島の西側、久部良の集落にある宿を僕は予約していた。近くには「日本最西端の碑」や「日本最後の夕陽が見える丘」があった。
 日が沈む頃、僕は「日本最後の夕陽が見える丘」に行ってみた。意外にも、そこには僕以外誰も来ていなかった。その日、与那国の日没は十九時時三十一分。真澄のいる東京では四十五分も前に日が沈んでいるはずだった。
 ふと僕は真澄のことを考えた。暗い部屋で電気もつけず、いや、つけることもできずに何を考えているのだろうかと思った。約三十年ぶりに得た話し相手を失った孤独の大きさは想像すらできなかった。今の時代、普通なら離れていても携帯はつながる。メールのやり取りもできるし、送られてきた旅の写真を見て楽しむこともできる。しかし、真澄にはそれさえもできないのだ。
 日本最後の夕陽を見ながら、そんなことを考えている自分がなぜだか不思議に思えた。

 その夜、僕は宿の近くの居酒屋で夕食を取った。花酒という与那国でしか作られていないアルコール度数六十度の泡盛も久しぶりに飲んでみた。イルカの肉などという珍しいものもあり僕は沖縄料理を堪能した。真澄にも食べさせてあげたかったと少し思った。

 宿に戻ると僕はリビングルームで三線を弾くことにした。調弦をしていると十五人ほどの学生のグループが飲み会から帰ってきた。そのうちの一人が酔った勢いで僕に有名な沖縄のバンドの曲のリクエストをしてきた。快く応えてあげると彼らは一緒に歌いだし、リビングは一気に宴会モードになってしまった。
 彼らはリビングのソファ、あるいは床に直接腰を下ろして次々とリクエストをしてきた。応えられる限りのリクエストにはすべて応えた。彼らの中には更に缶ビールを持ち出してくるものもあり、正に宴会モードは最高潮になった。
 オリジナル曲はないのかと尋ねられ、調子に乗った僕はそれまでに作った八重山の歌を全て歌ってしまった。どれも大きな拍手をもらった。単なる成り行きではなく本当に評価してもらえたのだと感じた。
 目の前で彼らが僕の歌を評価してくれていてくれるのはすごくうれしく思えた。しかし、僕の心の中に一抹の寂しさがあった。それは聴衆の中に真澄がいないということだった。