…あぁこれが好きってことなのかな。
 
 生まれてから恋をしたことがない。
 あの時から人を好きになったことがない。
 もう二度と誰のことも信頼しないと思った。
 そんな俺が異性にこんなふうに思ったのは初めてだ。
 話したことがない。関わったこともない。性格も見た目も、生きる世界も正反対。
 そんな彼女に俺は好意を抱くようになった。
 
 プロローグ
 
 一瞬で、俺は恋に落ちた。膝の力が抜けたかのようにストンと。
 何より君の素直な優しさと、周りを巻き込んでしまうような花笑みに心を惹かれた。
 君の周りにいつも光りが見えていた。
 そんな君に、どうしても近づきたい。でも俺は家族関係も人間関係もすべて駄目だった。
 何をしても、物事が良い方向を選んでくれることはなかった。だから君にも近づけない。
 何もかもがどうでも良くなって、気づいたら一人になっていた。
 死のうかな。
 自分のことが嫌いすぎて、酷い時にはそう思ったこともあった。
 でも死ねなくなった。死のうと二度と思わなくなった。
 君が俺に優しく手を差し伸べてくれて、俺が君のことを好きになってしまったから。
 
 第一章 虹色の世界とモノクロの世界
 
 今年の梅雨明けは例年に比べて早かった。 まだ六月中旬ということにも関わらず、真夏日が何日、何週間も連続している。太陽の光は俺たちを容赦なく照りつけ、脳内をショートさせようとする。
 どこのテレビニュースを開いても「今年の夏は十年に一度の暑さになりそうです」と、気象予報士が真剣な顔で注意喚起している。
 この「十年に一度の暑さ」と言うフレーズは毎年何十回、いや何百回も聞く。
 正直うんざりしているし、毎年のことなので嘘か本当からもわからなくなった。
 ニュースがエンタメに変わったところで、ソファーから腰を上げ、テーブルの椅子に腰を下ろす。
 我が家の椅子はどれもクッション性がなく、残害鉄壁のように硬いので、長時間座ると腰を痛めてしまう。
 俺は今この広い一軒家に一人でいる。両親は仕事で家にいない。
 父が警察官、母が看護師。二人とも朝早く家を出て仕事場に行き、夜二一時を過ぎないと帰ってこないことが多いので、顔を合わせることはほとんどない。
 自己紹介が遅れたが、俺は山隅恒星、高校一年生だ。名前の由来は星のように明るく、輝かしい人生を歩んでほしいと言うことでつけたらしいが実際のところは…。真っ暗でいつまでも夜が明けない、本当に暗い世界を生きている。どこにいても何をしても、俺の周りに光が見えることはない。
 そんな俺には流星と言う五つ上の兄がいる。 兄はなんでもでき、小中高での通知表で悪い成績取ったことがなかった。テストは常に満点。自分も勉強が嫌いなわけでもないし、テストも九十点とかそこそこの点は取っていたが父も母も兄のほうしか目が行かない。いっときしたら俺の方にも注目が来るので気にはしてなかったけど。運動神経がよくて顔は父似。一つ一つの顔のパーツが整ってて異性にモテていた。俺は運動ができない。小学生の頃は少し走っただけで足がオボついて転けてしまう、体力があるの、たの字すらない。握力も反射神経もない、ただの運動音痴。
 兄は勉強・運動・顔、ましては性格も全てが完璧な、いわゆる超偉才だ。
 今は有名な医療大学に通っていて、一人暮らしをしているので最近顔を見てない。
 だから基本的に誰とも顔を合わせることがないので、一人で生活しているようなものだ。
 くだらない。どうでもいいようなことだ。 まだ六時半だが、朝食を食べよう。
 俺の朝食はいかにも普通で質素で素朴だ。 炊き立てのご飯か冷凍されているご飯に即席の味噌汁、たまに冷蔵庫の中に納豆があるのでご飯のお供にすることもある。
 ちなみに納豆は粒、かつおだしのタレ派だ。
 一人で食事をすることが寂しいとか悲しいとか思はない。どっちかというとそっちの方がありがたい。気を遣わなくてすむから。
 俺はあることをきっかけに人と関わることを極力避けるようになった。誰のことも好きになれなくなった。あの日のことを思い出すだけで吐き気がする。
 そんなことはさておき、早く朝食を摂ろう。 朝は結構早起きするタイプで、時間に余裕があるのでゆっくりと支度を進める。
 身支度も至って簡単。なので、たとえ寝坊しても一分あれば済ますことができる。
 まず髪はワックスとかスプレーはしないし、高校入ってから髪染めする人が増えたけど、俺はしない。黒髪だから、夏は吸収して熱い。こんな俺だが寝癖が酷かったら流石に直す。 シャツのボタンは下から首元までキッチリ留める。でないとなんだか落ち着かなくて仕方がないのだ。
 目が悪いけど、コンタクトなんて贅沢的なものはしない。黒縁メガネが一番いい。
 俺はこれから先も、校則違反をしないと言い張れる自信がある。
 ニュース内の時刻が、もうすぐ七時十分を過ぎようとしている。
 時間が経つのが、年々早くなっているんじゃないかってぐらいに時はすぐ過ぎる。
「もう学校に行かないと行けない…」
 俺は決して学校が嫌いなわけではないが、対して楽しいこともない。毎日つまらない学校生活を送っている。
 そろそろ行くかと嫌々立ち上がり、荷物をまとめる。
 背中が重い。背後霊がのしかかっているのかってぐらいずり足で玄関に向かう。
 その途中、テレビの電源を消し忘れていることに気がつく。
 忘れっぽい、間抜け、こんなことがあるから、自分のことが好きになれないのだ。
 ゆっくりと元来た道を引き返し、再びリビングへ戻る。 
 リモコンを誰かから奪うかのように激しく取り、電源を切った。
 ガタンッと机に起き、玄関に行こうとした時、視界に小さな巾着袋のようなものが入った。
 それはまさかの弁当箱だった。弁当忘れるって飛んだ馬鹿だなと、自分で自分を侮辱し、テンションが下がった。自業自得だ。
 リュックのチャックを開けて弁当をしまう。はぁっと大きなため息を吐きながら玄関に向かう。
 靴を履き、ドアを開ける。
 次の瞬間、モワァっとした嫌な暑さが俺の全身を包み込んだ。
 この暑さがあと二、三ヶ月は続くのかと考えると、頭が痛くなった。
 フルフルと頭を横に振り、玄関の鍵を閉めた。
 日焼け止めを塗ってないので肌がヒリヒリして痛い。夏場に徒歩で通学するのはかなりの生き地獄。 
 すでに疲れてきっている体を必死に前へ前へと動かし、刑務所学校、通称高等学校へと向かう。
 運がいいことに、家から徒歩十分以内で着くのはありがたい。
 少し歩いたら自分の通う高校が目に入るので、謎の安堵のため息を漏らす。
 まだ人通りが少ないので、横断歩道が混雑してない。
 この交差点は人も車も自転者もとにかく人通りが多いことで地元では結構有名だ。
 大袈裟に言うと、ハロウィン時やお正月のスクランブル交差点みたいな感じだ。
 人混みは嫌いだけどどんな感じなのか見てみたい、そんなことを考えてるうちに信号機が青に変わった。
 誰もいないのを確認して横断歩道の黒い線だけ踏まないように渡り、校門へと向かう。
 八時ぐらいになると先生達や生徒会組織があいさつ運動をするために立っているが、俺の時間帯は誰もいないので気が楽だ。
 冬ならともかく、こんな暑い中じっと立っとける根性、気が知れないな。
 俺が生徒会長なら数秒もしないで断ち切るだろう。まぁそもそも生徒会組織に入ること自体ないけど。
 非現実的なことを考えながら、下駄箱へ向かい、この学校特有の真緑なスリッパを履く。
 誰がこの色にしようと決めたのだろうか。白とかシンプルに黒とかもっとマシな色のスリッパはなかったのか。
 どうでもいいことに腹を立てては一人で文句を言う、俺の日常あるあるだ。
 パコっパコとスリッパの音が軽快に廊下に響き渡る。この音は不愉快だ。あと何回この音を聞けばいいのか。 
 ゆっくりとドアノブに手を添え、そぉっとドアを横にスライドさせる。
 まだ七時半。案の定教室には誰もいない。
 担任が先に来てクーラーをつけたのだろう。 ひんやりとしていて、かいた汗が一気に吹き飛ばされた。
 このシーンとした感じ、たまらなく好きだ。 誰も来なかったらいいのにとボソッと呟く。
 毎日毎日同じことを考える。
 みんないなくなればいいのに。
 そんな最低最悪なことを考えながら授業の準備をする。
 バックから数冊の教科書を取り出す。高校の教科書は、小中学校と比べ物にならないぐらい分厚かった。毎日違うページを開いては読んで、問題を解く。勉強は嫌いじゃないど何の意味があるのだろう、将来にどう役立つ言うのだろうかと思う。
 だけど文庫本は別だ。想像しながら本の世界に入っていくと言う感覚がたまらない。  だから俺は朝早く来て図書室に行くのがスケジュールの一つ。ここからは少し遠いものの、この学校では一度に三冊まで間は貸出できるのでありがたい。
 知り合いはいないが移動中はなるべく人に会いたくないので、息を殺して行く。
 二分して図書室にようやく着いた
 ドアを開けると、ひんやりとした冷たい風が俺を出迎えてくれた。
 思わず涼しいと、口に出してしまった。
 本を返却ボックスに入れ、文庫本コーナーへ向かう。興味がありそうな本を借り、足早にその場を去る。
 教室に入る前からすでに騒がしかった。
 普通人間は物音がするとこちらを向く。それが俺にとってはなんか嫌なのだ。この中に入るのが気まずいなとドアの前立ち止まっていたら後ろから白く細長い手がニョロっと出てきた。
 心臓が止まったかと思って、全身の血管、筋肉が身震いした。
 後ろから手を出したのは男女問わず人気がある、…美乃鳥輝麗だ。
「ごめんね。びっくりさせちゃった?」
「…あっ気にしないでください」
 彼女は安心したかのように、笑顔を作り教室の中へと吸い込まれていった。
 俺は彼女のことが苦手と言うか嫌いだ。
 虹色の光り輝く世界にいる彼女が大嫌いだ。 俺みたいなモノクロの世界の住人とは違う。 まず、彼女の見た目そのものが俺には眩しすぎた。目で直視することができない。
 触らなくても分かるぐらいにさらさらそうなロングを少しだけ染め茶色にした髪。止められていない首元のボタン。他の女子より短く折られているスカート。何よりもぱっちりとした大きな目が印象的だった。少し色素が薄いが、綺麗な茶色で太陽に当たると透けて見える。その目からは虹色の世界が見えているのだろう。
 それと彼女の性格だ。些細なことで笑顔を作り、どんな人にも優しく接する。どんな状況に陥っても、正しい判断で成功の道を作り出す。
 そんな正反対な性格が俺は大嫌いだ。彼女に俺の心が、思いがわかるはずがない。
 そんなことを考え、ボーッとドアの前に立ち止まっていたら
「ねぇ邪魔、入るなら早く入って?」
 と彼女の友達であろう女子に睨まれた。
 悔しいけど、そうだ。俺は邪魔者だ。どこにいても何をしていてもとにかく邪魔なのだ。 嫌でもいつかは教室に入らないといけないのでゆっくりと教室に入る。
 まだ入りきれてないのに後ろからズカズカと入り込んでくる。仕舞いには押されて転けそうになる。
 俺なんかいなくてもいんだから居なくなりたい、死にたい。邪魔者は居ても邪魔なんだから、死んでもいいじゃないか。 
 こんな生きづらい世界にいても楽しいことなんて一つもない。
 そんな悪いことばかり考える。過呼吸になり、心臓が大きく打つのが分かる。どんどん鼓動が音のボリュームがマックスに近づき、周りの騒音よりも自分の心臓の音の方がうるさい。
 このままじゃ駄目だ。入り口付近にいることもあり注目を浴びてしまう。落ち着け、人の目にかかるような行動を起こすな。
 手を胸ら辺にやって優しく撫で下す。
 二、三回深呼吸してから心が落ち着いできた。
 席について本を読もう。本を読んでる時が一番落ち着く。心もリラックスしてくれる。
 触り心地の良い紙質、真っ白な紙の上に印刷された、真っ黒な文字が俺の心を癒してくれる。俺に寄り添ってくれるのは本だけ。
 遅刻間際に教師が入ってきて、落ち着きのない生徒たちに着席の合図をする。あんなに騒がしかった教室は一瞬でシーンとし生徒達は自分の席に戻る。
 一番端っこの席に俺は一人、自分だけ別の世界にいるみたいだ。
 地獄はこれからだ。まだ始まったばかりで楽にさせてはくれない。
 
 ホームルームが終わると同時に一日の終わりを知らせるチャイムが鳴り、生徒が一斉に帰宅する。巻き添いを喰らわないように人混みから少し間を取って、自分も帰宅。
 今日は課題が多くバッグがすごく重くて、肩が外れそうだ。群れから外れた子ゾウのようにゆっくりとした足取りで、靴箱に向かう。 茶色く錆びた門を開け学校を後にする。
 見上げた空は青い。どこまでも広い。
 …俺の心はどうだ。真っ暗で、窮屈。この心が明るく広くなる日が来るのだろうか。
 そんな日が来るわけない。
 ちょうど信号が青だったので間に合うと思って渡ろうとしたら、点滅し始めた。真っ赤な赤いライトが今渡ったら命はない、渡るんじゃないと警告している。
 本当に今日はいいことが一つもないな。
 一日の中でも一番大きなため息をつき、信号が青になるのを待つ。人通りが大きのにここの信号は変わるのに時間がかかる。
 額に、首筋に、雫が垂れていく。。
 ポケットからハンカチを取り出し、軽く拭き取る。
 その時、後ろから鈴がシャランと鳴る音がした。
 振り向いて見ると誰も立っていなかった。
「えっ、今鈴の音が鳴ったよな。気のせいじゃない。ここ耳でしっかり聞きたぞ」 
 急に背筋がゾッとした。
 恐怖、パニックになって思わず他の人がいないかと周囲を見渡すと、左後ろのほうに人が立っていた。
 勝手な偏見をするのは良くないけど鈴をつけるぐらいだから、お年寄りかなと思って目を細めて見たら全然違った。
 それは今一番会いたくなかった人。美乃鳥輝麗だ。
 こちらに気づいて、何か言おうとしたのか口を開けたが、青に変わったので走って渡った。
 ほんと最低だよな。クラスメイトだぞ。話しかけようとして無視されたらどんな気持ちか。話したことなくても無視するのは、他人からしたら腹が立つだろう。
 最後、少しだけ振り向くと彼女は手振ってくれていた。シャランと鈴の音がした。音の正体は猫のミニマスコットの首についているピンク色の鈴だった。
 それも無視して俺は角を曲がり走り去った。
 五分ぐらい歩いたところで家が見えてきた。 ようやくゆっくりできるそう思った俺の考えを覆すようなものを目の当たりにする。
 いつもは絶対無いはずの、両親の車が止まっていた。
 一瞬、頭の中の歯車が動きを止めた。
 何故だ、いつもは九時過ぎても帰ってこないくせに、こう行く時だけ早く帰ってくるんだよ。
 あぁもうイライラする。入りたく無い。気まず気まずくなるだけだ。
 でも課題を早く終わらせないといけない。 入らないことにはどうしょうもない。恐る恐るドアの鍵を開け、中に入る。
 慎重に心掛けていたのに下にあった箱が見えず思いっきりぶつかってしまった。
 ぶつかった箱はバコンっと大きな音を立て数メートル先に飛んで行った。
 少しして、母がこちらを覗いてきた。
「おかえり。今帰ったの?」
「あっ、うん」
「そう。ならいいわ」
 愛想なく返事をされ俺の心のどこかモヤっと雲がかかった。それよりも、何でこんなに早く帰ってきたのかが気になる。本当は話したく無いけど、このモヤモヤを少しでも晴らすため、聞くことにしよう。
 そして部屋に行って課題に取り組もう。
「…今日は母さんも父さんも早いね、どうしたの?」
「お父さんとお母さん、今週から二、三週間仕事で家に帰ってこないから。あなたの夜ご飯ストックをしとこうと思って」
「ふーん」
 この時、実は興奮していた。興奮がバレないように、弁当箱を静かにシンクに置く。  リビングを出て俺は感情を表に出した。
 今家に何週間か家に帰ってこないて言ったのか?今日一番最高すぎる。息がしやすくなった気がする。
 自分の部屋に行き着いた時には課題どころじゃなくなっていた。
 思いっきりガッツポーズをして、狂ったごと喜びの舞を踊る。
 流石に頭がおかしいと悟ったので数分経ってから、一旦興奮と歓喜を鎮め、課題に取り組んだ。
 いつもより頭が冴えているような気がした。
 
 第二章 初恋のきっかけ
 
 両親の出張が終わりまた元の生活に戻る。
 モヤモヤを晴らした以来、二人とは会話一つしてない。
 あっという間に七月に突入し、本格的な夏がやってきた。 
 まだ緑色の稲穂がサラサラ揺らぎ、蝉が鳴く。太陽が地面をジリジリと照り付ける。最近、雨の降る日が多くなった。気温は下がるので快適に過ごせるがじめっとしていて気持ち悪い。
 朝から雷雨の音がうるさくて目が覚めた。 眠りが浅いのか目の前がぼやぼやしている。目を擦り目覚まし時計に目を移すと針は五時半も回っていなかった。
 二度寝しようとも思ったが、雷がドコンドコンうるさくて眠れそうにない。仕方ないので起きることにした。
 いつもより早く学校に行こう。
 洗面所で寝ぼけきった顔洗い、リビングに行く。
 カチャッとドアノブを捻り、開けると机に置き手紙が置いてあるのが見えた。
 拾い上げると、そこには雑な文字で
「お弁当が作れなかったので自分で作ってください。ごめんなさい。   母より」
 と書かれていた。
 俺より仕事のほうが大事なんだな。ふっと苦笑いし、キッチンに立つ。
 夜になっても両親が帰ってこないことが多い。だからご飯は自分で作るので、弁当を作るなんて朝飯前だ。
 炊飯器を開けると勢いよく白煙が上がって、俺の視界を奪った。いい匂いだ。
 ご飯は炊いて仕事に行くくせに、弁当は作らないんだな。自分で作ろうと思ったら作れるから別にいいけど。
 炊き立てのご飯を少々弁当に詰め、扇風機で冷ます。熱すぎると悪いらしい。冷蔵庫からタコさんウインナーと卵を一つ、冷凍庫からポテトコロッケ、野菜室からミニトマトとブロッコリーのかけらを手に取り調理開始。
 卵をカウンターに叩きつけ、ボウルに入れる。塩と砂糖、水をいれよく混ぜる。卵焼きは甘めのほうが俺は好きかな。
 IHの電源を入れ油を敷いてから卵を投入。 その間に隣のフライパンでウインナーを焼き、電子レンジにコロッケを入れる。
 そうだ、ブロッコリーも一緒に入れて蒸し焼きみたいにしよう。そうしたほうが手間が省ける。俺は今三刀流ぐらいだ。
 間抜けだが今日は手際が良かったので五、六分で作り終えた。
 ふぅーと一息つき、椅子に腰を下ろす。朝からいい仕事をした。
 時計に目を映すとまだ六時前、余裕は結構あるが、早めに準備しておきたい。
 バックを持ってきて、日課表を確認する。 パジャマを洗濯機に放り込み、制服に着替える。コロコロで制服についた埃をしっかり取って、準備完了。あとは朝食を摂るだけ。
 今日は楽しみにとっておいた青さの味噌汁。早食いは良くない。しっかり噛んで、二十五分で完食。少しテレビで天気予報を見るか。
「今日の各地の天気をお伝えします。お帰りの際にゲリラ豪雨が発生する可能性があります。傘を持っておくと良いでしょう…」
 ふーん。今も雷がゴロゴロ鳴ってるし、雨が降るのも分からなくはない。
 保冷バックに保冷剤と弁当を入れて、よし完璧。
 七時ぴったり。待ってても暇なだけ。少し早いけどもう行くか。ビニール傘を手に持ち重たいドアを押す。
 今日はいつになく卵焼きがうまくいったからか、気分が良い。
 少しテンションが高いまま暗い家を後にした。
 
 四時間目が終わり昼食の時間がやってきた。
 いつもは母が弁当を作っているが、今日は自分で作った。だからこの時間がいつになく待ち遠しかった。
 保冷バックから弁当を取り出して机に置く。
 その時、俺はあることに気がついた。
 いつもは弁当箱の上にあるはずの箸がない。保冷剤の下やロッカー、隣の教室に置いてあるバッグの中。どこを探しても俺の箸は見つからない。
 高校は弁当持参だから箸が絶対必須だ。
 いつもは母が欠かさずに準備してくれているが、自分で用意してしまったこと、それと時間が結構あったからこそのんびりしすぎたこと、この二つが原因だろう。
 やばい、どうしよう。
 緊張と困惑が俺を襲う。
 俺には箸を貸してと言えるような友達がいないし、ましては向こうから声をかけてくれるような友達もいない。
 そうなるとここから結構離れている職員室に借りに行くしかない。
 弁当を食べれる時間は残り二十分。
 今から取りに行くと最低でも往復五分はかかる。マイペースな俺が十五分で弁当を食べるのはかなり厳しい、と言うか無理だ。
 せっかく自分で作った弁当を食べられるから楽しみにしていたのに。
 優柔不断な俺は席を立って歩いては戻り、を繰り返していた。他人から見たらただの変人だ。
 もう弁当を食べるのは諦めよう。猛ショックだけど仕方ない。
 そう思って弁当箱をしまいかけた。その時
「ねぇねぇ、割り箸貸そーか?」
 嘘みたいな言葉が聞こえた。箸を貸してくれるだって?そもそも今、俺に声をかけたしのか?声質、トーン、柔らかさからして異性だ。幻かもしれない。一瞬そう思った。でも一応、確認してみよう。
 スローモーション動画の世界に入り込んだように後ろに振り向く。声の正体。それは意外な人物だった。
「…美乃鳥輝麗」
 多分聞こえてないだろう、ゴキブリみたいなカッスカスな声で名札を読んだ。
 これこそ蛇に睨まれたカエルのように固まっていると、彼女が口を開いた。
「恒星くん。忘れちゃったんでしょ、お箸?私、予備で割り箸持ってるからあげるね」
「…うん。て言うかなんで知ってるの?」
「だって、お弁当食べずにずっとウロウロしてたから…なんとなく。迷惑だった…?」
「いや、全然、そんな、こ、とはない」
「よかった。困った時はお互い様、ね?」
 よかった?人に割り箸を貸すことが?彼女が持っている割り箸を見てそう思った。
 しかしここで、問題が発生。俺の心におかしな変化が起こったのだ。
 彼女にお箸を渡されて、手と手が触れ合ってしまった時、心臓がトクンと音がした。その音と同時に心臓が大暴れし、彼女の顔が見れなくなった。
 彼女は「また困ったことがあったら遠慮なく言ってね」と言って席に戻ろうとした。
 はっと我に帰り、首を横にブンブン振った。 お礼を言わないなんて、いくら幽霊生徒でも情けない。昨日無視したのに声をかけてくれたのは彼女の優しさだ。それを分かってないことになる。
「あっあの!美乃鳥輝麗さん!」
 彼女が長い髪と一緒に顔を百八十度回転させてこちらを見つめる。
「お箸、あ、ありがとうごじゃいます」
 今、俺は今世紀最大の失敗を犯した。さっきのやつを思い出して、緊張してしまったせいか、めっちゃ噛んだし、声がやばいぐらい裏返ってしまった。これは恥ずかしすぎる。 幸い、他の生徒は喋りながら弁当を食べるのに夢中で気がついていなかったが、もし誰か一人にでも聞かれていたら、俺は今頃この教室を飛び出していただろう。
 だんだんと自分の全身が熱くなっているのがわかる。頭から湯気が立っているんじゃないか、全身の脈から蒸気が湧いているんじゃないか、そのぐらい熱い。どうしよう、恥ずかしい。
 彼女はぽかーんと口を開けてたまま。
 俺は少しながら彼女のことを睨みつけた。 どうせ笑うんだろ、馬鹿にして俺の恥をクラス中に広めるんだろ。
 そんな覚悟して彼女の言葉を待つ。
 けど、彼女の反応は俺が思ってたのと正反対だった。
「ちょっと待って。そんなに礼儀正しくしないでよ。なんか、こー、くすぐったいって言うか、同い年なのに敬語使われるとか恥ずかしいじゃん。だ・か・ら・もっと気軽に、タメでいこうよ。ね?」
 彼女はくすりと穏やかな笑みを浮かばせて俺のことを見つめる。俺の噛み間違いには一切触れていない。
 びっくりしたや安心したと言う感情より、なんて優しんだろう、そんな思いが先走った。
 俺は今まで虹色の世界に住む彼女のことが大嫌いだった。
 でも今は違う、気がする。
 なぜか分からないけど、大嫌いな彼女のことをもっと知りたいと思ってる。
 目の前には大嫌いな君だけど大嫌いではない。
 頭の中ではそんなことを考えながら、気づいたら今度は自分がポカーンと口を開けていた。
「約束。ほら小指出して?指切りげんまん」
 俺の考える機能、思考力は一瞬止まった。
 無意識に小指だけゆっくりと彼女の方に差し出した。
 彼女の小指を絡まらせる。
 人より小さい手だけど、すごく温もりがあって優しい。少しでも触れていると心の底から安心できる。
 今、俺の思考機能は必死に働いている。手汗はかいていないだろうか、緊張して手が震えていないだろうか、そんなしょうもない心配ばかりしていた。
 気づくと「指きった」と終わった。
「放課後少し時間ある?なんか恒星君のこともっと知りたくなっちゃった」
 俺のことを知ってどうするんだ。何の意味があるのか。断ろうと思ったのに首をゆっくり縦に動いた。
 間違いてしまったと言うと思った時には遅い。
「ありがとう」と言って彼女は人混みに消えて行った。
 ほんの一瞬だけど、ものすごく嬉しかった。
 心臓が高鳴り、全身の血が沸騰している。
 もしかして、そう思ったけど多分違う。箸を貸してもらえただけでそんな馬鹿なことが起るはずがない。俺の勘違いだ。
 もらった箸を開け、頑張って弁当を完食した。急いで食べたので味を堪能できなかった。それも彼女のせいだ。そうだ、図書室に行って新しい本を借りよう。心も正気を取り戻すはずだ。 
 席を立ち上がり、教室を出ようとした時、彼女がこちらを見て微笑んでいたように見えたがそれも俺の気のせいだろうか。
 
