酒屋に行った。南の島で過ごす大学生の夏休みということもあり、僕たちはかなり浮かれていた。そして、そのノリで、一週間後に東京で飲み会をする約束までしてしまった。
一週間後、東京で再会した僕らは八重山の思い出話を中心に色々な話に花を咲かせった。その後、カラオケにも行った。僕は相変わらず沖縄系の歌を歌っていたが、他の三人はそれぞれ自分の好きな歌を歌っていた。
歌に優劣はないと僕は思っている。しかし、サウンドが優先で歌詞にあまり意味がなかったり、妙に甘ったるい表現が出てきたり、頻繁におかしな英語が出てくる最近の歌の多くは僕の好みではなかった。しかし、それらの歌はみんな売れているのだから、僕が作った誰も知らない歌に比べれば遥かに優れていると言わざるを得ないこともまた事実だった。
もちろん、カラオケの最中にそんなことを考えていた訳ではなく、カラオケも、その前の飲み会も楽しかった。四人で石垣を回ったとことも、再会の宴を楽しんだことも間違いなく僕にとっては良い思い出だ。
感動の再会を果たした宏君と早苗ちゃんは、これから間違いなく恋人同士になるのだろうと思った。しかし、僕たち四人が顔を合わせたのはそれが最後で、その後は連絡を取り合うことはなかった。だから宏君と早苗ちゃんがどうなったのか僕は知らない。
「というわけで、楽しかったけど。全然、ロマンチックじゃない再会だったんだ」
「そうね、純さんにとってはね」
真澄は悪戯っぽく僕の顔を見た。
「でも、宏君と早苗さんにとっては感動の再会だったわけでしょ?」
確かに真澄の言う通りだった。
「だから、宏君と早苗ちゃんをモデルにして石垣の歌は作ってみたらどうかしら?」
確かにそれは面白いアイデアだった。しかし、それに続く真澄の提案は僕にすればかなり大胆な内容だった。
「悪いことじゃないんだけど、純さんの歌はどれもみな真面目なものばかりでしょう。だから、たまには、もっと甘ったるくて、馬鹿っぽい歌詞を書いてみても良いと思うの。実際にはなかったことやロマンチックな脚色もたくさん入れてね。曲もアップテンポのノリの良い曲にするの。つまり、純さんの好みと正反対のような歌を作ってみたらどうかしら?」
そういう歌を作ろうと思ったことは無かったが、真澄の意見には頷けるところがあった。
「そういう歌を作って、ちょっと殻を破るっていうか、違う方向性を探してみるのも良いんじゃないかな。そして、そういう試みは残りの五つの島の歌を作るのにも生きてくるんじゃないかしら?」
少し身を乗り出して、まっすぐに僕を見つめる真澄の目には妙に説得力があった。
「そうだね。じゃあ、早速、取り掛かってみるよ」
「うん、頑張ってね」
真澄の励ましの言葉を受けてから、僕は立ち上がり寝室にある机の前に腰を落ち着けた。しばらく創作に没頭して、ふと振り返ると、もう真澄の姿はキッチンにはなかった。
七月三十一日(金)
夜、八時頃、僕は寝室の机に置いたノートパソコンに最後の音符のデータを入力した。出来上がったメロディーを聴き終えてヘッドフォンを外すと、背中で真澄の声がした。
「できたのね」
真澄の姿はかなり輪郭がはっきりとしていて、後ろの壁も微かに透けて見える程度になっていた。
「ああ、できたよ」
「聴かせてくれる?」
「ああ、もちろん。じゃあ、あそこに座って」
僕はガラス戸の前に置いたままになっていた座布団を示した。移動する真澄の足取りは、もう宙に浮いたような感覚はなく普通の歩き方に見えた。僕はケースから三線を取り出すと真澄の隣に座った。調弦を済ませた後も、僕は歌いだすのを少し躊躇してしまった。
「どうしたの?」
真澄に聞かれた。
「なんだか聴いてもらうのが恥ずかしい気がするんだ」
「良いんじゃないかしら。ちょっと変わった歌ができたってことでしょう」
「まあ、そうだけど」
「聴かせて」
真澄に急かされた僕は覚悟を決めてイントロを弾き始め、そして歌に入った。
風を感じたいからスクーターにしよう
石垣で出会った君が言うから
熱い日差し浴びて街並みを抜け
峠を越えて、やってきました川平湾
安い青春ドラマみたいに君と
砂浜を歩いてゆく、でもこれは夢じゃない
光る青い空も寄せる波の音も
潮の香りも君の手の温もりも
平久保崎に立つ灯台の下で
サトウキビソフトを食べたその後
ずっと海を見てた目が合った時
すごく自然に唇を重ねた二人
アイドルの歌の歌詞みたいに馬鹿な
台詞口にしたならば君に笑われるかな
さっき食べたアイスよりも甘かったよ
君と今交わした初めてのキス
明日のお昼ごろには東京へ向かう
翼に身を委ね君は旅立つ
思い出を肴にオリオンの生
島の泡盛、今日は朝まで飲み明かそう
白黒の古い映画みたいに君と
石垣で過ごしてきた日々はもう終わるけど
束の間の出会いじゃ終わらないドラマの
続きはまた来週、舞台は東京
「私、この曲、結構、好きだな」
聴き終わると真澄が明るく笑った。
その時、僕は初めて真澄の笑顔を見た。ずっと悲しそうな、そして申し訳なさそうな顔をしていた真澄が、この時、初めて笑った。その後、真澄はこう続けた。
「純さんにしてはなかなかの大冒険だね」
「まあ、真澄さんに言われなかったら、こんな曲は一生作らなかったかもしれないな」
褒められたものの僕は恥ずかしさばかりが先に立った。真澄はそんな僕の様子が可笑しくてたまらないという顔で更に僕の歌を褒めた。
「でも、やっぱり、こういう歌もあった方がいいよ。もしかしたら、九曲の中で一番好きという人も出るかもしれないね」
「それはないと思うけどな」
僕は極めて悲観的だったが真澄は妙に前向きだった。
「少なくても、宏君と早苗ちゃんにとっては一番のお気に入りになるんじゃないかな。いつか聴いてもらえると良いね」
「そうだね、もし二人がうまくいっていて、また会うことがあったら、その時は聴いてもらおうかな」
そうは言ったものの、僕にはとても人前でこんな恥ずかしい歌が歌えるとは思わなかった。
「ところで、この歌のタイトルは?」
真澄の問いに対する答えを僕は用意していなかった。
「ああ、考えてなかった。真澄さんはどんなタイトルが良いと思う?」
真澄が決めてくれるとありがたいと思った。嬉しいことに真澄はすぐにアイデアを出してくれた。
「そうね。『ドラマ』という言葉が二度出てくるし、石垣でドラマチックな出会いをするわけだから『ドラマチック石垣』なんてどう?」
「ああ、いいね。それでいこう」
肩の荷が下りたような気分になった。僕は立ち上がりキッチンに向かった。冷蔵庫から缶ビールを取り出すと一気に半分くらい飲み干した。旨かった。正に解放感に満ちた味だった。
ふっと息をつくと、真澄の鼻歌が聞こえてきた。真澄は「ドラマチック石垣」の最後のフレーズをなぞっていた。振り向くと、真澄の顔はどこか嬉しそうだった。
僕にとっては、「ドラマチック石垣」は九曲の中で最下位になりそうな気がしていた。しかし、初めて真澄と一緒に作った歌が、初めて真澄を笑顔にした。それだけで、もう十分、この歌を作ったことに意味はあると僕は思った。
八月一日(土)
「おはよう、純さん」
僕が目を覚ますと、真澄はキッチンのテーブル前に置かれた椅子に腰を下ろして僕の方を見ていた。
「おはよう、真澄さん」
僕は開いたばかりの目をこすりながら真澄の方を見て少し驚いた。真澄の体は輪郭がほぼ完全に整っていた。透明度もかなり落ちて、気をつけて見なければ背後が透けて見えることは分からない程だった。
「土日はアルバイトもお休みだって言ってたよね?」
真澄に言われて初めて僕はその日が土曜日だと気づいた。
「うん」
「じゃあ、歌を作る時間がたっぷりあるね」
真澄はすでに意欲満々だった。起きたばかりの僕はまだ頭が少々ぼやけていたというのに。
僕が朝食を済ませコーヒーを飲んでいると、真澄はすぐにでも次の歌の打ち合わせを始めたいという顔をしていた。しかし僕は真澄の期待を裏切るような別の提案をした。
「真澄さん、今日と明日はバイトも休みで十分時間があるから、次の歌作りの前に少し別のことをしてみたいんだ」
「へえ、何をするの?」
「気晴らしに一緒に歌を歌わないか。聴いてもらってばかりじゃ申し訳ないし」
そうは言ったものの、それは半分嘘だった。真澄と一緒に歌ってみたいというのは嘘ではなかったが、本音を言えば僕は真澄の歌が聴いてみたかったのだ。
「ええ、でも私、あんまり最近の歌を知らないのよね」
真澄はあまり乗り気ではなかった。
「真澄さんは僕の両親と同じ年の生まれだよね。両親が若い頃の歌のCDをよく聴いていたから、自然と覚えてしまった歌がたくさんあるんだ、だから、一緒に歌ってみようよ」
「私、純さんみたいに上手に歌えるとは思わないけど」
真澄は相変わらず消極的だった。しかし、僕はそんな真澄の態度は無視してさっさと歌の準備を始めた。
「ああ、昔の歌を歌うならギターの方がいいね」
僕は三線ではなくフォークギターを取り出して、敷いたままになっていた座布団の上に腰を下ろし調弦を済ませた。
「真澄さん、こっちに座って」
僕は隣の座布団を指さした。真澄は渋々と僕の隣に腰を下ろした。
「この歌なら知ってるよね」
僕は真澄に返答の機会も与えないまま、両親の世代なら間違いなく知っている歌のイントロを弾き始めた。歌の部分に入ると真澄はきちんと僕に付き合ってくれた。
最初の気乗りしない様子がまるで嘘のように、いざ始めてみると真澄は実に楽しそうに歌った。一緒に歌うということは、歌作りを助けるとか助けられるではなく、同じ立場で僕たちが共にできる数少ないことの一つだった。真澄の歌声はとても美しく、僕は何度か自分だけ歌うのを止めて真澄の歌に聴き入ってしまった。
「純さん、私にだけ歌わせるなんてズルいよ」
僕はその度、真澄のお叱りを受けた。
それ以来、僕の作った歌や二人が共に知っている歌を一緒に歌うのが僕たちの毎日の楽しみになった。
その後、僕たちはキッチンのテーブルで五曲目の歌の打ち合わせを始めた。
「次は西表の歌を作ろうと思うんだけど、何か良いアイデアはないかな?どんな曲が良いかな?それに合わせて歌詞は書こうと思うんだけど」
「そうね」
真澄はテーブルの上に組んでいた腕をほどくと、右手の人差し指をこめかみに当てて少し考えた。
「今のところ『鳩間島の歌』だけが三拍子で、他の三曲は四拍子だから次は三拍子にしてみたらどうかしら」
四拍子ばかりにならないようにするというのも、変化を付けるには良い考えだと思った。
「三拍子か。それでどんな雰囲気の曲にすれば良いと思う?」
「そうね、『鳩間島の歌』と同じにならないようにしないといけないから、テンポが速めの明るい曲にすれば良いんじゃない」
確かに的確な意見だった。僕はすぐにそうしようと決めて歌詞の方に話を移した。
「そうすると、当然、歌詞も明るい内容にしないといけないね」
「そうなるわね」
「どんな話にすれば良いんだろう?」
正直、僕にはまるで考えがなかった。そんな僕とは裏腹に真澄はまた良いアイデアをひねり出してきた。
