東の空が明るくなりつつある。
フリオ山の向こう側から太陽がゆっくりと昇り、王都エルメルの街を明るく照らし始めた。王城と大聖堂の真っ白な尖塔は、朝日を浴びて黄金に輝く。
エルメルの街には、東西南北の四カ所に騎士団の分所がある。広い王都の治安を、昼夜問わず守るのが王国騎士団の責務。そのため分所には、深夜であろうが、早朝であろうが、必ず騎士が常駐している。
その日、東分所で寝ずの番をしていたのは、アロンとデニスの二人の男性騎士であった。
アロンは二十代で、騎士となって二年目の若手だ。デニスは四十代の熟練の騎士である。特に夜間は、二人一組で動くようにと厳しく言われている。
カタンと物音がして、アロンははっと目を開けた。この明け方がもっとも眠い。
分所の建物の入り口には、朝日を浴びて人の影がぬーっと伸びている。誰かがやって来たようだ。
「デニスさん……」
こんな早朝から、静かにここを訪れる人間に警戒心を抱いた。
非常識な時間帯に分所にやって来る者は、たいてい大声をあげたり走ってきたりと、何かと慌ただしい。だから、静かに訪れるというのが、不気味なのだ。
デニスもアロンと同じ考えだったようで、ゆっくりと頷く。
「誰だ? 何か、あったのか?」
アロンが影に向かって声をかける。
ふるっと震えた影は、ゆっくりと中に進んできた。
「……あっ。女の子? 人さらいにでもあったのか? それとも野犬に襲われたのか?」
アロンがそう声をかけたのも無理もない。
こんな朝早くから分所を訪れたのは、年端もいかぬような少女だった。身につけている衣類から判断すると、大聖堂で巫女として神に仕えている娘だろう。しかし、その少女の顔は血にまみれていた。
いや、顔だけではない。身にまとう服も、そこから伸びる手足も、血まみれだった。
だから人さらいから逃げてきたのか、それとも野犬に襲われたのかと、アロンは考えたのだ。
それと同時に矛盾も感じていた。大聖堂の巫女が、なぜ血を浴びなければならないのか。
大聖堂内に人さらいが現れたのか。それとも野犬が現れたのか。そうであったとしたら、それはそれで大事件だ。
さらに、少女が両手で大きな荷物を抱えているのが気になった。その荷物も血に濡れている。
「何があったんだ?」
アロンはおもわず喉をゴクリと鳴らした。やはり、大聖堂で大きな事件があったのだろうか。となれば、すぐに本部に連絡をし、大聖堂に他の騎士を向かわせなければならない。いや、あそこには聖職者たちの警護をする聖騎士がいるはず。彼らはいったい何をしているのだろうか。
そんな考えが、アロンの頭の中を駆け抜けていった。
少女は泣きもしない。わめきもしない。怯えもしない。このような状態で静かに口を開く彼女が、少しだけ怖いと感じた。
「騎士様。わたし、聖女様を殺してしまいました……」
その声もまだ幼い。だというのに、不気味な言葉を言い放った。
「聖女様を殺した?」
言葉の意味はわかるが、それを理解するのを本能が拒む。デニスを見やると、彼は眉間に深くしわを刻み、少女が抱えている荷物に鋭い視線を向けた。
「はい。わたしが聖女様を殺しました」
彼女は膝をつくと、手にしていた荷物を床においた。布地で包んであった荷物だが、それをゆっくりと開いていく。
「……ひっ」
そこから現れたのは、女性の頭部。白銀の髪は長くそれもまた血で汚れており、何色かわからぬその目はしっかりと閉じている。
だけど、アロンもその顔に見覚えはあった。
「せ、聖女……ラクリーア様……」
精気の宿らぬ顔であったとしても、その造形が大きくかわるわけではない。
「う、うわぁああああああああ」
少しだけひんやりとするさわやかな朝、エルメルの東部には男の叫び声が響きわたった。
大陸の西側にあるファーデン王国が、太陽神ファデルからとった名前がつけられているのは、太陽神ファデルがファーデン王国の建国に尽力したとも伝えられているからだ。
そのため国を統治する王と、太陽神ファデルを信仰する聖職者たちの関係は、密なるものでもあった。
しかし時代の流れとともに、その二つの間には少しずつ距離が生まれ、今では王族を支持する者は王城に、聖職者を支持する者は大聖堂に集まるようになっていた。
それでも結婚は神の前で愛を誓うのだから、やはりファーデン国民の心には太陽神ファデルに対する信仰心が根付いているのだろう。ただ、信仰心と政治は別ものだと、そう考えているのかもしれない。