 彼女の手が触れてしまった時から頭がボーとしている。
 授業も集中できないし、気づいたら彼女の席の方向を見ていた。そのまま五十分間集中できずに、授業の終了を知らせるチャイムが鳴った。
 自分の取ったノートを見返す。いつもは自分なりに綺麗な文字で、担任が黒板に書いたことはしっかり写す。なのに、字は震えてるし、右上りになったり右下がりになったり、大きさもバラバラだ。絶対さっきのやつのせいだ。彼女が悪い、俺は悪くない。嫌い、俺は彼女のことが嫌いだ。仲良くなる要素なんてこれっぽっちもない。
 パタンとノートを閉じ、引き出しにしまう。 隣の教室からバックを持ってきて帰る準備をする。
 今日は職員会議とやらがあり、短縮なので帰るのが早い。
 みんなが帰る準備をしている時にはとっくに終わっているので、本を読んで待っていると、誰かから肩ら辺に紙切れを投げられた。 反射的に投げた人の方向を向くと、犯人は美乃鳥輝麗。
 ごめんのポーズをして何かを指さしている。
 俺が紙切れを指差すと、コクコクと頷いた。
 小さな紙切れには
「短縮なの忘れてた…職員会議で放課後も残れないらしいからカフェ行こ。 輝麗」
 とても繊細な文字で書かれていた。
 さっきのアクシデントがあるのに、俺、大丈夫か。すごく心配なんだが。
 …でもせっかく誘ってくれたのに断るのは、彼女が可哀想だ。
 いいよと返事を書いて、彼女に紙切れを引き返す。返事を見た彼女はスキップして、見た感じは嬉しそう。
 その姿を見て微笑ましくなっている自分がいた。
 ホームルームが終わった後、彼女は先に靴箱で待ってくれていた。
「美乃鳥輝麗さん。ごめん、遅れて」
「気にしないでいいよ。恒星君、あんまり人混みとか好きじゃないもんね」
「美乃鳥輝麗さんはなんでも知ってるね」
「そんなことないと思うよ。て言うかフルネームとさん付け禁止」 
「…なんか恥ずかしくて」
「次言ったら、カフェでケーキ奢ってね」と言ってオーロラ色の傘を開き歩き出した。その後に遅れて俺はついていく。
 まだ雨はしとしと降っている。だけど目の前には二本の虹。
「わー!綺麗だね!」
「…そーだな」
 くるりとこちらを振り向き、はしゃぐ彼女。
 そんなことより、七色の虹に彼女とオーロラ色の傘が俺の心を惹きつけた。
 普段の彼女は言ったら申し訳ないけどザッギャルって感じだけど今は違う。物に興味津々の幼子に近い。
 初めて見る姿に見惚れていると「恒星君?大丈夫?」と彼女が心配そうに見つめていた。目と目が合い恥ずかしくてそっぽをむいてしまった。
「大丈夫だから、雨が強くなってきたし早く行こ。ほら、案内して」
「そっか、なら良かった」と言って彼再び前を向き案内を始めた。
 案内途中はほとんど話してない。俺から話しかけるのはまだハードルが高い。彼女が話しかけてくれたら話すようにする。
 歩き始めて十五分。着いたのは人通りが少なく物静かなカフェ。
 名前は…なんたらカフェと書いているようだ。なんて書いてあるのかわからない。多分フランス語かイタリア語だ。首を傾げていると俺に気づいた彼女が教えてくれた。
「ここねカルムカフェって言う喫茶店みたいな感じのところ。カルムって言うのはフランス語で静かな、穏やかなって意味」  
 なるほど。お店の雰囲気的にぴったりな名前だ。
「恒星君、ファミレスとか人混みは嫌かなぁって思って。私もよくここ来るけど静かで落ち着くからおすすめ」
「勘違いだったら恥ずかしんだけどさ、俺のこと気にしてくれたの?」
「だってせっかくなら二人とも楽しいのがいいでしょ?私だけ楽しくても意味ないもん」「それは確かにそうだけど…気遣ってくれてありがとう」 
「どういたしまして」
 彼女はすごいと思う。自分のことだけじゃなくて、他の人のことも考えられる力がある。前は俺と正反対の性格が大嫌いだったけど、今は素直に感心する。
「中入ろっか」と声をかけられ俺たちは中へ入店した。
 お店の中はとても静かだ。心が癒される音楽、緑が鮮やかな観葉植物。木製の建物だから、なおさらゆったりした雰囲気だ。
 店主らしき男性がカウンターに立っている。
「森田さんこんにちは。いつものお願いします」
「かしこまりました。いつもありがとうございます」
 彼女は森田さんと言う人と家族感覚で話していることに俺は驚いた。お店の人にも人見知りしないのか。目を真ん丸にしていると彼女が俺の耳に口を寄せた。
「森田さんは私が五歳ぐらいの頃からいる店長さんなの。週三はここに来るからいつの間にか仲良くなっちゃった」
 なんだ、そう言うことか。
「色んな人に話しかけれるのかと思った」
「さすがにそれは無理だよー!意外と恥ずかしがり屋なんだぞ!」
「全然そんな風には見えないけど」
「ところで、輝麗さん。隣の方は?初めて見る方ですね」
「彼は山隅恒星君。私の友達」
「初めまして。山隅恒星と言います。素敵な雰囲気のお店ですね」
「それはどうも、ありがとうございます。恒星さんは何を頼まれますか?」
 森田さんからメニュー表を受け取る。和紙に書かれた文字は達筆で目を引くほど上手い。
 種類は十種類。デザート類にドリンク、ナポリタンやサンドイッチなどの食べ物も。どれも美味しそうだ。
 何にしようか迷っていると、横から細長い指が一つの写真を指差した。
「日替わりケーキセットおすすめだよ。ジュースも付いてるし、私もこれにした」
「じゃあケーキセット一つ、お願いします」
「かしこまりました」と言って森田さんはキッチンのほうへと消えていった。
 俺たちは端っこにある窓側の席に座ることにした。
 ケーキが来るまで俺達は会話をして待つ。
「恒星君、めっちゃ礼儀正しかったね。私にお箸借りた時は、噛みまくってのに」
「いや、あれはちょっと緊張して。異性だったからなおさら」
「もしかして、女子と話したことないの?」
「話したことはあるけど、ざっくり言うとそんな感じ」
「やっぱり雰囲気からしてそうか」と彼女は頷き、どこか納得しているようにも見えた。
「なんで納得してるんだよ」
「ごめんごめん、ていうか恒星君って人付き合いがあんまり好きじゃないんでしょ?何か嫌なことでもあったの?」
 急に話を切り替えた上に、あまり触れられたくないところ突かれた。
「それは、えっと、その…」
「お待たせいたしました。ケーキセットでございます。今日はこの時期に手に入りにくいいちごを使ったショートケーキになります」
 俺があたふたしている間にケーキが来てしまった。彼女はパチパチして喜んでる。
 話も忘れてるみたいだし、このまま放っておこう。
「「ありがとうございます」」
 礼を言うと森田さんは、ごゆっくりと言ってまたキッチンのほうへと戻っていった。
 ショートケーキ、見るからにふわふわそうなスポンジに、生クリームをたっぷり乗せて、イチゴもトッピング。一番上には大きなあまおう。あまおうがルビーのように輝いて美味しいそうだ。
 ケーキをじっくり見ていると、目の前からぱしゃっとシャッターを切る音がした。
 彼女がケーキを撮ったのかな。そう思って振り向いて見ると、カメラはケーキ…ではなく、俺に向けられていた。
「ケーキ撮れよ。なんで俺撮るんだよ」
「だって初めてケーキ見る子供みたいでおかしかったんだもん」
「だからって撮らなくてもいいだろ。今すぐ消しなさい」
「えー、せっかくのベストショットなのに」
 保存された写真を見てみると俺の目が半目、と言うか白眼になっている。
 彼女はおかしそうにお腹を抱えて笑っている。今のうちに消しておこう。
 ゴミ箱のマーク、確定ボタンを押して完全削除されてからスマホを返した。
「また撮りたいなぁ、ベストショット」
「次撮ったら本当に怒るからな」
「それは嫌!」
「んじゃ先にいただきます」
「あー抜け駆けした!一緒に食べようと思ったのにぃ!」
「早く食べなよ。食べたことあるだろうけど美味しいよ」
 そう言われて彼女はようやく一口目を頬ぼった。
「美味しい!」
 彼女が言う通り、このケーキは美味しい。口に入れた瞬間分かった。ふわんふわんなスポンジが口の中でシュワシュワ音を立てて消えていく。口の中で生クリームがとろけている。中にイチゴジャムが塗られていて甘く、優しい味のケーキと相性抜群だ。
 俺の前で、彼女も同じように美味しそうに食べている。落ちるはずのない頬を支え、次々に口の中にケーキを放り込む。
「かわいいな」
 気づいたらそう言っていた。
 彼女はえっと言って、大きな目を真ん丸にしてこちらを見つめている。
 数秒間の沈黙が走る。何か言わなければと思い、口を開いた。
「いやなんか、今の忘れて」
「そう言うってことは、恒星君私のことバカにしたの?」
「違うって。そう言うわけじゃないって」
 本当はそう言うわけだ。でもバレないように焦りを隠すために嘘をついた。
 何かおかしくて、今度は二人でお腹を抱えて笑った。
 
「「ごちそうさまでした」」
 二人同時に食べ終わった。
 俺が席を立とうとすると、彼女は寂しそうな悲しみ顔をする。
「もう帰るの…?まだ何にも恒星君のこと知れてないよ?」
 心臓がキュンと音を鳴らした…気がする。
「じゃあまだ帰らないよ」
 顔がパァッと明るくなり嬉しそうに、ありがとうと言った。
「…頭がどうにかなりそうだ」
 そう呟いて再び席に腰を下ろした。
「まだお互いのこと全然知らないから教え合おうよ。まず誕生日は?」
「俺七月七日。そっちは?」
「ストップ。私にもちゃんと名前あるんだけど?もう一回」
「…ららは?」
「えー聞こえないな。もっと大きな声で!」
「…きらら…輝麗は?誕生日いつ?」
 恥ずかしい。異性の名前を呼ぶってこんなに緊張するのか。しかも高校に入学して始めてクラスメイトの名前を口にしたと思う。ただ名前を言っただけなのに心臓が色んな場所に移動している。
「よく言えました。私も一緒です」
「は?マジで?」
 びっくりしたせいでめっちゃ食い気味になってしまった。
「そんなにびっくりしなくてもいいじゃん。明日だね誕生日。少し早めの誕生日ケーキも食べれたし。お誕生日おめでとう!」
 本当に言ってるのか。さっきよりも心臓の鼓動が早くなる。脈打つ数が増す。落ち着け。落ち着くんだ。たかが誕生日が同じなだけだ。そんぐらいで興奮するなんて、アイドルを激推しするオタクだぞ。
 俺は祝ってもらった。次は俺が言わないと。
「輝麗もお誕生日おめでとう」
「えっ」
 彼女の頬が赤らむ。理由はわからない。けど手を口に当て、固まっている。
「そんなにびっくりする?ただおめでとうって言っただけじゃん」
「嬉しいの!恒星君からお祝いされたのが」
「なら良かった、心配したよ。引かれたのかと思った」
「引くわけないじゃん!だって…」
 輝麗はまだ何か言おうとしたけど、口を塞いだ。だっての先が気になる。でも聞くのはやめとこう。聞かれたくないことかもしれない。
「じゃあ次!好きな色は?私ピンク」
「俺は、青とか水色、寒色系かな」
「ぽいぽい!じゃあ好きな食べ物と苦手な食べ物は?」
「肉じゃがが好きで、食べれるけどピーマンの苦味ちょっと苦手。輝麗の当ててみていい?」
「当てれるもんなら当ててごらん」
「肉が好きで野菜が嫌い」
「大雑把だな〜。私野菜好きです〜!」
「意外。野菜大っ嫌いそうな顔してる」
「失礼ねー。どんな顔よ。正解はハンバーグが好きでスイカが嫌いでした!」
「ほらやっぱり肉系の選ぶと思った」
 君は勘が鋭いね〜と言って俺のことをツンツンした。反射的に少し避けてしまった。
 輝麗はそんなこと気にせず、話をどんどん進めていく。
 好きな動物に好きな季節、学校の落ち着く場所や、趣味、家族構成などを聞かれた。
 彼女は一人っ子で父母と祖父母の五人で暮らしているとのこと。父母共に医療関係の仕事を、祖父はバス運転手、祖母は専業主婦。
「普通の家族よ。特別お金持ちって言うわけじゃないし、だからって言って貧乏なわけでもない。平凡だけど幸せに暮らしてるよ。恒星君は?」
「父さんが警察官、母さんが弁護士、上に兄が一人いて今は大学に通ってる」
「わぁーすごい!スーパーファミリーだ!」
 感心してくれたのは嬉しいけど、僕にとっては最悪だ。次のことはもっと聞かれたくなかった。
「さっきの聞き忘れてたからもう一回聞くけどさ、恒星君はどうして人付き合いがあんまり好きじゃないの?嫌なこととかあったなら私でよくれば、教えてくれない?」
 また、痛いところを突かれた。本当は話したくない。自分の闇を、最低な性格を知ってほしくなかった。それで彼女にどう思われるか怖かったから。
 でも彼女になら話してもいいと思った。
 輝麗の優しい性格なら決して馬鹿にしない、俺の気持ちを分かってくれるはずだ。
「長くなるけどいい?」
「どんだけ長くても、聞くって言ったら最後まで聞くから」
 彼女のことを信じて、俺の苦い思い出を打ち明けることにした。
 
 それは時を戻すこと八年前。七歳の時だ。
 幼かった俺は何事にも臆せず、人見知りをするなんて言葉は似合わなかった。
 積極的で、初めて会う人にも声をかけることができ、おかげで指の中では収まらないぐらい友達ができた。こんな俺の性格に家族も小一の時の先生もたいそう感心してくれた。
 友達といる時間が好きで、休み時間は外で一緒に遊んだり、週に一回は公園で戯れたりする。時には他所様の家にお邪魔させてもらう。そのくらい仲が良い友人もいた。
 父と母は警察官と弁護士という大変な仕事で朝から夜まで忙しかった。でもできるだけ俺が寂しくならないように、一人にならないようにと必死に考え一緒いる時間が長くなるようにしてくれた。
 俺のために考えてくれたのが嬉しくて二人に毎日思いっきり抱きついていたのを今でも鮮明に覚えてる。
 大事な仕事なのに休みをとって、動物園や水族館、遊園地など楽しいところにも連れて行ってくれた。
 兄のことももちろん好きだった。学校で見つけた時手を振ってくれる。帰ってきたら鬱陶しいぐらいに可愛がってくれる。
 とにかく頭が物凄く良くて、毎日一緒に勉強した。おかげで俺も勉強が好きになれた。分からないところがあったら分かるまで教えてくれる、優しさもある。
 そんな自慢の父と母、兄が大好きだった。
 しかしその間にヒビが入る。
 問題が発生したのは俺の八歳の誕生日。
 誕生日の前日、興奮してバレないように夜更かししたからか朝から体調が優れなかった。それでも誕生日をクラスのみんなに祝ってほしくて学校に行った。
 教室に入った瞬間、みんなから「おめでとうと」言われたことが嬉しかった。気分も高揚し、体調が悪いなんて忘れてたぐらいだ。
 そんな俺に発生した問題は二つ。一つ目は給食の時。
 体調が一番悪い時に調子に乗って牛乳を一気飲みしてしまった。今思えばとんでもない馬鹿げたことをしたなと思う。
 そしたら急に胃の中がグルグルと音を立て、気持ち悪くなり、生暖かいものが気管を猛スピードで込み上げてきた。
 これはやばいと思って急いでトイレに向かおうとした矢先、我慢できずに大勢の前で嘔吐してしまったのだ。
 幼い子供は人のしたアクシデントに敏感だ。 嘔吐した瞬間、クラスの楽しいおしゃべりが甲高い悲鳴へと変わった。物々しい雰囲気に包まれた教室。ガタガタと動き回り落ち着きのない様子。
 俺が拭くものを探そうと立ち上がったらみんな口を揃えて同じことを言う。
 汚い、臭い、気持ち悪い、バイキン、近づくな、こんな友達嫌だ、もう友達やめる。そんな言葉を投げられた。
 中でもクラスのガキ大将が放った言葉が俺の怒りに、感情の火に油を注いだ。
「うわ臭!マジで汚ったねー。みんな!こいつに近づくと病気になるぞ」
 他人に向かって指を指す仕草。鼻をつまみうぇーとする動作。
 見た瞬間、カチンときた。内臓がぐつぐつと煮えたるような怒りが俺を襲った。
 駆けつけた保健室の先生が吐物を処理しててくれているのにも関わらず、俺は感情を抑えきれず、立ち上がり、ガキ大将のことを思っいっきり押した。
 そいつはバランスを崩して、机に頭をぶつけ、地面に倒れた。
 気絶などはしていなかったものの、衝撃が激しかったのか「痛い痛い、暴力振られた」と繰り返し泣き喚いていた。
 人前でギャン泣きとか恥ずかし、お前本当に男か?そんだけ身がついてたら衝撃なんかないだろ。赤ちゃんみてぇだな。
 心の中に現れた悪魔はケラケラと笑い、ガキ大将を馬鹿にする。
 俺は悪くない。友達なら嘔吐したことを心配してくれると思って必死に助けを求めた。
 最低、性格悪、こっちにくんな、汚い、臭い、早くどっか行って、この教室から出て行け。
 俺のことを慰めて、嘔吐したのを心配してくれるどころか、侮辱してくる。確かに手を出したのは悪い。でも先に酷いことをしたのはそっちだ。
 すごく、すごく傷ついた。大好きだった友達が、俺のそばにいてくれた友達が、今は凍りつくぐらい冷たい目でこちらを睨んでいる。
 俺が悪者みたいになっているではないか。 俺はただ気分が悪くて嘔吐しただけだ。確かにこんなことが起こるとは誰も思ってないだろうけど、そこまで言わなくてもいいじゃないか。 
 先に酷いことをしてきたのはそっちだろ。 何でお前が泣いてるんだよ、泣きたいのはこっちだ。
 それでも俺は意地を張って泣かなかった。 今まで学校で泣いたことはなかったので弱いところを見せたくなかった。
 そして給食終わりに呼び出され、ガキ大将は保健室に行き手当てを、俺はなぜか職員室に連れて行かれた。
 怒られることは分かっていた。子供の争いでも手を出したほうが完全に悪くなる。
 担任が眉を寄せ厳しい顔で「なぜ暴力を振ったのか」と質問してきた。その顔は完全に怒っていた。
 怖いとは感じなかった。それに対して冷静に「腹が立ったから、馬鹿にされて嫌だったから」と答えた。
 普通は子供の意見を尊重しながら説教をするだろう。しかし俺の担任は学校の中でも厳しい人と言うことで有名だった。
 俺の意見を聞き共感などしてくれなかった。
 ましては大勢の先生がいる中で怒鳴られた。
「そんな単純なことで暴力を振るな。どんなに嫌なことを言われても、腹が立っても、手を出したらお前の負けだ」と言われた。
 この瞬間ぷつんと糸が切れた音がした。
 なぜ俺が悪いのか、なぜ俺が怒られないといけないのか意味がわからなかった。ガキ大将は怒られてないのになんで俺だけ怒られないといけないのか。
 担任は呆れた顔で三十分ぐらいダラダラとなかったらしい説教をし、ガキ大将の親に謝罪、仕舞いには俺の親に連絡するとのこと。
 はぁとため息が出そうなのを、教師とガキ大将への怒りを抑えて教室に戻った。
 帰って来た時、ヒソヒソと話してる声が多方面から聞こえる。
 帰りの会が終わった後、俺とガキ大将だけ教室に残された。
 お互いに謝罪をしろと言われたが、自分はする気なんてない。
 ガキ大将の謝罪の中に気持ちはこもっていなさそうだった。なんなら嘘泣きをし演技を始めた。お前が演技してんの分かってんだっつうの。
 見てるだけで腹が立つ。吐き気がする。「何で酷いことを言ったんだ?言ったら相手が嫌な気持ちになるのは分かるだろ?」
 背の高さをガキ大将に合わせ、俺に説教した時とは違う声で聞く。
 さっきまで耳が痛くなるぐらいキンキン声だったのに、赤ちゃんに問いかけるような気持ち悪い声だ。
「だって本当のことだもん」
「確かに本当のことだ。でも謝りなさい」
 お前、今本当のことって言ったよな。教師がそんなこと言っていいのか。校長は言ったら一発だぞ。
 でもそれどころじゃない。はらわたが煮えたるような怒りを覚えてしまった。こんな芝居みたいな話を聞くのはもううんざりだ。
 ガキ大将はお尻を突き出すように前へ倒れ「ごめんね」と言った。こいつはちゃんと礼もできないのか。
 もう限界だった。これで友達から嫌われてもどうでも良かった。
 感情が爆発した。全ての感情を剥き出しにし、ガキ大将の胸ぐらを掴んだ。先生は困惑した様子で、ガキ大将は涙目になっていた。
「そこは普通ごめんなさいだろ。誰のせいで気分ぶち壊されたと思ってんだ。お前は謝るのもできないのか?礼もできないのか?脳みそ入ってんのか?親の顔が見てみてぇわ」
 悪いと分かってた。言ったら駄目だと、全てが終わると分かってた。でも言ってしまった。 
 思いを吐き散らすのはこんなに気分が良いのか。心も体も軽くなった気がする。
 俺はガキ大将の胸ぐらから少し突き放すように手を離し、担任を睨みつけた。
 ランドセルの紐を片方だけ掛けて、その場を走り去った。
 帰る途中、気分が最高点を出達していた。 担任が家に来るとか言ってたな。でもいいや。俺は全てを捨てたから。これからの未来、どうなってもいいや。
 まだ少し残ってるモヤモヤを消すために、道端に転がっている石ころを、あいつらの顔だと思って思いっきり蹴った。一つの小さな石は脆くなっていたのか、衝撃で真っ二つに割れて、気分がよりよくなった。
「みんな大嫌いだ」
 家の前にあった、他よりも大きめの石に向かって話しかけ、用水路のほうに蹴った。
「ただいまって誰もいないけど」
 家の中に入って真っ先に向かったのはキッチン。全てを捨てた日として一人でストレス発散パーティーしようとしたのだ。今思えばとんでもない馬鹿げた考えだと思う。
 お菓子が入ってる場所は把握してあるので、好きなものを好きなだけ食べよう。グミにチョコレート、ポテチにクッキー。あらとあらゆるものを食べ荒らした。一人で全部食べ切って、何事もなかったかのように片付ける。お菓子のゴミは新聞紙に包んで、床に落ちた食べカスは掃除機で吸い取った。
 腹が満たされたのか眠たくなって自分の部屋でぐっすり眠った。
 しかし大問題はこれだけじゃなかった。眠りに入ってしまった俺は忘れていたことがある。担任が家に来ると言ったことだ。六時半ぐらい、インターホンが鳴る音がして目が覚めた。昔の両親は今ほど仕事が忙しくなく、帰ってくるのも早かった。「はーい」と明るい声でインターホンのほうに向かう母。
 玄関から「山隅恒星君の担任をしております。坂口と申します…」と聞こえてきたことで状況を理解した。
 今家に来たのは担任だ。
「さっきまではキツイ声して、怒鳴り散らかしてたくせに、親の前ではいい人ですよアピールかよ」と、誰もいない静かな部屋で一人呟いた。
 そこから地獄が始まる。担任は両親に事情を話し始めた。
 自分の部屋にこもっていた俺を呼び出して、一緒に話をすることになったのだ。話が進むたびに父は頭を抱え、母は泣き崩れた。手を出すことのない兄は俺の頬に平手を打った。
 しかし、話を聞いていると担任の話は俺のしたこととかけ離れていた。
 体調が悪くて吐いたことは言わず、言い争いをしていたらいきなり俺が叩いて、そいつを押した。頭をぶつけ、気絶したとも言った。確かに俺はそいつを押して怪我をさせた。でも気絶まではしてなかった。それは事実だ。保健室の先生も軽い打撲だけだ。どこにも異常ないって言ってたのに。
 いくらなんでも酷すぎるので、母さんに先生は話を盛っていると伝えようとしたら、頬を叩かれた。
「黙りなさい。あんたは何も口出ししないで黙ってて。話が終わるまで、部屋に入って反省しておきなさい」
 今までにないぐらいの大きな怒鳴り声で、思わず肩が震えた。父には睨まれ俺は全身の力が入らなくなった。立ちあがろうと思っても、膝に力が入らない。
「何してるんだ。早く部屋に行け!」
 震え上がってる俺の腕を父には力強く引っ張った。あまりにも痛すぎたので聞こえないように悲鳴をあげた。ゴミ袋を投げいれるように部屋の中に入れられた。
 完全に見放された。全てがどうでも良い。
 カーテンを閉めて、真っ暗な部屋で一人泣いた。涙が溢れて、止めようと思っても止められない。
 どうして俺が悪いのか。あいつのせいで最愛の家族、親愛していた友達から嫌われた。 みんな死ねばいいのに。
 自分だけが悪者にされたことが悔しくて、悔しくて、たまらなかった。どいつもこいつも憎んで呪ってやろうと思った。
 考えると涙が止まらなくて。泣いて、泣いて、泣きまくって、気づいたらベットの上で眠っていた。
「…い!恒星!起きなさい!」
 怒鳴り声が聞こえてきて目が覚めた。
 目の前には怒り狂った父と母の姿。
「お前、人に暴力振るって怪我をさせたのによくのうのうと寝られるな」
「あんた自分が何したか分かってんの?」
「話をするから来い、誕生日パーティーは無しだ。ケーキもプレゼントもあげない。お前が悪いんだから泣くことは許さない」
 これ以上二人の機嫌と自分のメンタルを壊さないように、言われるがままにリビングに行く。
 リビングは煌びやかに飾り付けられていた。
 壁には風船やリボンが貼り付けられ、机の上にはプレゼントらしき物、豪華な夜ご飯が並べられていた。
 せっかく家族揃ってお祝いしてくれる日だったのに。一年に一回の特別な日なのに。
 そう思うと涙がでそうになった。
 涙を拭き取ろうとしたら、背中にビリビリと激しい衝撃が走った。
「泣くなと言ったはずだ。正座しろ」
 両親は椅子に座り、俺は地面に座らされた。
「何があったのか話してみろ、嘘はつくな」
 嘘はつくなと言われても、先生の話を聞いたからには、体調が悪かったことは言い訳にはならない。
「先生が言った通り。友達のこと殴った」
「この馬鹿息子が!なぜ殴った!手を出したほうが負けになること、前にも教えたはずだ!それなのになぜ殴った?」
「…わからない」
「ふざけるな!」
 また叩かれた。頰が痛い。赤く腫れているのが触らなくても分かるぐらい痛い。その後も何回も叩かれて、二時間近く説教が続いた。解決できないまま、話は終わった。
 最後に放たれた言葉が二つ目の原因だ。これのせいで俺は人付き合いが嫌いになった。
 家族だけには言われたくなかった。それを言われたら、どうしょうもならないって分かってたから。
「お前なんか俺たちの息子じゃない。こんな奴に育てた覚えはない。こんな奴は家にいらない」
 そう言って父と母、兄は歯を磨き寝室へと消えていった。
 何がどうなったのか、分からなくなった。
 そりゃそうですよね、あなたたちと違って、俺は何にもできない迷惑ばっかりかける出来損ないですよ。
 家にいらない、邪魔者なんですよ。
「出ていけるもんなら出て行きたいよ…」
 まだ小さかった俺は、大好きだった家族に見放されたことが受け入れられなくて、信じられなくて。
 涙も出てこなくなった。全ての感情を失って、家族も何もかもどうでもいいやって思った。
 亡霊のようにムクっと立ち上がって自分の部屋に戻る。最後に一度振り返って見渡した。誰もいないリビング。脂っこい美味しそうな匂いが漂うキッチン。電気がほとんど消された部屋は廃墟のように薄気味悪かった。
 その日から俺は学校でいじめを受けるようになった。靴箱に木の実や枝、虫の死体が詰められたり、椅子が廊下に出されたり。俺にわざと聞こえるように悪口を言っていた。
 誰も俺に近づこうとしない。中休みも昼休みも、授業の合間も騒がしかった俺の机の周りは静寂としていた。給食も自分のとこだけは置いてもらえない。それを担任は注意しようとしない。このクラスの住民は狂ってる。頭がおかしい。子供も大人も。
 今すぐ消えたい。これからもこんなことが続くんなら、死んでもいい。生きてても自分が苦しいだけ。意味がない。
 次の日も次の日も、いじめが止むことはなかった。日が経つにつれてエスカレートしていく。席替えのくじを引く権利なし、発表する権利なし。俺の学校は運動会に参加したら参加賞としてペンやノート、タオルなどがもらえるがそれももらえない。宿題を出してもチェックすらつけてもらえないで、返却される。一年に一回、学年ごとに決まっている行事の中でも六年の修学旅行が一番辛かった。誰一人、俺と同じ部屋に泊まりたくなかったから。最終的に班は決まった。でも班行動は一人、宿に着いても先生がいない限りは別の部屋に移動して、極力俺から離れようとする。
 あまりにも酷かったので、一時期不登校になろうかと思った。こいつらじゃない誰かに助けを求めようと思った。こども相談窓口みたいなのに勝手に相談したかった。それでも俺はしなかった。負けを認めるようで嫌だったから。自分の弱みを見せたくなかったから。
 担任からガキ大将のところに謝罪に行くように連絡が入っていたが、両親とも忙しくて中々行けずに一ヶ月が過ぎた。
 俺の誕生日、事件から一ヶ月と三週間が経った八月二十八日。両親が仕事を休んでまでガキ大将の家に行き、謝罪をすることになった。「こい」とだけ言われて、俺は時間がものすごく経っていたのでどこに行くかは分からなかったけど、二人して眉間にシワを寄せて、重重しい雰囲気から何となくは予想がついた。行かなくていいなら行きたくなかったけど、両親の機嫌が損ねないように急いで服に着替えて、散らかした部屋を片付けた。
 あんな奴のために謝りたくない、それだけを考えていた。
 これのために買ったんだろう、丁寧に梱包されたお詫びの品を高級そうな紙袋に入れて出発した。
 移動中の車の中は今までにないぐらい、喉が締めつけられて、まともに呼吸できない、そのくらい息がしにくかった。
 ガキ大将とはこの期間中顔を合わせなかったので久々に見ると、あの時と同じ怒りが込み上げてきた。「今ここでやらかしたら俺は殺されるだろう」と思って必死に押さえ込んだ。
 怒りが爆発しそうなの俺の隣で、両親は深々と頭を下げている。「馬鹿息子が申し訳ございませんでした」と繰り返す。
 ガキ大将は気分が良さそうにこちらを見ていた。母親は性格の悪そうな人、親子してそっくりだな。
 ガキ大将の母親は両親に対して「もし頭を怪我して手術することになったり、死んだりしたらどう責任取るんですか!?」と鬼の形相で訴える。しまいにはスマホをを突き出して「警察に訴えてもいんですよ?」と脅す。 これに対して母は焦っていた。
「何ぼーっとしてるんだ!謝るんだ!」
「嫌だ。悪いのはそっちだ。絶対俺は謝らない」
「ふざけるのも大概にしろ!早く謝れ!」
 それでも俺は粘って粘って謝らなかった。 何回もいろんなところを叩かれ痛かったけど。昨日の腫れていたところが完治してないのに叩かれて、また悪化したと思う。
 両親が必死に頭を下げて、お詫びの品を渡し打ち切った。
 帰り途中も帰ってからも地獄だった。
 いつもは優しい母に侮辱され、悲しかった。 いつもは絶対叩かないはずの父から何回も叩かれて痛かった
 その日から家族みんな俺に話しかけたり、近寄ってきたりしてくれなくなった。
 完全に見捨てられたな。これはもうどうしょうもない。
 自分が悪いのか、自分が謝ってたら許してもらえてたのか。それとも向こうが悪いのか。嘘をついて、自分は悪者にならないように偽る向こうが悪いのか。
 くだらないな。バカバカしい。
 もう本当にどうでも良かった。
 家族関係も人間関係も全てどうでも良い。 全部壊して捨ててしまおう。
 みんな嫌いだ。大嫌いだ。
 本当のことなんて一つも知らないくせに俺の思いも聞かないで叩いて怒鳴り散らかす両親も、信頼していて叩かれている俺を助けてくれると思った兄も、大嘘をつき俺を悪者にした教師も、怒られる原因を作って俺の人生をぶち壊したガキ大将も、友達も。
 この世界からみんないなくなればいいのに。
 人間なんて大嫌いだ。
 自分のことを守るために行動する人間が、自分は善人のフリをして生き、他人に悪を押し付け悪人にしようとする人間が、憎らしくてたまらない。
 死ねるものなら今すぐ死にたい。
 痛く苦しい死に方をしても死んだら何も感じない。俺は今すぐ楽になりたいだけだ。
 死ねないのなら次は人間ではない何かに生まれ変わってもう一度人生をやりなおしたいと神に願うだろう。
 そして俺は覚悟して一つの決意した。
 もう誰のことも信じずに、人間という存在に関わらずに生きると言うことを。
 そうして俺は誰のことも信用せずに、一人で生きるという孤独な人生を選んだのだ。
 