「今までの三曲はみんな旅の出会いの歌だよね、だから、次はそうじゃない歌詞にしないとね。うーん、現地の人になるのはちょっと想像がつかなくて難しそうだから、恋人同士の旅の話なんてどうかしら」
「それいいね」
僕はすぐに真澄の提案に飛びついた。
真澄も更に熱が入った。
「じゃあ、歌詞はその線で決まりね。もしかしたら、もっとアドバイスができることがあるかもしれないから、純さんが西表でしてきたことを話してくれないかな?」
「いいよ。でも、西表にもロマンチックな思い出なんてないよ」
「いいわ、別に。ああ、できたら写真も見せてくれないかな?」
「ああ、そうだね。その方が話が早いね」
それから僕は寝室のテレビにノートパソコンをつないだ。テレビの前に座布団を二つ並べて二人で腰を下ろしてから、僕の紙芝居が始まった。
河口から続く仲間川のマングローブの森は、満潮時には木々の根元が水中に沈み、干潮時には不思議な形の根が姿を現す。中流の展望台から見た仲間川は深いジャングルの中を蛇行し、まるでアマゾンのようだ。
ピナイサーラを初めとするいくつもの滝は、豪快なものから優雅なものまで様々だ。
近づくと物凄い速さで砂の中に潜ってしまうカニの大群。水辺近くの岸をおぼつかない足取りで移動するムツゴロウの仲間の魚たち。川面を埋め尽くして流れてゆく白いサガリバナの群れ。岸辺で一斉に鋏を振って手招きをするシオマネキたち。西表の川にはたくさんの興味深い生き物たちがあふれていた。
陸に目を向ければ、奇麗な緑色をしたキノボリトカゲ、まるで怪獣のようなキシノウエトカゲもいた。
海は上も下も美しい色に満ちていた。見たこともないような色の水面、色とりどりの魚たちがカラフルな珊瑚の上を行き交う水中。どちらも正に別世界だ。
そんな西表の写真の数々を、真澄は目を輝かせて見つめるばかりで何も言ってこなかった。ようやく真澄が口を開いたのはシーカヤックに乗る僕の写真を見た時だった。
「純さん、カヌーにも乗れるの?」
「ああ、それはカヌーの一種なんだけど、シーカヤックっていうんだ」
「シーカヤック?聞いたことないな。どんな物なの?」
そう聞かれて僕は少し返答に困ったが、なんとか説明をしてあげた。
シーカヤックとは何か。言葉だけで説明するのは少々困難だ。だが、おそらく誰もが次のような光景を目にしていることは間違いないだろう。細い船体の真ん中に開いた穴から上半身だけを出した人が、一本の棒の両側に水を掻くブレードが付いたパドルを操り川の急流を下って行く姿だ。普通、人がカヌーと呼ぶこれにはリバーカヤックという名前もある。つまりそれの海版がシーカヤックだ。シーカヤックはリバーカヤックに比べると船体が長い。舵の付いているものといないものがあり、付いている場合は船の中にある左右のペダルを足で踏むことで操舵を行うようになっている。僕がツアーで利用しているのはもっぱら舵付きのものだった。
「なるほど、良く分かったわ。なかなか面白そうな乗り物ね」
「そうだね、いろいろなツアーがあってね。遊覧船では行けないマングローブの森の奥まで行ったり、珊瑚の奇麗な所まで漕いで行ってシュノーケリングをしたりもできるんだ」
「西表、なんか私も行ってみたいな」
そう呟いて真澄はため息をついた。その次の瞬間、頭に浮かんだ考えを僕はそのまま口にしてしまった。
「連れてってあげようか?」
「え!」
真澄の表情が曇った。まずいと思い僕はすぐに次の言葉をつないだ。
「ああ、もちろん歌の中での話だけどね。歌詞に合った写真を選んで、歌と連動して画面が変わってゆくビデオを作ろうと思うんだ」
「つまりカラオケビデオみたいのを作るわけね」
「そう、真澄さん、西表に行ったら何がしたい?」
「そうね」
考えている真澄の顔にはすでに明るさが戻っていた。
「はい、先生!」
真澄は指の先までまっすぐにして右手を挙げた。
「はい、玉木さん」
「私、シーカヤックでマングローブの奥まで行きたいです」
「よろしい。許可します」
真澄は少し嬉しそうな顔をしてからまた右手を挙げた。
「はい、先生!」
「はい、玉木さん」
「私、サガリバナを見に行きたいです」
「却下します。サガリバナの歌はこの前に聴いたでしょう」
真澄は少し口を尖らせたがすぐにまた右手を挙げた。
「はい、先生!私、シーカヤックで珊瑚を見に行きたいです」
「よろしい。許可します。では、もう一つだけ希望を言ってください」
真澄は少し考えてからまた手を挙げた。
「はい、先生!私、ピナイサーラの滝の上に行ってみたいです」
「よろしい。許可します」
やりたいことが揃ったというのに真澄はまた手を挙げた。
「はい、先生、質問があります。おやつはいくらまでですか?」
僕は笑いそうになったが真澄のジョークにちゃんと応えた。
「五百円までです」
真澄は懲りずにまた手を挙げた。
「はい、先生。バナナはおやつに入りますか?」
「入りません。好きなだけ持ってきてください」
「分かりました、先生。ありがとうございます」
真澄が言い終わると、僕たちは二人ともふき出してしまった。この世のものでない真澄とそんなバカなやり取りをしていることが、僕にはとても不思議なことに思えた。
八月二日(日)
「じゃあ、行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
真澄の声に送られて僕はカラオケボックスに向かった。僕のリュックの中にはノートパソコンと、その他必要な機材が収まっていた。完成するまではビデオの内容を真澄には知られたくなかった。だから、僕はカラオケボックスで作業をすることにしたのだ。
僕はまずは歌の方を完成させることにした。ノートパソコンへの音符の入力は既に済ませていた。次に必要なのは、入力した音符通りにノートパソコンが再生してくれるメロディーと伴奏に合わせて、僕自身が歌う歌を録音することだった。
ノートパソコンにマイクとヘッドフォンをつないだ後、僕は壁に歌詞を印字した紙を貼りつけた。ヘッドフォンを被りノートパソコンに接続したマイクを手にして録音の準備が完了した。歌の録音自体にはそれほど時間はかからなかった。五回目には満足のゆく歌が録音できた。
しかし、その後、歌詞に合わせて写真が変わってゆくようにビデオを編集するのにえらく時間が掛かった。
結局、僕がカラオケボックスを出たのは夕方近くになってしまった。僕は真澄の待つアパートに帰る前に、少し早めの夕食を取った。
実は翌日から二泊三日の予定で与那国島に行くことになっていたのに、まだ、ろくに準備をしていなかった。真澄にビデオを見てもらったらすぐに準備にかからなければならかった。
「ただいま」
僕がドアを開けると、真澄はまるでずっとそこで待っていたかのように戸口に立っていた。
「お帰りなさい。ずいぶん、遅かったわね。私、待ちくたびれちゃった」
「ごめん、ごめん。思ったより作業に時間が掛かったんだ」
僕は靴を脱ぐとすぐに寝室のテレビの前に向かった。座布団はまだ前日のままテレビの前に並んでいた。僕はノートパソコンをテレビにつなぎビデオを再生する準備をした。完了したところで真澄に声を掛けた。
「お待たせしました。上映の開始です」
真澄は小走りでやって来ると僕の隣の座布団に腰を下ろした。
「いよいよ二人で西表に出発ね。なんかすごく楽しみだな」
「あんまり期待しないでね」
僕はそう言い置いてからビデオの再生を始めた。
まず、真っ黒な画面から「いるもて紀行」というタイトルが浮かび上がってきた。「いるもて」は西表の古い呼び名だ。イントロの開始と共に画面は石垣行の飛行機の出発時間の表示、飛行機の機体、西表行きの高速船の出発時刻の表示、それから高速船の船体へと変わった後、歌が始まった。
二人で初めて旅に出た
南の島の西表
マングローブの仲間川
カヤック漕いで遡り
細い支流に入れば、そこは
二人ボッチの音のない国
君の背中に川面から
返す光が揺れている
鏡のように凪いだ海
二人でカヤック漕いでゆき
フィンとマスクを身に着けて
飛び込む海は別世界
ティダの光を受けて煌めく
色とりどりの珊瑚や魚
君と二人で見てるのが
なぜだかとても嬉しくて
遠くに鳩間を見下ろせる
ピナイサーラの滝の上
少し日差しが傾いて
旅の終わりが忍び寄る
あっと言う間に旅も終わりね
つぶやく君の肩抱き寄せる
この旅はもう終わるけど
また何度でも来ればいい
ビデオが終わると、食い入るように画面を見つめていた真澄が大きな拍手をした。
「すごい、純さん。もう本当に感動しちゃった。西表に連れて行ってくれてありがとう」
「どういたしまして」
余りにも褒められたので僕は少々照れ臭くなった。
「ねえ、純さん、もう一度再生してくれない?」
真澄は僕が作ったビデオがひどく気に入ったようだった。
「いいよ」
僕はすぐにビデオを再生してあげた。真澄は目を輝かせて画面に見入っていた。その様子を見て僕は少し複雑な気分になった。僕は真澄を実際に西表に連れていった訳ではなかった。ただ真澄がやりたいことのリクエストを取り入れてビデオを作っただけだった。しかもビデオの制作はかなりのやっつけ仕事で、僕に言わせればかなりクオリティーの低いできだった。それなのに、なんで真澄はこんなにも喜んでいるのだろうか。僕にはよくわからなかった。だが、ふと気づいた。こんな不出来なビデオでさえ嬉しいくらい真澄が過ごしてきた時間は暗かったのだ。
相変わらずビデオに心酔している真澄の目が輝けば輝くほど、僕は真澄が哀れに思えてならなかった。できることなら本当に真澄を西表に連れて行ってあげたいと思った。そんな日は永久に来ないことなど分かりきっているというのに。
八月三日(月)
「じゃあ、行ってくるね」
与那国に旅立つ朝、背中に大きなリュックを背負い、三線のケースを持ち、僕はアパートの玄関に立った。
「ちゃんと帰って来てね」
なぜか真澄が少し不安げな顔をしたような気がした。
「当たり前じゃないか、じゃあね」
「いってらっしゃい」
僕は見送られて部屋を出た。約四ヶ月ぶりの八重山行きだというのに僕の心はいまひとつ浮き立っていなかった。真澄をまた独りぼっちにして自分だけが旅に出てしまうのがなんとなく後ろめたかった。
日本最西端の島である与那国島に行くのは実に久しぶりだった。他の八重山の島々へは石垣から高速船で渡れたが、与那国島だけはそうはいかなかった。フェリーはあるにはあったが、四時間もかかる上に揺れがひどく、誰もが死ぬほどの船酔いをすることで有名だった。そんなわけで僕は飛行機を利用した。与那国島から台湾まではわずか百二十キロ、正に国境の島だった。
与那国島に着くと僕はレンタカーを借りて島を回った。与那国島が他の八重山の島々と違うところは石垣からの距離以外にもあった。与那国島は基本的に断崖絶壁の島でカイジ浜のような広い砂浜がないのだ。与那国馬という日本在来馬がいるのもその一つだ。島の東端にある東崎の辺りでは馬や牛が平気な顔をして一般道を歩いているという不思議な光景も見られた。
島の西側、久部良の集落にある宿を僕は予約していた。近くには「日本最西端の碑」や「日本最後の夕陽が見える丘」があった。
