もし、それだけなら、わざわざ語るにしては余りにもちっぽけな出来事だとその時は思った。
 真澄は申し訳なさそうに口を開いた。
「なくはなかったわ、これもたいしたことじゃないけど」
 それから、どこか遠くを見るような目で語り始めた。
「帰りのバスの中では、クラスメートはみんな疲れて眠ってしまったの。起きていたのは私と彼だけだったけど、それでも怖くて彼とは話はできなかったの。だから私は窓の外を見ていたの。段々畑の続く道に夕陽が差し込んで、とても綺麗だったわ」
 真澄の目は古いアパートの先の遠い空を見つめていた。真澄にとって数少ない美しい思い出を眺めていた。
「そうしているうちに、私はうっかり眠ってしまったの。目が覚めた時には心臓が口から飛び出そうだった。私、彼の肩にもたれて眠っていたの」
 真澄の目には自らの命を断ったアパートは見えていなかった。真澄は、ただ、遠い美しい時間だけを見ていた。
「私は慌てて、まっすぐに座り直したの。眠気なんて完全に吹っ飛んでいたわ。そうしたら彼が言ってくれたの『なんだ、起きちゃったのか、ずっと寝ていれば良かったのに』ってね」