「…そっか、そんなことがあったんだ」
「とんでもない馬鹿だよな。今思えばあの時謝れば、よかったのかなぁって思う。そしたら今頃、仲直りできてたのかなぁ…」
「恒星君は馬鹿なんかじゃないよ。誰だって謝りたくない時はあるよ」
「絶対にもう誰とも関わらないと思ったけど、まさかこんなことになるとは思ってもなかっなぁ」
「話してくれてありがとう」
「こちらこそ長い話を聞いてくれてありがとう。気が楽になったよ」
「なら良かった。今まで一人で辛かったね、苦しかったね。でももう大丈夫だよ。何かあったら私が助けてあげるから。もう恒星君は一人じゃないよ」
 すごく温もりのある声だった。
 自分の頰に何かが流れているのに気がついた。それは一粒の涙だった。
「恒星君大丈夫?私なんか言っちゃった?」
 違うそうじゃない。俺はただ
「話を聞いてくれたことが嬉しんだ。自分は寂しくない、大丈夫だって思ってたけど、心は八年間ずっと孤独で寂しかったんだと思う。親からも見放されて、俺の周りから人が消えていったのがすごく悲しかった。自分で一人になるって決心したことだから自業自得だけど、それでも誰から一言でもいいから声をかけて欲しかった。大丈夫、どうしたのって。それが今叶った気がして。それが嬉しくて涙が出たんだ」
「そっか、そっか。こんな私だけど恒星君の心を救えてよかった。またいつか、親御さんと仲直りできたらいいね」
 涙を流しうずくまりながら、頷いた。
 そんな俺に彼女が手を差し伸べてくれた。
 あの時と同じだ。箸を貸してくれた時の優しさと。
 涙を拭いて会計に行く。明日が二人とも誕生日だから、お互いに奢り合うことにした。
 同じものを食べたから、結局自分のを払うのと同じだけど。
 森田さんにお礼を言って店を出た。
「今日は急遽私のお願いに付き合ってくれてありがとう。良かったらまたお願いしてもいいかな?」
「俺は全然いいけど」
「やった!あとスマホ持ってる?ライン交交したいんだけど…」
「あーごめん。俺スマホ持ってないんだよね。親と話してないから、買ってとかも言ってないし…」
「そっか、なら仕方ないね。じゃあまた明日学校で話そ」
「うん」
「バイバイ!」
 そう言って彼女は手を振りながら後ろ向き歩き出した。たまに転けそうになりこっちハラハラする。
 自分も手を振り彼女を見送る。その時、俺の頭のてっぺんにぽつり雫のようなものが落ちた。
 雨だ。夕立かな。
 傘立てに置いてある傘を取る。
 今は俺しかいないのに傘が一本余っている。 一本のオーロラ色の綺麗な傘が目に入った。
 この傘、どこかで見たような気がする。
 過去の記憶を辿っていくと、彼女の姿が浮かんだ。輝麗の傘だ。
 気づいた時にはバケツをひっくり返したような激しい雨に。
 急がないと彼女がびしょ濡れになってしまう。風邪なんか引いたら大変だ。
 傘を手に取り、急いで輝麗の後を追う。
 自分は傘をささずに走る。もともと運動が得意でない俺の体力はすでに限界寸前。
 数メートル先に誰かが寒そうに腕を抱えて地面に座っている。
 そんなの一人しかいない。
 輝麗だ。全身が雨に打たれて寒いのか地面にうずくまっている。ピチャピチャ誰かが走る音が聞こえたのか、こちらを振り向く。
 急いで傘を差し出し、雨の当たらない場所に移動させる。
「さっきぶりだね。傘持ってきてくれたの?ありがと…」
「寒い?体調悪い?」
「寒い…すごく気分が悪い…」
 そりゃそうだろう。雨で全身がびしょ濡れになり制服が雨水を吸い取るから寒いに決まってる。風も強い。冷やされて手足が氷のように冷たくい。ほのかなピンク色が綺麗だった唇は青白くなり微かに震え顔色がどんどん悪くなっていく。
「着替え持ってる?あとタオルとか」
「持ってない。こう言う時に限って家に忘れてきちゃった…」
 どうしよう。俺も着替えなんでも持っていない。バックをあさくり、ハンドタオルを見つけ、急いで彼女の体を拭く。
 でもこれだけじゃ意味ないだろう。
 近くの服屋に行こうと思ったが置いて行くことはできないし、だからと言ってまた移動するようなこともできない。
 彼女のスマホを借りて親御さんに電話しよう。
「スマホ借りてもいい?…輝麗?輝麗!」
 輝麗が反応しなくなった。これはまずい。
 焦りと困惑で頭がどうにかなりそうだ。
 その時、ふと赤いボックスが目に入った。
 自動販売機だ。自動販売機なら温かい飲み物があるはず。
「待ってて、あったかい飲み物買ってくる」
 やはり彼女の反応はない。
 急いで自動販売機の元へ行き、飲み物を購入する。
 どれなら飲めるだろうか?ミルクティーなら飲めるだろうか?
 彼女の好みを知らないのでとりあえず、ほっとミルクティーとコンポタージュの二種類買った。
 落ちてきた飲み物をすぐさま手に取り急いで彼女の元に戻る。
 雨風が少し弱くなり、じめじめし始めたからか、顔色が少し良くなっている気がする。
「声かけても反応しないから心配したよ」
「心配かけてごめんね。寒くて、気失いかけてた」
「とりあえずこれどっちでもいいから飲んだら?まだ顔色悪いし」
「飲み物買ってくれたの?ありがとう。じゃあミルクティー貰おうかな」
 そう言ってミルクティーの蓋を開けようとしたけど、手に力が入らずに空回りした。
「俺が開けてあげる。ちょっと貸して」
 きゅっとキャップを回し、彼女の渡す。
 彼女は美味しいそうにミルクティーを一口飲んであったかいと呟いた。
 その言葉を聞いて少し安心した。もう一口もう一口とミルクティーを飲み続け、あっという間に完食した。
 飲み終わった頃には彼女の顔色は元に戻りいつもの彼女の元気を取り戻していた。
 雨が止み、今のうちに帰ろうかと言って別れようとした時、彼女が俺の裾を掴んだ。
「まだ心配で…一緒に帰ってくれない?」
「いいよ」
 今日は特に用事がないので彼女の言うことを聞こう。
 ゆっくりと立ち上がり、歩き始めた。彼女の肩に腕を回し、倒れないないように支える。
 問題だらけの大変な一日だったな。
 少し歩いたところで、彼女がうずくまった。
「大丈夫?」
「どうしよう。また気分悪くなってきた…」
「歩けそう?」
「…無理かも」
「仕方ないな、おんぶするから少し立って。口だけでもいいから案内はよろしく」
 彼女はゆっくり立ち上がり俺の背中にパタンと倒れ込んでしまった。
 びっくりするぐらい彼女は軽かった。力がない俺でも軽々と持ち上げることができる。
 今、彼女は俺の背中にぴたりとくっついている。
 仲良くなったばかりでこんなことしていいのか。非現実すぎる。
 体を通り抜けて、心臓のバクバクが伝わってないだろうか。緊張してるのがバレてないだろうか、すごく心配だ。
 実を言うと俺も雨に濡れたのですごく寒い。けど彼女をこれ以上心配させないよう今は我慢している。
 二十分、我慢と緊張を抑えて彼女の家にたどり着いた。
「重かったでしょ。ありがとう。また今度お詫びさせて」
「びっくりするぐらい軽かった。もっとちゃんと食べなよ。お詫びとかいいから、気にしないで。ほら早く入りな」
「今日は一日ありがとう。迷惑ばっかりかけてごめんね」と言ってドアを閉めた。
「大丈夫だから。また明日」 
 今日はアクシデントがいっぱいな一日だったな。生きてきた中で一番緊張したかも。
 彼女の家を出て腕時計を確認した。
 時計の針は十七時半を過ぎている。ずいぶんと遅くなってしまった。
 少し早歩きで元の道を戻り、帰りにコンビニでおにぎりを買って家へと帰宅した。

「あぁ寒い…風呂入ろ」
 びしょ濡れになった服を洗濯機に入れ、風呂の換気扇を切って入る。
 シャワーの温度を四十度にして身体にかける。夏に温度を四十度にしたのは初めてだ。
「あったかい。めっちゃあったかい」
 いつもは使わない時はシャワーの水を止めているが、今日は付けっぱなしにしよう。
 温かいお湯二打たれながら髪と体を洗い、風呂を出た。
 部屋着に着替えて夜ご飯を食べる。いつもなら早く帰った時は米を炊いておくが、両親も食べないだろうし朝炊けばいいだろう。
 少しレンジでチンして、取り出す。おかずは何にしよう。冷蔵庫の中身を見ると昨日のカレーの残りがあった。
 ラッキーと思いながらまたまレンジでチン。
 熱々のカレーを食べたら心も体も温まる。考えるだけですでにあったかい。
 チーンと電子レンジが温め終えた合図をし電子レンジからカレーを取り出す。
 コップに水を注ぎ食卓につく。
「いただきます」
 まずは白おにぎりを一口。口の中でほくほくと踊っている。ほんのり甘くて美味しい。
 次にカレー。これは昨日俺が作ったものだ。 やっぱり自分で作る料理は特別感があって美味しい。
 少し小さめに切ったにんじんと薄く切った玉ねぎ、カレーの肉は牛肉や豚肉より鶏肉派だ。鶏もも肉をじっくりと煮込んだおかげでほろほろに溶けて美味しい。隠し味に蜂蜜を入れたので甘さとコクがより増えた。
 一口一口、頬袋が落ちるのを守り、ペロリと完食。
 ふっーと一息ついて、洗面所に向かう。歯を磨くついでに、いつもだったら自然乾燥する髪の毛を少しドライヤーで乾かした。
 弁当とカレーの保存パックなどの洗い物をして家事は終了。
 自由を過ごしたいがそんな暇はない。とっとと課題を終わらせよう。
 バッグから課題と教科書、ペンケースを取り出すと濡れていた。インクが滲み、ページから貼り付いていた。
 一瞬なんでかわからなかったけど、すぐに理解した。そういえば今日、雨でびしょ濡れになったんだ。
 元はと言えば彼女のせいだ。
 箸を貸してくれて、カフェに連れて行かれた。口を聞かないと思っても気づいたら話してるし、自分の秘密は誰にも明かしたくなかったのに、彼女になら話してもいいって思って話してしまった。
 全部余計なお世話だ。
 ふと自分の顔を触ると熱かった。急いで洗面所に行くと顔全体が赤かった。
 風邪を引いたのかもしれないと思って体温を測ったが特に異常なし。
 この前読んだ小説の内容を思い出した。読んだのはは世界の論文。
 それは有名な外国の科学者が書いたもの。
「人は人を恋する時相手に振り向いてもらうため努力する。人を恋した時、人間は積極的に誠実性を示す行動をする習性がある」
 もしかして俺は彼女に恋をしているのだろうか。
 それとも俺の勘違いだろうか。
 もう一度鏡の中の自分の顔を見て洗面所を離れた。
 もう一度勉強机と向き合う。今日は課題が少ないので楽だ。誰かさんのせいで色々と疲れたし、早めにベットに入るとしよう。
 今日の課題は国語だ。今は現代文をやっていて、それについてのレポートとして四百字原稿用紙を二枚分書く。
 本が好きなので作文を書いたり、短い小説を作ったりするのは得意だ。将来は小説家とかになりたいな。
 シャーペンが紙の上をスラスラ走る。
 だけど、いつになく誤字が多くて消しゴムをたくさん使ってしまう。
 変化の変を恋って書いてしまったり、好みではなく好きって書いしまったり。
 綺麗や輝きと言う文字を見つけたら彼女のことを思い出してしまう。
 もっと集中しないと、せめて二人が帰ってくるまでに課題だけは終わらせたい。
 できるなら復習もしておきたいけど、今の時刻は二十時四十五分。ギリギリ課題が間に合うぐらいの微妙な時間。
 さっきよりもペンを動かす速さを上げ、原稿用紙一枚目を描き終えた。
 よし、あと半分。間に合うぞ。
 そう思った時、ガチャっと音がした。それは玄関のほうから聞こえた。
 テンションがジェットコースターみたいに一気に急降下し、書くスピードが落ちてしまった。
 向こうから声をかけてくることはないので安心し、レポートを書くことに集中する。
 六、七分かけて完成したレポートは自分で言うのもなんだがかなりの出来栄えだと思う。
 復習は明日しよう。今やっても二人がいるし集中できなさそうだ。
 レポートをファイルの中に閉じ、机の上に置く。
 バッグがまだ濡れているので明日忘れないように入れよう。
 教科書をなるべく早く乾かしたいのでドライヤーで冷風をかけに洗面所に向かう。
 教科書を片手に持ちドアを開ようとしたら目の前に母が立っていた。ドアを開けようとしたのか右手がドアノブに触れかかっている。
 何のために…。もしかして覗こうとしたのか。それともなんか他の理由があるのか。
 それにしても、びっくりして腰が抜けるかと思った。向こうも俺がタイミングよくドア開けたので小さな声でわっと言って驚いていた。
「…おかえり」
「あぁ、ただいま」
 事件をきっかけにまともに喋ってないのにおかえりを言った俺はすごいと思う。
 普通は大人から言うはずだが八年間、父も母もそんなことなかった。
 母の前を追い越すように足早で洗面所に行こうとしたら、今度は父が現れた。
 危うくぶつかりそうになったのを右によけ、回避する。
「おかえり」
「…ただいま」
 先に行ったのは俺だ。大人より偉い。
 父は困惑した様子で洗面所を後にし、リビングへと消えていった。
 疲れて瞼が閉じそうなのを堪えて、ドライヤーで教科書を乾かしていく。
 今日はなんだかんだで楽しかったと思う。
 前までは手の届かないぐらい離れたところにいたはずなのに、今はもう近くにいる。
 付き合…そう言うわけじゃないけど、近い。
 不思議だな。面白いぐらいに。
 まさかの箸を忘れてしまったことが友達二きっかけになるなんて思ってもなかったな。
 俺はこれからもずっと一人だと思ってた。
 一人の人生を歩んでいくと思った。
 なのに住む世界の違う人物が、異性が、友達になって、放課後二人きりでカフェに行って、一日目で話しまくって、過去の俺を打ち明けて。そのあとに問題が発生して、おんぶして家まで送って。
 こんな漫画みたいな話が本当にあるんだな。
 もしかしたらもっと不思議なことが起こるかもしれない。
 色んなことを考えているうちに、教科書が乾いていた。少し形が悪いけど。
 部屋に戻って布団に入った。
 天井を見ながら、また彼女のことを考えている自分が。
 今頃何してるかな。もう寝たかな。それともまだご飯食べてるのかな。風邪ひいて寝込んでないといいな。明日も学校来るよな。
 カーテンの隙間から見える月が綺麗だ。多分満月。この月を彼女も見ているのかな。
 そう言えば明日誕生日だし、また朝早く起きて、ケーキ作ってあげたら喜ぶかな。
 想像するだけで嬉しくなっている自分がいる、めっちゃおかしいぐらい。
 うとうとし始め、視界が真っ暗になりかけた時、
「またいつか、親御さんと仲直りできたらいいね」
 彼女が言ってくれた言葉が蘇った。
 …こんな状態で仲直りできると思うか。
 こんな最低なことした俺にやれると思うか。
 言ってくれたのは嬉しかったけど、すごく不安になった。
 素直にごめんと言える自信がなかった。
 今更、自分が悪いのに人を恨んでおいて仲直りしようなんて言えるわけがないと思った。
 でも彼女のおかげで、彼女が寄り添ってくれるおかげで、いつか自分から謝ることができそうな気がした。
 もう一つ…初めて会った時からずっと考えてることがあったんだ。
 たくさんあるけど。
 君のことがずっと頭から離れない疑問を。
 君の姿を見るだけどで自然に笑顔になるわけを。
 一緒にいると無意識に安心する現象を。
 生まれて初めて生きようと思った理由を。 もっと君の近くに行きたいと思ったことを。
 分かっていたようで、分かっていなかった。 気づいてたのに、気づいてないふりをして、勘違いだことにしようとした。
 だけどやっぱり知りたかった。
 だから、探って探って探りまくって。考えて考えて考えまくって。ようやく答えを見つけた。
 俺は好きだったんだ。
 箸を貸してくれた時。手が触れ合ってから、ずっと。君のことが好きだったんだ。
 もうはっきりした。言い訳なんかしない。 俺は完全に彼女、輝麗に恋している。
 大嫌いだった君に、恋している。
 箸を貸してくれた時、俺はもしかしたらと思った。なかったことにしたけど、本当は。
 …あぁこれが好きってことなのかな。
 この考えしか浮かばなかった。
 明日どんな顔で彼女に会ったらいいだろうか。
 必死に考えた末、彼女に恋していると言うことを素直に受け止めていつも通りに接して気づかれないようにしようと決めた。 
 そのままホワホワした気分で、浅い眠りへと堕ちていった。
 
 *
 
 彼は今何をしているのだろう。
 彼が私を家に連れて帰ってくれた時から今に至るまで同じことばかり考えている。
 彼のことを考えると心臓がドクドクしてしまうのは私に異常があるのだろうか。それともあれの現象なのか。すぐに分かるはずだ。
 
 初めて彼を見た時は不思議な人だと思った。
 誰とも接しないで、ただひたすら本を読んでいる、変わり者だと思った。
 その見た目、性格からして、すぐに印象に残った。
 綺麗な黒髪は丁寧にカットされている。前髪が少し目にかかってるけど、私の好きな髪型だ。動くとふわっと揺れ、海でのんびり泳ぐクラゲみたい。
 高校生ともなるとかっこいいと思われたい年頃なので髪を整えるのがお決まりのはず。でも彼は違う。ワックスやスプレーなんてしていない。これには心底びっくりした。
 このクラスの中では飛び抜けて背が高く、ゆうに百七十五センチは超えていると思う。自分の背が低いのもあるだろうけど。
 背があるわりに肉がなくスラっとしている。
 これだけじゃなかった。
 私が一番印象的だっと思ったのは彼の顔立ちだ。
 黒縁のメガネがとても似合っていて、レンズの奥にはちょうどいい大きさの瞳。瞳の色は黒曜石のように真っ黒。目があったことはないけど見つめられていると吸い込まれそうだった。そのぐらい、目を引く美しさ。
 みんなは違うと言うけど私が気持ち団子鼻なので、彼のシュンと尖った鼻はどこから見ても物凄く綺麗に目に映る。
 リップを塗っていないのに着色の良い桃色の唇は下唇が少し分厚く、女子の中で羨ましいと話題になっていた。保湿のリップも塗っていないだろうに乾燥せず潤いを保っていた。
 彼の顔は全体的に整っていて、自分の中ではクラスの中で一番、綺麗だと思う。
 だけどそんな彼に話しかける人は誰一人いない。
 昔から人付き合いが大の得意な私でも彼の、一人にしてください、気にしないで放っておいてくださいオーラを壊したくなくて中々話すきっかけが作れなかった。
 そのままチャンスが来ることはなく気づいたら入学して三ヶ月近くが経過。このままじゃ夏休みが来てしまう。どうしようかと思ったその時、とうとうやって来たのだ。
 それは七月六日、私の誕生日前だ。
 四時間目が終わり、券売に行く人、お弁当を取り出し席に集まってお昼ご飯を食べている人。なのに彼だけ立っては歩いてまた座りを何度も繰り返していた。弁当箱は机の上に置いてあるし、何かをこぼしたわけでもなさそうだった。
 必死に観察して考えているうちにある一つの考えが浮かんだ。
 お箸を忘れてしまったんじゃないか。
 頭の中の豆電球がピカーンと光った。確信した。私は予備で割り箸を持って来ているので彼に貸してあげよう。これはいいきっかけになると思った。
 残念そうに弁当をしまいかけた時、私は第一号として彼に向かって口を開いた。
「ねぇねぇ、割り箸貸そーか?」
 不意に声をかけてしまったので驚いたのか彼の肩がびくりと震えた。
 そしてスローモーション動画を眺めているかのように、ゆっくりと瞳孔が開いた。
 話を進めていくと、案の定箸を忘れてしまったみたいで貸してあげることになった。
 席を立ち、彼の元を離れようとした時。
 後ろから名前を呼ばれてお礼を言われた。
 初対面で緊張してしまったのか、少し噛んでしまった。
 見た目の割に頬を赤くして恥ずかしそうに睨んでいる姿が可愛い。
 異性に可愛いと言う感情を抱いた時、人の恋は始まります、なんて書いてある本を読んだことがある。
 私は小さなキューピッドに心臓を突かれてしまった。。
 多分この時からすでに彼に興味を持ち始めたんだと思う。
 そんな彼のことがもっと知りたくなって、ねだって放課後カフェに行くことに。
 最大級のおねだりをしたと思う。絶対断られると思ったのに、オッケーしてくれた彼。
 私のお気に入りのカフェに案内する。
 彼の雰囲気に合うお店だったようで気に入ってくれた。
 私はそこで、色んなことを知った。好きな色、好きな食べ物、苦手な食べ物。誕生日がまさかの一緒だったのは流石に驚いた。
 話しているうちに呼び捨てに変わっていたのがすごく嬉しかった。
 発音の良い柔らかな声で輝麗って呼んでくれて、生まれて初めてこの名前をつけてもらえたことに喜びを感じた。
 彼が呼ぶ名前はどこか特別感があり、まるで違う人物になった気分だった。
 それに今まで誰にも明かしてなかった秘密まで教えてくれた。
 自分だけに話してくれたことが嬉しかった。彼に信頼されていると思ったから。
 彼の頭に過去の辛い思いがよぎり、誰にも分かってくれなかったのが苦しくて泣き崩れてしまったのかと思った。
 けど違った。私が最後まで話を聞いてくれたこと、共感してくれたことが嬉しい、確かに彼はそう言った。
 中々立ち上がれそうになかったので手を差し伸べる私。この時の彼の手が温かくて今でも離れてない。
 カフェを出る時、長い夜を越えないと彼に会えないのかと思うと心が寂しくて、わざと傘を忘れて帰ろうとした。
 そしたら急に雨が降り始めて、傘どころじゃなくなった。
 冷たい雨風に打たれ、体調が急変。
 最終的には立つことができなくなって地面にうずくまる。こんなずるい考えをした私に神様が罰を与えたのだろう。
「これはやばいかも」、そう思った時に一番来て欲しかった人、恒星君が駆けつけてくれた。
 いつになく焦った様子で、どしゃ降りの中傘もささずに来てくれた。
 傘を届けに追いかけて来たら、うずくまっていたのを見てけたとのこと。
 あぁなんて優しんだと思った。
 そのままどんどん体調が悪くなって、気を失いかけてしまった。雨の当たらないところに移動して横になる。
 一瞬彼がいなくなって不安になった。
 すぐに戻って来て、見てみると手には二つの缶。
 どちらも私のために買ってくれた聞いて彼の優しさに涙が出そうになった。
 ありがたく頂き、体調は一瞬良くなったものの、また悪くなって、彼におんぶしてもらうことに。
 彼の体は雨に濡れたせいか冷たくなっていたけど温かさを感じた。
 私のアホな考えで迷惑をかけてしまった。
悪いことしたな。申し訳ないな。ふざけなかったらこんなことにはならなかったのに…。
 ごめんねと思う気持ちで胸がいっぱいだ。
 それでも彼は文句を一つも言わない。
 最後まで私をおんぶて、家まで連れて帰ってくれた。
 その優しさに、温かさに涙が溢れそうになった。
 彼が帰ったあと、濡れた体をタオルで拭き取り、急いでお風呂場に向かった。
 私の服には微かだけど彼の優しい匂いが残っており、彼が隣にいるような気がして、心の糸がほつれたような気がする。
 お風呂から上がったあと、異様に体が熱い。温かいお湯に当たったからか、それとも体調を崩したのか。熱があるのかもしれない。そう思って体温計で測ってみたけど、平熱。
 多分違う意味で発熱したんだろう。
 今私に病名をつけるなら、恋熱病だな。
 原因は私が彼に恋してることだろう。
 私だけだろうか。こんなにドキドキしているのは。
 彼は緊張しなかったのだろうか。
 人見知りをしない私でもこんなことになったのは生まれて初めてだ。
 私の恋は今始まった。みんなより少し遅めの初恋。
 月が綺麗だ。彼にもこの美しい月を見せてあげたい。
 もしかしたら私のせいで寝込んでいるかもしれない。
 風邪ひいてないといいな。
 そうだ。彼は明日誕生日だから、お詫びにケーキでも作ってあげよう。
 彼のことならきっと喜んでくれるはずだ。 さっきまで気だるだったのはどこえやら。ベットから立ち上がりスマホを片手にキッチンに立つ。
 長い髪の毛を一つにまとめて、いつもはしないエプロンと三角巾をつける。
 スマホで簡単ケーキの作り方と検索。
 誕生日ケーキと言ったらショートケーキかな。そういえば今日カルムで食べた。
 それに家にイチゴがないし、材料も限られている。
 卵、砂糖、絹ごし豆腐、薄力粉。あとココアと抹茶のパウダー。この少ない材料でできるもの。
 よし決めた。あれしかない。
 そうと決めたら、急いで準備に取り掛かろう。
 卵を卵白と卵黄に分けて卵白は砂糖を加えてミキサーで混ぜる。卵黄は三つに分けて絹ごし豆腐と一緒に混ぜる。メレンゲ状になったものを三つに分けたボールに均等に注ぎ、一つはココアパウダーをもう一つは抹茶パウダーを入れてヘラを切るようにして混ぜる。
 あとは型に入れて百八十度のオーブンで三十五分焼くだけ。
 その間に洗い物をしておこう。
 しまった。忘れてた課題をやってない。
 洗い物をスピーディーに済ませ、残り三十分は課題に取り組んだ。
 ピーッピッーと音がした。
 ちょうど課題が終わったところだし、取り出そう。
 オーブン付近は甘い匂いが漂っている。
 生地がふんわりと膨らみ美味しそうだ。
 食べやすい大きさにカットしようと包丁を入れたところ、泡が消えるかのようにシュワっと音がなった。
 私が作ったのは3種の豆腐シフォンケーキ。
 豆腐を入れたことによりさらに柔らかさが増しシュワシュワ感がたまらない絶品だ。
 パックに分けて悪くならないように冷蔵庫にしまって、ノルマ達成。
 早く明日にならないかな。早く彼に会って喜んでくれる顔が見たいな。
 布団に入って目を瞑り興奮を沈める。
 待ち遠しさを心の中に封印して、長い一日に切りをつけた。
 
 第三章 生きやすい世界
 
 七月は朝日が昇るのが早い。五時にも関わらず、カーテンを隙間を通り抜けて、太陽の穏やかな光の目覚まし時計がなった。
 カーテンを開け、薄暗い陽の光を見ると大きな欠伸が出た。
 昨日のやつのせいであんまり深眠りできない。あと誕生日を迎えたくなくて、安心しては眠れなかった。
 今日の俺の誕生日、また一つ歳をとり、嫌な思い出が頭の中をよぎるから、この日は大嫌いなんだ。
 今は誕生日なんかきても嬉しくない。誰から祝われてもありがとうなんて思わない。
 誕生日を祝われることより、彼女と生まれた日が一瞬ということのほうがよほど嬉しい。
「ケーキ、作るとしましょうか」
 気合いを入れて、ベッドから起き上がり、ぐっと背伸びをする。
 洗面所に行ってこの寝ぼけた顔をさっぱりさせよう。
 冷水で顔を洗うと目が覚める。
 パジャマ姿で調理し、なんらかの不純物が入ってしまったかもしれないものを人様にあげるのは衛生的にどうかと思うので、先に身支度を済ませてから、制服の上にエプロンをしたら良いだろう。
 寝癖を櫛と水でとって、制服に着替える。
 何年振りにエプロンをつけるかな。
 エプロンはポリ袋に入れられていて綺麗に保管されていたので、汚れは見当たらないが念の為コロコロをしておく。
 無地で真っ白のエプロンはサイズが小さかったけど、自分の成長を身にしめて感じることができるものだ。
 気付かぬうちに成長したものだなと心のどこか嬉しく思いながらグレープフルーツの香りがするハンドソープを二プッシュ。
 しっかり手を洗い、キッチンに立つ。
 何を作ろうかな。本当は手作りよりも高級洋菓子屋さんとかで買ってあげたほうが喜ぶだろう。
 でも彼女なら手作りでもありがとうと言うだろう。短時間しかないけど、クオリティーが高いものなら喜んでくれるはず。
 スマホがないので最新のレシピを調べることはできないが、自分専用のレシピノートならある。
 自分の過去に作ったことのあるもので簡単そうなものを探す。
 プリン、ゼリー、ドーナツ、わらび餅、りんご飴、栗きんとん、スイートポテト!は微妙だな。俺は好きだけど他のにしよう。
 ミルクレープもいいな。でも生地を何枚も焼かなくちゃいけないし、冷やすのにも時間がかかる。
 もうページがない。ケーキじゃないものを作るしかないのかと残念に思いながら、プリンのページを開こうとした時、一枚の酸化した紙が落ちてきた。
 開いてみるとそれもレシピだった。
 ふんわりカップケーキの作り方…。
 これなら三十分ぐらいで作れる。
 急いで冷蔵庫の中を確認する。バター、卵、薄力粉、砂糖、ベーキングパウダー、牛乳。全部揃ってる。
 せっかくチョコチップもあるし、ノーマルとチョコチップの二種類作ってあげよう。
 あぁ、ワクワクしてきた。彼女の喜ぶ顔を思い浮かべると、より気合いが入る。
 先にオーブンを予熱しておこう。
 お得意の同時進行するか。卵白と卵黄にわけて混ぜて卵白のほうに砂糖を入れて、よく混ざったら薄力粉を投入。ノーマルのほうには牛乳を入れて甘さをアップさせよう。チョコチップのほうにはペーキングパウダーとチョコを加えてしっかり混ぜる。
 あとは型に入れて、焼いたら終了。
 なるべく縁の周りにつかないよう慎重に…。
 よし我ながら完璧、オープンに行ってらっしゃい。
 その間に朝ごはんを食べて時間を有効活用。味噌汁の素を茶碗に入れてお湯で溶かす。ご飯は炊き立てのものをいただきたい。さっき冷蔵庫開けたとき納豆があったような気がする。
 いつも通りの質素な朝ご飯だが、美味しかった。味噌汁もこの日のために職人が厳選、鰹出汁を限界まで取り出した、旨味たっぷりのものを朝食に摂った。
 少し贅沢だがいつもはしないからこれぐらいなら神様からも文句は言われないだろう。
 焼けるまでケーキ作りの時に使ったものと、シンクに残ってる皿洗いをし、暇を潰す。
 二十五分経ったところでレンジが焼き終わりの合図をしてくれた。
 取り出すとそこには綺麗に焼けた、たくさんのカップケーキ。
 一つずつだけ作ろうかと思ったが、もし輝麗が喜んで食べてくれた時にと思ってたくさん作ったのだ。
 透明な袋に丁寧に詰めて、渡すまでに時間があるので保冷バッグに入れておく。
 一旦部屋に戻って日課日の用意をする。バックは自然乾燥して、外側はどこも濡れていなかった。底が少し湿っているような感じがしたけど、これぐらいは許容範囲。
 教科書は昨日ドライヤーで乾かしたのでバッグにしまってよし。課題のレポートはまだファイルにしまったまま持っていこう。
 これで学校の準備は終わった。あとは弁当を入れるだけ。リビングの方からアナウンサー声が聞こえる。
「まだまだ蒸し暑い日が続きそうなので水分補給が欠かせません。水筒やスポーツドリンクなどを持参して熱中症対策をしっかりしましょう」
 このアナウンサーが言うように確かに最近、喉が渇くことが増えた。ただの水道水にしようと思ったが少し緩かったのでに氷を入れた。
 今日は弁当が用意されている。その横には、おめでとう、父母より、とだけ書かれた、くしゃくしゃな紙切れが一枚。
 おめでとう、そのたった一言も口では言えないんだな。去年も一昨年もそうだったけど。
 自分の息子の誕生日も祝えないような奴らだったんだな。すごく大人気ないし、恥ずかしくてたまらない。子供でもできるようなことができないんだなと心底驚いた。
 俺はこんな人間になりたくない。
 だから俺は、今日二人に謝る。
 怖くてずっと前から謝りたかったけど。このままの人生はもう嫌だ。一人でずっと苦しかったし辛かった。
 八年経った今なら、二人に俺の気持ちを分かってもらえるかもしれない。思ってることを素直に言えるかもしれない。
 ずっと分かってほしかった。でも事件が起きて以来、俺が話しかけようとしても避けたり、無視したりする。
 今夜は二人が帰ってくるまで待っておこう。八歳の誕生日の時に食べれなかった、三人分の夜ご飯を作って待っておこう。
 兄さんには申し訳ないけど。
 そしてそこで、ちゃんと謝ろう。迷惑ばっかりかけてごめんなさいと。
 あと、今まで言えなかったこと、隠し続けた事実を明かしてやろう。担任が嘘ついこともついでに。
 何事に対してもそうだけど、自分から言葉を発するのには結構な勇気がいると思う。
 それでも俺は恐れないで言う。
 一つの決心を胸にして、紙切れをポケットにしまった。
 きつく巾着袋に絞められた弁当と水筒をバッグに入れた。
 彼女のために作ったカップケーキ入りの保冷バッグを手に持ち学校に向かった。
 
