今日は朝からぽつぽつと雨が降っていた。東の空は灰色に覆われていて、どこかもの悲しく見える。
 こんな雨の中、関係者から話を聞いたり、現場を捜査したりする担当の騎士はかわいそうだなぁ。なんて、そんなことを考えていた。
 フィアナはカリノから話を聞く必要があるのだが、同じ本部内の建物にいるから、雨の中、移動する手間が省けた。もちろん、ナシオンも一緒だ。
「こんにちは、カリノさん。昨夜はゆっくりとお休みになれましたか?」
「こんにちは、騎士様」
 二日前に顔を合わせたときと、カリノの様子になんらかわりはなかった。
「昨日は、他の騎士とお話をしたのですか?」
「いいえ。あの人たちは偉そうな態度だったから、お話をするのも嫌でした。」
 フィアナの代わりにカリノから話を聞き出そうとしたのは、もちろん情報部の人間だ。彼らはどのような手段を用いても、情報を仕入れるのが仕事であるため、時と場合に応じて態度を使い分けるはずだが、いつものように高圧的な態度をとって、カリノに警戒心を抱かせたにちがいない。
「そうでしたか。失礼しました。彼らに代わって謝罪いたします」
「だから初日にお話をした、女の騎士様にしてくださいってお願いしました。今日は来てくださってありがとうございます。後ろの騎士様も」
 カリノがひょこっと身を乗り出して、ナシオンに声をかけた。ナシオンは少しだけ頭を下げる。
「騎士様。昨日は大聖堂に行っていたのですか?」
 誰がそのような情報を流したのだろうか。つい、フィアナは眉間に力を込めてしまった。
「そのような顔をしないでください。昨日、女性の騎士様とお話をさせてくださいと言ったら、大聖堂に行っているからいないと言われたので」
 よほどカリノに手を焼いたのだろう。不在であるのを伝えるのは問題ないが、具体的にどこへ言っていると伝えるのは褒められたものではない。
 だが、彼女に大聖堂で話を聞いてきた事実を知られているのなら、こちらも腹をくくっていいだろう。
「はい。昨日は大聖堂へ行き、巫女たちからお話を聞いてきました」
 カリノはニコニコと笑みを浮かべたまま、表情はかわらない。
「みんな、元気でしたか?」
「はい。カリノさんのことを心配されておりましたよ。早く、戻ってきてほしいと」
 その言葉にカリノは首をゆっくりと横に振る。
「ですが、わたしはあそこには戻れませんよね?」
「いいえ、戻れる可能性はゼロではありません。まだ、カリノさんが聖女様を殺したと決まったわけではありませんから」
 するとカリノは驚いたかのように、青い目をぐりぐりと大きく広げた。
「まだ犯人がわたしではないと、そう思っているのですか?」
「はい」
 フィアナは力強く頷く。
「そもそも聖女様を殺した凶器が見つかっておりません」
「川底から、斧が見つかったのではないですか? 昨日の方はそう言って、わたしを脅したのですが」
「脅した?」
「はい。凶器が見つかった。どうやって殺したんだ。なんで殺したんだ。黙っていたら、そのまま断頭台に送るぞって」
 フィアナは眉間に深くしわを刻んだ。場合によってはそういった話し方も必要だが、まして相手は十三歳の子どもだ。
「ですから、さっさと断頭台に送ってくださいと言ったのですが、逆にその言葉に怒ってしまったようで。今にもわたしを殴りたそうにしていたのですが、ほかの騎士様にとめられていました」
 そこでカリノは、ふふっと笑みをこぼした。
「カリノさん。あなたは本当に聖女様を殺害したのですか?」
「ですから、ずっとそう言っていますよね?」
「でしたら、凶器のありかを教えてください。凶器をどこに隠したのですか?」
「川底から出てきたのでしょう? いつも薪割りに使っていた斧です」
 フィアナは黙って首を横に振る。
「あれは、聖女様の首を切断するために使ったのですよね?」
 カリノはうすら笑いを浮かべたままだ。
「凶器、ランプ、聖女様の左手。今のところ、これが見つかっておりません」
