ため息一つ。
「困る?じゃなくて、自分の意思をちゃんと言えよ」

お前が初めて俺の視界に入ってきたあの日、
俺に遠慮なく言ったように。

田島くんは驚いたように一度そのつり目気味の目を丸く見開いてから、目尻をとろけ落ちそうなほど優しく目を細めた。
水族館でも、こんな目をして、クラゲを見ていたんだろうか。
愛おしいと思いながら、俺を思い出しながら、小さな水槽の前で立つ田島くんを想像した。

「若王子くん、ずっと好きや。キス、してほしい」

全身の血が沸き立つ。
今まで女の子に言われた言葉と同じなのに、全く意味が違う気がする。

脳天から響く声が、何度も何度も俺に喜びという感情を
呼び起こした。ゾクゾクと何か本能的なものが、さらに心臓の鼓動をまくしたてる。

きっともう、止まれない。

「キス、したことある?」

自分の理性を担保するために、時間を稼いで、冷静さを取り戻すしかない。ここは学校。俺たちは文化祭実行委員ってだけのクラスメイト(明日からは元、が枕詞になる)

そう理由をつけてもつけても、

「お前と違ってモテへんから、ない」

「じゃあ、教えてあげるね」

体が田島くんを欲して止められない。
どうか、明日が来ないでほしい。
止まれないのが分かっているのに。


痩せた顎のラインに手を添えて、唇を寄せる。あと数cm。目を開ける。

目を閉じる田島くんのまつげは震えていて、少しだけ笑ってしまった。

「おい、今、鼻で笑ったな」

目を開けることなく、田島くんは拗ねた。

「ごめん、笑った。緊張しすぎ」

「さっきも言ったけど、初めてやねん」

「初めて、俺でいいの?」

「うん」

「俺は初めてじゃないけどさ」

「あんまり今、それは聞きたくないな。事実として知っていてもなんか嫌やわ」

「これからは田島くんにだけあげるから、許して」

「…いや、言い慣れてんな」

「言い慣れてる?どこが」

「全部」

さっきからほぼゼロ距離で話す。吐息が、頬にかかってくすぐったい。

餌を目の前にして、『待て』を指示されている気分になってきた。
この場合、どっちが餌になるんだろう。

ただ、お互いが、欲している、お腹が空いている状況には違いなかった。

御託を並べるのが面倒になって、反論はやめた。時間稼ぎなんか無駄だ。なんてどんどん理性が沈静化されていく。

田島くんのカサカサの下唇を俺の唇で保湿するように挟み込む。

少しだけ噛むようにしてから、リップ音が聞こえるようにして離した。

目をゆっくり開ける。ふるふる、瞼を震わせながら田島くんは、なんとも言えない表情をしていた。

寝ぼけているのか、嬉しいのか、何かを噛み締めているのか、
どの感情なのか、多分どの感情でもない、ぐちゃぐちゃになっているんだろう。

「…え?何今の」

「キスだよ」

「なんか食べられたんやけど」

「解説されたら恥ずかしいからやめて」

びっくりしたように田島くんが唇に指を添える。

その顔が幼く見えて、ああ、守りたいと思った。


「これ、恋人にやってあげてね」

とアドバイスをした。

彼は

「分かった。あのさ、復習したいからもう一回して」

と何度も復習を繰り返した。

適応能力の高い彼だから、復習なんか要らないの、分かってるのに、分からないふりを続けていた。

どこかの教室のスピーカーから文化祭が終了したというアナウンスが響いていた。