 *
 
 いつもならゆっくり眠れるはずなのに、今日は朝早くに目が覚めてしまった。
 彼に恋してると気がついてしまったから、心がそわそわして落ち着かなかったのだ。
 もう少し眠れるような気がして、二度寝しようと思った。 
 一度眠りについたらベットから起き上がりたくなくなるのでタイマーをセットしよう。スマホの電源をつけるとあるところに目が。日付だ。今日は待ちに待った私と彼の誕生日。やっぱり早く準備して学校に行こう。いつもの彼なら早く学校に着いてるはず。そうとなったら支度しなきゃ。
 淡い感じが綺麗なピンク色のカーテンを開け、ぐちゃぐちゃになった布団をもとに戻す。
 冷たい水で顔を洗って、バレないぐらいの薄いメイクをする。
 今日のリップは何色にしよう。どれにしようか迷っているとまだ未開封のリップグロスを見つけた。
 いつもは使わないタイプのピンクのリップだ。似合わないと思って買ったままにしてたのを忘れてた。
 違うのにしようと思ったのに磁石のように惹きつけられ手に取っていた。開けて少し塗ってみると少しだけ入ったラメが控えめにキラキラしていて、唇全体がウサギ舌みたいにちゅるんちゅるんになった。
 いつもとは違うリップメーカーなので違和感があるけど、これはこれであり…かも。
 メイクが終わったら急いで自分の部屋に戻って髪の毛を巻こう。
 と思ったが、たまにはノンタッチでもいいかもしれない。熱々に熱されたアイロンのスイッチを切ってワゴンに戻した。
 左手首にゴムをかけ、邪魔になったら結ぼう。
 部屋を出てリビングに入ろうとした瞬間
「「「「お誕生日おめでとう」」」」
 聞き覚えのある四人の声がした。
 びっくりして後ろを振り返ると、みんながクラッカーを持って私を見ていた。
「輝麗、十六歳の誕生日おめでとう。お祝いしたくてみんな四時から起きてたのよ」
「えっそうなの!?ありがとう!」
 パァンとクラッカーを割る音がして紙吹雪が飛んできた。
 幸せだな、朝からこんなに祝ってもらって。
「ほら、少し早いけど、せっかくみんな揃ってるんだし、一緒に朝ごはん食べようよ!」
「そうだねぇ。じゃあおばあちゃんとお母さんが朝ご飯作るから少し待っててねぇ」
 うんっと首を縦に動かしてリビングに向かった。
 私が寝た後に準備してくれたんだろう。
 一と六の風船にハッピーバースデーと書かれたガーランドが壁に飾り付けられていた。
 私の大好きなピンク色の風船がふわふわと宙を浮かんでいる。
 みんなに見せてあげよう。スマホのカメラ機能を開いて部屋全体を写真に収める。
 席に座って朝食が出るのを待とう。
「はい輝麗ちゃん。お待たせいたしました」
 ゴトっと目の前に置かれたのはザッイタリアンな朝ご飯。
 いつもの食パンではなく、三種類のブレッド。隣にはマーガリンと手作り苺ジャム。ミニコーンスープに私の大好きなミルクティー。
 私は今最高の朝を迎えている。いつも幸せだと感じるけど、今日はもっと特別な幸せだ。
 朝食、部屋、家。嬉しすぎて色んなところにシャッターを切ってしまう。
 久々にみんなで食卓を囲み、楽しい時間を過ごすことができた。
 弁当と彼へのケーキをバッグに入れて、家族に見送られながら家を出た。
 外は異常に暑い。雨上がりのジメジメとした感じとピンク色のヘルメットの中がモワモワして気持ち悪い。太陽の日差しが肌を刺すように痛い。
 それでも私は早く学校に行きたかった。
 もちろん家族にもっと一緒にいたかったし、ずっと家でゆっくりして、レストランとかショッピングに行くのは楽しい。けどそれは昔はの話だ。
 今は家より学校に行きたい。
 理由はただ一つ。早く彼に会いから。
 彼におめでとうと言って欲しいから。
 だから私はピンク色の自転車を漕ぎ、全速力で学校に向かった。
 
 *
 
 グランドに足を踏み入れた瞬間、靴底を通して足裏が焼けていくのを感じた。
 一歩歩く度に靴下と靴底、グランドの熱が擦れ合い、火が出そうになる。それを堪えて靴箱に辿り着き、靴を脱ぐ。
 その瞬間はまさに天国。固定されてた足が自由になり全体がスースーする。
 一日中温められた真緑のスリッパを履き、教室に向かう。
 ドアを軽快にスライドさせようとしたが、びくともしない。
 まさかの教室が開いていないと言う事態。
 どうしよう。先生を呼びにいくしかないけど嫌だな。あんまり話したくない。
 今の担任、慶永蓮人先生が嫌いなわけでは、なくもない。悪い人とかそう言う人じゃない。
 けどあまり頼りない性格だ。若いので生徒とよく絡み遊んでいる時もある。一部の生徒からは舐められてる。
 元ちょいヤンキーだったらしく、表にちゃらちゃらした行動を出すこともあるので自分からあまり近づくことはない。
 それでも今はクーラーの効いた教室でゆっくりしたい。外にいるのは暑苦しくて仕方がないので体を右に九十度回転させ職員室に向かう。
 シーンとした廊下に自分のスリッパのする音を上回って蝉が悲鳴が響き渡る。
 初めて職員室に行くから迷子になりかけたけど、事務の先生の後を追って無事辿り着くことができた。
 職員室と書かれた表札を見て深呼吸をする。
 コンコンコンと三回ノックし、第一入り口に入る。涼しい部屋だな。
 奥に行くと校長先生や教頭先生、二、三年の先生たちがパソコンに向かっているが、没頭していて中々こちらを向いてくれない。
 第二入り口でもう一度深呼吸。
「失礼します。一年三組の山隅恒星です。慶永蓮人先生を呼んでいただけますか?」
 ようやく一人の先生が気づいてくれて、慶永先生を連れてきてくれた。
 茶髪の髪の毛に、ギンギラなピアス、開かれた首元のボタン。背が俺よりも高くて、街中を普段着で歩いていたら、ヤンキーと勘違いされそうだ。
「おお、なんだ。誰かと思ったら恒星じゃないか。どうした?」
「あの…教室の鍵が開いなくて、開けてもらえませんか?」
「あぁごめんな!そう言えば忘れてたわ」
「全然大丈夫です」
 こう言う時どんな反応をしたらいいのかイマイチ分からない。なのではははと力無く笑い、担任の後をついていく。
 風に煽られ、後ろに流れてくる香水が臭い。
 今まで香水を付けた人が担任になったことになったのでこれには苦労してる。先生が通ったところは大体この匂いが残る。人によってはこの匂いは好き嫌いが分かれるだろうなって感じの匂いだ。
 教室の鍵を開けてもらって、クーラーを二十度に下げてもらった。
「ごめんな。俺もう一回職員室戻るから、またなんかあったら室内電話使って呼んで」
「はい」
 そう言うと職員室の方向へ走っていった。
 今のシーズンは通知表の下準備や市総体の作戦シーズンなど、仕事が盛りだくさんで忙しいらしい。
 クーラーの効いた部屋で授業の準備をし、弁当箱は机の引き出しへ、カップケーキの入った紙袋は後ろのロッカーに教科書でバレないように隠した。
 空っぽになったバッグをしまいに教室を出ようとした時、誰かとぶつかった。かなり強い衝撃で一瞬頭がグランとなる。
 相手は地面に腰をついてしまった。
「すみません…って輝麗?大丈夫?」
「イタタタ…大丈夫です…って恒星君…?」
 お互い数秒間見つめ合う。ピンクの頰がさらに赤く、しまいには顔全体が赤くなっていく。
「おばあちゃん起き上がれる?」
「誰がおばあちゃんって?意地悪する人きらーい」
「ごめんごめん」
 俺は彼女のほうに手の差を伸ばし引っ張った。
 彼女は服についた埃をぱっぱっと叩いて教室の中に入る。手には紙袋をぶら下げている。
「涼しー、生き返ったー。外なんて出られないね、地獄すぎる」
 そう言って瞬く間に準備を終わらせ俺のところに戻ってきた。。
 それにしてもいつになく早いな。どうしたんだろう。聞いてみるか。
「今日来るの早いね、どうしたの?」
「それは…秘密!」
 秘密?どう言うことだろう。俺には言えない事情があるのだろうか?
 もう一つ疑問に思ったことがある。
 それはいつもの彼女の見た目じゃないことだ。
 何が違う?まずは髪の毛だ。…アイロンをしてない。特に何も手入れしてない。あと目の周りとか頬もほんのりピンクだけど、いつもより薄い。リップにはラメが入っているのか、反射してキラキラ光ってる。
「今日髪巻いてないね。あとメイクも薄めだし、リップ変えた?」
「えっ?分かった?変かな?」
 どちらかと言うと俺は清潔めのほうが好みだ。童顔寄りだから、メイクは薄めのほうが似合ってると思う。どっちでも…可愛いのは変わらないけど
「そんなことはないと思うよ。むしろ似合ってる」
「…」
 黙りこくってしまった。いつものが似合ってないと勘違いしてしまったのか?どうしよう傷つけてしまった。
「ごめん…」
「なんで謝るの?」
「だって、喋らなくなったから傷つけたかと思って…」
「違う。傷ついたんじゃないの。恥ずかしの。似合ってるって言われて照れたの」
 なんだそう言うことか。びっくりしたじゃないか。
 八年振りに女子と話す俺は、どう?とか似合ってる?とか聞かれたらなんて言っていいのか分からない。いまどきの女子は何と言われたら嬉しいのか、俺は知らない。
 普通に考えたらお世辞でも相手を褒めるだろう。でも俺にはトラウマではないけど、返答するって難しいと感じたことがある。幼稚園の頃にクラスの女子から、このブレスレット可愛いでしょ?って言われたから、そうだね可愛いねって言ったら、思ってもないのに嘘つかないでって逆ギレされたことがある。
 だから人に対して自分の意見を言うことは相手の機嫌をいかに損ねさせないかと言うことだ。
 過去の出来事に難しいなと頭を抱えていると彼女がツンツンしてきた。
 何かと思ってみると彼女の手にはクラッカーとスマホがこちらを向いていた。
 次の瞬間、俺に向けてを鳴らした。
「うわぁ!」
 思わず叫んでしまった上に腰を抜かしてしまった。危うく高校一年生という若い年でギックリ腰になるところだったではないか。
 彼女はゲラゲラとお腹を抱えて大爆笑している。
 スマホを向けていたのは俺の馬鹿げた反応をビデオとして残しておくためだろう。
「何がそんなに面白いんだよ。今撮ったやつ消せ、早く消すんだ!昨日も言っただろ。次は怒るぞって」
「だって、後ろから脅かされた子猫みたいで面白いんだもん。今まで色んな人にクラッカードッキリしてたけど、ここまで反応がいい人はいなかったな。これはお気に入り保存。永久保存確定だなぁ」
 この娘舐めてやがる。仕返しがしたい。よし逆ドッキリスタートだ。
「そんなに馬鹿にしたいなら、馬鹿にしとけ、俺はもう知らないからな。昨日も言ったはずなのに」
「えっ?ちょっと待ってよ…」
 よしよし、効果抜群だ。彼女が肩を縮こませ、反省の気持ちをあらわにしたけど、これだけじゃ終わんないぞ。
 俺は教室を出て行き、ドアの裏で待機した。
 中から待ってごめんって誕生日ケーキ奢るからさと追いかけて来ている。
 彼女がドアから出てこようとした時。
「わぁ!」
「きゃぁぁ!」
 これで満足だ。確かに人がびっくりした時の反応って面白いな。
 彼女は地面にへたり込み、唖然としている。
「ケーキ奢ってくれるの?ありがとう。じゃあ近くの高級ケーキ屋さんに行って高級ショートケーキを買ってもらおうかな」
「いや!そんなこと言ったけどさ!ていうか怒ってないの?」
「俺はこんぐらいのことで怒る人間じゃないよ。演技ってやつ。俺をびっくりさせた仕返し」
「なんだぁ…本当に怒らせちゃったかと思って焦ったじゃん!」
 彼女はほっぺをぷくっと膨らませてそっぽを向いく。
 くすくすと笑う俺に釣られて、彼女も笑った。
「遅れたけど、誕生日おめでとう」
「私が先に言おうとしたのにぃ!先取りしないでよ!誕生日おめでとう!」
「切り替え早いね。ありがと。昼食の時渡したいのあるか、どこも行かないでね」
「え!私もある!じゃあ私の席集合ね!」
「分かったから落ち着け」
「だって楽しみなんだもん!もしかして恒星君からのプレゼントだったりして…」
 彼女はウキウキのまま教室を出て行った。
「はぁ、緊張して死ぬかと思った。困るやつだ…俺の寿命縮んだわ」
 十分間ぐらい、緊張の雰囲気を見せなかった俺はすごいと思う。
 そう。本当はすごくドキドキしてた。我慢してただけ。
 入ってきた時にぶつかって、手を引いたのも、彼女の変化に気がついて言った時喜んでくれたことも、クラッカーを向けられてびっくりした顔を撮られたのも、逆ドッキリをした時も、誕生日おめでとうって言ってくれたことも、渡したいものがあるのって知った時も。
 彼女がやること、言うこと、全てにドキドキしてしまう。
 彼女と出会ってから俺はおかしい。全てのことに調子が狂う。
 これから先も思いもよらぬことがあるだろう。そのために俺は覚悟しなければならない。
 
 三時間目は国語。昨日の課題のレポート発表。
 出席番号順に行くので、だいたい俺は最後から三、四番目のほうになる。
 しかし不運なことに俺のクラスに渡辺や若林などわ行から始まる苗字のやつがいない。ましては、ゆ、よから始まる苗字の奴もいない。
 となると最後は俺。机に肘を突き、今日一つ目のため息をついた。
 順番に一人ずつ行き、授業終了まで残り五分。あと俺を含めて三人。
 これ間に合うか?とも思ったが教師が辞める気がなさそうなのでそのまま進んだ。
 国語の教師もあまり好きじゃない。おじいちゃん先生で気難しい性格だ。一回やると言ったらそれを終えるまで終わらない。そのせいで休憩時間を奪われたこともある。
 そして残り一分。俺の番が回ってきた。
 すでにみんなの集中力は切れている。最初の人が発表している時は体をぐるりと向けて背筋をピントしていたのに今はどうだ。
 ペン回しをしている人もいれば、机に落書きしている人もいるし、完全に寝てる人もいる。ちっとも俺の方を向かない。
 俺のこと見えてる?ちゃんとこの世に存在してるよな?
 みんな見てないのに読んでいいのかとキョロキョロしてたら、おじいちゃん先生が早く読みなさいと急かしてきた。
 あと一分しかないのに読むんですか?また今度でいいじゃん。みんなもも聞く気がなさそうだし、俺別に読みたくないので終わりましょうよ。
 モタモタしていたら細長く鋭い目で睨まれたような気がする。
 目を逸らし、紙の方に目を移す。小声で早口に読む。
 俺の直径一メートル範囲の人しか聞こえていないだろう。
 あと半分。時間は十秒。これは無理がある。まだ読み切ってもないのに、生徒たちが終わりましょうと先生にねだる。
「はいはい静かに。まだ一生懸命読んでるでしょう」
 気持ちがこもってないな。めっちゃ棒読みだし。別に俺読まなくてもいいんですけど。
 嫌でも俺は読まさされた。
 最悪なことに最後の言葉はチャイムの豪快な音と生徒の騒ぎ声にかき消されてしまった。
 誰も聞いてなかったし、俺…読んだ意味なくない?
 号令の合図をしてすぐさまみんなはどこかに行ってしまった。俺は一人で教室の隅にポツンと立っている。
 俯きながらため息をつき、片付けをしていると、後ろからひょこっと輝麗が顔を出した。
「恒星君のレポートめっちゃすごかった!文の内容が分かりやすかったし、なんかすごかった!今度レポートの書き方教えてよ!ついでに現代文も!」
 大したこともない現代文に感動しているようだ。ぴょんぴょんと跳ね回り、興奮が剥き出しになっている。
 当たり前だけど、唯一聞いてくれていたのは彼女だけだった。
 体をこちらに向けて相槌を打ちながら聞いてくれていた。
 口をわの字に開けて、ただでさえ大きな目をさらに開け、たまに瞳がポロリとこぼれ落ちそうだったので心配せざるおえなかった。
 ずっと見られていたのは恥ずかしかったけど。
「そうやって褒めてくれるの輝麗だけだよ。誰も俺の話を聞きやしない上に終わろうとするし拍手なし、最後の方はチャイムにかき消されたし、俺読まなくてよかったよね」
「そんなことないよ!ほら元気出して!」
 背中をバシンと叩かれ、元気を取り戻す。「輝麗の顔、めっちゃ面白かったよ。口がびっくりした時のレッサーパンダみたいで、目をかっぴらきすぎて落ちそうになってたし」
「嘘でしょ!?早く言ってよ!恥ずかしいじゃん。意地悪…」
「いや、そもそも授業中だから言えないし、貴重な顔見られたし満足だよ」
「恒星君最低!私と一緒いるからどんどん意地悪な恒星君が見えてくるぅ」
 顔をひょっとこみたいにして肩をツンツンしてくる。少しだけ伸びたネイル済みの爪が俺の方を突き刺す。
「て言うか!今度カルムでご馳走するからさぁ勉強教えてくださいよ、天才さん!」
「俺は別に良いけど、言ったからには取り消せないけど大丈夫?」
「大丈夫!勉強教えてくれるのはご馳走するのと同じぐらいに値するの!」
「そうなんだ…なら良いけど」
「なんか嬉しそうじゃないなぁ」と不貞腐れている。
 俺は表では照れた姿は見せない。心はめっちゃ嬉しい。言わないだけで話せたり、カフェに誘ってくれたりするのは最高のプレゼントだ。
 今は高いものとか豪華なものは要らないから彼女と一緒に過ごす時間が欲しいな。
 馬鹿みたいなことを考えながら日課表を確認すると、理科だった。
 教室では実験ができないので俺達のいる本館から少し離れた副館というところに移動しなければならない。職員室や図書室など教室以外はそちらにある。
 だからこんなのんびり話してる暇はない。 俺の通う高校は遅刻や規則に厳しいから大学志望の俺は破ることなど許されない。
「次理科だから先行ってて、また後で話そ」
「私待ってるから、早く準備してよ」
「だから先行ってろよ」
「私が一緒に行きたいから言ってるのに!もしかして嫌なの?」
「いやそう言うわけじゃなけど…もし輝麗が遅れたら怒られたら申し訳ないなと思って」
「そー言ってる間に早く準備しなよ」
 長い髪を指でくるくる回しながら口を尖らせてそう言う。
 俺と一緒に行きたいってどう言うことだ。 彼女にはたくさん友達がいるんだし、俺なんかよりそっちのほうがいいと思うけど。
 考えても考えても、彼女の言うことが分からない。
 頭の上にハテナを浮かばせながら準備進める。
 それに俺は、どんなに急いでても右側を歩いて移動してたのに、今は廊下のど真ん中を猛スピードランウェイしている。
 走って移動したので、ギリギリ間に合った。
 移動中の彼女は一束に束ねられた長い髪を左右に揺らし、ボールを追いかける小動物みたいでとても愛らしかった。
 余計なことを考えてしまったせいでまた、体が熱くなった。
 俺は最近、恋に関する病気にかかっているようだ。彼女のことを考えるとすぐにおかしくなる。
 学級委員が号令をかけ一斉に頭を下げる。 頭を下げた時、少しだけ視線を前に移す誰かがこちらをみているような気がした。
 視線をもう少し右に移すと、彼女とバッチリ目が合った。
 心臓がギュッとなって急いで目を逸らした。 脳内の思考の塊がグラグラと揺れる。
 彼女と仲良くなってまだ一日目だけど、学校生活中目が合うことが多くなった気がする。 無意識に自分から見ることもあるけど、彼女が見ていることもある。
 目が合うのは気のせいではない。誤解だったら恥ずかしいけど、これは彼女の故意だ。
 単純な俺は一度考えると、頭から離れなくなるのが悪いところ。
 ますます体が熱くなって、クーラーの真下に座っている俺の体は、二十二度という冷風に当たっても冷やし切れない。
「今日は短縮で時間がないので、サクサクと進みます。四時間目で疲れてる人も多いと思いますが、話を聞かないのは別ですから、しっかり聞いてないと昼休み説教ですよ。この単元は今度のテスト範囲にガッツリ出てくるので…」と理科担当の女性教師、向田洋子先生が口早に生徒に説明する。
 この先生とだけは仲が深い。入学した頃から俺のことを気に入ってくれてて、分からないところがあったら分かるまで何度も教えてくれる。メガネをかけているので、一見怖そうな先生に見えるが逆に優しい。
 しっかり自分の意見を持っていて、ふざけたりしない。先生にピッタリな性格だ。
 白いメガネの縁を持ち、チャキっと直して授業が始まった。
 今日の化学基礎の授業。物質の構成粒子というところで、小学校の頃から顕微鏡を使うことが好きだったので、ここら辺は俺の得意分野だ。
 担任が黒板に書くことをノートにまとめる。 テストの時に役に立つのでなるべく書き残し、写し忘れがないようにする。
 活用問題は出ないものの、授業でポイントと言われたことがしょっちゅう出るので、気は抜けない。
 次は簡単な実験だ。中学の復習として顕微鏡を使って植物の細胞を観察する。
 本体とコンセント、プレパラートを取りに行くように指示が出たが、喋ってばかりで誰も取りに行ってくれない。
 持ってきてくださいと頼むのもめんどくさいし、待っていても時間がなくなるだけ。仕方ないな、俺が取りに行くか。
 静かに席を立ち、顕微鏡が置かれている後ろの方の棚に向かう。
 あと二つ残っている、新品のと少し古いやつ。
 新しいやつはレンズが特殊で壊した時大変なことになるのて古いのにしよう。
 古いほうの顕微鏡に手を伸ばした時、誰かの手の温もりを感じた。小さくて優しい手。触り覚えがある手だ。
 そっと視線を下に移してみると茶色の髪の毛にラメの入ったリップ。
 すぐ分かった。彼女だ。ここで何をしているのだろう。彼女の班はすでに実験を始めていたはずだ。
「実験してたじゃん。何でここにいるの?」
「えっと、それが…調節ねじを締めすぎちゃったみたい。ステージが動かなくなっちゃって、違うのに交換しにきたの!」
 早口だしどこか焦っているようにも見える。壊してしまったことに罪悪感を抱いているのだろうか。
 納得しようと思ったけど、俺は目を疑うものを見てしまった。 
 顕微鏡を交換しにきたというのに、彼女の手には顕微鏡がない。
 それに、彼女と同じ班の人たちは楽しそうに実験を進めている。
 唖然とした。優しくて素直な彼女が嘘ついたのか?信じられない。でもなんのために?
「輝麗、顕微鏡壊れたの嘘しょ?ほら、班の人たちは実験してるし…」
 困惑して詰め寄るような、責めるような口調で彼女に近づく。班のほうを指差すと、彼女の顔がだんだん青ざめていった。
 小さな手を手を口元に当てて驚きを隠すような仕草を見せた。
 その姿は真実を見抜かれた犯人のように焦っているような気がした。
「あれ?壊れたかと思って交換しに来たのに持ってくるの忘れちゃったみたい。しかも、もう直ってるし、またあとでね!」
 俺が顔を顰め、首を傾げていると彼女は慌てた様子で事実を隠すかのように、走り去って行こうとした。
 なんの理由を言わずに逃げようとした彼女にムッときて、思わずグッと手首を掴んで引っ張ってしまった。
 掴んだその手は、俺がもう一周して握れるぐらい細かった。
 無意識に力強く握ってしまって、痛かったのかボソッと痛いと呟いて泣きそうな顔をした。
 彼女の声で我に帰って力を緩める。
 謝ろうと思ってもう一度彼女のほうに手をやったけど、驚くようなことが起った。
 幼子のように小さな手で、びっくりするような力で俺の手を振り払ったのだ。生徒たちの声で騒がしい教室内に、パシンと一発の音。
 誰も気づいていないけど、かなり激しかった。
 先生にバレてないか、他の生徒に見られてないかと言う恐怖より、彼女にも見放されたのかと、絶望感を抱きながら走って行く後ろ姿を見届けるしかなかった。
 その小さな後ろ姿は、どこか寂しく、泣いているように見える。
 彼女が帰ってきた班は賑やかさを取り戻す。
「輝麗どこ言ってたのー?遅かったから探してたんだよ」
「ゴミ捨てて来るって言ったじゃん!ちゃんと聞いてよー」
「本当にそんなこと言った?怪しー」
「怪しまないでよ!」
 一人の女子が彼女に抱きつき、彼女はいつも通りの笑顔で、いつも通りに過ごしている。
 遠く離れたところから愉快な会話が聞こえるのに、横顔には煌めく宝石が一粒。悲しそうな、寂しそうな顔をしていた。
 キツイ言い方をしてしまった。怖がらせてしまったかな…。
 あとで謝りに行くしかない。
 他の生徒が実験を始めているのに気がついて、急いで顕微鏡を手に取り、席に戻った。
 一人で準備して、実験を始めたけど、彼女のことが心配になって、仕方がなかった。
 よほど傷ついたのだろうか。
 輝麗の泣いた顔を思い出してしまって、心が痛くなった。
 心の強い彼女が人前で泣いたのを初めて見た。今までクラスの会話に耳を傾けてはいたけど、彼女が泣いたというのは聞いていない。
 心の優しい彼女が、人を振り払ってまで逃げる姿を想像したこともなかった。
 あの時の手とはまるで別人だ。箸を貸してもらった時の手は優しさの塊だった。今までに感じたことのない温かさに触れたような気がしたのに。
 なのに今の手は凶悪なやつを威嚇し、怯えてるような手だった。あの時の温もりなんて一つもなかった。冷め切ってて、尾を立たせていた。
 あんなに優しくしてもらったのに、こんな俺に手を差し伸べてくれたのに、自分は一体何をしてるんだ。
 責めるような口調で彼女に詰め寄り、腕を痛めてまで引っ張り続け、泣かせてしまった。
 今まで自分はこんなに最低な奴だったのか。 気づかぬうちにもっと傷つけていたのか。
 もう一度時を戻し、やり直したい。次は責めない、傷つけないから。君を泣かせないから。
 もう一度チャンスをください。
 考えるだけで心が苦しくなる、涙が出そうになる。
 泣きたいのはそっちだろう。こんな奴に声をかけて仲ようしたことが心底悔やまれているだろう。
 時に彼女の方を見てみたり、横を通ってみたりしたけど、こちらを向いてくれないし、避けられているような気がする。
 もう本当に駄目かもしれない。完全に嫌われてしまった気がする。あの頃には戻れないのか。
 授業が終わってからもう一度話をする。今度は君に優しく寄り添う。
 破らない、絶対に約束するから待ってて。
 彼女にごめんねと呟きながら通り過ぎた時、再び涙が流れたように見えたのは気のせいだろうか。
 
