プロローグ

 七月二十五日(土)

 確かにそこは幽霊の出そうなアパートだった。築四十年。トイレと風呂が付いているのが不思議なくらいだった。ドアを開けるとそこは小さなキッチンで、その向こうに畳敷きの寝室が一つあるという間取りだった。玄関から見ると正面に寝室からベランダに続くガラス戸があった。
 僕の部屋は二階の角部屋で、真下も隣も空き室だった。このご時世にこんなオンボロアパートに住みたいと思う人は少ないのだろうと容易に想像がついた。
 そんな場所に僕が住み始めたのは、急に引越しが決まり選択の余地がなかったからだ。両親が突然、家を売って父の実家に移住すると言い出して、僕は無理やり追い出されることになったのだ。
 僕が住むことになったそのアパートは駅からは遠かったが、大学へは歩いて十分だから通学には便利だった。大学三年になる来年の春には、もっとましなアパートを見つけて引っ越すこともできるだろう。だから、それまでの仮住まいだと思うことにした。
 夏休みに入って最初の土曜日、僕はそのアパートに引っ越してきた。荷物の片づけがあらかた終わると既に夜になっていた。
 少し気分転換でもしようと思い、僕は三線を弾くことにした。まず、ガラス戸の前に座布団を敷いた。僕はケースから三線を取り出すと座布団に腰を下ろした。その上で三線の糸を巻いた。
 三線は三味線とよく似た沖縄の楽器で、三味線よりも少し小柄だ。猫ではなくニシキ蛇の皮が張られているので、かつては蛇皮線とも言われていた。三味線と違い、しゃもじの様なバチは使わない。代わりに人差し指に鷹の爪のような道具をつけて弾く。しかし、この道具もバチと呼ばれるので少々説明が厄介だ。
 僕が三線を弾くようになってから、既に三年半の時が経っていた。きっかけは沖縄県八重山諸島への旅だった。その時、僕はまだ高校一年生だった。その旅での出来事を元に僕は歌を作った。僕が作った最初の歌だった。
 僕は前奏に続いてその歌を歌い始めた。不思議な出来事が起こったのは歌のエンディングまで三線を弾き終えた時だった。
「良い歌ですね」
 間近で若い女性の声がした。僕は驚いて回りを見回したが、一人暮らしの自分のアパートに女性の姿などあるはずがなかった。
「君、誰なの?」
 僕は驚いて見えない相手に尋ねた。
「え、私の声、聞こえたんですか?」
 姿の見えない声の主はむしろ僕以上に驚いているようだった。
「ごめんなさい、済みません。失礼します」
 声の主はひどく慌ててどこかに去ってしまったようだった。

 夏休み最初の土曜日、不思議な声を聞いたその夜、僕たちの夏が始まった。