日が沈む頃、僕は「日本最後の夕陽が見える丘」に行ってみた。意外にも、そこには僕以外誰も来ていなかった。その日、与那国の日没は十九時時三十一分。真澄のいる東京では四十五分も前に日が沈んでいるはずだった。
ふと僕は真澄のことを考えた。暗い部屋で電気もつけず、いや、つけることもできずに何を考えているのだろうかと思った。約三十年ぶりに得た話し相手を失った孤独の大きさは想像すらできなかった。今の時代、普通なら離れていても携帯はつながる。メールのやり取りもできるし、送られてきた旅の写真を見て楽しむこともできる。しかし、真澄にはそれさえもできないのだ。
日本最後の夕陽を見ながら、そんなことを考えている自分がなぜだか不思議に思えた。
その夜、僕は宿の近くの居酒屋で夕食を取った。花酒という与那国でしか作られていないアルコール度数六十度の泡盛も久しぶりに飲んでみた。イルカの肉などという珍しいものもあり僕は沖縄料理を堪能した。真澄にも食べさせてあげたかったと少し思った。
宿に戻ると僕はリビングルームで三線を弾くことにした。調弦をしていると十五人ほどの学生のグループが飲み会から帰ってきた。そのうちの一人が酔った勢いで僕に有名な沖縄のバンドの曲のリクエストをしてきた。快く応えてあげると彼らは一緒に歌いだし、リビングは一気に宴会モードになってしまった。
彼らはリビングのソファ、あるいは床に直接腰を下ろして次々とリクエストをしてきた。応えられる限りのリクエストにはすべて応えた。彼らの中には更に缶ビールを持ち出してくるものもあり、正に宴会モードは最高潮になった。
オリジナル曲はないのかと尋ねられ、調子に乗った僕はそれまでに作った八重山の歌を全て歌ってしまった。どれも大きな拍手をもらった。単なる成り行きではなく本当に評価してもらえたのだと感じた。
目の前で彼らが僕の歌を評価してくれていてくれるのはすごくうれしく思えた。しかし、僕の心の中に一抹の寂しさがあった。それは聴衆の中に真澄がいないということだった。
八月四日(火)
その日、僕はダイビングに行った。与那国のすぐ近くには通称「海底遺跡」と呼ばれる有名なダイビングスポットがあった。僕にとって与那国への旅の主な目的は、まだ見たことがなかった「海底遺跡」を見ることだった。
「海底遺跡」は簡単に言えば、城の土台がすっかり海底に沈んでしまったようにも見える不思議な地形だった。どう見ても人が作ったとしか思えないような階段状、あるいはアーチ状の岩があったり、岩の表面に、これまた人が彫ったように見える模様があったりで、何かの遺跡ではないかと思われたのも不思議ではなかった。
ネット上の百科事典によれば「海底遺跡」は自然の造形であると科学的には結論付けられていると書いてあったが、人工であろうとなかろうと、とにかに「海底遺跡」は僕の心を魅了した。
「海底遺跡」を見るダイビングツアーは人気があり、しかも夏休みだというのに、なぜだか参加者は僕一人だった。そのせいもあるのか僕は孤独も感じていた。この光景を真澄にも見せてあげたかったと何度も思った。後で写真を見せることはできたが、やはり実物の持つ魅力が伝えられるとは到底思えなかった。
その夜、宿は静まり返っていた。昨夜のグループは、既に朝、帰途についていた。他にも客はいたのかもしれないが姿を見ることはなかった。ダイビングの疲れもあり三線を弾く気にもなれなかった。リビングに置いてあった無料の花酒を睡眠薬代わりにして、僕は早々に眠りについた。
八月五日(水)
旅の最終日、与那国空港で飛行機を待ちながら、僕は初めて感じる気分を味わっていた。いつもなら帰りたくないという気持ちになるところだった。
しかし、その時は、ここまで来てしまったからには早く帰りたいと思っていた。僕は早く真澄に会いたいと思っていた。旅で経験したことを話したかった。撮った写真を見せたかった。そんな気持ちになっている自分に、僕自身ひどく驚いていた。
「おかえりなさい」
アパート戻ると真澄が笑顔で僕を迎えてくれた。帰って来たのだと思った。
「ただいま」
幾度となく旅をしてきたが、家に帰ってほっとした気分になったのは初めてだった。真澄の姿は、もはやほとんど普通と変わりなくなっていた。あえて言えば、どことなく存在感が薄い気がするという程度でしかなかった。
「純さん、旅はどうだった?」
理由は見当がつかなかったが、なにやら真澄は嬉しそうな顔をしていた。
「楽しかったよ。念願の『海底遺跡』も無事に見られたしね。でも、真澄さんの顔が見られなくてちょっと寂しかったかな」
寂しかったなどという言葉がなぜだか自然と口から洩れた。
「そう。とりあえず、荷物を下して、楽にしたら?」
真澄に促されて僕は荷物を下した。そしてベランダに続くドアの所に置かれたままになっていた座布団に腰を下した。真澄も隣に座るとぽつりと言った。
「私もね、純さんがいなくて寂しかったわ」
「ごめんね」
本当に申し訳ないことをしたという思いでいっぱいだった。
「そんなこと、純さんが謝ることじゃないよ。私はオバケなんだから仕方がないわ」
僕は真澄にそういう卑屈な台詞を口にして欲しくなかった。だから少し口調がきつくなってしまった。
「自分のことオバケなんて言うなよ」
真澄は俯くと少し悲しげにつぶやいた。
「純さんは本当に優しいね」
優しくなんかないと僕は思った。
「そんなことないよ。真澄さんを置いて一人で旅に出たりしたんだから」
「でも、ちゃんと帰って来てくれたわ。私ね、本当は、純さんはもう帰って来ないかもしれないって思ってたの」
意外な言葉が飛び出し僕は少し慌てた。
「そんなことあるわけないじゃないか」
僕はすぐさま真澄の空想を否定した。
「そうかしら、やっぱりオバケと一緒に暮らすのが嫌になったとか、旅先で良い人に出会ったとか、ここに帰りたくないと思う理由ができても不思議ではないし」
僕は真澄の言葉に少しだけ腹が立った。
「だから、もう自分のことオバケなんて言うなよ」
少しきつくなってしまった僕の言葉に真澄は泣きそうな声で答えた。
「うん、もう言わない」
僕は真澄が可哀そうになり明るい方向に話題を変えたいと思った。だから僕はなるべく明るい口調で真澄に尋ねた。
「真澄さんは、僕がいない間、他に何を考えていたの?」
「そうね。純さんは今何をしているのかなとか、与那国の歌はもうできたのかなとか、そんなことかしら」
僕の意図に気づいたようで真澄も明るい声で答えてきた。
「そうなんだ」
僕は少しほっとしたが、その後の真澄の言葉は必ずしも明るい話ではなかった。だが、そこには悲しみや苦しみの匂いはなかった。
「私ね、ここから夕陽を見ていたら、なんだか切なくなっちゃった」
「どうして」
尋ねると、真澄はどちらかと言えば明るい口調で答えた。
「与那国島って、日本で最後に日が沈む場所なんでしょ。『ああ、この夕陽はこれから純さんのいる場所に行くんだな』なんてことを思ったの」
そう答えた真澄はどこか遠くを見るような目をしていた。
「そうか、僕もね、旅の間に何度か真澄さんのことを考えたんだ。真澄さんに見せてあげたいと思った景色がたくさんあったよ」
「私がちゃんと生きていれば、電話もメールもできたし、写真だって送ってもらえたのにね」
真澄は言った後、すぐに後悔したような表情を浮かべたが僕は気づかないふりをして敢えて一般論で答えた。
「ああ、そうだね。今は離れていても簡単に人と繋がれる時代だものね」
「でも、やっぱりお互い傍にいるのが一番だと思うな」
真澄は僕の方を見ていた。
「確かにそうだね。僕は遠くにいる人を思う気持ちというのを初めて経験したよ」
「そう、それって幸せなことだと思うな」
少し気になる台詞だった。だから何気なくさらっと尋ねることにした。
「真澄さんはどうなの。故郷にいる誰かを思うことはなかったの?」
「全くなかったと言えば嘘になるけど、まあ、ほとんどなかったわね」
そう言った後、真澄は急に思いついたらしいことをそのまま口にした。
「ねえ、純さん。与那国の歌は望郷の歌にしたらどうかしら?そうすれば他の歌の歌詞とは違った感じを出せるんじゃないかしら?」
「でも、僕は東京の出身だよ」
話が歌作りの方向に向かうとは思わなかったので、不意を突かれたような気がした。
「そうね、でも歌は実話である必要はないし」
「まあ、そうだけど」
戸惑う僕を尻目に真澄は楽しそうに自分の考えを語り始めた。
「純さんは、与那国にいて、私のことを思ってくれたんでしょ」
「まあね」
そう答えると真澄は更に嬉々として続きを話した。
「私はここで夕陽を見ながら純さんのことを考えていた。だから私たちの立場を逆にしてしまえばいいのよ」
「どういうこと?」
真澄の意図が少し分かりかねたので聞くと、真澄はすぐに答えた。
「純さんはここで夕陽を見ながら与那国にいる私のことを考えてくれたことにするの」
「なるほど。でも、僕は東京出身だから与那国にいる真澄さんのことを考えても望郷の歌にはならないよ」
僕はそう言ったが真澄の中ではすでに問題は解決済みだった。
「そうね。だから少し手を加えるの。純さんは与那国から東京に出てきて、故郷に残してきた恋人を思っているという設定にすれば良い歌ができるんじゃないかしら?」
「確かにそれは良いアイデアだね」
「そうでしょ」
真澄は少し得意げな顔をした。
「その線でいってみることにするよ」
僕が答えると真澄は曲に関してもかなり具体的なアイデアを出してきた。
「それじゃあ、メロディーは全部でなくて良いけれど沖縄の音階を使ってみたらどうかしら?このところ四拍子の歌が多かったから、三拍子で作ってみるのも悪くないと思うな。結構ユニークな歌になるかもしれないわね」
「ああ、確かにそれは面白そうだね」
「良かった。私、少し役に立てたね」
真澄は天井の方を見上げて嬉しそうに笑った。
八月六日(木)
「おかえりなさい」
帰宅した僕を迎えた真澄を見て驚いた。真澄の姿はもう完全に普通の人と同じに見えた。
「ただいま」
僕は部屋に上がり、とりあえずリュックを机の上に置いてから改めて真澄の元に近づいた。僕は確かめてみたかった。
「あの、真澄さん、ちょっと手を出してくれないかな?」
僕は真澄の方に向けて自分の右の手のひらを胸の高さぐらいに挙げて見せた。真澄は僕の意志をくみ取ったのか左手の手のひらを挙げた。
「ちょっと触れてみてもいいかな?」
「うん」
真澄の答えは決して嬉しそうな様子ではなかった。
僕が真澄と合わせようとした手のひらはそのまま真澄の手のひらを通り越した。
「見え方は普通の人と変わらないのに、やっぱり触れることはできないんだね」
「そうみたいね」
真澄は初めからそうなることは分かっていたようだった。
「外は暑かったでしょう。シャワーでも浴びたら?」
真澄が気まずい雰囲気を破ろうとしたので僕もそれに乗ることにした。
シャワーを浴びながら僕は考えた。真澄は最初、声しか聞こえなかったし、姿が見えるようになっても後ろが透けて見えていた。僕は相変わらず真澄以外の幽霊の姿など一度も見たことがなかった。もし真澄の説が正しければ、真澄は日増しにより身近な存在になっていっているということなのかと思った。