 二十分が経った。チャイムがなりみんな教室に戻っていく。
 彼女もその人混みの中に紛れ込むようにして、消えていった。
 あとを追いかけなきゃ。あとでではもう遅い。今じゃないと駄目だ。
 そう思って人混みを嗅ぎ分け、視界に彼女が移るぐらいに辿り着いた。
「…輝麗」
 名前を呼んだけど、気づいてないのか、聞こえてないのか分からないけど、どんどん前に進んでいく。
 お願いだからこっちを向いてくれ。
 気づいたら全速力で走り出していた。
 このスリッパでは走りにくい。床とゴム製の靴底が突っかかり、運動神経が良くない俺は、何回も転けそうになる。
 俺は、もう一度名前を呼んだ。空気を引き裂く稲妻のように。今度は彼女に届くだろう距離で。
「輝麗!」
 一瞬、こちらを振り向いて、再び前を向いて走り出した。
 必死に追いかけ肩に触れようとしたその時。
 パシん…と弾かれた。
「来ないで!私に近づかないで!ほっといてよ!」
「はぁ?」
 時差で痛みが走り、手の甲がヒリヒリし始める。唖然としてその場に立ち尽くした。まだ手が痛い。
 恐る恐る、俺が見つめた先には、変貌した輝麗の姿。
 いつもは大きな眼をとても細くして、鋭く尖っている。こちらをぎろりと睨みつけ、威嚇してくる。
「なんで?俺何かした?」
「私のこと嫌いなんでしょ?だからもういいの…」
「いつそんなこと言ったんだよ!」
 勝手に誤解されたのにイラッとして反射的に声を荒げた。
 俺がそう言うと彼女は逃げるのをやめて、その場に立ち止まった。
 外の風が部屋の中に入ってきて、寂しそうに髪がなびく。
 やっぱりさっきのことかな。キツイ言い方をしたから傷ついたのかな。
 彼女のすすり泣く声が微かに聞こえる。
 もし彼女が泣いたことがないのなら、この状況は結構まずい。
 券売に直行する人や、そのまま教室に戻る人。二、三年生や先生が沢山行き交う、ここじゃ人の目に入って、もっと彼女のプライドが傷ついてしまうかもしれない。
 奥のほうに生徒立ち入り禁止と書かれた部屋を一つ見つけた。ほんと端っこの方にあって、注意深くみてないと気づかない場所だ。
 もし入ったところを先生に見られたら、説教確定なのはわかってる。
 けど今は彼女の心が優先的だ。
「あっちの空き教室行って話そう」
「…」
 反応はないけど、こっくりと小さく頷いてくれた。
 俺は彼女の手首を掴んで引っ張り、ゆっくり歩き出す。
 今度は優しい手で彼女の手首を掴めたと思う。怖がらせてはないだろう。
 目の前に来て上の方についてある看板の文字を読んだ。
「…旧物置き教室って書いてあるのかな?」
 文字が滲んでいて読みにくくなっている。この学校は確か創業百三十年だったはずなので古びた教室があるのは当たり前か。
 生徒及び教師の立ち入り禁するの張り紙がされている物置き教室のドアを開けた。
 立ち入り禁止だが、鍵はかかっていなかった。見ると中の方に針金のようなものが詰まっていて、修理はせず、ずっと放っていたのだろう。
 引き戸をスライドしようと思ったけど相当な力がいる。鍵が開いていても入れないはずだ。 
 女性はともかく、力が弱い人は開けられない。男の俺でも限界まで力を入れている。
 敷居が錆びきっているので開きにくいのだろう。木製のドアは古く、腐りかけているところもある。
 教室の中に入るとカーテンで覆われていて暗闇の世界が広がっていた。外から見ると端っこのほうにある場所なので、陽の光がほとんど当たらない。
 薄暗いためひんやりしていてクーラーつけなくて良さそうだ。
 目の前には使えなくなったものが沢山おいてある。生徒用の机、本棚、教科書や山積みになった授業用プリント、ほうき、ゴミ箱、プロジェクター、中には教卓まで。
 椅子が二つあったので取って座った。結構前に捨てられたものなのか、動くとミシミシ、キーキーと軋む音がする。
 教室の近くには人だまりが多く見受けられたが、戸を閉めたら声はシャットダウンされて何も聞こえなくなる。
 ここは俺たち以外誰もいない沈黙の世界。「輝麗」
「…なに」
 聞き取れないぐらいの掠れた声。
 感情のない、淡々とした声で間を取って言った。
 ゆっくり深呼吸して、彼女の顔を見ながら聞く。
「あのさ、さっきのやつのことだけど、別に怒ったわけじゃないんだよ?ただ、なんで嘘ついたのかなって思って…気になって。けどキツく責めすぎたよね。腕引っ張った時痛かったね。それは申し訳ないと思う。だから本当にごめん…」
 俯いているだけで反応はなかった。
 お願いだから、なんでもいいから喋ってくれ。思ったこと全部吐き出していいから。許してくれなくてもいいから。
 じっと待っていた。
 手に汗を握りながら。彼女が言葉を発してくれるまで。
 唾をごくりと飲み込んだ。彼女からなんて言われるかを覚悟して。
 あまりにも反応がなく心配になったので顔を覗いてみると、泣いていた。
 大きな瞳から収まりきらない大量の涙を流して、目が充血し、鼻が真っ赤になっている。
 手の甲で涙を擦り、泣き崩れた顔を俺に向ける。
 教室に入ってから七分。ようやく彼女が口を開いて話し始めた。
「…顕微鏡のやつ、それに対して怒ったわけじゃないよ。確かにいつもの恒星君の声じゃないし怖かった。詰め寄られて、腕を引っ張られた時は痛いと思った。でもそれじゃない…」
「えっ…それじゃあ…」
 何に対して、起こったのだろう。何にそんなに傷ついているのだろうか。
 時計の針を巻き戻して、探ってみたけど思い当たることはない。
「俺の何がいけなかった?何が嫌だった?」
「最近の恒星君の行動がなんとなく冷たく感じたの。目があったら絶対逸らすし、話しかけても、すぐどっか行こうとするし…。国語が終わった後に一緒に理科室いこって言ったの覚えてる?その時の恒星君すごく嫌そうで、迷惑そうな感じだった」
「…他は?もうない?」
「あともう一つある。号令で下向いた時、私の気のせいかもしれないけど、目があったかと思ったら逸らされて。それがすごく悲しくて、なんで逸らしたのか気になったの。私昔から無意識に行動してることが多くて。もしかしたら、恒星君に悪いことしたかなって不安になって。だからみんなにゴミ捨ててくるねって言って、抜け出してきたの…」
 そんな、違う。逸らしたのは嫌だったからじゃない、嫌がらせをしたかったからじゃない。誘ってくれたのも迷惑なんか思ってない。
 なんていうか。言葉で言い表しにくいんだけど。
 ドキッとしたんだ。恥ずかしく言えないけど、好きになってからまともに顔をが見れなくなって、逸らしただけだ。なのに…。
 涙を拭いながら、彼女の話の続きを聞く。
「そしたら嘘ついたのがバレちゃって、恒星君に嫌われちゃったらどうしようって思ったらもっと焦って、あんな態度とちゃった…傷ついたよね。私のこと嫌いになったよね?」
「嫌いになるわけない!だって俺は!…」
 君のことが好きだから。まだ言えないけど、いつかは絶対伝えるから。まだ待ってて。
「輝麗ごめん…そんなつもりはなかったんだただ気になったなっただけなのに、俺が悪いから。本当駄目だよな俺…」
 自分が惨めすぎて、出来損ないすぎて涙が出てきた。泣きたいのはそっちのほうだろうに。抑えきれなくて、頭を抱えながら泣いた。
 でも泣いていたのは俺だけじゃない。輝麗も泣いている。
 結局二人で泣いた。静かな教室に涙の音が床に落ちる音が、響き渡る。
 薄暗い部屋なのに、涙が反射して、ダイヤモンドのように輝いている。
 だんだん過呼吸になっていく彼女の方に手をやり、気づいたら自分の席を立って、抱きついていた。
「ゆっくり深呼吸して」
 背中をさすりながら、落ち着かせる。スーハーと呼吸音がする。
 腕の中にいる彼女はびっくりするぐらい小さい。俺が抱きついたら腕の中にスッポリとはまってしまう。
 そんな彼女の体は暖かくなっていた。氷のように冷たかった腕も、きつく鋭かった目も、元に戻っていた。いつもの彼女を取り戻している。
「理由も聞かずに誤解した私が悪かったね…ごめんね」
「輝麗は何も悪くないから、泣かないで。謝らないで。せっかくのメイクが台無しだよ」
「もうとっくに台無しになっちゃったよ!」 鼻を豪快にすすり、俺のことを優しく叩いた。
 泣き止んだ後も少しだけここにとどまった。この狭い教室を冒険することに。一つ、宝箱と書かれている壊れかけた箱を見つけた。俺の手のひらにちょこんと乗るぐらいの小さい箱。見たことないものが出てくるかもしれない。
「「開けてみる?」」
 お互い同じタイミングで振り向いて、全く同じことを聞いた。
 彼女は口元に手を当てて、穏やかに笑った。
 さっきのものか、今おもしろくて出てきたものかはわからないけど目頭部分に一つの雫。
「じゃあ開けてみるね」
「うん!もしお金が出てきたら私に九割ちょうだい!」
「俺の分ほとんどないじゃん。その前にこの中にそんな大金が入ってないだろ」
「そんなの分かんないよ。もしかしたら宝石が入ってるかもしれないよ」
「んなわけない。俺の予想は空っぽかな」
「私はお金にする!はずれたほうはお願い一つ聞こう」
「えー…。まぁいい、よ」
 彼女が箱の中身を早くみようと俺の方に体を寄せる。俺の左腕付近にこてっと頭が当たった。 
 箱の中身が気になるのと、距離が近すぎることにドキドキする。急激に上昇していく体温。気分の高揚感。手が緊張して、震える。
 箱についてる南京錠の鍵を開ける。探した時に、ポツンと一緒に置いてあったのだ。
 小指の第二関節ぐらいの鍵を南京錠の鍵穴に差し込む。
 左回りに少しやると、カチッと引っかかる感覚を感じた。上の逆Uの字のところが取れ解錠した。
 ゆっくりと取り外し蓋に手をかぶせる。
「せーのって言ったら開けてね。いくよ!せーの!」
 プラスチック材質の宝箱は軽々と開いた。
「何が入ってる?」
「これは砂かな?」
 茶色っぽい色に目でギリギリ見えるぐらいの小さな石が紛れている。
 だからさっきから手がざらざらしてるのか。誰もいないし、スリッパで外に出たわけじゃないのに、ジャリジャリ砂場を歩くような音がしてたのか。
 紙切れの下に何か黒っぽい何かがある?
「恒星君これ宝石じゃない?」
「違うと思う。って動いた!これあれだよ!みんながGって言うやつ!」
「嘘!急いで捨ててよ!」
 彼女は俺の背後にしがみついて盾にしようとしている。
 急いで元の場所に戻して去ろうとした時。
 足下でカサカサと音がした。
「輝麗、こっちきたよ!あっどっか行った」
「びっくりさせないでよ!みんなそいつのことは嫌いなんだよ?恒星君虫大丈夫なの?」
「嫌、大丈夫じゃないけど男がビビってたらどうしょうもないじゃん」
おー勇敢!と言って手をぱちぱちしている。さっきの雰囲気はどこに行ったんだ。
 二人きりの教室で思いっきりはしゃいだ。普段は教室の中では絶対ない俺が、自我を忘れたかのように、まるで人が入れ替わったかのように、彼女と一緒に走り回る。色んな物を使って簡易的秘密基地を作った。
 やっぱり彼女はこうでなきゃ。些細なことで笑顔を作り、嫌なことを忘れさせてくれる。
 愛する人でもあり、俺の光でもある。
 光がまともに差さない、薄暗い教室なはずなのに、どこからか分からない、明るさを感じたのは俺だけじゃないだろう。
 
 もう一度涙を拭き取って、誰もいないことを確認してから空き教室を出た。
 部屋の中が暗すぎて、外の光は目を瞑ってしまうぐらい眩しく感じた。
 外に出た瞬間ホッとして胸を撫で下ろした。 彼女に避けられていた理由を、泣かせてしまったことを謝って多分許してもらえたことに安堵したからだ。
 よかった、嫌われてなかった、もうこのままなのかと思った。話の途中で彼女を抱いた時も、部屋の中ではしゃいでた時もずっと同じことを思っていた。今も思ってるけど。
 一階へと繋がっている階段を降り、長い渡り廊下を二人で歩く。
 そして何事もなかったかのように、教室に入った。
 遅くなってしまったが、昼食を昼食を摂ろう。残りの時間は二十九分。
 あんなに話して泣いて遊んだけど、意外と時間が進んでいないことにびっくりした。
 引き出しの中から真っ白な巾着袋に包まれた弁当箱を取り出す。保冷剤が溶けたのか、至る所が濡れている。
 何の理由もないけど、いつも予想していることがある。何かと言うと弁当の中身だ。メインは何かな、ミニトマトは入っているかなとか考えながら蓋を開けているのも俺の日常。
 結び目のところに挟まれている箸を抜き、硬く結ばれた巾着袋の紐を解いて蓋を開けようとした瞬間、机が上下左右に大きく揺れた。
 こんなことが起きるとか思ってなかったので、こういう時に限って机の端っこに置いていた箸箱を落としてしまった。中身は出てこなかったけどプラスチック製のやつは衝撃が大きいと割れるから気をつけないといけないのに…!誰だよって言いたいところだったけど、だいたい検討はつく。
「恒星君!一人で食事を摂るのは、コミュニケーション能力を発達させるのに絶対的ダメなことって、家庭科の先生が言ってたでしょ!勉強はできるのに行動できないのは勿体無い!だから、さっきの宝箱中身当てゲームでどっちも負けたから、私のお願い聞いて。こっちに来て一緒に食べようよ!私の愉快な仲間たち恒星君のことを待ってるよ!」
「こっちって、ま、まさかじゃないと思うけど、まさかあの中に!?」
「それ以外どこがあるのって言うの!」
 彼女がピンと指差していた方向に映るのはは大勢の人だまり。十人から十二人ぐらいだろうか。
 見るからに生きる世界が違う。境界線の向こう側にいる住民たち。
 ちょっとピアスをつけて机の上に座って食べながら話すヤンキーっぽい男子に、首元のボタンを全開にし、落ち着きのないチャラついた男子もいる。
 茶髪や金髪に染めて、ギャル!まではいかないけどちょいギャルって感じなのと、スマホを手にしながら弁当を食べる女子軍団。
 この塊はクラスの中でもトップクラスのやばい集まりだ。人を殴ったり、いじめをしたり、補導されるようなことはしないけどとにかくやばい。
 そんなキャピキャピワイワイしている雰囲気の中に、死んだ幽霊みたいな俺が入る?
 無理無理無理。絶対無理だ。いくら何でも無茶振りすぎる。雰囲気をぶち壊ししてしまうだけだ。
 でもこれだけは誤解しないでほしい。あの中に入るのがめちゃくちゃ嫌なだけで、彼女にお誘いされたことはなんとも思わない。
 やっぱり言い直させてくれ。彼女に申し訳ないけど、誘いは誘いでも、これは別だ。
 お願いや願望よりも強制的連行の方が近いと思う。
 首がもげ取れそうなぐらいに横にブンブン振り、誘いを否定する。
 うーんと手を口元に当て考える仕草をする。
 ぴかーんと閃いたようで、左手に右手をポンとつく。
「優しい恒星君がお願いを聞いてくれないなんて。なら仕方ない。強豪突破!最終手段、秘密兵器を使うしかない!」
「は?何言っ…」
「こちょこちょだー!」
 少し離れたかと思うと、助走して、近いてきた。手をまっすぐにしどこかに狙いを定めて突進してくる。
 よく見ると、それは俺の腹部。腹部を狙っているようだ。それだけはと思って右に避けようとしたが、彼女の細長い指が俺の脇腹を完全に捉えてしまった。
 筋肉を引き裂いて、骨をえぐるようなこちょこちょだ。これはこちょこちょではなく、ただのえぐりだ。
 爪を切っているので、この前みたいに突き刺さりはしてないが、謎の威力がある。
 昔からくすぐったり、こちょこちょされたりするのが駄目だった。よく兄からされて、ケンカしそうになったこともある。
 なんで俺がこちょこちょされるのが駄目って知ってるんだ。正直言ってめっちゃ怖い。 何があるか分からないから、彼女には教えてはないはずだ。もしやずっと監視されてたりして…。
 彼女は天使の笑みではなく、悪魔の笑みを浮かべながら俺を攻撃する。
「恒星君どうする?やっぱり一人で食べる?それとも私と一緒についていく?」
「分かった。分かった。ついていくから、えぐるのだけはやめてくれ」
「えぐるって、こちょこちょしたつもりだったんだけど。まぁいいでしょう、じゃあ着いて来てください!」
 そう言うと、こちょこちょするのをぴたっとやめて、ニンマリ笑ってピースをする。
 彼女の行動力はすごいぐらいうんざりする。
 誰も彼女には逆らえないだろう。これは良い意味で。
 仕方なく席を立ち、箸を拾う。弁当箱を持って彼女の後ろについていく。
 二人で食べる俺の勘違いであってほしい。 そう願ったけど俺の願いは叶わなかった。
 案の定連れて行かれたのは、ヤンキーと女子軍団のところ。小さな彼女の後ろに隠れた。
「今日は新たな友達を連れてきました!だからみんな仲良くしてあげてください!」
 彼女が横に行き、俺の姿が現れる。
「あっ…えっと、輝麗と仲良くさせてもらってます。山隅恒星です。よければ仲良くしてください…」
 俺が声を発すると、賑わっていた雰囲気は一変し、一瞬にして静まり返った。
 本当に気まずいんだけど。十人ぐらいの視線が俺の方に一気に集まる。
 話すのをやめ、食べるのをやめ、こちらをじっと見てくる。得体もしれないものを見るかのように。
 博物館に置かれてある銅像の気分がわかる。 人に見られるなってこんなに怖かったけ。 あの時とはまた違う恐怖が近づいてくる。 そおっと後ろに下がり彼女の耳元に口を近づけた。
「ほらやっぱり、俺こなかったほうが良かったじゃん。みんなシーンと」
「マジで!?ずっと話してみたかったんだよ、なぁみんな!」
「へっ?」
 予想を百八十度ひっくり返す反応が返って、間抜けな声を漏らす。
「そうそう。なのにさ端っこのほう一人でいて、いかにも近づくなオーラがやばかったよねー!」
「めっちゃ分かるー!」
「何もじもじしてんだよ。もう友達だろ?ほらもうちょいこっちこいよ。一緒に弁当食おうぜ」  
 こんな俺を誘ってくれた?みんなが待ってくれてるよって言った彼女の言葉は嘘じゃなかったのか?信じられない。
 弁当を一緒に食べようと言ってくれたのか?嬉しい…すごく嬉しい。輪の中に入ろうとしたけど、一歩前に出て止まった。
 よくよく考えたら、この人達に迷惑じゃないだろうか。話についていけないだろうからまた邪魔者扱いされるんじゃないか。
 やっぱり俺なんかがいたら気を使うだろうし…。
「誘ってくれたのはすっごく嬉しんですけど、みなさんに迷惑じゃない…ですか?」
「お前優しい奴だな!」
「迷惑じゃないよ」
「何言ってんの!ほら時間ないしこい!」
 一人の男子に腕を引っ張られて輪の中にお邪魔する。
 もう一回いただきます!っと誰かが言った。俺も弁当の蓋を開け一緒にいただく。
「お前の弁当うまそう!その卵焼き、よかった俺に一つちょうだい。俺の唐揚げと交換しようぜ」
「…いいね、じゃあどうぞ」
「マジ!?ありがとー!」
 グループの中で二番目にヤバそうな男子が俺の弁当から綺麗に焼けた黄色の卵焼きを一つつまみ取った。俺は彼の大きな弁当の中に山ほど入っている唐揚げを一つ食べた。
 味がしっかり付いていて美味しい。時間が経っているはずなのに、きつね色をした衣が堅揚げタイプのポテトチップスみたいにザクザクしてて美味しい。
 彼も、うまいうまい、この卵焼き、甘くて優しい味がすると感動しながら味わってくれている。自分で作ったわけじゃないけど何となく嬉しかった。もしお世辞だとしても、そんなに感動しなくてもいいのに。
 ちなみに今日の弁当はミニのり弁。あおさがたっぷり使われたちくわのとカニカマの磯辺揚げに、サクッとした硬すぎず柔らかすぎずの衣が美味しい白身魚フライ。赤唐辛子が少しピリッとしてて、何と言っても胡麻油の香りが香ばしいきんぴらごぼう。どこの面も淡黄色で均等に焼けている卵焼き。海苔の下に待ち構えているのは、おかかのふりかけが存分にかけられた白米。このモチモチ食感は…もち米かな。どれも美味しい。
 俺が楽しそうにおしゃべりしているその隣では、彼女が嬉しそうに見つめている。
 そもそも今、俺は何をしているのだろう。 学校では口一つも開けることができなかった俺が友達として話してるのか。
 夢を見てる、これは幻なのか?
 小二の頃から誰とも関わってなかったのに、高校に入ってから誰も俺のこと気にしてなかったのに。
 異性のことが好きになって、カフェに行って、歩けなくなったのをおんぶして、家まで送り届けた。
 好きな人のために誕生日ケーキまで作った。
 こういうのを一軍を言うんだろう、そんなグループに入って友達になり、物々交換しながら一緒に弁当を食べている。
 こんなことが本当にあっていいのか?
 どんだけ考えても、理解が追いつけない。 処理しなきゃいけない情報が沢山入ってきて頭がパンクしそうだ。
「そう言えば、うちらまだ名前言ってなかったよね。自己紹介的なやつしようよ」
 このグループの中でも、メガネをかけたおとなしそうな女子が提案する。
 そうだねとみんなが称賛する声をあげる。
 んじゃ俺から言うわと一人の男子が手を挙げた。このグループの中で一番危なっかしそうな男子だ。ワイン色の髪の毛がワックスでバリバリ整えられている。
「小野寺龍樹。サッカー部の副キャプテン。二年がいないから一年の俺がなったんだよねぇ。見た目が派手だからしょっちゅう怖がられれるんだけど、結構優しいほうと思うから、これからよろしく。てかさ、お前の名前って珍しくない?恒星って。星系の名前ってカッコいいよな」
 見た目の割に口調が優しくて、言葉遣いが丁寧なのに驚いた。名前の通り、勇ましくて龍という感じが想像できる。
「龍樹君ね。俺の名前より、龍樹君の名前のほうがかっこいいと思うけど嬉しい。…ありがとうございます…えっ?」
 さっきまで俺の四つ隣ぐらいで呑気に弁当食べながら、自己紹介してたのに。龍樹君は今、俺の肩に腕をかけている。
 表情からして怒ってる…?もしかして俺の言い方が気に食わなかった?初対面なのに調子乗った態度に腹立っちゃった?
 自分で優しいって言ってたけど、何かされるかもしれない、殴られたらどうしよう。人が怒ったり、機嫌が悪かったりすることに敏感な俺はビビって目を瞑った。殴られることを覚悟して。数秒間、目を瞑っていたけど、何もされなかった。ただずっと俺を見つめたかと思ったら、今度は輝麗の方向を向いた。
「おい、輝麗。こいつめっちゃ他人行儀なんだけど、どうしたらいい?」
「ちょっと恒星君!カフェで約束したでしょ!敬語使うの禁止って!」
「輝麗の前だけじゃないのかよ。ここでもタメじゃないといけないの?」
「もー当たり前じゃん!ねーみんな?ってみんな?おーい。ねぇ、聞いてる?」
「お前ら…」
 目を見開き、謎に驚いた様子が見受けられる。
 みんな口を開けて目をかっぴらいている姿が面白くて、思わず吹き出してしまった。
「お前らめっちゃ仲良いじゃん。付き合ったほうがいんじゃね?」
 今度は龍樹君の言ったことが衝撃すぎて咳き込んでしまった。咳込すぎて息ができない。
「「つつつ、付き合うって、ちょっと、からかわないでよ」」
「二人とも息ぴったりすぎてウケる」
 俺と輝麗は俯いて黙り込んだ。付き合うって…彼女は俺に興味なんてあるわけがない。 そりゃ両思い?ってやつだったら嬉しいけど、俺が彼女と付き合うのは程遠い。彼女は心の優しい女神で、俺がひとりぼっちで可哀想だったからみたいな理由で声をかけてくれたんだろう。そうに決まってる。
 少しだけ彼女のほうを見る。彼女の頬はチークの発色なのかピンク色に染まっている。
 彼女とは近いようで遠い。頑張って近づいても永遠に近づけない距離にいる。
「ちゅーかさ輝麗、言ってなかったっけ?恒星のことす…」
「龍樹?これ以上言ったらどうなるか分かるよね?教えたはずだもんねー?」
「すいませんでした…」
 彼女は背伸びして龍樹君の首元に小さな手を当てる。何するのかなと思って見ていたら、満面の笑みを浮かべながら龍樹君の首を首を絞めようとしている。
「輝麗!?龍樹君のこと殺す気!?」
「そんなわけないよ!」
 俺と彼女の会話にみんなが大笑いする。中には口元に手を当て、こしょこしょ話ししている女子もいる。何か俺おかしなこと言ったかな?
「話を切り替えてどんどん言っていこ」
 冷静になった輝麗が手を叩き、みんなを沈める。
「じゃあ次私!」
 円の左側、輝麗の真横にいる女子が元気に手を挙げた。
「相田胡桃です。よろしくね!」
 陸上部とかテニス部だろうか?肌が綺麗に焼けていて元気が有り余っているのが見て分かる。彼女の一番の友達だろう。俺が輝麗から離れている時は胡桃さんと一緒にいる。
 その後もどんどん自己紹介が続いた。
 二番目にヤバそうな首元のボタンが全開でスマホが相棒の牛野稜駿君。
 俺と一緒で校則違反がいとつも見当たらない勉強は嫌いじゃないらしい水戸響透君。 
 前髪を横によけショートヘアが似合ってて茶色っぽいカラーコンタクトつけてる長谷部笑那さん。
 野球部だけど髪を染めたくて、髪を切りたくない。顧問にねだり続けてる佐々木大輝君。
 爪がお洒落に塗られていて、制服だけど制服に見えないぐらい綺麗に着こなすこのグループのお洒落専門家、梥本奈々美さん。
 高身長でスタイル抜群。輝麗とよくショート動画を撮るのが好きな東江星来さん。
 お菓子とゲームが好きで、将来はプロゲーマーか洋菓子職人を目指してる羽田辺叶翔君。
 自己紹介しようと提案してくれた、このグループの中で唯一おとなしい如月穂花さん。
 明るくて授業中によく発表している、クラスのムードメーカーの笹部燈莉さん。
 この人たちがこれから、俺の友達として仲良くしてくれるなんて…。
 誰もこんな明るい未来を想像してなかっただろう。いや、そもそも想像できないだろう。これには神様も仏様もびっくりして目が飛び出してしまう。
 ワイワイガヤガヤする雰囲気の中ずっと俺はモヤモヤしてた。何かを忘れているような気がする。
「うーん…」
「恒星?どした?体調でも悪い?」
 ペットボトルを取りにロッカーから戻ってきた大輝君が心配そうに俺を見つめる。
「体調はめっちゃいいから心配しなくていんだけど…何、忘れてるような気がするんだ」
「忘れてる?何を?教科書?筆箱?それとも糖分補給用のお菓子とか?」
「糖分補給のお菓子…。あっ思い出した。大輝君ありがと!」
 忘れてたのは誕生日ケーキだ。朝早くから彼女のために作った誕生日ケーキを渡してないんだ。
「みんなちょっと待ってて」
 一旦席を外して自分のロッカーに走る。教科書の奥に隠しておいた、大きめの保冷バックを取り出して、席に戻る。みんなが不思議そうな顔で俺を見る中、一番最初に口を開いたのは輝麗だった。
「恒星君、その保冷バック何?」
「今日輝麗、誕生日でしょ?だから朝早めに起きて誕生日ケーキ作ってきたあげた…」
「嘘…嘘でしょ…」
 彼女の目が点になり、体が硬直している。
 そんなに嫌だった?みんなも呆気に取られてこちらを見ながらフリーズしている。
 これ、めっちゃ引かれてない?みんなは俺たちがカフェに行ったことを知らないから、誕生日なんで知ってるの?って疑問に思ってるのだろう。
 誤解を解かないと、俺はただのストーカーになってしまう。
「誤解しないでね。誕生日は彼女から聞いたから。でもキモいよ…」
「ねぇ!私も一緒!ちょっと待って!あとキモくないから!」
 彼女は小さな体をかがませて、机にかかっている紙袋を俺に渡してきた。
「俺にくれるの?見てもいいの?」
「もちろん!」
 ピンクのリボンと花が描かれた可愛らしいテープを剥がし、中身を取り出す。バックに入ってるし、これは何かの食べ物かな?
 入っていたのは、カットされた三種類のスポンジ。
「これ、シフォンケーキ?抹茶とココアとプレーンの」
「正解!誕生日だし、本当はショートケーキにしようと思ったんだけど、家にいちごがなくて、それに昨日カルムで食べたからさ。迷惑だった?」
「そんなことないよ。嬉しい。ありがとう」
 気恥ずかしくなって控えめに応答したけど、
マジで言ってる?嬉しいの一言しか言っとないけど、本当はウルトラ・ハイパー・メガ・ビック・嬉しい。もうこの世に存在したない、言葉に表せないぐらい幸せだ。確かに昨日言ったばかりだから忘れてはないとは思ったけど、まさかケーキを作ってくれるなんて。しかもこれ、手作りじゃない?俺は前世何をしたんだ?こんなに幸せなことだから、相当善良なことをした人間だったんだろう。
 触らなくても分かる。俺は今、顔から火が出てる。
「恒星君照れすぎ。そんなに嬉しかった?」
「そりゃそうでしょ!だって、恒星君知らないでしょ?輝麗の手作りスイーツは、目が飛び出るぐらい美味しいの!ほのかな甘みに優しい味。輝麗の性格が出てるんだよ」
 燈莉さんが横から激推ししてくる。それを冷静に穂花さんが対処する。
「燈莉ちゃーん?静かにしようね。今二人で話してるでしょ?」
「そうだよねー。ごめんごめん!」
 そう言って燈莉さんは後ろのほうに引っ込んでいった。
「輝麗の手作りスイーツってそんなに美味しいの?あんまり想像がつかないから、楽しみだな。一口食べてみていい?」
 パックの蓋を開けて卵色をしたノーマルシフォンケーキを一つ、つまもうとしたら、輝麗にパックごと奪われた。
「えっ?もしかして食べちゃ駄目な感じ?」
「違う!私のやつ食べる前に恒星君が作ってきてくれたやつ、食べたいから、ちょうだいよ」
「そう言えば作ったとか何とか言ってたな。何作ってきたんだよ」
 お菓子が大好きな叶翔君が聞いてくる。
「簡単だけどカップケーキ…作ってきた」
 少し間があったもののみんな口揃えて…カップケーキ!?と言う。よほどびっくりしたのか声のボリュームがデカくなって、弁当を食べていた生徒達の視線がこちらに移った。
 先生も驚いて手に持っていたミニトマトをうっかり落としてしまったようだ。
「おいおい、びっくりしたじゃないか。楽しんでるのはいいけど、もう少し声を小さく。まだ弁当食べている人もいるから。喉詰まらせたら大変なことになるだろ?」
 手を下に下にと下げるような素振りをして、ミニトマトを拾い、部屋を出て行った。
「話に戻るけど、カップケーキ作ったって今言った?」
 叶翔君は信じられないのか俺を疑っているようだ。
「うん言ったよ、カップケーキ作ったよ」
「見せてよ!」
 一斉に俺に飛びかかってきて、思わず後ろに引き下がってしまった。
「ほらほら、恒星君は怖がりだから、寄ってたかって近寄ったら可哀想でしょ」
 心優しい彼女がいち早く気づいてくれたおかげてて人の波に潰されずに済んだ。
「ごめんごめん」
 みんな一歩後ろに引き下がり、さっきのおとなしさを取り戻す。
 みんなが静かになったところで保冷バックのチャックを開けて、透明な袋に入ったカップケーキを丁寧に机の上に並べた。
「マジかよ、女子力高」
「申し訳ないけど男子って不器用なイメージがあるから、もうちょい雑かと思った」
「これお店のやつみたいじゃない?」
「私より料理絶対うまいよね」
「小さい頃から料理とかしてて、気づいたら上達してた」
「それ一番すごくない?」
「気づいたら上達ってそれはプロじゃん!」
 嬉しい言葉が次々と俺の頭の上を飛び交う。 肝心の彼女は二種類のカップケーキを見ていない…食べている。木の実を口の中に沢山詰めたリスのように、モグモグしている。
「輝麗、美味しい?口に合う?」
「めっひゃほいひし!」
「口に入れ込みすぎて何で言ってるかさっぱり分かんないんだけど」
 彼女はゆっくりと噛み、一気にゴックリと飲み込んだ。詰まりかけたのか、大きく咳込みをして答えた。
「めっちゃ美味しい!私よく家でカップケーキ作るけど、パサパサするって言うか、ガチガチになっちゃうんだけど、恒星君のはなってない!ふんわりしてて、甘さも丁度いい!焼き方が上手なのかな?焼きすぎず、生焼すぎずって感じ!」
「輝麗がそう言うんなら結構上手なんじゃない?」
「そうだよ!ノーマルとか見るからに柔らかそう。甘いの好きだからチョコチップのカップケーキいいよね。…でも食べれるは輝麗だけだよね。どんななのか気になるー!」
 みんながガッカリそうに肩を落とす。彼女は自分だけ貰えてたので、みんなに申し訳なさそうにごめんねと謝っている。彼女はどうしようか考えているようだ。閃きがよい彼女は俺にある提案をしてきた。
「輝麗がそれでいい、それがいいって言うなら俺はいいよ」
 どちらも賛成してるので彼女が提案したことにした。
「みんなちょっと待って。二人で考えたんだけど、大量生産して輝麗が食べれないって言うから、よければみんなで食べようよ」
「えっ?俺たちも食っていいの?冷凍とかしたら食べれるんじゃないの?せっかく恒星が輝麗に作ったんだし悪いよ?なぁ輝麗」
「私はいいの。これのほうがいいの。沢山作ってくれたし、みんなで食べようよ。こんな機会滅多にないよ」
 彼女はいつもの優しい笑顔を見せながらみんなを遠慮してるみんなを説得する。俺は彼女が喜ぶ方法なら何をしてもいいので言うことを聞く。
「確かに、恒星君がまた作ってくれるとは限らないよね」
「笑那さん安心して。金欠になったらできないけど、みんなが食べたいって言うなら、また作るから」
「輝麗と恒星がそう言うんなら…」
「みんなで食べようぜ」
 響透君が言おうとすることに稜駿君が被せていった。響透君は自分のセリフを取られて泣く真似をする。稜駿君はそれを慰めるかのように背中を叩く。慰めるにしては少し激しかったけど。
 まぁ、輝麗は嬉しそうだし、みんなが納得しのでカップケーキはみんなで食べることにした。
「じゃあチョコチップとノーマルがあるから、好きな味食べて」
「どっちもマジでありがと!」
「じゃあ甘いの好きだし俺チョコチップ!」
「私は王道のノーマルにしようかなぁ!」
 自分が作った物を人が喜んで食べてる姿を見て、自然と口元が緩んだ。その横で彼女も美味しそうに食べている。
「本当に美味しい。恒星君ありがとう。じゃあこれは、みんなに内緒で一人で食べてね」
「輝麗が喜んでくれるのが一番嬉しい」
 俺にシフォンケーキので入ったパックを渡し、また作ってねと言って言ってどっかに行ってしまった。
 本当は美味しくなかったのかなと思ったけど、マイナスなことは考えずにみんなが美味しそうに食べるのをじっと見ていた。
 