「やっぱり、騎士様とお話できてよかったです。昨日の人はとにかく怒鳴りつけるばかりで。だからもう、何も言わないって、ふんってしました」
 カリノは独特な子どもだと思う。子どもでありながら子どもでないような、大人と子どもの狭間にいるような、そんな子だ。
 いつも力ずくで証言を得ているような彼らだからこそ、カリノとまともに話ができなかったのだろう。
「凶器もランプも聖女様の左手も。わたしは持っていませんよ? 大聖堂のわたしの部屋を探してもらってもかまいません。隠すような場所もありませんし」
「もしかして、あなたのお兄様、キアロさんが持っているのですか?」
 カリノのこめかみがひくりと反応した。
「どうでしょう? 兄は東の街、ドランの聖堂に派遣されておりますから。大聖堂を離れたあの日から、会っておりません」
「ですが、キアロさんはドランの聖堂にはいらっしゃらないようです。ドランの聖騎士たちも、キアロさんが派遣される話は聞いていないと」
 カリノが「まぁ」と口を開く様子は、どことなくわざとらしさを感じた。
「でしたらきっと、大聖堂からの通知がドランの聖堂に届いていなかったのではないでしょうか?」
「通知?」
「はい。兄が言っておりました。大聖堂から地方の聖堂に派遣されるときは、通知を送るそうです。ですが、たまにその通知が事故にあって届かないこともあるそうです」
「つまり、郵便事故があったと?」
 郵便事故。不測の事態によって、手紙や書類が届かなかったりなくなったりしてしまうことをそう呼んでいる。
「その可能性も否定できないのではないでしょうか? まあ、可能性の話ですけども」
 カリノの言うことも一理あるだろう。これは教皇、もしくは枢機卿あたりに話を聞いておきたい内容だ。
「カリノさんのおっしゃるとおりですね。その件については、こちらできちんと調べておきます」
 彼女に負けまいと、フィアナもにっこりと微笑んだ。
「あ」とそこでカリノが小さく声をあげる。そんな些細な仕草からは、幼さが見えた。
「つまり、兄は行方不明だと?」
 かすかにふるえる唇は、兄を案じてのことなのだろう。
「申し訳ありませんが、そうなります。騎士団ではキアロさんの行方を把握してりません。ですが、全力をあげて探しておりますので」
 心配するなとも、必ず見つけ出しますとも、その続きの言葉は言わない。
 探した結果、どうなるかだなんてわからないからだ。
「やはり、キアロさんからも話しを聞かなければなりません。カリノさんが聖女様を殺した犯人だと、どうしても思えませんので」
 その言葉にカリノの表情が曇る。
「まさか、兄が聖女様を殺したと?」
「そのようなことは言っておりません。ですが、カリノさんに近しい者から話を聞くのは基本ですから。それに、キアロさんは聖女様と仲がよかったとお聞きしております」
 カリノの表情が今までよりも険しくなった。
「誰がそのようなことを言ったのですか?」
 後方にいるナシオンがカタリと身体を動かした。もっと話を聞けと、そう訴えている。
「誰がというわけではありません。キアロさんが聖女様の専属護衛騎士にという話もあったと。しかし、まだ年齢も十九歳と若く、教皇や枢機卿がお認めにならなかったとお聞きしました」
「あの人たちは……いえ、失礼しました。兄が行方不明と聞いて、少し動揺してしまいました。兄にそういったありがたい話があったのも事実です。ですが、残念ながらその役は他の聖騎士の方になったようです。そういったありがたいお話もあったから、兄と聖女様の仲がよろしいと、皆、勘違いなさったのかもしれませんね」
 いっときはカリノの目に宿った強い感情が、いつの間にか消え去っていた。
 子どもでありながら、気持ちの制御がよくできている。
「もしかして、聖女様との仲のよい者は、聖女様を殺した犯人として疑われているのですか? これほどまでわたしが殺したと主張しているにもかかわらず」