八月七日(金)
その日の夜、与那国の歌はできあがった。真澄から良いアイデアをもらっていたので歌詞はすんなりと完成していた。
しかし曲の方は少し難しかった。後半で転調する前は沖縄の音階を使ったのだが、西洋音階のようにドレミファソラシドの八音ではなく、ドミファソシドの六音でメロディーを作るのは少々骨が折れた。だが、その甲斐あって出来上がった歌は三線にもよく馴染んだし、他の歌とは歌詞も曲の雰囲気も違った味わいを出すことができた。
出来上がった歌を真澄に聞いてもらうために、僕たちはいつものようにベランダ側に並べた座布団に腰を下した。そして僕は三線のイントロに続けて望郷の歌を歌い始めた。
与那国島は西の果て
最後に夕陽沈む島
遠く離れて東京で
故郷思い見る夕陽
ビルの谷間に、今、沈み
これから島に行くのなら
ティダン(太陽)よ、心伝えてよ
島で待ってるあの人に
今日は台湾見えました
写真の付いたメール見て
すぐに返事は書けるけど
切なさ添付できません
寂しさ募るこんな夜は
花酒飲んで寝てしまおう
島へ帰れるその日まで
頑張れ少しあと少し
「とっても良い歌ね。こんな歌を贈られたら私、何十年でも待てる気がする」
歌が終わると真澄が感想を聞かせてくれた。
「大袈裟だな」
「そんなことないよ」
褒めてはもらったものの僕には少々気になることがあった。
「でも、東京出身の僕が歌って、なんか嘘っぽく聴こえなかった?」
「ううん。『いつも八重山に行きたい』って思っている純さんの気持ちがこもっているからすごく自然に聴こえたわ」
「そうか、それなら良かった」
ほっとした気分に浸っていると真澄に尋ねられた。
「それで歌のタイトルは決めたの?」
「三拍子だから『望郷ワルツ』とかでどうだろう?」
そのタイトルには少し納得がいかないといった表情を浮かべて、真澄は自分の考えと共に質問を繰り出してきた。
「この歌の雰囲気だったらカタカナじゃなくて日本語の方が良いと思うな。ワルツって日本語でなんて言うの?」
「輪舞曲だったかな」
「じゃあ『望郷輪舞曲』で良いんじゃない?」
真澄のアイデアは悪くないような気がした。
「そうだね、そうしよう」
僕が同意すると、真澄は更に歌に対する感想のようなものを付け足した。
「でも、私、この歌好きだな。純さんのいない時に口ずさんでしまいそう」
そう言って真澄は少し照れたように笑った。
八月八日(土)
朝食が済むと、僕たちはキッチンのテーブルで次の曲の打ち合わせを始めた。土曜日なのでたっぷり時間が取れるのが嬉しかった。
「次は黒島の歌を作ろうと思うんだ」
「黒島ってどんな島なの?」
真澄に尋ねられたので、僕は少し黒島について話をすることにした。
「黒島は石垣から船で三十五分位の所にある小さなハート形の島なんだ」
「じゃあ、あまり人は住んでいないのかしら」
「そう、そうなんだ。人よりも牛の数の方が多いんだ。とにかく人にはあまり会わないし、食事ができるところが少ないうえにお休みが多くてね」
「あまり観光地化されていないのね」
真澄は八重山の島々の状況にかなり理解が深まってきたようだった。
「そうだね、僕はよく行くけど、確かにあまり見どころの多い島ではないね」
「じゃあ、どうして、純さんはよく行くの?」
真澄は不思議そうな顔で僕を見つめた。
「それは海がすごく奇麗だからだよ」
「なるほどね。そんなに奇麗なら私も見てみたいな。ねえ、純さん、黒島の写真見せてくれない?」
真澄は俄然、黒島の海の色に興味が湧いたようだった。
「ああ、もちろん。じゃあ、ノートパソコンの置いてある方に行こうか」
「うん」
僕たちは立ち上がり寝室に置かれた机の方に向かった。とりあえずノートパソコンの電源を入れキッチンに真澄の分の椅子を取りに帰った。
「はい、どうぞ」
僕は机用の椅子の脇にキッチンの椅子を置いた。
「ありがとう」
真澄は一言礼を言うと椅子に身を預けた。
それから僕は黒島の写真を貯めたフォルダを開き、まずは石垣からの船が大きく左折して黒島港に入る直前の海を見せてあげた。
青とも緑ともつかぬその澄んだ美しい色はなんとも例えようがなく、真澄の望み通り写真を見せたのは正解だったと思った。僕が次々と写真を表示すると真澄はその度に感嘆の声を上げた。
船から撮った写真を見終わったところで、僕は真澄に黒島の交通事情を説明してあげた。
「黒島はね。小さくて平らな島なんだ。レンタカーなんてないから移動はもっぱら自転車だね」
「そうなんだ」
真澄がそう答えた後、今度は港の防波堤から撮った写真を見せることにした。
「次は港の防波堤に登って撮った写真。対岸の小浜島との間の海がすごく奇麗だろう。濃いスカイブルーって言えばいいのかな。僕は勝手に『黒島ブルー』って名前を付けているんだ」
さっきまではうるさい位の声を上げていた真澄は、一転して食い入るように画面をのぞき込んだままで何も言ってこなかった。真澄はまるで写真の中の神秘的とさえ言える海の青に魂を奪われているかのように見えた。
次に僕は西の浜で撮った写真の数々を真澄に披露した。実際に自転車で西の浜に行くのは少々厄介だった。港の近くから民宿の脇を通る未舗装の細い道を轍にそって自転車を漕がなければならなかった。轍の間の部分は結構背の高い草が生えていた。標識も何もない場所で右に入り、坂を上りきったところで自転車を止める。そこからほとんど草に埋もれた獣道のような細い道を下ると浜に出る。右に折れて映画に登場する巨大なカメの怪獣のような岩を通り越すと大きな眺望が開ける。「黒島ブルー」は右端に小さくなるが西表や小浜との間の海は澄み切った美しい色をしていた。
真澄は相変わらず黙って写真を見つめるばかりだった。
その次に見せたのは伊古桟橋の写真だった。伊古桟橋は竹富島の西桟橋と似ていたが、長さは西桟橋と比べるとかなり長かった。西桟橋では小浜島の後ろに西表島が重なって見えたが、伊古桟橋では正面に見えるのは小浜島だけで西表は左手にあった。伊古桟橋は干満による景色の変化が大きいので時間を選んで来ないといけないのが難点だった。
その他、島のほとんどを占める牧場、灯台、新城島を間近に望む仲本海岸の写真などを見せたが、真澄は終始無言で写真に見入っていた。
写真を見せ終わるとようやく真澄が感想を洩らした。
「海がすごく奇麗な、とても素朴な島なのね」
「そうだね。泊ったことは一度しかないし、とにかく人と会うことが少ない島だから、この島では人との関りはほぼゼロに近くてね。そんなわけでロマンチックなエピソードなんて全くなし」
僕は言い訳めいた前置きをしてから、少し前から頭に浮かんでいた提案を持ちかけることにした。
「そこで、相談があるんだけど」
「何かしら?」
「真澄さんの初恋の話を聞かせてくれないかな?」
「ええ、どうしてそこに話がつながるの?」
真澄は怒っているとまではいかないまでも、かなり不機嫌な返答をした。僕は少々ひるんだが引き下がる余裕はなかった。
「いや、少しネタにつまっているんだよね。だから自分のことじゃなくて、真澄さんの話から何かをつかみ取れないかと思ってね」
予想はしていたが真澄の反応は相変わらず芳しくなかった。
「前にも言ったけど、私の昔の話なんてひどい話ばかりよ」
「でも、やっぱり、まるで恋をしなかった訳でもないでしょ?」
真澄の辛い過去を知っているだけに、追及の手を緩めなかったのは少々酷な気がした。
「ええ、それはまあ」
真澄は少し恥ずかしそうな顔をした。
「じゃあ、聞かせてよ」
僕はもう一押ししてみた。
「もう、まったく冴えない話だから歌のモチーフにはならないと思うけど」
真澄はまだ少しためらっていた。
「まあ、それは僕が考えることだから、とにかく話してみてよ」
僕はあと一息だと思った。
「じゃあ、しょうがないわね」
ようやく真澄は話す気になったようだった。
「相手はどんな人だったの?」
僕は真澄が話し出す道筋をつけるために尋ねた。
「彼はね、中学の同級生だったの。地元では結構な名門の家柄の長男でね。成績は学年でトップ。ハンサムで運動神経もよかったわね」
「なんか典型的な初恋の相手タイプだね」
「そうね、正にその通り」
覚悟を決めたせいか、遠い日のことを語る真澄の眼差しは心なしか優しくなったような気がした。
「で、彼とはどんな仲だったの?ただ見ているだけで終わりってパターンかな?」
「そうでもないの。結局、お互い口には出さなかったけど、彼も私のことを好きでいてくれたと思う」
真澄は少し嬉しそうな顔をした。少しだけ嫉妬心が湧いた。
「なんか昔の演歌の歌詞みたいな話だね」
「そりゃあ、そうよ。だって正真正銘、三十年以上昔の話だもの」
真澄を促すために僕は次の質問を投げかけた。
「ところで、二人はどんな風に仲良くなったの?」
「中学二年の時にね、私たちは図書委員になったの」
「図書委員同士の恋か。なんか、そんな映画二つぐらいみたような気がするな」
「ねえ、私の初恋の話じゃなかったっけ?」
真澄が僕をからかった。
「ごめん、そうだったね。続きを聞かせて」
一瞬、呆れたような表情を見せてから、真澄はまた話し始めた。
「知っての通り、図書委員って昼休みとか放課後とかに貸し出し当番があるでしょ」
「そうだね」
「田舎の学校はクラスが少ないから当番が回ってくるペースも速かったの。だから私たちは結構一緒に過ごす時間が多かったわけ」
「でも、ただ一緒にいる時間が長かったからって恋に落ちるってものでもないでしょう。何か共通の話題とかあったのかな?」
恋に落ちるきっかけ、それは重要な要素だから押さえておくべきだと思った。いざ、聞いてみると、真澄は案外すらすらと二人の馴れ初めを話し始めた。
「私たちはね。二人とも小説が好きだったの。だから、いつも小説の話をしていたわ」
真澄は少し夢を見ているような目をした。
「それで二人はどんな小説を読んでいたの?」
「ジャンルにこだわらず色々なものを読んでいたわね。でも、昔の田舎の中学の図書室なんて本の数も少ないし、置いてあるのは、いわゆる文学作品がほとんどで、新しい本はほとんど入ってこなかったわ」
「じゃあ、古い本ばかり読んでいたの?」
「ううん、彼の家はお金持ちだったから、彼は次々と新しい本を買ってたわ。私は彼が読み終わった本をいつも借りて読んでいたの」
「なるほどね」
「二人で同じ本を読んで感想を語り合ったりして、とても楽しかったわ」
遠い昔の話なのに、歳をとらない真澄の顔は恋する少女の面影を残していた。その恋の行方を知るべく僕は次の質問をした。
「それで二人はデートとかしていたの?」
三十数年前の田舎の村のデート、僕には想像もできない話だった。
「デートなんてしたことないわよ。今とは時代が違うのよ。その頃の田舎の中学校にはデートなんてしている人はいなかったわ」
「そうなんだ」
「それに、彼は名門の家柄で、私は悪名高き母親が生んだ私生児だから、登下校で一緒に歩くことさえなかったの。そんなことをしたら村中が大騒ぎになるのが目に見えていたから」