 長い長い地獄の授業が終わり、帰る準備を始める。
 昨日が短縮だったから、時間が長く感じたな。
 それにしても今日は夢みたいな一日だったな。
 あの後も、輝麗以外のメンバーと思う存分に話した。先生のこと、家族のこと、日常生活の中で面白かったこと、高校生ならではの恋愛話まで発展しそうになった。
 稜駿君がみんなの好きな人と言うテーマで話そうと思っていたようだが、それはさすがに言えないくない?反対の声があがったので中断した。もしそのまま話が進んだら流れ的に言わないといけなかったかもしれない。そう思うと背筋がゾクっとした。
 もし好きバレした時のみんなの反応が怖いのだ。お前みたいな奴が輝麗のことが好きとか笑えるわみたいなことを言われそうで、でもさすがにそこまでは言わないか。みんな友達想いだったし、見た目の割にみんな優しかったし。こう言うのギャップで言うのかな。
 それでもやっぱり自分は輝麗が好きです!と言うことは言えない。けどみんなの好きな人は気になる。 
 もしかしたら彼女の好きな人もこっそり聞けたかもしれないと思うと体がむずむずした。
 まぁ俺は彼女の恋愛対象すら入ってないと思うけど。彼女の好きな人と言ったら、龍樹君とか稜駿君とかだろう。
 龍樹君とは家が近くて保育園の時からの幼馴染。
 稜駿君は高校で一緒になって男友達の中でも三本の指に入る仲の良さ。
 彼女は明るくて優しい。龍樹君も稜駿君もおんなじ感じの性格。仲が良いので、彼女と付き合ったとしても何の違和感もないと思う。
 そんなこと考えてたら、心の中にほんの小さな穴ができてモヤモヤしてきた。 
 まぁ当たり前か。俺は彼女のことが好きだし。それでも二人のことを敵認証してるわけではない。二人とも新しくできたかけがえのない友達だ。
 …でも現実になったらどうしよう。
「それはちょっと、いやめっちゃ嫌だな」
「何がちょっと、いやめっちゃ嫌なの?」
 だだだ誰!?て言いたかったけど声で分かった。びっくりしたわけじゃないけど、聞かれていたことに焦って、危うく椅子をひっくり返すとこだった。
「びっくりはしてないけど、輝麗。いつからいたの?」
「切り替え早。てか今のは絶対びっくりしてたでしょ。だって椅子ひっくり返しかけてたもん」
 正直言うとびっくりした。心臓飛び出るかと思った。
「輝麗、いつからいたの?全然気づかなかったんだけど」
「今来たばっかり。したら、それは嫌だなって独り言がが聞こえたから、何が嫌なのかなって思って問い返したの。嫌なことあるなら私でよければ聞くよ?」
 今来たのね。どおりで気づかないわけだわ。それにしても私じゃ一番ダメなんだよ。
「これに関しては輝麗だけには絶対言えないから。親切にしてくれたのはありがたいけど、相談するのは遠慮しとこうかな」
「へー、私には言えない秘密があるんだなー?えっ。もしかして今日できた友達の中で恋愛のほうの好きな人ができたとか?」
 もとからいますよ。しかも今、俺の目の前にいるし、話してますよ。伝えない限り鈍感だから気づかないだろうけど。
「…そう言うわけじゃないけど」
「もぉー!一瞬間があったからこれは図星かと思ったんだけどなぁ。私人付き合い好きだけど超がつくほどの鈍感だからなぁ。おとなしい恒星君の感情は読みにくいねぇ」
 鈍感のほうがありがたいけどな。
「読みにくくてすいませんでしたね。それで、なんか用があってきたんじゃないの?」
「そうそう。よく分かってますねー」
 まぁ好きな人のことなら分かるのかもね。
「用事というのは時間確認のことで、今日の放課後、時間大丈夫?」
「時間は大丈夫だけど、どうしたの?」
「お互い誕生日だし、カフェでお祝いしたいなぁって思って」
 お祝いしたいって、してくれるんですかって感じだけど。
「そう言うことね。六時までに変えれるないいよ」
「今日誕生日だから何かあるとか?」
「違うよ。もっと大事なこと。また後で話すね」
「分かった。昨日みたいに遅れて来ないでね。もう人混みも大丈夫でしょ」
「まぁね。大丈夫じゃないけど、って聞いてないじゃん」
 俺の話終わる前に、彼女はルンルンとステップをしながら龍樹君のところに行った。やっぱり龍樹君のことが好きなんだろう。龍樹君はサッカー部だから忙しくて遊べない。だから俺はただの暇つぶし、おもちゃとして扱われてるだけだろう。
 胸がチクリと痛んだ。視界がぼやけて辺りが見えない。こんなことで泣いてる俺は馬鹿だな。子供っぽい、アホらしい。
 でも諦められない。龍樹君のこと好きかはまだ分からない。
 恋するのは不思議で面白いけど、辛くてく切ないもんだな。
 誰にもバレないように右手の人差し指で溢れ落ちそうな涙を拭き、残りの準備を済ませた。

「それじゃあ連絡終わり。学級委員、号令」
「起立。気をつけ。礼」
「ありがとうございました」
 騒がしい雰囲気帰りの会が終わり、それぞれ別の場所に移動する。帰宅する人、部活に行く人、他にもたくさんの人がいる。 
 ホームルームが終わった後の教室で口付近は満員電車と同じぐらい混んでいる。
 いつもなら、その人混みから少し遅れて教室を出るが、今日は違う。俺は変わった。
 反対側の出口から一番乗りに教室を出て、真っ先に靴箱に向かう。 
 理由は一つ。彼女を驚かせるため。
 小走りに短い廊下を走り、靴箱の五十センチ前でスリッパを脱ぐ。なぜかいつもこの場所で脱いでしまう。習慣化したのだろう。真緑のスリッパを入れ替えると同時に靴を持ち、それに履き替える。
 玄関を出てすぐ真横にピロティと言う、校舎でかげになっているところがある。休み時間はここに生徒たちが戯れるので長椅子いくつか置いてある。端っこのほうに座って待っておこう。 
 今は夏だ。日陰でも熱風と建物自体の暑さで涼しむことはできない。首筋に汗が滴り落ちるのが分かる。
 暇なのでバックの横ポケットから文庫本を取って時間を潰そう。
 この時間帯にここにいることはない。蝉の鳴く声、葉がさらさら揺れる音、自動車が通る音。生徒たちのはしゃぐ声。市総体を突破し、県総体に向けて気合の声を上げる各部活の顧問達。 
 今までは全てのことが不快に感じていた。 でも仲間ができた今日からは、そんなふうに思うことはないだろう。
 …のどかだなぁ。今はしっかり生きてる感じがするなぁ。
 …こう言うのも幸せっていうのかな。
 地獄って思う日は地獄。天国って思う日は天国。今は天国かな。
 思わず顔から笑みが溢れた。
 この恋も、ある意味幸せなのかもしれない。
 毎日が嫌で、全てを失って、死にたいと思っていた自分はどこにいったんだ。大嫌いだった彼女への憎しみはどこにいったんだ。
 人を好きになって、少しずつだけど失ったものを取り戻して、生きていてよかった思っている自分がいる。
 人に恋するのは、自分が生きたいと思える最高の薬なのかもしれない。
 彼女の顔を浮かべた。
 一緒にいると気づかないだけで自然と笑顔になってしまう。もっと彼女といたいって思う。今は何してるかなってずっと考えてしまう。無意識に彼女のことを探している自分。嫌なことがあっても、死にたいって思ってもて、精神的に追い込まれそうになっても彼女がいるから生きようと思う。
「早くきてくれないかな…」
 一刻も早く、会いたいなと思う。こんなこと思ってる自分が気持ち悪い。
 賑やかしい雰囲気、そよ風に吹かれながら彼女が来るのを待っている。
 …でもおかしい。本を読みじめて数十分たった。ずーっと待っているが、来る気配が一つもない。どうしたんだろう。今は二者面談シーズンだけど、俺たちのクラスは全員終わったはずだ。
 本にしおりを閉じ、探しに行こうとしたら、彼女が鬼の形相をしてこちらに向かってきた。 嫌な予感がする。俺また何かした?
「えっと、なんでそんなに怒って…るの?」
「怒ってる!だって、絶対一つ遅れて教室から出てくるって思ったもん。それでびっくりさせようと思ってドアの前に立ってたんだよ。なのに違う人ばっかり脅かして!なんで教えてくれなかったのよ!」
「だって輝麗が今日は早く来れるよね?って聞いてきたから早くきたのに、悪いの俺?」
「悪いのは私だけど…!どこ探してもいないから、おかしいなぁって思って教室探して、保健室行って、図書室まで探しに行ったんだよ!?」
 本当に探しまくったんだろう。綺麗に結ばれていた髪の毛はボサボサになっている。呼吸も荒く、汗が噴き出ているのが分かる。この広い校舎をどれだけ探したのか。
 でも、普段こんなことが起こんないから貴重な一面が見れたちゃ見れたし、面白いからいいから許そう。
「でも、なんで外は確認しなかったのさ」
「だって、絶対ないと思ったんだもん…」
「初めてだもんね、俺が早く出たの。早くしないと時間ないし、話したいことあるから行こ」
「そうだね」
 目的地、カルムに向かって歩き出す。
「どこにもいないから心配したんだよ!怖がりな恒星君が寂しがってるだろうなって思って。必死に探したんだから!」
 いきなり話し始めたのでびっくりした。しかも声めっちゃでかいし、人がいなかったからいいけど普通に異常者だよって言いたかったけど我慢した。
「それはどうも、ご親切に。てか俺子供じゃないから寂しくないし。人混みが嫌いなだけで怖がりっていうのは違うと思う。あと、どっちかというと迷子になったのは輝麗だろ」
「迷子って…そんな言い方しなくてもいいじゃん!私も子供じゃないし、迷子とかならないもん!馬鹿にしないでよね」
「馬鹿にはしてないよ、でも迷子になっただろ?」
「あれは迷子じゃない!探してただけ!」
「分かったから、ほっぺたつまむのやめてくれない?結構力強いから痛い」
「私が迷子じゃないって認めてくれたから許してあげる」
 彼女は俺の頰をつまむのを止め、腕を組んだ。フンと鼻息をつき、ニコニコ笑っていた。
 今日の午後からは相当ご機嫌だな。俺に新しい友達ができたから、安心してるんだろう。
 他人事なのに一緒に喜んで、何の意味があるのかは分からないが彼女が笑ってくれるなら理由なんかどうでもいい。
 いつもより遅い足取りでカルムに着いた。ドアを開けた時、チリンチリンと風鈴みたいな涼しい音が出迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
 キッチンのほうで何かを作っていた森田さんが音に気づいてこちらに来てくれた。
 昨日初めて来たばっかりだけど、二日連続だから常連の客みたいで心がソワソワする。
 日が当たらないところに座って、肩の力を抜く。彼女はバックから課題を出し、取りかかろうとしている。
 えっ、ここで課題するの?お祝いしにきただけじゃないの?俺が聞いてなかっただけか?でもそんなことはないと思う…。別にいっか。遅くなりすぎないなら、問題ないし。
「ここで勉強会するの?俺は教えたほうがいい?それとも自分一人でするやつ?」
「教えてくれるんなら教えてほしいけど…。恒星君がいいならお願い!」
「教える分にはいいけど、先に頼んだほうがよくない?」
「そうだね。来るまでの間と食べ終わってからしよっか」
 好きな人と勉強会をするみたいなやつはドラマのシーンでよくある。自分でも意味わかんないけど緊張する。ちゃんと教えられるかな。緊張しすぎて、箸借りたときみたいに噛みまくるんじゃないだろうか。余計な心配をしたので、もっと不安になってしまった。
 でも先に頼むって言ったか。今日は何にしようかな。
 メニューを見ようと思ったら、置き忘れたのかなかった。
「すいませ」
「森田さーん!メニューくださーい」
 俺が先に言おうと思ったことを彼女が横取りした。
「俺が先に言おうとしたんだけど」
「俺の前に私が言おうとしたの」
「バリバリ被せて言ってきたけどね、まぁいいよ」
 てゆうか、森田さん返事してくれた?話してたから聞こえなかったのかも。でも、聞こえてて渡しにこようとしてくれてるのにもう一回呼ぶのは鬱陶しく感じる。彼女は課題をやってて気付いてないようだし…。しばらく待ってみるか。
「恒星君!もう分かんない」
「まだ一問目だけど、しかもこれ、中二の理科の復習だし。顕微鏡の使い方、今日の理科でやったじゃん。あと何で課題からしないの?理科は宿題に出されてないんだし…」
「いいの!今は課題をやる気分じゃないから、理科するの!顕微鏡の使い方とか忘れた!だから教えてよ」
 ジタバタと足を動かし、ねだる彼女。こういうところも好きなんだろうな。強制的にとか無理矢理ってわけじゃないけど、必死にお願いするところが、何というか、可愛い。
「分かったから。他のお客さんに迷惑にならないようにシー」
 自分の人差し指を彼女の鼻に優しく当てる。
 命令された子犬みたいに騒ぐのを止め、勉強に集中し始めた。さっきまでおもちゃ買ってもらえない子供みたいにうるさかったのに、切り替え早。しかも分かってるじゃん、一番最初の問題。この嘘つき小娘が…。
 まぁ自力で解き進めてるし、分からなかったらまた呼ぶだろう。俺もこの時間で課題を終わらせるとするか。彼女が理科のワークをしている前で、自分は数学の課題をやる。
 因数分解、か…。苦手なわけじゃないけど、昨日復習し忘れたから、大丈夫かな。もうすぐ定期テストだしちゃんとしないと…。
 一呼吸してペンを動かす。今日の日付は七月七日。自分の誕生日でもあるし、彼女の誕生日でもある。
 そう言えば、カップケーキ作ってきて正解だったな。龍樹君たちも喜んでくれたし、お菓子作りが大の得意な輝麗から大絶賛されたし。そんなことで喜んでくれるなら、毎日作ってやりたくなる。いい笑顔でいい食べっぷり。水分持っていかれるのに、一人で五個も食べてたのは衝撃だったな。一つが割と小さかったから大丈夫だったのかって、こんなこと考えてる場合じゃない。課題をしないと。 でも結構スラスラ進むし、大丈夫そうだな。 これは分配法則して、カッコをつけたほうが良さそうだな。先生が説明してくれた方法が一番間違えずに済むのでこの解き方で慣らしておこう。
 これは…応用問題か…。基礎的なやつは問題文を見たらすぐわかるけど、応用になったらペンが止まってしまう。しっかり問題文を読まないと、引っ掛け問題だったたり、特殊な式になったりするからだ。過去の小テストでは、ほとんどが応用で落としてる。勿体無いミスが一番良くない。
「恒星君!」
「何!?」
「もぉー!ずっと呼んでるのに気づいてくるないから。没頭しすぎだよ!」
 彼女の言うとおりだ。応用問題とにらめっこしてたので全然気づかなかった。俺は一つのことに集中すると、周りの音が聞こえなくなるのが悪いところだ。好きな人がずっと声をかけてくれてたのにも関わらず、気づかない俺はどうかしてる。
「ごめん。謝るからそんな顔しないで」
 目をうるうるさせて、今にも泣きそうな顔をしてる。お願いだから泣かないでくれ。可愛い顔が台無しになるからって何考えてんだ。
「次同じことしたら、本当に怒るからね!」
「分かった。怒ってもいいから」
「二人ともお誕生日おめでとうございます」
 今誰かがお誕生日おめでとうって言った?
 声がした方向に向くと、彼女と俺はおんなじ反応をした
「「…えっ?」」
 俺たちの机の前に現れたのはチョコペンでハッピーバースデーと書かれた二人分のプレートを持つ森田さんの姿。
「今日はお二人さんの誕生日でしょう?だから特別に誕生日プレートをお作り致しました」
「「誕生日…プレート?」」
 俺と一緒に輝麗も首を傾げている。
 作ってくれたのはありがたいんだけど、昨日来たばっかなの、どうして俺の誕生日を知ってるんだ?輝麗は長年通ってるから知っているのは分かるけど、俺は昨日来たばっかだ。「森田さん。なんで恒星君の誕生日知ってるの?私も教えてないよ?」
「実は昨日お二人の会話が聞こえまして。盗み聞きは良くないと分かってたんですけど、どうしてもお祝いしたくて。あと、他のお客さんに相談して、お店の全席からメニュー表を取ったんだよ。そうじゃないと君たちは違うのを頼むだろうと思ったからね」
 昨日の会話、机の上になかったメニュー表…!そういうことか。確かに昨日、誕生日について話した。常にキッチンに立っている森田さんに聞こえてるぐらいだから、相当声が大きかったんだろう。それに、メニュー表がなかったのは俺たちが他のやつを頼まないようにするため。
 お客さんにも協力してもらったって、迷惑だったかな。申し訳ない。
 それにしても、お祝いまでしてくれるなんて。なんで心優しい人なんだろう。
「森田さんありがと。お金はいくら?」
「私がお祝いしたくて作ったのでお代はいりませんよ」
「それはよくないです。払わせてください」
「お代はこれからもここに来てくれるだけで十分ですよ。それでは私は戻りますから、楽しんでくださいね」
 森田さんはニコニコ笑いながら、他のお客さんのところに行った。
 プレートの上には沢山のケーキ。あまおうのお姫様が踊っているショートケーキ、器用に巻かれた生クリームがとろけそうなロールケーキ、真ん中で切られて中からほろ苦そうなチョコレートがお出迎えしてくれているフォンダンショコラ、チーズの香ばしい匂いが漂うチーズケーキ、濃厚な卵とカラメルがバタークッキーのおいしさを引き立ててくれるプリンタルト、ふんわりと膨らみまるでドレスを身にまとっているようなシュークリーム。 沢山のスイーツを飽きずに食べれるようにするため、全部ミニサイズにしてくるている。
 俺たちだけのために作ってくれたのか?これだけの数は作るのはかなりの時間がかかるに違いない。ミニサイズのを作るのは職人まですら大変だとテレビで言ってたのを覚えてる。これは感謝してもしきれない。どれも美味しそうだ。
「恒星君!めっちゃすごいよ!どれから食べたらいいか分かんないよ!」
 彼女は甘いものに目がなさすぎる。まるで初めてケーキを食べる子供みたいに目をキラキラさせている。何回もすごいすごい!と繰り返し、落ち着く様子がない。両手をほっぺたにやり何から食べようかなぁと迷っている。その姿が、恥ずかしながら愛おしくてたまらない。
 彼女の笑顔が好きだ。喜ぶ顔が好きだ。はしゃぐ姿が好きだ。何回も何十回も同じことを思う。
「恒星君は何から食べる?私は、どうしよう…。」
「その言い方はもう決まったみたいに聞こえるじゃん。俺は並べられてる順に食べるよ」
「いいねー!私もそうしようかな!」
「じゃあ食べようか」
 いただきます!と元気な声で挨拶し彼女はショートケーキに手を伸ばす。俺はケーキを食べる前に彼女のスマホに手を伸ばした。
 ホーム画面を開いて、すぐあるカメラ機能を開いた。カメラを向けたのは美味しそうにケーキを頬張っている輝麗。カシャッとシャッターを切ったと同時に彼女がこちらを見て目を丸くする。
「なんで写真撮るの!恥ずかしいからやめてよ!」
「輝麗だってこの前撮ったじゃん。仕返し」
「仕返しって…撮るなら撮るって言ってくれないと白眼とかしたらどうするのよ!」
「分かった。これからはちゃんと言うよ」
「もう一回撮り直して。その前にスマホ貸して」
「勝手に借りてごめんね。はい」
 勝手に借りたスマホを彼女に返す。フォークを置いてスマホで何かを探している様子。 首を傾げて待っているともう一度スマホを俺に渡してきた。
「こっちのほうが盛れるからこっちで撮って」
「もう一回輝麗のこと撮ったらいいの?」
「違う。その…えっとね…」
 物事ははっきりというタイプの彼女が、いつになくもじもじしている。そんなに言いにくいお願いなのか?何事も喋らずじっと待っていると、ようやく口を開いた。
 何を頼まれるのか覚悟して唾をゴックリと飲み込んだ。
「…ツーショット撮りたい。恒星君のほうが腕長いから恒星君が撮って」
 ツツツツーショット!?俺と!?何のためにそんなことを?こんなことをカメラに収めておくような、大事なことなのか!?
 困惑していると、彼女が焦った様子で
「別に嫌なら無理にとは言わないけど…撮れるなら撮りたいな」
 何らかの理由があるんだろう。迷いなくスマホを高いところにあげた。
「もう少しこっちに寄って。なんかピースとかするの?」
「写真撮ってくれるの?嫌じゃない?」
「嫌じゃないからこうしてるの。ほら早くしないと撮らないよ?」
「じゃあピースする!」
 もじもじしていたのから一変、いつも通りのハキハキさを取り戻していた。
「何枚か撮るよー。はいチーズ」
 四、五回シャッターを切って、彼女に渡した。
「ツーショットとか初めて撮るからブレてたらごめん」
「めっちゃ嬉しい!お気に入り保存しとく」
 彼女は口角をずっとあげたまま、再びケーキを食べ始めた。何がそんなに嬉しいのか分からないけどまぁいっか。
 並べられてる順にケーキを食べ進めていく。 程よい甘さがちょうどいい。どれも森田さんらしい味付けだ。手のひらよりも小さいケーキをあっという間にペロリと食べてしまった。
 セットでついていたオレンジジュースを飲みながら俺は思った。
 同じ誕生日の人と、同じ時間に食べる誕生日ケーキにはどこか特別感がある。好きな人と一緒に過ごす幸せさを感じるな。
 もし自分専用のスマホを持っていたら、美味しくケーキを頬張ってる彼女をカメラに収めているはずだ、唐突にそう思ってしまった。
 カチャッとフォークを置き声を合わせて言った。
「「ごちそうさまでした」」
 目の前にあった宝石たちは胃の中に消えていった。
 甘いのだけは早く食べれれので十分ぐらいで食べ終わったけど、彼女は幸せをゆっくり堪能するためか二十分ぐらいしてようやく食べ終わった。
 輝麗は食べ始めから食べ終わりまで、左頬を押さえていた。美味しすぎてほっぺたがが溢れ落ちるのを阻止していたらしい。
「本当に美味しかった!私今生きてる人間の中で一番幸せかもー!」
 ぐっと背伸びをしながらそう言う彼女。
 あなたと同じように俺も幸せですよ。好きな人とこんな時間が過ごせて。美味しい誕生日ケーキを一緒に頬張れて。ちゃんと感じたよ。
 生きててよかった、死ななくてよかったって。
「俺も幸せ。こんな美味しいケーキ食べたの久々だな」
「だよねだよね、こんな美味しいケーキ滅多に食べられないよね。しかも、私たちだけに作られた特別なサプライズプレートだよ?タダでこんな美味しいの食べられたんだよ?長年通ってたけど忙しすぎてこんなのなかったし、そもそもプリンタルトとかシュークリームは作るのが大変だから、今日初めて出たし。一気にいろんな種類のケーキが食べられるのも女の子の夢の一つだよ!本当夢みたい」
 嬉しすぎて口が止まらないようだ。
 一つ一つに相槌を打ちながら、話を聞いてあげる。めっちゃ早口だし、落ち着きないポメラニアンみたいだし、そもそも言うことが可愛すぎる。女の子の夢って。俺が叶えられそうなやつなら叶えてあげたい。
「本当にどれも美味しかったよね。もし一番美味しかったの何?って聞かれたら迷っちゃうよ。全部おんなじぐらい美味しかった!」
「じゃあ聞くね。一番美味しかったの何?俺はプリンタルトかな。プリン好きだし」
 彼女はスマホから手を離し、目を見開いた。
「えっ!私も!プリン自体が大大大好きだから、超最高だった!」
「そうだね…」
 合わせてくれたのかもしれないけど、一番好きなのが一緒とか、そんな奇跡みたいなことある?めっちゃ心臓に悪いし、二十四年ぐらい寿命が縮んだかもしれない。
 頬に手をやる。まただ、熱い。今度は心臓に手をやる。だいたい予想はついてたけど、バクバクしてる。破裂するんじゃないかってぐらい動いてる。熱すぎてオーバーヒートしそうだ。
 新しいコップにお冷を注ぎ、体を涼める。
 そうだ。彼女に言っておきたいことがあるんだった。これだけは彼女に伝えておかないと。
「ねぇ」
「んー?」
「俺、両親に謝るよ。頑張って仲直りする」
「本当!?頑張って!応援してる!」
 応援してるって、謝るのに応援とかあるのか分かんないけど、彼女がいるから仲直りできそうな気がする。彼女が俺を変えてくれた。 今の俺ならちゃんと伝えれると思う。
「ありがとう。頑張るわ」
 恒星君が仲直りできますようにと言いながら、お願いのポーズをしている。本当、優しい奴だな。
 他人事なのに、こんなことできるの彼女ぐらいしかいないと思う。向こうが俺に対してどういう思いを抱いているかは分からない、俺は彼女のことを好きになってよかったなと思った。
 もっと彼女のことが好きになってしまった。
 ホワホワ状態の俺の前で、時計の時間を見て、慌てた様子になる彼女。
「少し時間過ぎちゃった…ごめんね」
「気にしないで。でもそろそろ帰ろっか」
「食べるのに集中し過ぎて勉強会できなかったから、また今度しようね」
 あんなに勉強するって言ってたのに、お互いケーキを食べるのに夢中になって中断することにしのだ。
 散らかってある机の上をある程度片付け、荷物をまとめてから席を立った。
「森田さん。お会計お願いします」
「お会計は要らないよ」
「そんな、やっぱり申し訳ないですよ。森田さん」
「君たちの笑顔が今日の代金だから、気にしなくていいんだよ」
 俺と彼女は見つめて頷いた。
「「じゃあお言葉に甘えて…」」
「子供のうちに甘えときなさい。甘えるのも大切だからね」
「今日はありがとうございました。また来ます」
「まだのご来店をお待ちしております」
 笑顔を浮かべたまま、俺たちを見送ってくれる森田さん。最後に頭をペコっと下げて、ヒノキが使われているドアを開けた。
 涼しいけど温かい雰囲気に包まれたカルムをゆっくりと後にした。
「じゃあ気をつけて帰ってね」
「そっちもね。気をつけて帰らないと道真反対方向だから助けに行けないよ」
「バイバーイ!」
 小さな手を全力で左右に振り、ルンルンで帰っていた。彼女の姿が見えなくなるまで見送り、謝るための勇気とパワーをもらう。
 家族と誕生日パーティーをするとか言ってたな。だからあんなにハイテンションだったのか。
 俺も急いで買い物して帰らないと。二人が帰ってくる前に下準備しないといけない。
 正反対の方向を歩き出し、頭の中では 作る料理について考える。バイキング形式にしてもいいな。でも大人だし、コース料理みたいにしたらホテル気分が味わえる。どうしようかな。二人に謝罪することも踏まえて、コース料理にしよう。とりあえず何を作るか決めないといけない。メインはムニエルで副菜は豚肉と夏野菜のイタリアンマリネ。コーンスープにプチオニオンチーズフォカッチャ。時間があればトマトキムチのパスタを作ろう。
 酒のつまみには麻辣油のよだれ鶏。完璧なプランだ。料理を出す前に謝って仲直りしてからみんなで食事。自分の気持ちもスッキリするし、みんなが笑顔になるのが楽しみだな。
 今まで憎んでいた気持ちが嘘のようにどっかに消えている。自分でもびっくり。こんなことを思うのは初めてだからだ。とにかく早く帰ってきてほしい。そして、謝りたい。ただそう思うだけ。自分の素直な気持ちだ。
 家の近くにある少し大きめの大型スーパーに寄り、食材を買って家に帰宅した。
 玄関に入った瞬間、肩の力が一気に抜けた気がした。朝早くからカップケーキとか作って、久々に人と話したからだと思う。自分でも分かる。疲れは限界を達している。
 それでも作らないと。今は五時半。三人分の料理をするのには最低でも二時間はほしいところ。 
 でも、この前みたいに早く帰られたらサプライズはできない。いつも通りに帰ってきてくれることを願う。
 朝着たばっかりのエプロンには少し粉がついていたので、優しくぱっぱっとはたいた。 糸が解けかけて今にも取れそうな紐を気合いを入れて結んだ。
 時間がかかるフォカッチャ、ムニエル、マリネ、パスタ、よだれ鶏の順に作っていく。 申し訳ないけどこの家にフードプロセッサーがないのでコーンスプは市販のものを出すことにした。
 手際よくするために、フォカッチャを焼いてる時に鶏肉を蒸したり、鮭を焼いたり、パスタを茹でたりした。母さんと仲が良かった時に作ったレシピノートを見ながら作っていく。それでも一度にこんな量を作ったことがない俺は想像以上に時間がかかってしまった。 主婦でもないし、何かを作るのは好きだけど、プロの職人みたいに早く作れるわけでもない。それでも自分なりに頑張って作ったと思う。麺の茹で具合とか、鮭の焼き具合とか、全部難しかった。美味しい料理を作るために必要な調味料も分かった。相手が笑顔になるように作るため、愛情を込めることだ。
 カップケーキを作る時もそうだった。輝麗の喜ぶ顔が見たくて作ったんだ。
 母さんもきっとそうだ。小さい時のような笑顔が見たくて、作り続けてくれてるんだ。 喧嘩し続けても毎日弁当を作ってくれてる。夜ご飯も作り置きしてくれてる母さんはすごいと思う。今更なんだって感じだけど、俺の誇りだ。父さんも、特別何かしてくれたわけじゃないけど毎日働いてお金稼いでご飯を食べさせてくれている。
 どっちも俺が分かっていなかっただけで、たくさんの愛情を注いでくれている。
「申し訳ないなぁ…八年間も、自分のことが嫌いなだけな、そんなちっぽけな理由で無視ばっかりして…」
 深く深くため息をついた。テレビのほうに映っている時計に目を移して肩を落とした。
 まだ七時なる前。長かったらあと二時間、二人のことを待っておかないといけない。一秒経経ったら時計を見て、また一秒経ったら時計を見て。どんなに待っても時間が早く進んでくれるわけじゃないのに、どうしても早く二人に会いたくて、仕方がなく、落ち着かない。
「まだかなぁ…違う意味で待ち遠しいなぁ」
 皿洗いしている俺の目が急に熱くなった。 …さっき玉ねぎ切ったからかな。一雫の涙が出てきた。でも料理はとっくに終わったし、これは自分のことが惨め過ぎて出てきた涙だなとすぐに分かった。
「今までごめん。本当にごめん」
 テレビのコマーシャルでうるさいリビングで誰もいないのに、一人呟いた。
 