「そういうわけではありません。私たちはさまざまな関係者から話を聞き、そこから真実を見極めるのが仕事なのです。だから、どんな些細なことでもお話していただけると助かります。カリノさんは誰かをかばっているのですか?」
「いいえ。かばうも何も。わたしが聖女様を殺した。殺したかったら殺した。ただ、それだけです」
 また、振り出しに戻ってしまったようだ。
 だがここでカリノがニヤリと不気味に口角をあげる。
「ですが、聖女様と仲がよかった人物を探しているのであれば、一番、大事な方を忘れておりませんか? 一昨日から一度もその方の名前が話題にあがっていないんですよね。それが不思議で仕方ありませんでした」
 聖女と縁のある人物は、大聖堂関係者ではないのだろうか。教皇、枢機卿、巫女、そして聖騎士。その他に親しくしていた人物がいるとでもいうのか。
「アルテール王太子殿下が聖女様に求婚されたと、そういった話は伝わっておりませんか?」
 またナシオンが反応を示す。フィアナの視界の片隅に入るような斜め後方にいるから、少し動けばわかる。
「残念ながら、そういった話は騎士団には伝わってきておりません。大聖堂側では、誰もが知っている事実でしょうか?」
「さあ、どうでしょう? 他の人が知っているかどうかなんて、わたしにはわかりません」
 つまり、大聖堂側が正式に発表した話ではないということだ。
 そこでカリノは姿勢を崩す。
「騎士様、ごめんなさい。少し、疲れてしまいました」
「そうですね。今日は長くしゃべりすぎたようです」
 ナシオンに目配せをして、今日はここまでだと訴える。彼もそれに同意し、席を立った。
「騎士様。また、お話をしてくださいますか?」
「はい。またお話を聞かせてください。今日は、部屋まで送りますね」
「わたし、逃げも隠れもしませんよ。自分で罪を認めておりますから。心配性なんですね」
 その言葉に、フィアナは返事をしなかった。
 カリノを送ってから司令室に戻ると、今日は珍しく自席にタミオスがいた。
「部長」
 いつも大きな声で名を呼ばれる側のフィアナだが、今日は負けじとタミオスを呼ぶ。
「そんなに大きな声を出さなくても聞こえてる」
 しっしっと犬でも払うかのような仕草を見せるタミオスに、フィアナはずんずんと近づいていく。もちろん、二歩後ろにはナシオンの姿がある。
「フィアナ。この時間は、あの子の取り調べじゃないのか?」
 壁にかかる時計をわざとらしく見たタミオスは、肩をすくめた。それは「お前でもダメだったのか」とでも言いたげに見て取れた。
「今日の分は終わりました。ですが、彼女が一つだけ、情報をくれたのです」
「……なんだ?」
 フィアナを鬱陶しいでもいうかのような態度だったタミオスが身を乗り出してきた。
「アルテール王太子殿下が、聖女様に求婚されていたという話は、聞いたことがありますか?」
 他のものには聞こえないようにと、フィアナは声のトーンを下げた。タミオスも顔色一つ変えずに、黙っていた。
 しばらくしてから「わかった」と小さく口にする。
「アルテール王太子殿下と話ができるように手はずを整える」
 あえて謁見という言葉を使わなかったのだろう。
「私、これから大聖堂へ行きたいのですが、よろしいですか?」
「大聖堂だと?」
「はい。そういった事実があったかどうかを確認してきます。王太子殿下と話ができるのは、早くても明日以降でしょうから」
 タミオスは腕を組み、椅子の背もたれに背中を預ける。何かしら考え込んでから「わかった」とだけ許可を出す。
 フィアナは後ろを振り返りナシオンに視線を送ると、彼は首肯する。意図は伝わったようだ。
 ひとおりやることを終えたフィアナは自席に戻り、軽く息を吐いた。
 カリノと話をして気が張り詰めていたから、こめかみが痛む。人差し指で円を描くようにぐりぐりとしていたら「ほらよ」とナシオンがカップを手渡した。
「お疲れ」
「ありがとうございます」
 見るからに渋そうな紅茶だ。
「思ったのですが……」
「なんだ?」
