「あの蒼い空が、忘れられないんだ」
赤信号で止まった時、ふいに運転席の君が呟いた。

助手席でぼうっと外の景色を見ていた僕は、すぐには君の言葉を飲み込めずに「え?」と聞き返してしまった。
掠れた声しか出なかったからひとつ咳払いをしてちゃんと聞き返そうと姿勢を正したけど、そんな僕に君は優しく笑うだけで、なんだか済まない気持ちになる。

僕は君の口から出た言葉を反芻する。
あの蒼い空、と君は言った。いつの頃のことだろう。

僕たちは中学時代からの友人で、そして今は恋人同士だ。離れていた時期もあったし喧嘩もするけど、だんだんとお互い居心地のいいポジションを見つけて一緒に過ごすリズムみたいなのが分かってきたような気がする。
君が車の免許を取って、僕が親元を離れて部屋を借りて、週末はこうして一緒に出掛けたりして。
こんな風に君と過ごせるなんて、あの頃は思ってもみなかった。

「うん、あの頃はね」
君は僕の心を読み取ったかのように相槌を打つ。


あの頃、何もかもが嫌いだった。
暑い校庭も、クラスメイトの大声も。先生の演説も、女子のひそひそ話も。
だから僕は休み時間、いつも一人で窓の外を眺めていた。

「何を見てるの?」
そんな僕に話しかけてきたのが君だった。別に、としか返さない僕に君はそれ以上何かを聞くこともなく、やりとりはそこでいつも途絶えた。

今だから言うけれど、あの時、僕の目には何も映っていなかったんだ。何かを見ていたと敢えて言うならば、不透明な未来、だろうか。


「僕は、君の背中越しに見えた蒼い空を今も覚えてる」

ハッとした。

忘れていた。
そうだ確かに僕の眼にも映っていた。視線の向こうに広がるあの蒼い空は。
あの空は誰にでも平等でどこまでも自由だったのに、どうして僕は何も見えないと思っていたんだろう。

「今の僕たちはけっこう明るい未来を生きていると思うんだけど、どうかな?」
と、大人になった君は笑う。
「うん、そうだね」
あの頃の僕に聞こえるように、大人になった僕は応える。

僕の隣にはあの頃と変わらない君の笑顔。その眩しさに、僕は慌てて目を細める振りをして窓の外に視線を移した。

タイミング良く信号が青に変わる。

「さあ行こうか」
「うん」

二人で見上げる空は、どこまでも蒼い。