少し前までの夢を見るような真澄の目は少し暗いものに変わっていた。
「なんだか辛い話だね」
「そうね、私たちは教室では全く話もしなかったのよ。私たちが話すのは当番の時だけだったの」
身分の違う二人の図書室限定の恋。昭和の古い小説にはなっても、令和の時代の歌の歌詞には直結しない話だった。だが、それとは裏腹に真澄がどんな初恋をしていたのか、それに関する興味はむしろ深まっていた。
「なんか寂しい話だね。もしかして手をつないだこともないの」
「ないわ」
真澄はきっぱりと言い切った。
真澄の初恋にケチをつけるつもりはなかったが、歌のモチーフにするにはもう少しインパクトのあるイベントが必要な気がした。だから、僕は聞いてしまった。
「ねえ、図書室以外の場所で、何か思い出に残るようなイベントはなかったの?」
「強いて言うならば、臨海学校かしら」
真澄はまた少し夢をみるような目をして答えた。
「臨海学校って、泊りがけで海水浴に行く行事だよね」
「うん。バスで移動して二泊三日だったの」
山間の中学生の海への旅、何かが起こりそうなシチュエーションに思えた。
「もしかして、夜中に二人で抜け出したりしたの?」
「まさか、そんなことできる訳ないじゃない」
僕の想像はあっさり否定された。
「じゃあ、何があったの?」
「今の人から見ればつまらないことよ」
真澄は少し照れくさそうな顔をした。僕は続きを話すように真澄を急かした。
「笑ったりしないから話してくれないかな?」
「本当につまらないことなのよ」
同じような前置きをして真澄は続きを話し始めた。
「今で言う『いじめ』というほどではないけれど、私はなんとなく敬遠されていたから、バスでは、私の班の女の子は誰も私の隣に座りたがらなかったの。彼は仕方がないからみたいな振りをして私の隣に座ってくれたの。私はとても嬉しかったんだけど、クラスメートのいる所で彼と親しく話すことができないから、私たち行きのバスの中では一言も口を聞かなかったの」
「それで」
「バスが海辺の道に出た時に、私、生まれて初めて海を見たの。信じられないでしょう。中学二年の夏休みまで海を見たことがなかったなんて」
真澄は一度言葉を切ってからまた続けた。
「私ね、夢中になって海を見てたの。そうしたらね、窓側に座っていた彼も、同じように海を見ていたの。その時、私は『ああ、このまま、ずっといつまでも彼と一緒に海を見ていたい』って思ったの」
僕は真澄の話には続きがあるものと思っていた。だから尋ねた。
「それで、その後、臨海学校の間は何があったの?」
「別に何もないわ。私たちは臨海学校の間、一言も口を聞かないまま帰りのバスに乗ったの」
「行のバスで、偶然にも一緒に海を見ていた以外には本当に何もなかったの?」
もし、それだけなら、わざわざ語るにしては余りにもちっぽけな出来事だとその時は思った。
真澄は申し訳なさそうに口を開いた。
「なくはなかったわ、これもたいしたことじゃないけど」
それから、どこか遠くを見るような目で語り始めた。
「帰りのバスの中では、クラスメートはみんな疲れて眠ってしまったの。起きていたのは私と彼だけだったけど、それでも怖くて彼とは話はできなかったの。だから私は窓の外を見ていたの。段々畑の続く道に夕陽が差し込んで、とても綺麗だったわ」
真澄の目は古いアパートの先の遠い空を見つめていた。真澄にとって数少ない美しい思い出を眺めていた。
「そうしているうちに、私はうっかり眠ってしまったの。目が覚めた時には心臓が口から飛び出そうだった。私、彼の肩にもたれて眠っていたの」
真澄の目には自らの命を断ったアパートは見えていなかった。真澄は、ただ、遠い美しい時間だけを見ていた。
「私は慌てて、まっすぐに座り直したの。眠気なんて完全に吹っ飛んでいたわ。そうしたら彼が言ってくれたの『なんだ、起きちゃったのか、ずっと寝ていれば良かったのに』ってね」
真澄の目は再び今を、そして僕の顔を映した。
「それだけのこと。たったそれだけのことなのよ。たぶん、彼はそんなこと覚えていないと思うわ。私だけがそんな思い出を大切にしているなんて馬鹿みたいね」
「そんなことないよ」
暗闇の中でたった一つだけ微かな光を放つ初恋の思い出。他人から見れば、取るに足らない出来事を大事そうに話す真澄を、僕は欠片も馬鹿だとは思えなくなっていた。
「ありがとう。やっぱり純さんは優しいわね」
僕はその後の話を聞いても良いのか少し迷った。だが、やはり最後まで聞いてみたかった。
「それで、その後、二人の関係はどうなったの?」
真澄は既に割り切ったというようにスラスラと答えた。
「別にどうもならないわよ。変化なし。三年も同じクラスで、やっぱり図書委員だったけど、同じ状態が卒業まで続いただけ。二人の関係には未来なんてないことはわかっていたけど、それでも私は彼と一緒にいられて嬉しかったな」
やはり、その初恋が真澄にとっての唯一の故郷の美しい思い出のようだった。
「でもね、最後にちょっとだけ冒険をしたのよ」
真澄は少し嬉しそうな顔をした。
「卒業式の日にね。初めて彼と二人で歩いたの」
「そうだったんだ」
そこで何があったのか僕はすごく気になったが問いただすことはしなかった。しかし、真澄はその顛末をきちんと聞かせてくれた。
「卒業式が終わって教室に戻って、クラスメートはみんな名残惜しそうにしていたんだけれど、ふと彼が一人になった瞬間があったの。私はね、一大決心をして彼に言ったの『帰ろう』って。そうしたら彼、黙って私についてきてくれた」
「それでどうなったの」
僕はすぐに話の続きを聞きたいと思った。真澄は躊躇せずに話を続けた。
「私たちは一緒にバス停まで歩いたの。でもね、お互いに何も言えなかったの。学校からバス停までは少し距離があったんだけど。結局、二人とも黙ったままバス停に着いてしまったの」
「それで」
話を急かしてばかりいる自分がなんとなく恥ずかしくなってきた。
「すぐにバスが来て二人で一緒に乗ったけど、やはり黙ったままだったの。私のバス停の方が近かったから、私が先にバスを降りたの」
「それから」
僕は懲りずにまた真澄を急かしてしまった。
「私ね、彼に飛び降りてきて欲しかったの」
真澄の言葉が一瞬途切れた。
「でも、彼は飛び降りてきてはくれなかった。ずっと私の方を見ているだけだった。バスのドアが閉まった後も、彼はずっとガラス越しに私の方を見ていたの。でも、結局、飛び降りてきてはくれなかった。私は、ただ、彼の姿が遠ざかってゆくのを見ているだけだった。バスの後を追いかけたりはできなかったの」
一つ疑問が浮かんだ。
「真澄さんは自分から告白するつもりじゃなかったの?」
「ううん。そんな勇気はなかったわ。私はずるかったの。私ね、彼に『好きだった』って言ってほしかったの。過去形で良かったの」
「どうしてそう思ったの」
「だって、私たちには未来なんてないことはお互いによく分かっていたから。彼は地元の進学校に行って、行く行くは名門の跡取りになる。私は東京に行って工場で働く。今みたいに携帯もメールもない時代には青森と東京は遠すぎたし、時代劇みたいだけど私たちの身分は違いすぎたのよ」
真澄は少し俯いてから話を続けた。
「でもね、『好きだった』って言ってほしかった。その言葉があれば一人で東京で生きてゆけるような気がしたの」
淡い初恋と呼ぶには過酷な話だと僕は思った。
「それで真澄さんの初恋はジ・エンドになったんだね」
「ううん、まだ少し続きがあるの」
それは僕にとってかなり意外な言葉だった。
「え、何があったの?」
真澄の話を急かしてばかりいる自分がすでに情けなく思えていた。
「二年後にね、彼に再会したの。ああ、再会とは言えないかな」
「彼には何処で会ったの?」
「東京でね。その日は会社の創立記念日でお休みだったの。どうしても見たい映画があったから珍しく都心に出かけたの。映画館に向かって歩いていたら、通りの反対側に修学旅行の高校生のグループがいてね。その中に彼がいたの。彼は私と同じ方向に歩いていたの」
真澄はその後を話すのが少し辛そうだった。
「私はね、全力疾走して横断歩道を渡って、前の方から彼に近づいたの。声を掛けようとした時に彼が女の子と手をつないでいるのが見えたの」
真澄の言葉がまた一瞬途切れた。
「私は慌てて顔を背けたの。彼は私に気が付かずにそのまま行ってしまった。それが彼を見た最後」
真澄はしばらく沈黙を続けた後、思い出したようにまた話し始めた。
「私、その時ね、ああ、これで私には完全に故郷がなくなったんだなと思ったの。たとえ二度と帰らなくても、自分のことを好きでいてくれる人がそこにいるかぎり、そこはまだ故郷だと思っていたの。もちろん彼が私のことを思い続けているなんて信じていたわけじゃないのよ。でも、そう思うようにしていたの。だけど、東京で彼を見かけた時、現実を突きつけられたの。自分のことを好きでいてくれた彼はもういないんだって。だから、もう自分には帰る場所はないんだって」
僕はもう何も言うことができなかった。
「もう三十年以上も前の話なのにね」
真澄は大きくため息をついてから更に続けた。
「でも、こんな冴えない話が歌のモチーフになるのかしら?」
すぐには答えることができなかった。
「ごめん。頼んでおいてなんだけど。正直、今はよくわからない。でも、今の話、聞かせてもらって良かったと思っている」
「そうならいいけど」
真澄はふっきれたように明るく笑った。
その時、僕はまだ真澄の初恋の話をどうやって黒島の歌につなぐか、考えなどまるでなかった。しかし、今、隣にいる真澄をせめて歌の中だけでも幸せにしてあげたいと強く思っていた。
八月九日(日)
黒島の歌もやはり完成するまでは真澄には聴かせたくなかった。そんなわけで僕はまたカラオケボックスで歌作りに没頭した。
八月十日(月)
黒島の歌が無事に出来上がり、いよいよ真澄に聴いてもらう時がやってきた。僕たちはいつものようにベランダへの扉の前に座布団をしいて並んで座った。
「なんてタイトルなの?」
真澄が尋ねた。
「『黒島ブルー』にしたよ。黒島の海は格別に青いからね」
「聴くのが楽しみだわ」
真澄の笑顔にはいつも以上に歌への期待が感じられた。
「あんまり期待しないでね。ああ、それと、これは真澄さんの初恋をモチーフにしているけど・・」
「わかってるわよ。モチーフにしただけだって言うんでしょう」
真澄が僕の言葉を遮った。
「じゃあ、聴いてくれる」
「うん」
僕は三線でイントロを弾き始めた。「黒島ブルー」は僕の歌に多い四拍子のスローバラードで、メロディー的にはやや明るい曲に仕上がっていた。イントロに続けて僕は真澄の初恋からヒントを得た歌詞を歌い始めた。
ハート型の黒島、その沖にしか
ない海の青に魅かれた二人はあの日
伊古桟橋で出会い、共にそこから
自転車漕ぎたどり着いた西の浜へと
住む場所も暮らしも何も違う二人の
出会いに続きなんてないと思っても
時が許す限り君と見ていたかった
空よりなお青く光る海の色、黒島ブルー
浅い眠りに落ちた君の横顔