「ナシオンさんは、紅茶を淹れるのが下手くそなのですか?」
「な、ん、だ、と?」
「いえ、なんでもありません」
 口元にカップを近づければ、紅茶のかぐわしい香りが鼻腔を刺激する。このにおいだけは美味しそうなのだ。だけど、口に入れると舌先に渋みが残る。
「お子ちゃまには、この美味さがわからないようだな」
 ずずっと紅茶をすすったナシオンも椅子に深く座った。
 とにかく、一息つけるのはありがたい。
 カリノから聞いた話を報告書としてまとめていく。先ほどの話で一番の収穫は聖女と王太子アルテールの関係だろう。アルテールが聖女に求婚していたとは、まったく知らなかった。
 タミオスに報告したときのあの表情から察するに、彼もその事実を知らなかったに違いあるまい。いや、事実かどうかはこれから確認するのだが。
 仮に事実だったとして、この話を知っている人間は騎士団にはいないのではないだろうか。
 王族や大聖堂の関係者であっても、ほんのわずかな人間。
「それで、大聖堂へ行って、誰から話を聞くつもりなんだ?」
 カップを口元に当てながら、ナシオンが尋ねた。
 心当たりのある人物は一人。彼なら、教えてくれるのではないだろうかと、密かに期待を寄せている。だが、確信があるわけではない。
「聖騎士のイアンさんです」
「誰、それ」
「昨日、私たちを案内してくれた、あの聖騎士です。ナシオンさんがいけ好かないと言った……?」
「ああ、あいつか」
 ナシオンがひどく顔をしかめた。
「フィアナ。あいつと仲がいいのか?」
「仲がいいといいますか。以前にも、仕事で顔を合わせたことがある程度です。名前も、昨日、調べて思い出しました」
「思い出した?」
「はい。ほんの数回しかお会いしていないから、お名前を失念しておりました」
 それ以上、ナシオンは何も言ってこなかった。

 午後になると雨はあがり、じとっとした空気が肌にまとわりついた。空は変わらず鼠色で、いつ雨が落ちてきてもおかしくはない。
 フィアナはナシオンと並んで大聖堂へと向かっていた。正門の脇に立つ門番は、昨日と同じ男だ。
「こんにちは。聖騎士のイアンさんに会いに来たのですが」
「お約束はありますか?」
「いいえ、ありません。無理なようでしたら帰りますが」
「いえ。問題ありません。あなたが来たら通すようにと言われておりましたので」
 ナシオンが肩をすくめた。何か言いたそうだが、フィアナはそれを視線で制した。
 まるで、イアンはすべてを見透かしているかのよう。それがひしひしと感じられた。
 大聖堂のエントランスに入り、待ち合わせ用の場所で所在なさげに立っていると、向こう側からイアンがやってきた。白い騎士服を身にまとい、大聖堂に使える聖騎士として一目でわかるいで立ちだ。
 イアンの姿が見えた途端、ナシオンに対抗意識が芽生えたのがわかった。ナシオンが、そのような感情を抱くのは珍しい。やはり彼は、聖職者側の人間が好きではないのだろう。
「今日も来たのですね」
「はい。今日はイアンさんからお話を聞きたいのですが、よろしいでしょうか?」
「ええ、問題ありませんよ。庭園にお茶とお菓子を用意させましょう。いや、この天気なら談話室のほうがよさそうですね」
「いえ。そういった気遣いは不要です。こちらは仕事で来ておりますから。昨日と同じ場所でかまいません」
 ふむ、と考える仕草すら洗練されており、真っ白な衣装がよく似合っている。
「では、応接室に案内しましょう」
「ありがとうございます」
 フィアナは事務的に頭を下げ、イアンの後ろをついていく。もちろん、隣にはナシオンがいる。
 案内された部屋は、昨日とは違って華やかな部屋だった。白地の壁紙には、金色で小さな花が描かれている。促されたソファもとっしりとしておりワイン色が部屋に映える。
「それで、どういったお話を聞きたいのですか?」
 長い足を組みながら威圧的に問うてきたが、イアンの目はナシオンを捕らえていた。