 その後も自分の部屋で一人で泣いた。涙が収まらなくて、もし誰かが帰っていた時に頭がおかしい奴だと勘違いされないように。力が入らなくて何度も膝から崩れ落ちてしまった。
 どうにかこうにかして起き上がって、風呂場に向かった。自分が悪いのに流れてくる涙を洗い流してしまおうと思ったからだ。
 フローラル系の匂いがするバスタオルをタオルスタンドにかけておく。のぼせないように換気扇をつけて風呂に入り、汗をかいた全身を綺麗に洗い流した。浴室にせっけんの流し残しがないか確認してからバスマットに足を踏み入れる。バスタオルだけには謎の自信がある。まるで高級ホテルのような触り心地のタオルは包まれているだけで眠くなりそうな柔らかさ。 
 そんなことはさておき、不思議ながら頭と体だけでなく心もスッキリ・さっぱりしたような気がする。しっかり髪を乾かして洗面所に落ちてるゴミを取る。
 …最近掃除機かけてるのかな。忙しくてかけれてないかもしれない。風呂に入った後だから汗はなるべくかきたくないけど、二人のために…。水に濡らすと冷えるタオルを首にかけて、掃除機をかける。
 今日は一段とできる男だと思う。自分で言うのもなんだけど。
 待って待って待ち続けて、やっとの思いで時計の針が八時を過ぎた。カルムで美味しいケーキをたくさん食べたので、お腹は空いてはないものの、話をする時にお腹が腹減ったと言ったら悪いので、何か口に入れとこう。冷蔵庫に残っていた、こんにゃくゼリーを二つとって食べる。
 目を覚ましてくれるような、超酸っぱいレモン味。身体、心に刺激がいくのがたまらない。
 少しでも時間を無駄にしないように、途中まで終わらせておいた課題をする。そうだった、因数分解の問題だった。彼女が目の前で理科してたから、てっきり理科の課題気分だったのに。
 でもモタモタしてる暇はない。もうじき二人が帰ってくる。
 頭をフル回転させて、応用問題にもなるべく時間をかけないよう頭を働かせた。脳が一生懸命頑張ってくれたおかげで残りの問題もテキパキ進めることができた。
 急いで勉強道具を片付け、自分の部屋に戻る。明日の用意をしてリビングに戻ろうとした時。玄関から鍵の開く音がした。ヒールので歩いた時みたいな空間に響く音と、革靴が地面とするような重い音。
 二人とも帰ってきた。出迎えに行こうと思ったのに一歩前に出たところで足が止まった。 怖い。この一つの感情が頭の中をグルグル巡り回る。
 さっきまでまですぐに謝りたい、会いたいって思ってたのに急に怖くなった。足がすくんで、動けない。何してるんだ。何を恐れてるんだ。今しかない。今しかないんだぞ。このチャンスを逃したら、もうないかもしれないんだぞ。どうしよう。輝麗…どうしよう。
「またいつか、親御さんと仲直りできたらいいね」
 優しく背中を押してくれた。今いるはずがないのに背中から彼女の押してくれる手を感じる。…できる。俺ならできる。彼女がついてるから。ふーっと深呼吸して、口を開いた。
「おかえり」
「あっ…た、ただいま…」
「話したいことがあるから二人ともリビング来れる…?」
「…分かった」
 動揺してるのか声がごもってるし反応が遅い。父さんはこちらを睨むまではいかないけど、警戒している。母さんはその背後に隠れるようにして、怯えてるというか、恐怖を感じているようだ。
 そりゃそうだよな。八年間まともに会話してなかったのにいきなり話したいことがあるとか言われたら怖いよな。一体何が起きてるんだって混乱するに決まってる。
 何回も深呼吸をして、さっきみたいに混乱するのを防ぐ。心を落ち着かせてから、俺はリビングの方に足を向け歩き出した。俺が歩き出したのと同時に二人もついてくる。
 二人を椅子に座らせて、本題に入る。
 俺が口を開こうとした瞬間、母さんが立ち上がった。
「鍵をかけ忘れたかもしれないから、玄関見てくるわね」
 俺と話しをするのが怖いんだろう。逃げるように席を立ち、ドアに手をかけた時、父さんも立ち上がった。二人とも逃げる気なのか。俺は真剣に謝ろうと思ってるのに、大人である二人が逃げてどうするんだよ。激昂して机を叩こうとした時、思いもよらぬことが起こった。
 父さんがドアを開けようとする母さんの手首を掴んだのだ。
 自分が予想してた行動と違って思わずえっと声を出してしまった。
「鍵はさっきかけたから、逃げるって言ったら悪く聞こえるが逃げようとするな。今はとにかく、おとなしく恒星の話を聞こう」
 母さんは自分の考えていたことがバレたかのように目を見開いて、俯いたが、そうね、そうよねと言ってドアノブから手を離した。
 俺が生まれる前から使っていたと言う、天然木の椅子に腰を下ろした二人は声を揃えて言った。
「それで話したいことって…何?」
 俺の顔を伺いながら、恐る恐る母さんが尋ねてきた。まだ怖いのか目は合わせてくれない。
「長くなるけど八年前のこと。もしかしたらこれだけで分かるかもしれない」
 二人は同時に顔を上げた。何かを思い出したような、そんな表情を見せた。
「あのことだろ、小二のころの…誕生日の日の…」
 聞いちゃいけないようなものを聞くように、小さな声で聞いてくる父さん。
「そう。そうだよ。それのことで言いたいことと謝りたいことがある」
「…言いたい、こと?」
「そう。言いたいこと」
 いっぱいある。八年間、ずっと一人で抱えてたこと。勘違いされてたこと。言えなかったこと。色んなことがある。
「何から話したらいいか、分かんない…」
 自分の指が目元にあることに気づいた。何で泣いてるんだろう。まだ何にも話してないのに。溢れて溢れて、止まらない。
 こんなんじゃ話せない。話したらもっと泣いてしまうだろう。
「ゆっくりでいいわよ。何時間でもずっと待ってるから」
「無理して一気に話そうとしなくていい。一つずつ、ゆっくりでいいから」
 あぁ、やっぱり暖かいなぁ。久しぶりに聞いたな。相変わらず優しさがある声だな。
 泣きじゃくった。彼女に思いを打ち明けた時より泣いた、男として情けないって思ったけど、絶対に泣かないって心の中では決めてたのに、二人のせいで、二人が優しすぎるから我慢できなかった。
 自分の弱さが分かるな。俺って優しくされると駄目なのかな。そうだ。どんな時でもそうだったな。小学校では泣いたことなかったけど、兄とよく公園に行って、摩擦のせいで滑り台から頭から突っ込む勢いで転けた時、痛かったけど泣かなかった。でも兄がすごい心配して頭撫でて、おんぶしてまで家に連れて帰ってくれたから思わず泣いちゃったな。母さんと父さんも顔色変えて、救急車まで呼ぼうとしたのは少し大袈裟すぎたけど、まだ四歳ぐらいだったから、大泣きしたな。
 すごく怖い夢を見て泣いた時、二人ともすぐ駆けつけてくれたな。仕事が遅くなって疲れてたはずなのに…。
 長い時間泣いたと思う。それでも二人はどこも行かず、何も喋らず待っていてくれた。
「話せそう?」
「…うん」
「じゃあ一つずつ話して」
 でも何から話したらいいのか、どうやって説明したらいいのか、分からない。先に謝るべきだと思う。
「まずは謝りたい。今まで避けたり、無視したりしてごめん。あの日、二人から見放されたような、嫌われたような気がして。話そうと思っても話したらいけないと思って。ごめんなさい」
「謝るのはこっちだ。恒星、顔を上げろ」
「そうよ。大人である私たちが一言も声をかけなかったのが悪かったわ。ごめんなさい。でもね、それには理由があるの」
「…理由?」
 言い訳するわけじゃないだろうけど、声をかけなかった理由?どう言うことだ。
「恒星は覚えてるかどうか分かんないけど、次の日学校に言ってる時に恒星の部屋を掃除したの。その時に机の上にノートが開きっぱなしになってて。覗いてみたら…」
 その続きはすぐには言っていくれなかった。
 母さんは悲しそうな顔をしてから、一筋の涙をこぼした。父さんも同じような顔をして母さんの背中をさする。光の反射で見えたのは父さんの流す涙。警察官であり、精神メンタルも強い。そんな父さんが涙を流すのは初めてみたと思う。
「すまない。思い出すと悲しくなってな」
「そうね。あれには泣かされたわ」
「あれって、何?」
「ノートに書いてたことはな、願い事だった。その願い事が」
「死にたい。父さんも母さんも友達もみんな大嫌いだ。いなくなればいいのにって…」
 …確かにそんなこと書いた。
 本当に絶望して、崖っぷちに立たされたような危機感があって、無意識に書いたんだと思う。何で書いたかは忘れてたけど、何かを書いたのは覚えてる。本当に自分は馬鹿だな。 その時は死にたいとかみんないなくなればいいのにとか思ったけど、嘘だ。そんなこと思ってない。みんなのことは大好きだ。
「信じられなかった。何かの幻だと思った。どう言う意味で書いたのか、本当にそう思ってるのか、帰ってきたら恒星に見せようと思ったけど」
 手で顔を覆うよにし、その奥では泣いてるんだと分かった。ティッシュを一枚取り、目元に当てた。
「愛する息子に嫌われたんだと思ったら、声がかけたくてもかけられなくなって。明日こそは、明日こそはってどんどん先延ばし。でも気づいたら恒星は私たちのそばからどんどん離れていって…。情けないわよねぇ。大人なのに一言も声かけないとか…情けないわねぇ」
「本当にすまないと思ってる。すまなかった恒星。許してくれ」
 父さんも母さんも頭を下げた、子供の俺に向けて。やめてくれ、また泣きそうになるから。
「そんな、そんな。二人して謝らないでくれ。悪いのは俺だから。だから顔上げて」
 ゆっくりゆっくり顔を上げた。真っ赤になった目と鼻。濡れた頰。
「これで仲直りできたのね。もう怒ってない?これからは話してもいいの?私たちのこと嫌いじゃない?」
 涙を浮かべながら笑って冗談混じりに言う母さん。その隣でも久しぶりの笑顔を見せた父さん。
「怒ってないよ、嫌いじゃないよ。仲直りしたい。たくさん話したいことがある」
 席を立って二人のことを思いっきり抱きしめた。ふんわりと柔らかくて懐かしい匂いに包まれた。
 昔はよく抱きしめてもらってたのにな。何年振りかな。こうやって抱かれたの。
 輝麗。君のおかげで変われたよ。いなかったらこの先も一人だったと思うし、二人にも謝れてなかったと思う。でもちゃんと謝れたよ。仲直りできたよ。ありがとう。
「あとさ、もう一個か何個になるか分かんないけど。話したいことがある。二人が誤解してることがある」
「「誤解、してること…?」」
「担任が言ったことだけど、もう忘れてるかもしんない。担任は俺が一方的にガキ大将のこと殴ったしか言ってなかったけど、実は俺、あの日の給食の時、吐いたんだよね。朝から体調悪くて、でもみんなにお祝いしてもらいたくってとりあえず学校行ったけど。まぁどうにかなるだろって思ってたら、急に気分悪くなって、急いでトイレ行こうと思ったけど間に合わなかったんだよね。教室の中で吐いたから、そりゃみんなから引かれて。そしたらガキ大将が汚いとか、病気になるから近づくなとか言ってきて。言い争ったんじゃなくて、向こうがケンカ売ってきて、俺がカチンとなったみたいな感じ。手出したら悪いってわかってたけど、我慢できなくてさ。俺そいつのこと嫌いだったし。同じクラスになったら馬鹿にしてくるし、性格悪かったし。放課後担任に呼び出されて、俺とガキ大将が残って、ガキ大将は謝ってきたけど、ごめんなさいじゃなくてごめんねだった。こんな奴に謝りたくなかった。信じられないと思うけどさ、そいつの胸ぐら掴んで、俺の口からこんな言葉が出るのかってぐらいボロクソ言ったんだよね。あれには二人ともびっくりしてたけど、まさか担任が嘘つくとは思ってなかったな。吐いたことも言わなかったし、勝手に殴ったとか言うし、気絶してないのに気絶したとか言うし。なんで嘘つくのかなって思ったけど、俺のことが嫌いだったんだよ、多分ね。その日から学校でいじめが始まった。靴箱に虫の死体入れられるわ、俺だけ廊下に椅子出されるわ、市から貰えるノートとかペンも貰えなかった。本当辛かったなぁ。誰も相談する人がいなくて、一人で溜め込んで、不登校になろうかなとか。酷い時は死にたいとか思ってたし。困った息子だろ?」
 笑いながら言う俺に対して、二人は口角が一度も上がっていない。
 本当に事実を知った二人は唖然としていた。
 口元に両手を当てて二人して、俺のことを見つめてる。びっくりするよな。担任が嘘ついてて、俺が吐いたとか知ったら。父さんはそんなことがあったのか。信じられないって繰り返してる。あの時みたいに頭を抱えて、顔色が悪くなっていく。母さんも同じだ。
「そう言えばその日の朝、顔色悪かったわね。誕生日だから浮かれてるって言うか、テンションが高いって言うか。それでもなんかダルそうで。なのにどうして早く言ってくれなかったのよ。先生が嘘ついてるって。体調が悪くて吐いたって…何で言わなかったのよ?」
「母さんの言う通りだ。早く言ってればこんなことにはならなかったんじゃないか?」
 いや、言いたかったですけど黙ってろって言われたし、呼び出したのに戻って反省しときなさいって腕引っ張って投げられたし。殴られて痛くて話すどころでもなかったよね。
 言い訳と解釈されるかもしれないけど、今ならはっきり言っても怒られないと思う。自分の想いがが伝わると思う。彼女に思いを打ち明けたように、今ゆうべきだと思う。
「言いたかったけど、母さんは黙ってなさいって怒鳴ったし、父さんは痛いぐらい何回も殴ってきたし。あんな状況じゃ話せないよ。ただの言い訳になかもしれない…えっ?」
 さっきまで俺の目の前にいたのに、椅子に座って話を聞いていたのに。いつの間にか、俺のことを抱いてる。肩らへんがじんわりと暖かい。もしかしてまた、泣いてる…?
「ごめんなさい…。ごめんなさい。最初から恒星が謝ってたけど、母さんが悪かったわ。…あんなに人懐っこくて、優しい恒星が人を殴ったとか聞いたら頭がパニックになって。これこそ言い訳になるかもしれないけど、ちょうど仕事も忙しくて、ミスが多かった時期で…。そんな自分にイライラして、畳み掛けるようにそれが起こった。もっと冷静になって恒星の話を聞くべきだったわ。怒鳴らないで圧をかけずに何があったのか話してもらうべきだった。なのに…母親失格よね…」
「父さんも謝らないといけない。本当にすまなかった。俺が手を出したら負けだと言ったのに、イライラしすぎて何回も手を出してしまったな。痛かっただろう。すまない。駄目な父親で。俺も父親、失格だな…」
「お願いだから二人して失格って言わないで…」
 泣かないで、謝らないで。確かに叩かれて痛かった。一回だけじゃなくて何回も叩かれたから赤くなって腫れて痛かった。優しいはずなのに、怒鳴られて怖かった。耳が痛くなるほど怒られて、鋭い目つきで見られて恐ろしかった。…それでも失格じゃないよ。だって、二人は俺にとって
「自慢の家族だから…」
 何かのボタンが壊れたように、心のガラスが割れたように泣いた。頑張って張っていた細長い糸が、ぷつんと切れたように大声で泣いた。
 二人も泣いていたけど幼子のように泣いてしまった俺をあやすかのように優しく撫でてくれた。手から感じる愛は懐かしさがあった。
 ちゃんと打ち明けられてよかった。自分の想いが伝わってよかった。これが今年の誕生日プレゼントなのかな。何かを貰うより嬉しいな。これも輝麗のおかげだな。明日お礼を言わないとな。
「悪い癖は直して、お母さん、これからは話を聞けるようにするから。許してくれる?」
「とっくに許してるよ!父さんはどうしようかな」
「おいおい、どうしようかなって俺のことは許してくれないのかよ」
「嘘!これからは叩かないでね。痛いから」
「分かったけど、今日恒星の誕生日じゃないか。なのにご飯とか欲しいのとかも用意できてない」
「そうね。どうする?久しぶりに外食するのもいいけど、時間が遅いし、閉まってるところが多いとかもしれないわ」
「仲直りできたのがプレゼントだから、欲しいものはないけど、ご飯はどうしよう」
 二人とも顎に手を当てて悩んでいる。どうしようかと言って困っているみたいだ。 
 赤ちゃんではあるまいし泣き疲れてはないだろうけど、仕事で疲れてるから外食はしたくないはずだ。
 そう思って用意したコース料理風夜ご飯。俺は今から逆サプライズ開始しようと思う。
「実は今までの謝罪の意を込めて二人のためにコース料理風夜ご飯を用意してるんです」
「「えっ?コース料理風夜ご飯?」」
「少し準備するから待ってて」
 ポカーンと口を開けて、目が点になってる。
 俺が料理できることを知らないだろうから、なおさらびっくりしてるだろう。この反応、面白いから一回見で見たかったんだよね。
 ウキウキ気分でキッチンに向かい、冷蔵庫で冷やしておいた料理たちを出していく。
 そう言えば、この前の朝ニュースでコース料理の出る順番みたいなのあったな。えーっとまずは前菜とか野菜系を出してた気がする。だから豚肉と夏野菜のマリネから出していこう。
 これは冷えてるほうが美味しいと思うから、そのまま食卓に出す。さっきから信じられないのかずっとこちらを眺めてる二人のことがおかしくて思わず吹いてしまった。よし、切り替えてウェイターみたいに行ってみよう。
「お待たせいたしました。前菜の豚肉と夏野菜のマリネでございます」
「これ恒星が作ったの?」
「そうだよ。コース料理だから他にもたくさん出てくるよ。楽しみにしといて」
「俺たちに作ってくれたのは嬉しんだけど、恒星は食べないのか?」
「一緒に食べてもいいの?邪魔じゃない?」
「何言ってんのよ!恒星の誕生日なのに私たちが祝われてるみたいじゃない。だから一緒に食べましょうよ」
「じゃあご一緒させて頂こうかな」
「みんなでいただきます!」
 そう言うと色鮮やかなマリネに手をつけた。
「美味しい!私より料理上手いんじゃない?」
 父さんもうんうんと頷いてくれる。こうやって人から褒められるのってなんか照れ臭いな。箸が止まらない二人はマリネをあっという間に完食した。自分のは少なめにしておいて、早めに次の料理を準備する。
「コーンスープでございます。フードプロセッサーがないから、これは市販のだけど許して。少し味変えたけど、って父さん飲むの早すぎ。俺今置いたばっかだよね?」
「すまん。コーンスープは大好物でな」
 母さんはスプーンで少しずつ味わっている。 まぁ、スープだし早めに次のを準備しておこうかな。
 その後は鮭のムニエル、トマトキムチのパスタが残り半分ぐらいになったらオニオンチーズフォカッチャ、お酒とおつまみに作った麻辣油のよだれ鶏の順に出した。
 二人とも、今までにないぐらい喜んでくれた。一口食べるごとに「美味しい美味しいって言ってくれて大袈裟な父さんは店で食べるより美味しい。将来、店開いたほうがいいんじゃないかとも言った。兄には申し訳ないが久しぶりに三人で食卓を囲めて幸せだった。褒めてもらえて嬉しかった。またあの笑顔が戻ってきたと考えたら、泣きそうになったけど食事中だったからめっちゃ我慢した。
「美味しい料理を作ってくれてありがとう。それにお誕生日おめでとう」
「また欲しいものがあったら、いつでもいいから言ってくれ。何でも買ってやるから」
「二人ともありがとう。また忙しくてご飯作れそうになかったら俺が作っとくね」
「まぁ、恒星も大人になったのねぇ」
 嬉し涙だろうものを流しながら、嬉しそうに笑う母。感心したように腕を組み頷き続ける父。アレを言ったら相当びっくりするだろうな。もしかしたら腰を抜かしてしまうかもしない。
「あとさ、もう一つ言っておきたいことがある」
「どうしたの?」
「好きな人できた」
「「好きな人できた!?」」
 ガタンッと音がして振り向いてみたら、ソファーに座ってのんびりしていた二人は立ち上がってこちらを見ていた。目を限界まで開けて猛スピードこちらに詰め寄ってきた。父さんは眉間にシワを寄せて犯人の取り調べみたいに聞いてくる。現警察官と言うことでまだ迫力があるので少し背筋がピンとなってしまう。
「今好きな人できたって言ったのか?」
「…そうだけど」
「そうかそうか、よかったなぁ。お前もそんな年頃になったのか。子供の成長って早いよな、母さん」
「そうね。母さん嬉しいわ。恒星に好きな人ができたとか聞いたら。どんな子なの?」
 どんな子って言われても言いたいことがありすぎて困る。
「物凄く優しくて、笑顔が可愛くて、行動力がある、誰とでも仲良くできる子」
 あの笑顔を思い出してしまって思わず顔を赤らめる。
「顔が赤いぞ、恒星。まぁいい人を好きになったんだな。応援してるぞ」
「応援って、まぁありがとう、頑張る」
 微笑ましく笑って、各自しなくてはいけないことがあるので一旦解散した。
 風呂も勉強も終わってるので歯磨きをしてからそのまま布団に入る。さっき部屋に戻った時にクーラーつけておいてよかった。
 本当に仲直りできるとは思ってなかったな。
 どうせ、逃げて話を聞いてくれないと思った。案の定母さんは逃げようとしたけど、父さんが止めたのはびっくりしたな。自分ちゃんと謝れたし、思ってることしっかり伝えれたからよかった。父さんも母さんも自分が悪かったと思って謝ってくれたし、本当によかった。料理も大絶賛だったな。明日は作れないか。でも夏休み中とかに作ってみたいな。
 俺からしての生きやすい世界は今だと思う。
 家族といる幸せ。
 新しくできた友達と戯れる幸せ。
 些細なことでも思いっきり笑える幸せ。
 好きな人がとびっきりの笑顔になる幸せ。
 家族が自分の料理を料理を美味しそうに食べてくれる幸せ。
 他にももっと、数え切れない幸せがある。
 生きやすい世界は明日が来るのが楽しみになる。
 早く明日になれと願う。
 そして、モノクロのつまらない世界にさよならを。
 
 *
 
 大好きな人は今、何をしてるかな。もう謝れたかな。仲直りできたのかな。そうだったらいいな。
 勉強机から空を眺めていたら流れ星が流れた。本当は気になってる人と付き合いたいですって願いたかったけど、仲直りができてますように、そう願った。
 
 朝から家族お祝いしてくれて気分がよかった。そのテンションで学校に行って、教室に入ろうとしたら誰かとぶつかった。
 ごめんなさいって謝ろうと思っと見上げたら私の気になってる人。正しくは恋してる人かな。恒星君だった。
 大丈夫?って心配してくれて手を引っ張ってくれた。好きな人が私の手を握ってくれてると思うと、体温が一気に上がった気がした。この激しい動悸が彼に伝わってないだろうか。そのぐらい暴れてた。じっとこっちを見てたからどうしたのかなって思ったら、メイクと髪の変化に気づいてくれた。すごくすごくすっごく嬉しくて、でも変かなって聞いたら、似合ってるって。これには心臓が止まるかと思って、顔を赤く染めてしまった。
 何かに悩んで目を瞑ってたので、急いでポケットからクラッカーとスマホを取り出して脅かした。
 そしたら怒っちゃって教室を出て行ったから追いかけて、今度は私が脅かされる番だった。あまりにもびっくりしたので地面に座ってしまった。逆ドッキリをされたみたいで、本当に怒ってるわけじゃなかったので本当に一安心。でも笑ってた顔がすごく新鮮で素敵だった。
 この笑顔をずっと見てたいな。
 頬を膨らませて怒った感じを見せていたら、昼食の時に渡したいものがあるとのこと。
 もしかしてプレゼント?とも思ったけど期待はせずに、いつも通りの日常を過ごす予定だった。
 三時間目の国語は退屈だった。レポートとか文章は苦手だから、誰のも聞かないで寝るつもりでいた。
 授業もあと一分。ようやく終わると思った時、聞き覚えのある声が。
 その声のする方に顔を向けると彼、恒星君。透き通るような、ガラス玉みたいな繊細な声で読んでいた。他の人のは興味がなかったのに、聞こうともしなかったのに、彼のだけは最初から最後まで聞こうと思った。
 これはすごい。本当にインターネットからコピーしたものを読んでるぐらい、分かりやすかった。
 最後のほうはチャイムの音で聞こえなかったけど、これは褒めたたえるべきだと思って彼の背後にそっと忍び込んで褒めまくった。
 けどあんまり嬉しそうじゃなかった。元気ないのかなって思って、理科室一緒に行こって誘ったけど、一言目は一人で行けって言われた。
 私と行きたくないのかな、私のこと嫌いなのかな。そんな考えが生まれて、すごく心配になった。
 最終的には一緒に行ってくれたけど、笑顔ではない。気のせいだ、勘違いだって自分に言い聞かせて心のモヤモヤを晴らす。
 でもこの思いを覆すような出来事が起きたのだ。号令で下向いた時、絶対って言い切れる、目があったのに逸らされたのだ。
 衝撃だった。本当に…私のこと嫌いなの? 今すぐ彼のもとに行ってそう聞きたかった。
 授業が始まっても、彼のことが気になって仕方がない。どうして逸らしたんだろう。やっぱり私のこと…。
 真相を確かめるためにみんなに嘘をついて席から離れた。
 彼が取ろうとしてる顕微鏡に一緒に触れた。 勘の鋭い彼はすぐに私が嘘をついてることに気がついた。
 どうしよう、逃げなきゃ。
 そう思って走ろうとしたら、右手首を引っ張られた。自分が想像してた以上に力が強くて、彼の顔が初めて怖いと思った。無意識に痛いって呟いてて彼は手を離してくれた。多分謝ろうとしてくれたんだろうけど、焦りと困惑で手を振り払ってしまった。結構激しかったと思う。
 この瞬間もう駄目だな、嫌われたなって思った。自分が悪いのに泣きそうになって、急いで逃げた。泣いたらきっと彼は優しくして、謝るだろう思ったから。
 授業が終わって、彼が来る前にトイレに逃げ込もうと思ったけど遅かった。後ろから名前を呼ばれたけど、聞こえなかったフリして走り出す。運動が苦手だって言ってたのにすぐ追いつかれて、肩に触れようとした手をまた振り払ってしまった私。
 最低なことをした、傷つけることを言ったのに、彼は優しく手を引いて誰もいない教室に連れて行ってくれる。その時の手はすごく柔らかいものだった気がする。泣きすぎて覚えてないや。
 その後はしっかり話し合ってお互い誤解してることが分かったので胸を撫で下ろした。よかった嫌われてなかったって。
 教室に戻って、弁当を一人で食べようとしてたので、強引じゃないけど私の席で食べようと誘った。最初は嫌がってたけど、こちょこちょしたらギブアップしてついてきてくれた。馴染めなかったら申し訳ないなと思ったけど、私の友達は恒星君のことを待っていたみたいで、気づいたら仲良くなっている。彼も笑顔になっててすごく嬉しそうに見えた。
 途中で席から離れたのでどうしたのかなって思ったら保冷バックを持って戻ってきた。中身を出してびっくり。器用に丁寧に作られたカップケーキ達。私が誕生日だからと言う理由で朝早く起きて作ってくれたと言う。
 なんて優男なんだ。こいつは罪な男だ。
 ご飯食べたばっかりなのに、お腹が空いてきて、二種類のカップケーキに手を伸ばした。
 誰かが気づく前に食べようと思ったけど、口に入れすぎて飲み込めなくなった。その姿を恒星君に見られて恥ずかしいと思ったけど、彼は優しく笑ってくれた。
 その姿を微笑ましく見るみんな。みんなは私が恒星君のことが前から気になっていたと言うことを知っているからだろう。好きと言うことは龍樹以外、まだ言っていない。途中で龍樹がいらんこと言おうとしたからヒヤヒヤしたけど。
 とにかく新しい友達を作るためのきっかけを作れてよかったと思う。
 放課後はカルムに行って好きな人と誕生日ケーキ食べれたし。まさかのずっと撮りたかった写真も撮ってくれたし。しかもツーショット。最高すぎて、叫ぶところだった。
 その前に恒星君が早く玄関に来れたことはびっくりしたな。絶対遅れてくるから脅かしてやろうと思ったのに、違う人ばっかり脅かして、恥かいただけだったけどね。
 まぁ、辛いことも大変なこともあるけど、本当に生きててよかったと思う。そうじゃなきゃ彼には出会えてなったから。
 私は幸せ者だな。
 明日も笑顔でいこう、彼のことを巻き込むために。
 明日も頑張って生きよう、大好きな彼に会うために。
 