その向こうに流れてゆく八重山の海
石垣に戻る船、速度緩めて
残された君との時間尽きる間際に
君の髪、肩にもたれた夏の夕暮れ
その一瞬を僕は今も忘れない
離島ターミナルの自動ドアの向こうに
小さくなる君の背中追えなかったあの時
船は左に曲がり切ない青に
染まる海超え、たどり着く黒島港へ
港で自転車借りて、あの日と同じ
西の浜に続く道を一人たどって
草に埋もれた道抜けて浜に下りたら
あの時追えなかった背中をみつけた
二年の時を経て再びこの浜辺で
君と肩を並べて今、みつめる黒島ブルー
「どうだった」
歌い終えて僕は尋ねた。
「うん、良かった。ハッピーエンドにしてくれたんだね」
真澄はどこか嬉しそうだった。
「いや、前の五曲のうち三曲は暗いイメージだったから、バランスを取ろうとしただけだよ」
「そうなの?でも嬉しいな」
「気に入ってもらえてよかったよ」
正直、僕は少し安心した。ただバランス云々の話が嘘なのはばれているような気がした。
「私の初恋もこれでめでたく成仏できたかな」
その言葉の真意が僕にはつかめなかった。だから尋ねた。
「何、それ?」
「うん、この歌を聴いて、私の初恋も、やっと思い出にできたような気がする」
嬉しそうな顔でそう言ったのに、真澄は僕に言わせれば余計な一言を付け足した。
「ああ、といっても次があるわけじゃないけどね」
約三十年前に真澄は確かに死んだ。真澄の人生がすでに終わっているのは紛れもない事実だった。では、その後、こうして僕と関わっている時間は真澄にとって何なのだろうと僕は思った。
そして、僕にとって真澄とはいったい何なのだろうと考えた。答えは見つからなかった。
八月十一日(火)
夜、僕たちは、もう初めからノートパソコンを置いた机の前に椅子を並べて次の歌の打ち合わせを始めた。
「さて、次は新城島の歌を作ろうと思うんだ」
「『あらぐすく』って、どういう字を書くの?」
「あらぐすく」とい聞いて真澄に漢字が思いつかないのは至極当然だった。
「『新しい城』と書いて『あらぐすく』と読むんだ」
「へえ、そうなんだ」
真澄は少し驚いた様子で答えた。
「ところで、また相談があるんだけどな」
初恋の話をさせられた前回の経験を打踏まえてか、真澄は少し身構えたような態度を取った。
「ええ、私にはもう、歌のネタになるような恋の話はないわよ」
「いや、もう一歩進んで、今度は真澄さんに歌詞を書いてほしいんだ」
僕の要望は真澄の予想を上回っていたようで、真澄はかなり驚いた反応を見せた。
「ええ、無理よ」
「そんなことないよ。だって昔は詩とか小説とか書いていたんでしょ」
僕は真澄の反応を無視して、できると判断した根拠に言及した。
「まあ、そうだけど」
真澄が痛いところを突かれてひるんだところで僕は更に追撃を入れた。
「それに、いつも良いアドバイスをくれるじゃないか。だから絶対にできると思う」
「簡単に言わないでよ。それに私が作詞をしたら純さんの歌にならないじゃない」
どうにか逃げ切ろうとする真澄に僕は逃げ道を与えなかった。
「そんなことないよ。僕が曲を作ればそれは立派に僕の歌だよ。そもそも、僕が全部の歌の作詞・作曲をしなければいけないなんてルールは無いんだから」
「まあ、それはそうね」
真澄はもう逃げられないと観念したのか、僕の要望の真意を尋ねてきた。
「でも、なんで私に作詞をして欲しいと思ったの?」
「ちょっとネタに困っているというのも嘘ではないんだけど、アルバムには一つくらいは完全に女性目線の歌があった方が良いと思ったんだよ」
「女性目線ね」
真澄は不本意ながらも、僕の意図するところを理解してくれたような口ぶりだった。
「そう、女性目線で作詞してもらって、女性の声で録音したいんだ。そう、つまり真澄さんに歌ってほしいと思っているんだ」
「作詞だけじゃなくて、歌うなんてハードルが高すぎない?」
さすがに、次なる要望には真澄も難色を示した。
「そんなことないよ。真澄さんが僕と一緒に歌ってくれる時の声、僕はすごく気に入っているんだ。本当は全部の歌を真澄さんに歌ってほしいくらいだよ」
「そんなこと言われたら益々やり難くなるじゃない」
真澄は消極的だったが僕としては引き下がるわけにはいかなかった。もう一押し頑張ってみようと思った。
「そんなこと言わないで協力してくれよ。お願いだから」
僕は真澄の前で両手を合わせて懇願した。我ながら芝居じみていると思った。
「まあ、純さんの頼みなら断るわけにもいかないわね」
居候の身分に申し訳なさを感じていたせいもあったのか、真澄は渋々と僕の要望を受け入れた。
「ありがとう。やってくれるんだね」
「ええ、でも期待しないでね。」
そうは言われたが僕は大きな期待をしていた。
無事に作詞の依頼が済んだので、僕たちはすぐに実際の作業に入った。
「まず、新城島がどんな所か教えてくれない?」
真澄が当然の質問をしてきた。
「そうだね。やはり視覚的に捉えてもらいながら話すのが一番かな」
僕はまず最初に八重山のフリーペーパーに掲載された地図を真澄に示した。
「新城島の位置は石垣と西表の間だけど、見ての通り西表のすぐ近くだね。この前に歌を作った黒島と西表のちょうど真ん中になるね」
「二つ島があるけどどちらが新城島なの?」
これもまた、八重山に詳しくないものにとっては当然の疑問だった。
「北にあるのが上地島(かみじしま)、南にあるのが下地島(しもじしま)、この二つを合わせて新城島って言うんだ。新城島は『パナリ』と呼ばれることも多いんだ。二つの島は離れているので、方言の『離れ』に由来しているという説があるんだけど、他の説もあるらしいよ」
僕が一通り説明してあげると真澄は更に細かい部分に関する質問をしてきた。
「なんだか複雑ね。それで二つの島はどれくらい離れているの」
「ガイドブックによれば四百メートル離れているらしいよ」
「微妙な距離ね。それで、どちらの島にも人は住んでいるの?」
歌詞を書く覚悟を決めたせいか、真澄は島のことを色々と知りたいと思い始めたようだった。
「下地島には今は人は住んでいなくて牧場があるだけ。上地島には人が住んでいるけど二十人そこそこみたい。新城島には未だに定期船がないから、シュノーケリングやダイビングのツアーにでも参加しないと行けないんだ。ツアーに参加しても行けるのは上地島だけの場合が多くて、下地島に上陸できるツアーなんてほとんどないね」
「純さんは下地島にも行ったことがあるの?」
真澄の質問に僕は少々誇らしげに答えた。下地島に複数回上陸した観光客の数はそう多くはないはずだったからだ。
「四回あるよ。最初はシュノーケリングのツアー。あと三回は西表からカヤックを漕いでいったんだ」
「カヤックで行くのは大変そうね」
真澄はひどく感心した様子だった。
「そうでもないよ。まあ、海の状態が良くないと行けないけどね」
「なるほどね。ああ、それじゃあ、二つの島の特徴を教えくれない?」
最初は渋っていた真澄も、いざ歌詞を書くと決まると、物書きの性が目覚めたのか新城島に対する興味が増してきているようだった。
「先ずは人が住んでいる上地島のことから話すね。ああ、やっぱり写真がないとダメだね」
僕はノートパソコンの電源を入れ、新城島の写真のフォルダにアクセスして真澄に新城島で撮った写真の数々を見せた。
「まず、ここが一番の名所のクイヌパナだよ」
クイヌパナは上地港のすぐ南の崖の上の展望台だった。展望台の下の海上には波で根元が浸食された岩がいくつか並んでいた。岩の頂上には草が生えていて、その緑が例えようのないほど美しい海の青と綺麗なコントラストを描いていた。
「綺麗な所ね。めったに行けないなんてもったいないわね」
「そうだね」
僕は真澄に同意してからクイヌパナから下地島の方を撮った写真を見せた。
「この写真の右端に写っているのが下地島だよ。この写真だと地続きにしかみえないけどね」
「そうね」
クイヌパナで撮った写真を一通り見せた後、僕は次の名所の写真を真澄に見せた。
「クイヌパナのすぐ南にある浜が、この『恋路が浜』。見ての通り入り江の入り口が狭くて小ぢんまりとした浜だけれど、砂も白くてとても雰囲気の良い所なんだ」
「名前には何か伝説があるのかしら?」
「どうかなあ、聞いたことがないな」
ガイドブックなどにも記述はなく、僕には名前の由来はわからなかった。
「でも、こんな所に好きな人と二人でいられたら幸せでしょうね」
「そうだろうね。残念ながら僕はそういう状況ではなかったけどね」
「それは残念だったわね」
「そうだね」
真澄の言葉に同意した後、今度は下地島の話をすることにした。
「次は下地島のことを話すね」
「うん、聞かせて」
島に関する真澄の興味はまったく尽きないようだった。
「下地島から見た海も綺麗だけど、上地島のような見所は特にないかな」
「じゃあ、特に思い出に残ったこともないっていうこと」
その後の話を続けるのが僕は少々照れ臭かった。
「そうでもないんだな。まあ、歌のネタにはならないと思うけど」
「何があったの?」
真澄が聞いてくるのはもっともだったが、それでも僕は照れ臭さをぬぐい切れなかった。
「まあ、ちょっと話すのも恥ずかしい話なんだけどね」
「いいから、聞かせてよ」
真澄が話の続きを迫ってきた。僕は仕方なく話すことにした。
「大学の同級生の隆彦君からメールが来てね。『沖縄にいるなら砂浜にハートを描いて、それを写真に撮って送れ』と言ってきたんだ」
「どうしてそんなこと頼まれたの」
妙なリクエストに対する真澄の疑問はもっともだった。僕は丁寧にその理由を伝えた。
「僕と隆彦君が所属しているサークルの卒業生、優さんと美和さんが結婚することになってね。メールを送ってきた隆彦君は二次会の幹事だったんだ。それで、メッセージを集めた色紙に貼る写真を僕に頼んできたんだ」
「ハートの写真を送るのがそんなに恥ずかしいことだったの?」
真澄は不思議そうに僕の顔を覗いた。
「いや、その時はカヤックで下地島に渡ったんだけど、インストラクターさんが昼食の用意をする間、かなり暇だったんだ。だから、どうせ送るなら、もう少し気の利いたものにしようと思ったんだ」
「それでどうしたの?」
「そうだね。これも実物を見てもらった方が早いな」
僕は自分が浜に描いたものの写真を真澄に見せた。真っ白な砂の上に棒状の白い珊瑚の欠片がいくつも並べられハートを形作っていた。そのハートの中には、やはり珊瑚の欠片で新郎・新婦の下の名前がローマ字で描かれていた。
「まあ、素敵、これ純さんが作ったの、信じられないな」
写真を見る真澄は如何にも十九歳の女の子らしい表情を見せた。
「いやあ、のむら荘にあったボードの真似をしただけだよ。お客さんが贈ったもので、それにはオジイとオバアの名前が入っているんだけどね」
「純さんがどんな顔してこれを作っていたのか見たかったな」
真澄は今にも大声で笑い出しそうだった。
「インストラクターさんに見られてね。思い切り笑われたよ」
「そうでしょうね。私だって今、笑いをこらえるのに必死だもの」