「はい。単刀直入にお尋ねします。聖女様が、アルテール王太子殿下に求婚されたというのは事実ですか?」
 薄ら笑いを浮かべたまま、イアンはフィアナに顔を向けた。
「どこからそういったお話を?」
「それが私たちの仕事ですから」
「なるほど。そうでしたね」
 やはりアルテールがラクリーアに求婚したという話は事実なのだ。
「詳しく聞いてもよろしいですか? アルテール殿下と聖女様の関係を」
「詳しくも何も。その通りです。どうやらアルテール殿下は、ラクリーア様に懸想されたようで。急に結婚したいと言い出したのです」
「大聖堂側と王族側で話し合って決めた内容ではない、ということですか?」
 そうです、とイアンは首を縦に振った。
「ご存知かもしれませんが、巫女や聖騎士たちの結婚は禁止されておりません。ですが、聖女様となればまた別です。何よりも、我々にはない神聖力を持っておりますからね。その神聖力を、王族側は取り込みたいのだろうと」
「聖女様は、その求婚を受け入れるつもりでいたのですか? 相手が王太子殿下であれば、憧れを抱く女性は一定数いるわけですから」
「あなたもその一人ですか?」
「え?」
 フィアナが声をあげるのと同時に、ナシオンの身体がピクリと小さく揺れた。だが、彼は何事もなかったかのような表情を浮かべている。
「失礼しました。揶揄いすぎましたね。ですが、聖女様もあなたと同じような気持ちです。アルテール殿下にはまったく興味がなかったのです。それに聖女様は、この国を案じておりましたから、聖女としての役目を全うしたいと、そう願っていたのです」
 そこでイアンの表情が一気に曇った。
「だというのに、志半ばで命が失われ、どれだけ無念か……」
「イアンさんは、あの巫女が本当に聖女様を殺したとお考えですか? むしろ、大聖堂側はそれを受け入れているのですか?」
「個人的な意見を口にして、あなたたちの捜査を攪乱させるのは申し訳ないですね。ですが、我々は大聖堂の人間です。こちらの人間を守るのが我々の役目でもあります」
 つまり、カリノは犯人だと思っていない。むしろ――。
「アルテール殿下は、よく大聖堂を訪れたのですか? 聖女様に会いに」
「よく、という定義が曖昧なのですが。過去に、五回ほど聖女様に会いにこられました。最初の一回は事前に連絡があったのですが、あとは、こう、突然やってきて……。きっと、二回目の連絡があったときに、聖女様がお断りされたのが原因かと思います」
「逆に、聖女様が王城を訪れることはありましたか? そのアルテール殿下と会うために」
「そうですね。正確な回数までは覚えておりませんが、アルテール殿下がこちらに来られると、他の者に迷惑がかかるからと、最後のほうは聖女様が王城へ足を運んでおりました。それがアルテール殿下がこちらに来られた五回目以降の話です」
「そのときの護衛には誰がつきましたか?」
 フィアナはイアンから目を逸らさない。まっすぐに見つめ、その答えを待つ。
「私ですね。他にも四人ほど」
「その他の四人のなかに、カリノさんのお兄さん、キアロさんはおりましたか?」
「だから、私はあなたに興味があるのですよ」
 イアンはゆっくりと口角をあげた。

 ひととおりイアンから話を聞いたフィアナは、大聖堂を後にする。
 やはり王太子アルテールは聖女に求婚していた。しかし、聖女ラクリーアはそれを拒んでいた。だからアルテールはラクリーアを我がものにするために、という動機は十分に考えられるし、単純である。
 その日の夕方の報告会議では、第一騎士団からもめぼしい情報はあがってこなかった。聖女が殺されたと思われる場所の周辺に住む者たちから話を聞いたようだが、あの場所から人が住んでいる場所まではずいぶんと距離がある。気晴らしに散歩で訪れる者はいるかもしれないが、わざわざ何か目的をもってあの場に足を運ぶ者はいないだろう。まして、時間も時間だ。
 物音は聞こえなかった――
 怪しい明かりも見えなかった――
 何かあったんですか――?