 第四章 特別な約束
 
 良い目覚めだった。陽の光の目覚ましで起きたわけでもなく、騒音で起きたわけでもない。自分の体内時計が目覚めを知らせてくれたのだ。
 冷感タオルから身を剥がし、寝相が悪かったせいか、ぐちゃぐちゃにされたベットシーツを綺麗にし直す。リモコンラックに置かれたクーラーを手に取り、スイッチを切る。
 ピッーと音がしたと同時に、フラップが閉じていった。冷気が送られてこなくなったので部屋が一気に蒸し暑くなっていた気がする。
 カーテンを開けると太陽がギラギラと輝いていた。地球が太陽に近づいたんじゃないかってぐらい、今日は暑い。
 窓越しに見えるのはアスファルトの地面がゆらゆらと揺れる陽炎。気象現象の一つだ。
 ぼうっと遠くを眺めていたら、人中に汗をかき始めた。背中や首元に汗をかく前にリビングへと駆け込む。
 二人は仕事でいないけど、一通の置き手紙と弁当箱が食卓に置いてあった。
 丁寧に便箋に包まれており、表面にお誕生日おめでとうと書かれている。透明のシールをペリペリ剥がし中身を確認。
「昨日は美味しい料理をありがとう。今までごめんね。恒星が許してくれたって思うと嬉しくて張り切って、今日はお父さんと二人でハンバーグ弁当を作ってみました。バタバタで作ったから美味しいかどうかは分かんないけど喜んでもらえたらいいな。いってきます。いってらっしゃい。 父母」
 こんなの見たら心がほんわかして、朝から泣いてしまうじゃないか。それに、この前みたいに雑な文字じゃない。鉛筆で書かれてて、異常なぐらい筆圧が強い。もしかして父さんが書いてくれたのか?珍しいな。これも一つの誕生日プレゼントとして残しておこう。
 そう思って自分の部屋に置いてきた。
 眠りが良すぎていつもより起きるのが遅くなってしまった。猛スピードで身支度を済ませてから、ゆっくり朝食を摂りたい。
 そう考えてるうち準備をしよう。…似たようなこと輝麗も言ってたなって何考えてるんだ。人の言ったこと覚えてるとか、ストーカーみたいじゃないか。両手で頬を叩いて、目を覚ます。急いで顔を洗って髪を櫛でといて制服に着替えた。かかった時間は三分、自己最高記録だ。
 やっと朝食を食べれる。お腹も腹が減ったのかグッーと音を鳴らした。
 キッチンに一つの小鍋が置いてある。何かと覗いてみたら母さんが作った味噌汁。
 これ食べていいのかな?と思った時には電源をつけて温めていた。無意識って怖いな。 味噌汁を温めてる間に炊飯器からしゃもじ一杯半のご飯を茶碗に注いだ。冷蔵庫の中には補充されたひきわり納豆。一パック手にとってお盆に乗せた。
 味噌汁が湯気を出してきたところで電源を切って、茶碗に注いだら準備完了。
 これこそ日本の朝ご飯、完璧だ。
 でも朝と言ったらニュースがないといけない。ニュースがないと朝は始まらない。俺はそう思ってる。
 テレビをつけて目と耳に入ったのは夏祭りのお供、花火大会。今、俺が見てるのは地元のニュースだ。地元でも、どこであるのかなと思ってみてたらすぐ近くにある港。大会ってほどの大きいやつじゃないけど、期間は一週間、六時から打ち上げ開始、一日二百発の花火が上がるらしい。今年、俺たちの通う高校は早く夏休みが始まる。今日は木曜日。明日がテストで土、日の休みを挟んで水曜日が終業式。花火大会一日目と夏休み一日目がちょうど被ってる。
 …これ、誘ってみようかな。絶対喜ぶよな。
 いや待て待て。冷静になって考えてみろ。一般的に花火大会というものは好きな人や仲の良い友達と行くものだ。俺のこと好きでもないのに誘われたら心の優しい彼女でもさすが戸惑うはず。好きでもない奴と一緒に花火見ても喜びの一つも得られない。
 そう思うけど…。無理だったら仕方ない、行けたらラッキーと言うことで、一か八かで聞いてみよう。
 聞くのは聞くけど、どうやって誘ったら引かれないか、もしオッケーだった場合と、ノーだった場合を頭の中でイメージトレーニングしながら口にご飯を運ぶ。
 そうこう考えながら、朝食を食べ終わり、使った茶碗だけ洗ってから、テレビとクーラーを切り学校へ向かった。
 焼け死ぬ前に学校へ避難する。校門に差し掛かった時、頭の中に一つの疑問の塊が生まれた。
「…味噌汁の小鍋の電源切ったっけ?」
 これはよくあることだ。玄関の鍵を閉めたか閉めてないか、テレビを切ったか切ってないか。ちゃんと閉めても切っても不安になる時がないだろうか。俺だけだろうか。
「何ぼーっとしてるの?」
 はいはい。来ましたよ。今後ろに立ってるのは貴方ですね。
「輝麗。輝麗って人のことびっくりさせるのが好きなの?仲良くなってから毎日脅かされてるような気がするんだけど」
「人を脅かすなんて、そんな悪趣味はないから。恒星君の気のせいだと思うよ」
 気のせいじゃないと思うけどね。まぁそんなことは隣に置いといて。
「ちょっと大事な話がある」
「何何?」
 さぁ言うんだ。今度、地元である花火大会に一緒に行きませんか?って。
「輝麗のおかげで、両親と仲直りできたよ。ありがとう。お詫びとして手作りプリンタルト作るね」
「よかったね!私なんにもしてないけど作ってもらえるんですかー?嬉しい!」
「俺用事があるから、じゃあまた後で」
 何言ってるんだよ!花火大会に誘うんじゃなかったのかよ。せっかく二人しかいないから誰の耳にも入らないのに。そこは誘わないとだろ。しかもお詫びにプリンタルト作るとか言ってるし。でも彼女プリンタルト好きだって言ってたし。喜んでくれてるからいっか。またチャンスが来た時に誘おう。次は絶対失敗しないからな。
 朝休みは彼女がどこかに行っていたので聞くことはできなかった。それでもチャンスは思ったよりも早く到来してくれた。
 訪れたのは一時間目の理科。明日がテストなので、授業を進めてもどうしょうもないと言うことでテスト勉強することになった。
 そのテスト勉強も変わったものだ。普段は自席でやるが、生徒たちがねだってねだってねだりまくって、好きな席でやっていいとのこと。その後のことがチャンスなのだ。
 一人でしようと思ったら龍樹君と叶翔君が 分からないところがあって教えてほしいから一緒にしようと言ってくれた。理科でやらなきゃいけないワーク類は全部終わってるし、教えにいくことにした。席には昨日昼食を食べたメンバー。響透も教えてくれていたそうだが、一人では大変だと言うことで指名が入ったらしい。
「どこが分からないの?」
「あのー、実はさ、嘘ついて申し訳ないんだけど、教えてって言ったの輝麗なんだよね。ほらあそこにいるだろ。なんか俺らと一緒だったらうるさくて集中できないからって、離れてやってるんだよ」
 龍樹君が指差したほうに目をやると、頭を掻きむしりながらワークと睨めっこしてる彼女の姿。一人でポツンと座っている。ワークを進めているみたいだけど、シャーペンを動かしては消しゴムで消す。本当に分からないのだろう。
 龍樹君はじゃあアイツのことよろしくと言って俺の背中を押し、どこかに行ってしまった。よろしくって言われても。でも待てよ。よく考えたら今がチャンスなのでは。他のメンバーとは少し離れた場所にいるから小さな声で話せば聞こえないはず。もしかしたらこれが最後のチャンスかもしれない。となると今言うしかない。彼女の隣の席にそっと座った。
「どこが分かんないの?」
「えっ、本当に来てくれたの?じゃあこっからここまで全部教えてほしいな」
 ほとんど全ページじゃないか。これは相当な時間がかかりそうだな。早めに言ったほうが良さそうだ。
「あのさ、一つ言いたいことがあるんだけどいいかな?」
「言いたいこと?何?」
 ザワザワと騒がしい教室。勉強を教えてる声の中に混じる雑談。高鳴る鼓動。上昇し始める体温。汗が滲み出る手のひら。まっすぐ見つめてくる瞳。
 誰も見てない、聞いてないことを確認してから、か細い声で尋ねた。
「花火、見に行かない…?」
「えっ。花火?」
 一瞬彼女の動きが止まった。やっぱり迷惑だよな。こんな奴と花火見るとか。そもそも約束してる人がいるかもしれないのに。そこまで考えてなかった。
「でも一緒に行く人いるよね。龍樹君とか叶翔君とか。輝麗が嫌じゃないなら、夏休み入ってすぐにちょっとした近くにある港で花火が上がるらしいから見に行かないかなぁって思ったんだけど…俺なんかとじゃ嫌だよねぇ」
 最後の声は少し震えてしまった。たかが花火大会ごときで泣くとか、子供だな。今言ったこと忘れてと言おうとした時、彼女が口を開いた。自分の想像してた反応と百八十度真反対の言葉が返ってきた。
「逆にいいの?そっちが嫌じゃない?私なんかと一緒で…」
「えっ?いいの?俺全然嫌じゃないけど」
「本当に私と行ってくれるの…?」
「俺が輝麗と一緒に花火を見に行きたいから誘ってるの。で、どっちなの?」
「一緒に見たい!」
「ちょ、声デカい。一応今授業中だから静かにしてくれる?俺が話しかけといて言うのもだけど」
「じゃあいつ行く?私も朝見たんだけど、それ夏休みの始まりからだったよね。一週間あるんだっけ?」
「そう。俺は最後のほうがいいな」
「私も!なら、最終日にする?」
「いいね。じゃあ集合場所と時間も決めとこうよ。学校から近いし、分かりやすく校門の前に四時半とかどうかな?少し早めに行ったほうがいいかもしれないから」
「めっちゃ完璧!あぁーワクワクしてきた!あと一週間待たなきゃいけないのー?待てないよー!楽しみだなぁ。屋台も少し出てるって言ってたよね。早めに集合して屋台巡りとかいいね。本当最高すぎる!」
「屋台巡りが楽しみなのは分かったから、落ち着いて大きな赤ちゃん」
「赤ちゃんじゃないし!よーし、それのためにテスト頑張るぞー!」
 彼女は大きくガッツポーズをして、再びワークと睨めっこをし始めた。よほど楽しみなのか、さっき見た光景は嘘のようにスラスラと解答欄が埋め尽くされていく。消しゴムなんてものは使わず、ひたすらシャーペンが紙という舞台を踊る。
 だがそれ以上に俺のほうが嬉しい。だって、反応がイマイチだったから、これは絶対ダメだなって思ったのにまさかのオッケーだったんだぞ。本当に前世どんな徳を積んだんのかって疑問に思うぐらい、奇跡、ハッピー、最高なことが起こってるんだそう。授業中なのに奇声を上げて飛び跳ねるところだった。どうにか抑えて冷静な自分を作ってたけど、心と身体は喜びの舞を踊りたくて本当にやばかった。今の心境を聞かれたとしたら、なんて言っていいのか分からない。そのくらい言葉が出てこないし、これ以上考えたら興奮で頭が破裂しそうなのでやめておこう。
 教えるためにこっちにきたけど自分でできてるし、隣にいたら心音が聞こえてしまうと思うのでこっそりと自分の席に戻った。
 その後も必死に喜びと興奮を抑えて五十分間の激闘を制することができた。
 
 日に日に暑さが増し、蝉が叫ぶ声がうるさくなってくる時期になってきたと思う。あの日から心が落ち着かないまま六日が経った。 俺が花火に誘ってからお互い、まともに話さなかった。俺は話せなかった。まさか受け入れてもらえるなんて思ってなかったから、恥ずかしさと意味の分からない緊張感、嬉しさで近づくことすらできなかったのだ。
 でも彼女は俺に誘われて、気まずかったから話しかけれなかったんだろう。それは仕方ない。嘘でも本当でも俺は一緒に花火が見れることは素直に嬉しい。このことを両親に伝えたら母さんは今年三回目ぐらいの嬉し涙を流し、父さんは今年初、腰を抜かしてしまった。芝居かと思ったけど本当に腰を抜かしてしまったようで、しばらくその場から立つことができなかった。
 そんなことはどうでもいいわけじゃないけどどうでもいい。
 今日は全生徒が待ちに待っていた終業式。刑務所に毎日行くのは一旦おさらばして、充実した夏休みを過ごすのだ。
 朝から目がギンギンで、朝読書をしようと思ってもしきれない。彼女も見た感じは同じに見えた。本じゃなくて教科書逆さにして読んでたし、シャーペンの芯出てないのに書こうとしてた。だんだん花火を見る日が近づいてきてるから恐ろしくて頭がおかしくなってしまったのだろう。
 気づいたら、一時間目、二時間目、三時間目が終わって四時間目に入っていた。
 今から終業式が始まろうとしている。体育館は暑すぎる。体育館用の大型扇風機は何台か用意されてるけど、ドアが開けられているので熱風が入ってきて意味がない。
 生徒たちは首元のボタンを開けたり、服をパタパタして少しでも涼しくなるようにしている。学校長が演台に立ちペラペラと長い話をし始めた。よく漫画で見る光景だな。あと何分したら終わるのかな。長すぎてなんの話をしてるのかも分からない。暇だなっと思って、少し顔を横にずらすと退屈そうに体操座りをして、うとうとしている彼女の姿。時に大きく横に揺れ倒れそうになる。周りの人も心配、不審そうに見ている。その横に行って支えてな上げたいな、なんて思う。どんだけ彼女のことが好きなのか、この世の言葉では表せないかもしれない。
 彼女のことを考えてるうちに学校長の話が終わった。市総体の表彰も終わって、終わりの言葉に入る。教頭が気をつけて夏休みを過ごすようにと注意喚起して終業式を締めくくった。
 長いような短いような終業式が終わり、生徒が一斉に教室へ戻る。みんな同じ校舎なので詰め詰めになって厄介だ。押されたり踏まれたり色々暑苦しい。
 いつもなら後ろのほうにいるのに、なぜか前のほうにでしゃばって行ってしまったので、逃げ出すように前へ前へ進み人混みに飲まれるのを逃れた。
 教室に戻って各自で昼食を摂る。いつもなら立ち入り禁止されているはずの屋上が開いていたのでそこで弁当を食べることにした。
 錆びついたドアノブをクルッと回し、戸を開いた先に見えたのは一人の女性の姿。一瞬先生かなっと思ってヒヤッとしたけど、全然違った。
「こふへいくんしゃん」
「飲み込んでから喋んないとなんて言ってるか分かんないよ。これ、前も言わなかったけ?」
「誰がきたのかと思ったら恒星君じゃん。どうしたの?」
「たまたま鍵が開いてたからここで食べようかなって思って」
「そうなんだ。ほらここ座りなよ」
 横の空いてるところを手でポンポンと叩き反対の手で手招きする。
「じゃあお邪魔します」
 遠慮なく彼女の隣に座って弁当の蓋を開けた。今日は母さんと父さんが一緒に作ってくれたハンバーグだ。料理が苦手な父さんが丸めたのか、少し形が不恰好だが、一生懸命作ってくれたんだなと愛を感じる。これは母さんが作ったんだろう。綺麗な丸で、専門店のハンバーグみたいだ。どちらにせよ、二人が作ったのハンバーグを食べられるなんて嬉しくてたまらない。白ご飯を口に入れる前にハンバーグを一口サイズに切る。一つ、大きなハンバーグを取ろうとした時、横から誰さんの箸が侵入してきた。
「何人様の弁当に侵入してんの?」
「恒星様、その美味しそうなハンバーグを私に一つください。お願いします」
「最初っからそう言えばいいのに。勝手に取ったら窃盗罪で訴えるよ?」
「それだけはやめてよね」
「冗談だよ。小さいのじゃなくて、こっちの大きいほう食べていいよ」
「えっ!いいの?私が食べていいの?」
「まだ残ってるし、別にいいよ」
 やった!とばんざいをして大きい目のハンバーグのほうに箸をやった。自分の弁当に持っていき、半分に切ってから一口頬張ている。
 さっき飲み込んでから喋ろと言ったからか一生懸命口をモグモグさせて、ゴクっと飲み込んでからおしゃべりタイムが始まった。「やばい!めっっっちゃ美味しい!こんなに美味しいハンバーグ食べたことない!肉肉しいのに口の中がパサパサしないし、柔らかくて美味しい。お母さんとおばあちゃんに申し訳ないけど、恒星君家のほうが美味しい!毎日こんな美味しいお弁当食べてたの?私のお弁当が美味しくないわけじゃないけど、羨ましいよー!」
 そこまで言う?そんなに美味しい?確かに母さんの作ってくれる弁当は美味しい。味も濃すぎず薄すぎず、ちょうど良い。たまに冷食のおかずが詰められてることもあるけど。
 でもそんな口数が止まらないほど美味しいの?俺は母さんの子供だから分かんないや。
「まぁ美味しかったんなら良かったよ」
「恒星君のおかず食べちゃったから、私の一つ食べていいよ。どれがいい?ちなみに今日、自分で作ったんだよ。少しおばあちゃんに手伝ってもらったけどね」
 て、手作りのおかずを一つ食べていいって言ったのか?いいんですか、逆に。
「じゃ、じゃあ、おすすめください」
「おすすめねぇ」
 じゃあこれと言って卵焼きを一つ渡してきたけど。
「何!?俺のお弁当に置いてくれないの?」
「早く口開けて。卵焼き落としそうだから」
 これ…あーんしないといけない感じ?めちゃくちゃ恥ずかしんだけど。彼女は早くしろと言う感じで俺の口に卵焼きを突きつけてくる。
「まだぁ?本当に落ちそう。腕キツイ!」
 急かされて、機嫌も損ねてしまったら楽しみにしてる花火に行ってくれなくなってしまうかもしれない。それは絶対に嫌だ。
 恥ずかしさを腹にくくり、卵焼きをパクッと食べる。
「どうかな。美味しい…?味変じゃない?」
「…美味しい」
「良かったー!卵焼きは初めて作ったんだよねぇ」
 そう言うともう一つ残っていた卵焼きを口の中に入れた。
 ん?待ってよ、俺がパクってしたの彼女の箸じゃ。そうだとしたら…か、間接キ…。駄目だ駄目だ駄目だ!これ以上考えたら頭が爆発する。花火のことで精一杯なのに、間接…とかもっと駄目だ。まだ弁当食べれてないけど、直ちにこの場を離れないと、興奮してるただの変人になってしまう。
「ちょ、ちょっと、だ、大事な用事あったの忘れてた、から!先戻ってるね」
「そっか。じゃあまた後でね!」
 箸を戻し、弁当の蓋を閉めてから急いで扉の方に向かった。
 後ろから、シャッターを切る音が聞こえたのは俺の空耳だろうか。
 
 昼食の時間が終わりみんなお待ちかねの通知表が配られる。慶永先生が急いで職員室に戻って大量の通知表が入ったボックスを抱え戻ってきた。瞬間、教室はザワザワガヤガヤし始める。
「一学期だけど自信あるんだよね」
「分かるー!あっ、でもテストの点数悪かったからやばいかもしれない」
 多方面から色んな声が聞こえる。自分の通知表が気に入って、早く見たくて仕方ないのかな。
「はいはい静かに。いいか?人には見せない、比べない。自分の成績と見つめなさい。じゃあ今から返すから出席番号順に来なさい」
 一番の胡桃さんが自信満々に前へ行き、通知表を受け取る。開いた時の表情からしてあまり良くなかったのだろう。テストも悪すぎて萎えるとか言ってたもんな。そんな胡桃さんを二番の星来さんが慰めている。星来さんは自分が思ってたより良かったのか小さくガッツポーズしている。
 その後も三、四とどんどん進んでいきあっという間に自分の番が来た。テストの点数も大半が九十点台だったし、提出物も毎日出したし三以上だったら嬉しいかな。
「すごいじゃないか。これからも期待してるぞ」
 手元を見てみると一、二、三の数字はなく、ほとんどが五だった。保体だけ四でそれ以外は五。まぁまぁいんじゃないか。しっかり勉強しておいて良かった。自分が思ってたより良かったのでマスクの下で口角を九十度ぐらい上げた。
「恒星君どうだっ…ちょっと!何この通知表!こんなにすごいの見たことないんですけど。私のと交換して欲しいー!」
「こんな大勢の人がいるのに飛びついてこないでよ、恥ずかしいじゃん」
「ごめんけどさ、私と交換してくれませんかねぇ」
「話聞いてないし。それに、お弁当のおかずなら交換してもいいけどこれは駄目。二学期から頑張ってね」
「じゃあ二学期から恒星君、勉強教えてね」
「はいはい、分かりました。じゃあまた花火の日ね。忘れないでよ」
 忘れるわけないじゃん!とジャンプして勉強のことは満足したような反面、通知表を交換してもらえなかったからか肩をガクッと落として席に戻って行った。
 俺のが配り終わったところで日直が挨拶をし一学期という名の幕を閉じた。
 そのまま誰とも話さないで、自分の家の方面に歩いて行った。
 遠くに積乱雲が見える。そろそろ雨が降るのかな。雨と言ったら彼女と初めて会った日のことを思い出すな。ドジだから傘忘れて、びしょ濡れになって、倒れて。反応がなかったからヒヤヒヤしたよ。この前死ぬんじゃないかって。まだ出会って一週間ぐらいしか経ってないけど、あのことが懐かしく感じる。
 さっきまで一緒だったのに、もう会いたいよ。
 父さんとお母さんと仲直りしたから夏休みは楽しく過ごせそうだし、むしろゆっくり休めるのはありがたい。でも彼女の無邪気な姿が約一ヶ月見れなくなるのはなんだか寂しいな。スマホがあったら毎日連絡してるだろう。でも持ってないから話すことビデオ通話とかで会うこともできない。早くその日にならないかな。待ちきれないよ、一週間も。もし今、なんでも魔法が手に入るなら時を動かせる能力が欲しいな。
 しかし、こんなに気分が昂まっているのも今だけだった。この後、最悪な悲劇が起こることを俺は知らなかった。
 
 夏休みに入って今日で六日。今日は花火大会前日。初日からまだかまだかとカレンダーで日にちを確認しては落ち込み、ニュースで曜日を見てはショックを受ける日々。楽しみな日ほど時が過ぎるのが長くなり、待ち遠しく感じてしまう。
 それでも俺の日常ルーティーンは普段と変わらない。朝早起きしては学校と同じ時間割で勉強をする。昼休憩してまた勉強。これではデスクと向き合う、一人暮らしのリモートワークニートみたいだな。なぜ一人暮らしなのかと言うと、両親もいつも通り、仕事でほとんど家にいないからだ。最近は自分が遅くまで起きてるから夜は会えるもの、朝昼夕は…。一人ぼっちだ。
 誰かと遊びたいわけじゃない、話したいわけでもない、まぁ正直に言うと誰かと話はしたいけど、誰も話す人がいないから仕方ないことだ。
 こんなことしてる場合じゃない。明日の勉強ができない分、今日しておかないといけない。糖分補給としてグミを一粒袋の中から取り出す。…おかしいな。どこを探ってもあさってもグミが一粒取れない。
「そうだ、さっき食べたので切らしたんだ」
 忘れてた。取りに行かないといけなきゃと思ったが、ちょうどキリが悪いところだったから結局取りに行かなかったんだ。
 頭を使うとお腹が減って集中できなくなるので、取りに行くしかない。クルッと椅子を半回転させて立ち上がり、キッチンに向かう。
「何のグミにしようかなぁ」
 本当はソフト系グミのほうが好きだけど、硬いもののほうが噛んだ時に一時的だが集中力が上がるらしい。グレープ、オレンジ、レモン。夏だからさっぱりしたのがいいな。よし、ソーダにし…。
 ピーンポーン
 誰か来た、こんな時間に来るのは、まぁ検討はつく、宅急便だろう。この前母さんがネットで服買うのを見ていたし、それが届いたのだろう。
 一旦グミボックスから離れ、インターホンの元に行く。画面に映っていたのは宅急便の人じゃなかった。どこか懐かしく、見覚えのある人物だった。さっぱりカットされた髪、シュッと尖った綺麗な鼻、大きすぎず小さすぎずちょうどいい大きさの目。
「恒星、久しぶり。今ちょっといいかな?」
 声変わりして大人っぽい落ち着いた声になってるけど俺には分かる。何年も話してない、会ってないけど、あの暖かさは変わってない。「…兄さん」
「うん。俺だよ、怪しいものじゃないから」
 まだ兄が話しているのがスピーカーから聞こえているけど急いで玄関に向かって二重にしてしっかり戸締りしている鍵を開けた。
「何年振りかな、こうやって面と向かうの」
「外暑いから中で話そうよ」
「そうだな。じゃあお邪魔しますね、てか俺の家なんだけどね」
 そう言うと少し大きめにドアを開け、玄関土間に足を踏み入れた。新品であろう靴を脱いで邪魔にならないようにするためか端っこのほうに並べ、リビングへと歩き出す。その後をちょこちょことついて行き二人でソファーに座った。大きめのショルダーバッグを肩から外してソファーの片隅に置いた。
「聞きたよ。父さんと母さんから」
「…あのこと?でも、いつ聞いたのさ」 
「三日前に電話がかかってきて誰かと思ったら母さんから。今まで恒星が話してくれなかった理由、分かったよって。ビデオ通話じゃなかったから顔は見てないけど声が震えてたから、あっ泣いてるって思って。俺も恒星に謝らないといけない。ごめん、今までずっと誤解してたんだ。恒星の話も聞いてないのに、何にも知らないのに。言ったら悪いけどこんな奴が俺の弟なんだ、ケンカしたら話で解決できない暴力振る奴なんだって。父さんが言った通りこんな奴俺の弟じゃないって思った。それで恒星のこと避けてた。けど今思ったらなんで避けたんだろう、なんで話を聞いてあげなかったんだろう。聞いてたらもっと早く誤解が解けてたかもしれないのに。兄としてちゃんとしないとだよな、ごめんな、俺こそ駄目な奴だよな」
「そんなこと言わないでよ。俺が何もできないからこんなことになったんだんだから。兄さんは悪くないよ」
「…ごめんなぁ」
 大学生、男、いつも弱みを見せない、泣いたのは見たことがない兄が今泣いている。大泣きしているわけじゃないけど両目から沢山の雫が零れ落ちてくる。
「兄さんが泣いたら、俺もつられて泣きそうになるじゃないか。お願いだから泣き止んでよ」
「ごめん。そりゃそうだよな。泣きたいのはお前のほうだよな。俺が泣いてどうすんだって感じだよな」
「あのことはどうでもいいの。兄さんが泣いてたら俺も泣きそうになるから泣くなって言ってるのに」
「そう言うこと?」
 豪快に鼻を啜り、涙を拭き取る兄。ニカっと真っ白な歯を見せてこちらを向く。相変わらずいい意味で陽気な兄だ。切り替えが早いって言うか、嫌なことはすぐ吹き飛ばしていつも通りを演じるって言うか。こんなんじゃ誰も憎めない、そんな性格だと思う。
「あの時一回叩いたけどさ、痛かったよな?嫌いになった?」
「兄さんのこと嫌いになるわけがないじゃないか。自慢の兄だよ」
「お前、いつからそんなこと言えるようになったんだよ。それにしても背が伸びて男らしさが増したな」
 大きな手を俺の頭に乗せくしゃくしゃと掻き回す。おかげで髪の毛がボサボサになってしまった。
 でも嬉しい、いつ振りかってぐらいに頭を撫でてもらったから。昔はよくこんなことしてもらってたけど本当久しぶりだな。
「そうかな?自分じゃ分からないや」
「相当変わったと思うよ。なんか生きてるって感じする。星みたいに輝いてるよ」
「生きてる感じって、俺死んでたの?星みたいには輝いてないし、冗談言わないでよね」
 冗談じゃないからと言っていきなり真顔を見せてきたので思わず吹いてしまった。
 こう言うところが兄らしくて好きだ。一見真面目でおとなしそうだけど実はお笑い芸人みたいに面白い。
「それと母さんからもう一つ大事な話があるって言われたんだけどさ、恒星にも好きな人ができたって?」
 危ない危ない。今水を飲もうとしてたから危うく撒き散らしてしまうところだった。
「き、急になんだよ!?」
「めっちゃ顔真っ赤、おもしろ。そうかぁもう恒星もそんな年頃かぁ。夏休み、そのこと用事とかないの?水族館行くとか、プラネタリウム見るとか」
 せっかくクーラーが効いた部屋で涼んで体音もちょうど良くなったのに、今の一言で台無しだ。頭からつま先、なんなら髪の毛の先端も熱くなってしまったじゃないか。
「でどうなのよ、デートするんですか?」
 でででデート!?この野郎、俺が珍しく恥ずかしがってるからってからかってやがるな。
 確かに花火大会を好きな人と見に行くのは赤の他人から見たらただのカップルにしか見えないだろう。別に付き合ってもないし、俺が一方的に片想いしてるだけなのにデートって…。冗談にも程がある。
「デートじゃないから、兄さんいい?デートじゃありません」 
「デートじゃないってことは遊びには行くってことねぇ」
 鋭い、勘が鋭い。頭がいい人と勘が鋭い人は困る。こう言う心理戦みたいなのになるとすぐ、真実を見抜いてしまうからだ。ここは正直に白状するしかない。
「そうだよ、デートじゃないけど遊びには行くよ。兄さんにはすぐバレるから嫌なんだよなぁ」
「どこ行くの?」
 めっちゃ食い気味。さっきまで一メートルぐらい離れて座ってたのに、今はどうだ。真横にいるぞ。首が折れるんじゃないかってぐらい横にして、頭にはてなマークを浮かべている。
「兄さんのことだから笑ったり馬鹿にしたりはしないと思うけど、笑うなよ」
「絶対笑わないと誓うので教えてください」
「…明日、花火見に行く」
「うふぉー!花火!いやーいいねぇ、センスあるねぇ!しかも明日?こりゃ本人じゃないけどテンション上がるわ。よし、八年間の謝罪の意味を込めて明日はバッチリ準備してやる」
「準備してやるって兄さん大学は?帰ってまた来るの?」
「そう言えば言ってなかったわ、俺今日泊まるんだよね。一日だけど、大学が休みになって何もすることないし久しぶりに帰ろっ」
「えぇー!?」
「そんなびっくりする?もしかして嫌?」
「その、嫌とかそう言うわけじゃないけど本当にびっくりしただけ。いきなりだったからなおさら」
「なら良かった。一瞬嫌なのかと思ってショック受けかけたけど、安心したわ。そうと決まったら、今時間ある?課題やってるから忙しい?」
「ずっとすることがなくて課題進めてるだけだから時間はあるけど、何で?」
「それは秘密。準備と戸締りしてから来て。車で待ってるから」
 そう言うと兄はショルダーバッグの中から車の鍵と財布、スマホを持って出て行った。 俺は今からどこに連れて行かれるのだろう。 ちょっと心配、不安だ。でもモタモタしてる暇はない。指示されたら素早く準備。服は朝から着てるのでカーテンと戸締りをして家を出た。
 
「ただいまーって誰もいないけど」
 あれから二時間ちょっとしてから家に帰宅した。何をしたかと言うとまず、昼食を食べにファミレスに行き明日の準備のために作戦会議をし、その次に隣町にある大型ショッピングセンターで服を何着か買った。上下合わせて多分六、七着は買ったと思う。それで終わりかと思ったら、髪をカットしに美容院に行った。楽しかったけど、人混みに慣れてないので体力を使った。もうヘトヘトだ。
「これで準備オッケー。あとは明日を待つのみ。んー!楽しみだねぇ」
「そりゃ、楽しみなのは楽しみだけどさぁ。緊張してきた」
目の前にいる兄はニヤニヤを隠しきれない模様。