真澄はもう耐え切れないというように少し笑った。しかしなぜか急に真剣な表情に変わって僕に聞いてきた。
「ところで、その浜ってほとんど人が行かない所なんでしょう。もしかして、そのハートまだあるのかな?」
「まさか、波打ち際からそう遠くはなかったから波が消してしまったと思うよ」
「そうなんだ。それってちょっと寂しいね」
真澄は少し遠くを見るような目をした。しばらく、そのまま黙っていたが、不意に何かを思いついたように口を開いた。
「あの、歌詞を書く上で、私も純さんにお願いがあるんだけど、いいかしら?」
「なんなりと」
僕は言葉通り何でも応えるつもりだった。それどころか、僕はどんな要求をしてくるのかにかなり興味があった。
「少しイメージが湧いてきたんだけど。恥ずかしいって言うのと、ちょっとびっくりさせたいっていう理由があるのね」
「それで?」
真澄の言うことは分からないでもなかった。しかし、それを理由に何をしてほしいかについては見当がつかなかった。
「私は純さんに歌詞の語数とイメージだけを伝えて曲を書いてもらいたいんだけど、無理かしら?」
「いや、できないことはないと思うよ。まあ、僕が真澄さんに無理を聞いてもらったんだから、真澄さんの依頼も受けさせてもらうよ」
思ったほどに難しい依頼ではなかったので僕はすんなりと快諾した。
「ありがとう。じゃあ、歌詞ができあがったら教えるわね」
「ああ、期待して待っているよ」
「だめ、期待しないで」
「ああ、じゃあ、期待しないで待っているよ」
そうは言ったものの僕は真澄がどんな歌詞を書いてくるのか気になって仕方がなかった。
八月十二日(水)
夜、歌詞ができたと真澄が言ったので、僕たちは前の晩に引き続いてノートパソコンを置いた机の前で打ち合わせを始めた。
「純さん、歌詞の語数とかイメージとか、メモを取ってもらってもいいかな?」
「ああ、ちょっと待ってね」
僕はすぐにノートと鉛筆を取り出して真澄に声を掛けた。
「はい、じゃあ、歌詞の語数を教えて」
僕は鉛筆を構えて真澄の言葉を待った。
「まず、Aパートは文字数が五五七七で、A’のパートも五五七七ね」
僕がメモを取るのを待ってから真澄は続きを始めた。
「次に少し曲の感じを変えてもらってBパートが七七七七、最後にCパートが七七七七、それでおしまい」
僕はメモを取り終えると確認をすることにした。
「つまりAパートが五五七七、A’パートも五五七七、そしてBパートは少し感じを変えて七七七七、その次のCパートも七七七七で終わる曲を書けばいいんだね」
「そう、その通り」
すんなりと話が通り真澄は満足そうな表情を浮かべた。
「語数は分かったけど、それ以外で何か注文はあるかな?」
「そうね、AとA’のパートは説明的な所だから控えめな感じにして、Bパートの七七七七で少しずつで感情を高めるの。そして次のCパートの前半の七七で一気に感情を爆発させて後半の七七で少し落ち着く感じにして欲しいの」
僕は真澄の言葉をきちんとメモしてから尋ねた。
「それで、曲の雰囲気はどんな感じにしたいの。歌詞を読んでいないから明るいのやら暗いのやらさっぱり分からないからね。真澄さんの曲に対するイメージを少し伝えてくれないかな」
「思いっきり暗い曲にして欲しいの。確か今までの歌には短調の曲はなかったと思うから短調で書いてくれないかな?」
真澄は迷う様子もなくはっきりした口調で自分の希望を伝えてきた。
「女性目線の短調の歌か。確かに変化をつけるには良いアイデアだね」
「そうでしょ」
得意げに話しているのに真澄の顔はどこか悲しそうにも見えた。
真澄の希望は理解できたが、僕にはもう一つ聞いておかなければならないことがあった。
「それで歌詞は何番まであるの?それと歌詞同士はつながっているのかな?」
「歌詞は三番まであるの。全体で一つのつながったストーリーになっているんだけど、間奏は無しにしてすぐに次の番に行くようにして欲しいんだけど、いいかな?」
「もちろん、そうさせてもらうよ」
「ありがとう。じゃあ、曲ができたら教えてね。」
前日の消極的な様子が嘘だったかのように真澄の歌作りに対する姿勢は積極的だった。しかし、その割には相変わらず表情に憂いのようなものが感じられた。
正直に言ってしまうと、僕は真澄の要望に応えられる自信はなかった。僕はそれまで他人が書いた歌詞に曲を付けた経験はなかった。歌詞のストーリーの内容を知らずに語数とイメージだけで曲を書くというのは最初に思ったよりも難しい気がしてきた。
僕は夏休みの宿題をたくさん出された生徒のような気分になった。
八月十三日(木)
しかし、実際に曲を作り始めてみると、予想に反して曲はスムーズに出来上がった。真澄のリクエストはかなり具体的だったし、歌詞の語数もそれほど多くなかった。五七調で書かれている上に、パートもきちんと分かれていたのも幸いだった。かつて詩を書いていた経験のある真澄はやはり歌というものが良く分かっていた。
曲が出来上がったところで僕は真澄を呼んだ。ベランダに続くドアの前にはもうしばらく前から座布団が二つ並んだままになっていた。
僕は先に三線を持って腰を下ろし糸の調子を合わせた。真澄が隣に座ったところで僕は練習の開始を提案した。
「まず、僕が三線を弾きながらパートごとにラララで歌うから。一緒に歌いながらメロディーを覚えて」
「うん、分かった」
真澄の答え方には何か迷いのようなものが感じられた。
僕たちはパート毎に繰り返し歌ったら次のパートに進むという過程を繰り返した。その後、通しで歌う練習をした。真澄がきちんと歌えるようになるまでたいして時間は掛からなかった。
頃合いを見て僕は真澄に尋ねた。
「さて、もう大丈夫かな?」
「うん、大丈夫だと思う」
真澄の声はどこか自信なさげに聞こえた。
「じゃあ、ちゃんと歌詞をつけて歌ってもらおうか」
「うん、なんかちょっと怖いな」
歌詞を付けて歌うと聞いた途端なぜか真澄は弱気になった。
「じゃあ、録音もしてみようか」
「ちょっと、嘘でしょ」
狼狽える真澄を無視して僕はノートパソコンでの録音の準備をした。僕はマイクを持てない真澄のためにスタンドも用意して高さを調節してあげた。
「じゃあ、このマイクの中心に向かってしっかり歌ってね」
僕がそう言うと真澄は思いもかけないことを言ってきた。
「ねえ、純さん。やっぱり私の歌詞で歌を作るのを止めにしない?」
あまりにも意外な展開に僕はかなり動揺した。
「真澄さん、すごく真剣に取り組んでくれたのに。どうして?」
俯いた真澄の返答は声が小さかった。
「私ね、久しぶりに創作に取り組むことができてすごく嬉しかったの。歌詞のできもね、すごく良いと思っているの」
「だったらどうして?」
僕には真澄の真意がまるでつかめなかった。だから尋ねた。
「こんな歌詞、純さんに聴かせちゃいけないって思ったの」
真澄の返答は更に謎を深くするばかりだった。しかし、真澄の思いはどうあれ僕は引き下がれなかった。
「真澄さんの気持ちは大切にしたいと思うんだけど、僕はどうしても真澄さんの歌詞と僕の曲を一つにしてみたいんだ。これはやはり物書きの性かな?真澄さんがどうしても嫌だと言うなら諦めるけど」
俯いたままの真澄が僕の言葉に応えるまでにはかなり時間が掛かった。
「わかった、歌うわ」
真澄の声はかなり辛そうだった。それでも僕は二人の歌を形にしたいという思いに抗することができなかった。相変わらず、俯いたままの真澄の様子など気づかないような態度で僕は録音の準備を進め、真澄の同意を求めるようなことも言わないまま録音の開始を宣言した。
「じゃあ、始めるよ」
僕は真澄の顔を横目で見ながら録音のボタンを押し、さっさとイントロを弾きはじめた。すると真澄も観念した様子になった。歌の部分が近づくと真澄は一瞬目を閉じてそれから歌い始めた。
上地島、下地島
二つ合わせて新城島
傍にあり、離れてる
二つの島をパナリとも呼ぶ
あなたの横に並ぶ彼女の
笑顔輝くクイヌパナから
海を隔てた下地を見れば
届かぬ思い風に舞い散る
いつだって傍にいて
微笑み交わし話もできる
でもいつも目に見えぬ
海が隔てるあなたと私
恋路が浜に一緒にいても
そこは私の場所ではなくて
あなたと彼女寄り添う写真
頼まれて撮る指が震える
友だちの輪を離れ
水際に白い珊瑚並べて
描いてみた、私たち
二人の名前、ハートで囲み
上地と下地、隔てる海の
波が消すまで夢を見たなら
二つの島のような定めを
受け入れ、そして歩き始めよう
真澄が歌い始めた瞬間にすでに鳥肌が立っていた。美しい歌声は前からだったが、自分が書いた歌詞を歌う真澄の声の美しさは明らかに今までとは別のものだった。
しかし、僕はそれ以上に歌詞の内容に打ちのめされていた。それは明らかに僕たちの話だった。どんなに心を通わせて一緒に歌を作っても、お互いに指一つ触れることの出来ない僕たちの物語だった。生者の僕と死者の真澄。僕たちの間には決して超えることの出来ない見えない海が横たわっていた。
僕は録音停止のボタンを押すことすらしばらく忘れていた。うなだれた僕を気遣うように真澄が恐る恐る言葉を掛けてきた。
「ごめんなさい。こんな暗い歌詞を書いてしまって」
「そんなことないよ。とても良かったよ。」
「そう、ありがとう」
真澄はぎこちない笑顔を浮かべた。
「じゃあ、録音した歌、聴いてみようか」
「私、あまり聴きたくないな」
「そんなこと言わないでよ、歌詞も良かったけど歌声も素敵だったよ」
僕が再生のボタンを押すとノートパソコンのスピーカーから三線のイントロが流れ始めた。曲はやがて歌の部分に達した。しかし、スピーカーから流れてくるのは三線の伴奏ばかりで真澄の声はまったく聞こえてこなかった。
「私の声、録音できないんだね」
真澄が俯いた。僕は何も言えなかった。
「仕方がいないよね。私、オバケだからね」
「自分のことをオバケなんて言うなって言ったじゃないか」
「ごめん、そうだったね」
俯いたままの真澄を元気付けるために僕は説明した。
「真澄さんが書いた歌詞は絶対に完成した歌として残すから安心して。今は歌詞を打ち込めば歌ってくれるコンピューターのソフトもあるから心配しないで」
「ありがとう。その気持ちだけでもう十分よ」
泣き出しそうな声だった。
僕は思い切り真澄を抱きしめてあげたかった。しかし僕には二人の間にある目に見えぬ海を越えることはできなかった。
八月十四日(金)
夜、僕たちはまたノートパソコンを前にしていた。前の日にできた新城島の歌は真澄の希望で僕が名付け親になることになっていた。タイトルが「新城哀歌」に決まった後、僕たちは次の歌について話を始めた。
「さて、真澄さん、とうとう残るのは波照間島だけになったね」
「波照間島ってどこにあるの?」
僕はネットで八重山の地図を探し、それを真澄に見せた。
「この地図だと西表のすぐ南にあるみたい見えるけど、ここに線が引いてあるだろう。これは実際の距離を縮めているって意味なんだ。つまり本当は、波照間島は西表の遥か南にある絶海の孤島で、石垣からは高速船で1時間もかかるんだ」
「他の島と比べると随分と遠いのね」
