「でも、彼は飛び降りてきてはくれなかった。ずっと私の方を見ているだけだった。バスのドアが閉まった後も、彼はずっとガラス越しに私の方を見ていたの。でも、結局、飛び降りてきてはくれなかった。私は、ただ、彼の姿が遠ざかってゆくのを見ているだけだった。バスの後を追いかけたりはできなかったの」
 一つ疑問が浮かんだ。
「真澄さんは自分から告白するつもりじゃなかったの?」
「ううん。そんな勇気はなかったわ。私はずるかったの。私ね、彼に『好きだった』って言ってほしかったの。過去形で良かったの」
「どうしてそう思ったの」
「だって、私たちには未来なんてないことはお互いによく分かっていたから。彼は地元の進学校に行って、行く行くは名門の跡取りになる。私は東京に行って工場で働く。今みたいに携帯もメールもない時代には青森と東京は遠すぎたし、時代劇みたいだけど私たちの身分は違いすぎたのよ」
 真澄は少し俯いてから話を続けた。
「でもね、『好きだった』って言ってほしかった。その言葉があれば一人で東京で生きてゆけるような気がしたの」
 淡い初恋と呼ぶには過酷な話だと僕は思った。