 と、返ってくる言葉はそればかり。
 聖女ラクリーアが亡くなったという情報は公表されていない。それが大聖堂側からの指示だからだ。次の聖女が決まるまでは伏せてほしいとのことだった。だから彼らは、聖女ラクリーアが死んだことを知らない。
 第一騎士団が初日から現場周辺の足跡も確認したものの、川辺ということもあって岩場も多く、それらしい足跡は見つからなかった。血に濡れたカリノの足跡くらいだろう。
 情報部からは、タミオスが、王太子アルテールから話を聞くことにしたと報告をする。そうなった経緯を伝えるためには、アルテールが聖女に求婚した話についても報告せねばならない。
 タミオスが包み隠さず報告すると、一同にざわりと動揺が走った。

**~*~*~**

 なぜか満月の日になると、心がざわざわして眠れなくなる。
 それはきっと、両親を失ったのが満月の日だったから。っかもしれない。
 秘密の抜け穴を通って、敷地内から外へと出る。この抜け穴を知っている者はどれだけいるのだろう。人が踏み固めた様子もあるから、ここを知っているのは少なくともカリノ一人だけではない。
 いつものように川辺へ向かって歩く。
 カリノにとっては、こうやって川の音を聞くだけでも心は落ち着くのだ。一日中、何かの仕事をしているような巫女たちは、夜はぐっすりと身体を休めたいと思うのも事実。
 そう思っても、休めないときもある。
「あっ……」
 いつもの場所にラクリーアの姿があった。川岸の大きな石の上に腰をおろし、川の流れを眺めている。だけど、その隣にはいつもいない人物がいた。
「お兄ちゃん……」
「カリノ。遅かったじゃないか」
 カリノの声にキアロもラクリーアも振り返る。
 夜だというのに、空から降り注ぐ月光によって二人の表情ははっきりと見えた。
「こんばんは。カリノ」
「こんばんは。ラクリーア様」
「キアロさんは、カリノのお兄様でしたのね。カリノが来るまで、一緒に待っておりました」
 満月の夜。河原。そして秘密の抜け穴。
 これらをキアロに伝えたのはカリノ自身だ。
 遠くから見えた二人の後ろ姿。
 この状況を望んでいたのもカリノ自身である。
「メッサが眠ったのを確認してから出てきたので、遅くなりました」
 同室のメッサは、一度、寝入ってしまうと朝までぐっすりと眠りこける体質だ。だから、カリノも自分のベッドにちょっと細工をして(人が眠っているように、掛布をこんもりとさせて)から、部屋を出てきたのだ。万が一に備えて。
 カリノはキアロの隣に座る。
 今日も静かに川は流れている。水面は付きの明かりを受け、きらきらと輝いていた。
 この川は、故郷にまでつながっている。そこから、さらに流れて海へと出るのだ。
「お兄ちゃんは、ラクリーア様とどのようなお話をしていたの?」
「カリノの話だよ。僕たちの共通点は、今のところカリノしかいないからね」
 自分がいない場所で話題にされるというのは、恥ずかしいものがある。
「お兄ちゃん。ラクリーア様に変なことを言わないでよ」
「変なこと? 変なことって何? カリノが川にうつる月が美味しそうだと言って、じゃぼじゃぼと川に入ったこととか?」
「あぁ……」
 それは黙っていてほしい話だ。よりによって、ラクリーアには知られたくなかった。
 まん丸い月がふかふかのパンのように見えて、それが川の表面に映り込んでいたのだ。空には手が届かないけれど、川には届きそうだと思って水の中に入った。だが、川に入ったとたん、浅い場所にある石の上で滑って尻餅をつき、びしょ濡れになって終わっただけという、そんな情けない思い出がある。カリノがまだ五歳くらいのときの話。
「お兄ちゃん、ひどい」
「カリノは昔からかわいらしい子だったのですね。今でも、十分にかわいらしいですけれども」
 ラクリーアはころころと楽しそうに笑う。月光が、よりいっそう彼女を輝かせたようにも見えた。
 こうやってラクリーアと話をするようになって、カリノは寂しさを紛らわせていた。満月の夜に家族を失ったやるせなさを、満月の夜にラクリーアと会うことで埋めていたのだ。