「ああ、そうだね。人が住んでいる島としては日本で一番南にあるからね」
「へえ、そうなんだ。それでその最南端の島はどんな所なの?」
最南端と聞いて真澄の島への興味が増したようだった。
「そうだね。島中がサトウキビ畑みたいで、静かな所だよ。売店はいくつかあるんだけど、食事ができるお店が少ない上に休みが多いのが困ったところだね」
「なんだかつまらなそうな所ね」
真澄は少し失望したような声を出した。
「いや、波照間は八重山の中でも人気が高い島なんだよ」
「一番南だからって理由だけで?」
真澄は納得がいかないと言いたげだった。僕はすぐに納得のゆく説明をしてあげた。
「違うよ。理由の第一は海がすごく綺麗なことかな。やはりこれも写真を見せた方が話が速いよね」
僕はノートパソコンの写真フォルダを開いてニシ浜の写真を見せた。
「これがニシ浜で撮った写真だよ」
真っ白な砂浜の向こうには黒島より少し薄いスカイブルーの海が広がっていた。所々、珊瑚のあるところだけが色が濃くパッチワークのようだった。海は沖に向かうにつれて青さを増し、その先には西表島が控えていた。
「わあ、すごい。確かにこれなら人気が高いのもうなずけるわね」
たった一枚の写真が見事に真澄を納得させてしまった。
「そうだろう。それに、この浜は少し沖へ泳ぐだけで綺麗な珊瑚が見られる、正に最高な場所なんだ」
「ボートに乗らなくてもシュノーケリンゲで珊瑚が見られるのね」
「そうなんだ。」
そう答えた後、僕は次々とニシ浜の写真を真澄に見せた。真澄は何かに魅入られたように黙って画面を見続けていた。ニシ浜の写真が尽きたところで僕は唯一の欠点と思えることを教えてあげた。
「この浜の短所を敢えて挙げるとしたら、浜辺に日陰がないことかな」
「それじゃあ、あまりのんびりできないわけね」
「いや、東屋があるから、そこでのんびりできるよ。僕はそこでずっと海を見ているのが好きなんだ。とにかく海が綺麗だから何時間でも見ていられるよ」
「なるほどね。ところで、波照間には他に見るべきものはないの?」
真澄が聞いてきたので答えてあげた。
「南十字星が目当てで来る人も多いよ。南十字星は他の島でも見えるんだけど、天体観測の邪魔になる光が殆どないのが波照間の利点なんだ」
「南十字星が日本でも見られるなんて知らなかったわ。それで、純さんは南十字星を見たことあるの?」
真澄を羨ましがらせたいところだったが、そうはいかなかった。
「残念ながら、まだ見たことがないんだ」
「それは残念だったわね。ところで今度は、どういう歌を作るつもりなの?私はどんなお手伝いをすればいいのかしら?」
「いや、今回は手助けは必要ないよ」
「何だ、つまらないな」
真澄は少し不機嫌な顔をして見せてからその後を続けた。
「それで、どんな歌になるの?」
「秘密」
「何それ?」
そう言って真澄は頬を膨らませた。
「真澄さんだって前回は歌詞を完全に秘密にしていたじゃないか。今度は僕が真澄さんを驚かそうと思っているんだ。それにちょっと照れくさいしね」
「ふ~ん、そうなんだ。じゃあ、期待しないで待ってるわ」
「いや、期待して待っていて欲しいな」
「あら、純さんにしては珍しく自信たっぷりね」
「ああ、きっと真澄さんも喜んでくれると思うよ」
真澄は少し不機嫌だったが、最後の歌の構想はまだ真澄には聞かせられなかった。真澄を驚かせ、喜ばせるためにはそれが必要だった。真澄が作詞をした「新城哀歌」は余りにも悲しい歌だった。だから、せめて最後は真澄をもっと幸せにしてあげたかった。そうすることが最後の歌を作る目的になっていた。
八月十五日(土)
午前中に必要な買い物をするために都心に出た後、僕は部屋に戻りヘッドフォンを被って歌作りに没頭した。そんな僕の様子を見て、真澄は全くと言っていいほど声を掛けてこなかった。
結局、歌が完成する前に僕は眠りについた。
八月十六日(日)
朝食を済ませると僕は再び歌作りに没頭した。そして歌は午前中にはどうにか完成した。
「じゃあ、ちょっとカラオケボックスに行ってくるよ」
僕は三線のケースを持って部屋を出ようとした。
「いってらっしゃい」
真澄の声は少々冷たかった。僕の秘密主義がお気に召さなかったようだった。僕は途中で昼食を済ませた後、カラオケボックスでしっかりと伴奏と歌の練習をした。
完成するまで歌を聴かせたくなかったのは前と同じだった。しかし、今回の歌にかける自分の気持ちはそれまでとは比べ物にならなかった。真澄にはどうしても、決して途中でつかえたりせずに歌を聴かせたかった。今の自分の気持ちを全て込めた完全な歌を届けたいと僕は思っていた。
しかし、思えば思うほど、僕は自分の歌に満足がいかなかった。結局、納得行く演奏ができないまま僕はカラオケボックスを後にした。
「ただ今」
僕は自分の言葉に疲れが滲んでいるのがわかった。
「お帰りなさい」
キッチンに腰を下ろしていた真澄の言葉は相変わらず不機嫌な匂いがした。
寝室に入ってから僕はリュックを机の上に置き、三線のケースも一先ず定位置に置いた。すぐに歌う気にはなれなかった。
シャワーを浴びて体がすっきりした後も、心の方はそうはならなかった。カラオケボックスでの練習中に自分の歌に満足がいかなかったことがまだ気になっていた。結局、歌う気にならないまま、僕は座布団に腰を下ろしてぼんやりと天井を見上げた。
すると真澄が黙って僕の隣に座った。真澄はしばらくそのままでいたが、沈黙に耐えきれなくなったように口を開いた。
「波照間島の歌、まだできていないの?」
「いや、できたよ」
僕の声には力がなかったせいか真澄は心配そうに次の問いを発した。
「じゃあ、歌のできがあまり良くなかったのかな?」
「いや、良い歌ができたと思っているよ」
僕の自信がなさそうなものの言い様と発言の内容がかみ合わないことに真澄は首をかしげた。
「じゃあ、どうして聴かせてくれないの?あんなに期待させたくせに」
真澄の言い分はもっともだった。
「なんか上手く歌う自信がないんだ。なんとなく、気持ちが伝わらないような気がしてね」
「純さん」
名前を呼ばれて僕は真澄の方を見た。真澄はまっすぐに僕を見つめていた。その目は、その後の真澄の言葉以上に僕の心を動かした。
「別に上手に歌えなくても良いんじゃないかな。上手に歌えば気持ちが伝わるってわけじゃないし、上手く歌えなければ気持ちが伝わらないってわけじゃないと思う」
その言葉を聞いて僕の心から迷いが消えた。そうだ、その通りだ。歌えば良いのだ。結局のところ、僕は歌いたいから歌を作っているのだから。
「ありがとう、真澄さん。じゃあ、歌わしてもらうよ」
「うん」
真澄の目から訴えるものが消えて、眼差しが優しいものに変わったのが分かった。
僕はケースから三線を取り出すと手早く調弦を済ませた。
「じゃあ、これから波照間島の歌を歌うね」
「私に大きな期待をさせたんだから、さぞ良い歌ができたんでしょうね」
真澄の物の言い様はすっかりいつも通りに戻っていた。
「そうだね。期待を裏切らない出来だと思うよ」
「そう。それでタイトルはどういうの?」
僕は真澄の問いに素直に答えた。タイトルぐらいは明かしておいても良いと思った。
「タイトルはね『南十字の下で』にしたんだ」
「そう、南十字星の下で何かが起こるわけね」
真澄の期待が膨らむのがわかった。
「その通り、何が起こるかは聴いてのお楽しみかな」
僕が少し間を置くと真澄は僕を急かしてきた。
「はいはい、前置きはいいから早く歌って」
その言葉にようやく覚悟が決まった。
「じゃあ、そうさせてもらうよ」
僕は三線を構えイントロを弾き始めた。「南十字の下で」はややテンポの速い明るい曲に仕上げてあった。自分の歌としては長めのイントロが過ぎ歌に入った。
南の果ての波照間島の
ニシ浜の東屋で君と二人で
言葉にできぬ程に綺麗な
青い海見つめてる幸せを噛み締めて
小さいけど確かな決意はこの胸の中
小さな箱は荷物の底にしまってきたけど
No one loves you more than I love you, but…
今は口には出さずに
波照間の空、南十字が
輝く夜を待つよ
星空の下、肩を並べて
十字星あるはずの場所を見つめる
風に吹かれて雲が流れて
二人して夢に見た星が今、見えたから
ポケットに忍ばせた小さな星の光を
そっと君の左手の薬指へと宿して
Will you marry me, please say “Yes, I will.”
永久(とわ)の愛を誓うから
今、波照間の夜空に光る
南十字の下で
南十字の下で
「どうだった?」
エンディングを弾き終わり三線をケースにしまってから僕は尋ねた。
「なんか甘すぎるドラマみたいだと思った」
真澄は少し顔を赤らめていた。
「それって良くなかったっていうこと?」
甘く作り過ぎたかと後悔が頭をもたげそうになった時に、真澄が僕の言葉を否定した。
「そうじゃないよ。南十字星の下でプロポーズなんて最高だと思う。私だったら気絶しちゃいそう」
真澄は妙に嬉しそうだった。
「少しはハッピーな気分になってもらえたかな?」
「うん、とっても。でも・・・」
言いかけて真澄は天井を見上げた。
「でも、何?」
真澄は天井を見上げたまま素直に思いを語った。
「私もプロポーズとかされてみたかったなって、ちょっと思っちゃった」
上を向いたまま閉じた瞼の裏には、あるいは涙が滲んでいるのかもしれないと思った。
「そうか、よかった」
「どういうこと?」
僕は座布団から降り真澄の正面に回った。そしてポケットから箱を取り出した。
「オンボロアパートの天井の下だし、真似事しか出来ないから安物だけど、気持ちだけでも受け取って欲しいんだ」
僕は箱の中から真澄のために買ってきた指輪を取り出した。真澄の目が大きく見開かれた。
「左手の薬指を出してくれないかな?」
僕が頼むと真澄はゆっくりと僕の前に左手を差し出した。僕は真澄の薬指に指輪を通してみた。指輪が落ちないように手で持ったまま僕は尋ねた。
「真澄、ずっと僕の傍にいてくれるよね?」
「うん」
答えた真澄の目に堪えていた涙が溢れ出した。真澄が思わず両手で顔を覆った瞬間に信じられないことが起こった。指輪は僕の手から離れ、顔を覆った真澄の左手の薬指に収まっていた。
「え!」
真澄は驚いて顔から手を離すと、何度か手のひらの向きを変えて、自分の薬指にはまったまの指輪を何か不思議なものでも見るような目で見つめた。それから真澄は恐る恐る左手を伸ばして僕の頬に触れた。
「感じる。暖かい」
僕は右手で頬に当てられた真澄の手を包み込んだ。
「僕も感じるよ。暖かいね」
僕はそのぬくもりが何物にも代えがたいもののように思えた。
「私、幸せすぎて成仏しちゃいそう」
冗談めかして言った真澄の言葉を僕はすぐさま打ち消した。
「ダメだよ。真澄はずっと僕の傍にいてくれるって約束したじゃないか」
「そうね」
真澄はそうつぶやいて笑顔を僕に向けた。僕は両手で真澄の肩を引き寄せて思い切り抱きしめた。真澄の体の温もりを僕は全身で感じた。それは決して冷たい死者の体ではなかった。