 だからカリノにとって、ラクリーアは姉のような存在だと、恐れ多くも思っていた。
 だけど姉のようであって姉ではないというのも理解しているし、それでも姉であってほしいという願望もあった。
「それにしても、カリノが聖女様と知り合いだったなんて、驚いたよ」
 キアロから見ればそうなるのだろう。いや、キアロだけではない。ほかの巫女たちも、カリノがこうやって満月の日に、ラクリーアと密会していることなど知らないのだ。
「ラクリーア様が、お兄ちゃんに会いたいとおっしゃったの」
「えぇ?」
 キアロはカリノに向けていた視線を、慌ててラクリーアに向けた。
「だって、カリノのお兄様なんですもの。聖騎士見習いとして大聖堂にいらっしゃるのであれば、会ってみたいと思うでしょう? まして、年も同じと聞けばなおのこと」
 そこでラクリーアの表情が曇ったように見える。
 カリノはそんなラクリーアを励ますためにも話題を変える。
「わたしも、ファデル神に祈りを捧げていたら、ラクリーア様のように神聖力が使えるようになりますか?」
 幼い巫女たちにとって、神聖力を手に入れ、聖女になるというのは、一種の憧れでもある。
「どうでしょう?」
 首を傾げたラクリーアの目が陰った。
「カリノはまだ幼いですから、ほかの巫女たちの言うことをしっかり聞いて、なんでも自分でこなせるようになりなさい。まずはそこからです」
 聖女になれるかどうか、という話をはぐらかされてしまったような気がする。
 だけど、カリノはしっかりと感じた。これは拒絶だ。これ以上、この話題に触れてはいけないというラクリーアからのけん制なのだ。
 沈黙が落ちた。
 いつも、ラクリーアとはどのような話をしていたのだろうか。話題を考えてみるものの、間にキアロがいるためその距離が遠く感じる。
「キアロさんも、あの戦争がきっかけでこちらに来られたと、カリノから聞きました」
「はい。僕とカリノは、聖女様に声をかけていいただいたのがきっかけです」
「カリノにも言ったのですけれど。あのときは、たくさんの子どもたちに声をかけたので、キアロさんのことをすっかりと失念しておりました。申し訳ありません」
「いえ。僕たちは、聖女様に感謝しておりますから。こうやって不自由なく暮らせているのも、聖女様のおかげです」
 キアロの明るい声に反して、ラクリーアの表情は沈んでいく。
「もしかしてわたくしも、誰かに話を聞いてもらいたいのかも知れませんね」
 そう言ったラクリーアは、ぽつぽつと自身の過去について語り始めた。
 きっと幼いカリノだけではラクリーアもそれを口にはしなかっただろう。同い年で、聖騎士見習いのキアロがいたから、話そうという気持ちになったのだ。
 ラクリーアの話は、カリノも想像していなかった意外なものだった。
 彼女が大聖堂に来た理由。そして彼女がここでは珍しい髪の色をしていた理由。
「ラクリーア様は、ご家族のところに戻りたいとは思わないのですか?」
 話をお聞き終えたカリノは、自然とそう尋ねていた。
「どうなのかしら? わたくしのことなんて、向こうもきっと忘れているわ……」
 キアロの向こう側に見えるラクリーアの横顔は、どこか遠くを見つめている。やはり家族を思い出しているのだろう。
 カリノは手を伸ばしてラクリーアの手を掴んだ。間に挟まれているキアロは、身を縮めている。
「わたしがラクリーア様の家族になります。わたしには、家族がお兄ちゃんしかいないから……。ここにいるこの時間だけでも、ラクリーア様と家族になります」
「まぁ」
 ぱっとラクリーアの顔がほころんだ。
「嬉しいです、カリノ。そうなりますと、カリノはわたくしの妹かしら?」
 それがカリノの望む結果だ。
「キアロさんんは、わたくしのお兄様? それとも弟?」
 なぜかキアロが不機嫌そうにムッとした。
「それは詳しく審議する必要があるかと思います。なにしろ僕たちは同じ年ですから」
「では、どちらの誕生日が早いかで決めましょう」
 だからこうやって、カリノの夢は少しずつ叶うのだ。
 ラクリーアとキアロと、そしてカリノ。少しずつ家族が増えていくのだと思っていた。