――ファーデン王国騎士団本部。
王城と同じ敷地内にありながらも、王城とは独立した建物。ここは本部と呼ばれている。
そこの会議室に騎士たちがずらりと並んでいるが、そこにいる騎士たちも騎士服を身にまとっている者だけではない。シャツにジャケットという、見た目だけでは騎士団所属と思えないような姿の者もいる。
「では、現時点において判明している内容について、説明する」
これだけの人が集められたのは、今朝方、大聖堂の巫女が「聖女を殺した」と騎士団東分所に出頭してきたためだ。
子どもの戯れ言かと思われるような話だが、それが事実だと認めざるを得ないのは、巫女自ら、聖女の頭部を手にしていたからだろう。
巫女とは大聖堂で神に仕える女性の総称で、その年齢は生まれたばかりの赤ん坊から寿命を全うしそうな老女までと、幅がある。
今回、出頭してきた巫女は、十三歳のカリノという名の少女。
そして両手で抱えていた頭部。作り物とかまがい物とかではなく、本物の聖女の頭部だった。残りの胴体については、少女が証言した場所から出てきた、とのこと。
「死亡した被害者は、ラクリーア、十九歳、女性――」
事件の内容を説明する騎士団総帥の淡々とした声が、室内に響く。想像しただけでも胸くそ悪くなるような事件だ。
いきなり聖女の頭部を見せられた東分所のアロンという騎士は、早朝から叫んだ挙げ句、その場で嘔吐した。もう一人のデニスという騎士がすぐさま騎士団本部へ連絡をいれ、応援を呼ぶ。
応援が駆けつけるまで、デニスはカリノにやさしく声をかけ、少女も落ち着いた様子で受け答えをしたようだ。そのとき、聖女をどこで殺したか、残りの身体はどこにあるのかを聞き出したようで、事件として被害者も犯人もはっきりとしており、謎に包まれている部分はない。
いや、残されている疑問点としたら動機くらいだろう。
「――以上、解散」
その言葉と共に、室内からは騎士たちがわらわらと出ていく。集められた騎士らは総勢三十名程度。
被害者が聖女であるため、大聖堂の聖騎士たちとも連携する必要がある。しかし、殺された人間が聖職者や大聖堂の関係者であった場合、直接の捜査の指揮や容疑者への尋問は、王国騎士団が行うが、今まで、そういった事例はなかった。
逆に、王族・貴族が被害者であった場合は、聖騎士が主導をとって捜査をする。しかしそういった事件は何か目に見えない力が働き、なかったものとされる。だから、聖騎士が捜査本部を立ち上げたという話は、ここ十数年、聞いていない。
ちなみに、それ以外の一般的な民が関わっている場合、主導をとるのは王国騎士団となり、むしろこういった事件が多い。
今回は、被害者が聖女という前代未聞の事件なのだ。まして、その容疑者が十三歳の少女で巫女ときた。
聖女とは、聖職者の中でも神の力を与えられた女性とされている。その力を神聖力ともいうのだが、例えるなら聖女自身が魔石のような存在だろう。
魔石とは魔力と呼ばれる力を閉じ込めた石のことで、その魔石を用いた道具は魔道具とも呼ばれている。それらは容易に火を起こしたり、お湯を沸かしたり、水を浄化したりすることができ、生活するうえでなくてはならないもの。
つまり、聖女は魔石がなくても、火を起こしたり湯を沸かしたり水を浄化したりできるのだ。
そういった神聖力を使える聖女が、たった十三歳の巫女に殺された。しかも、無残に胴体と頭部を切り離されて。
「フィアナ。これから、話を聞きにいくのか?」
会議が終わったところで、フィアナ・フラシスは一人の男から声をかけられた。
振り返れば、同じ部署に所属するナシオンがかすかに口元をゆるめてフィアナを見下ろしている。さらさらと揺れる金色の髪に深い森を思わせる深緑の瞳。すっきりとした鼻筋に、色香漂う唇。左目の下の泣きぼくろが、妙な妖艶さを醸し出す。この美貌を使って老若男女から情報を搾り取るのが、目の前のナシオン・ソレダーという男なのだ。
このようなときでも、貴公子の笑みをくずさずにいるのだから、そこだけは尊敬に値する。
「はい。相手が十三歳の少女とのことで、部長が私に目をつけました」
肩にかかる濡れ羽色の髪をパサリと払いのけて、フィアナは答えた。
フィアナは騎士団の中でも情報部に属する。情報部とはその名のとおり、情報を取り扱う部門。諜報活動も情報部の騎士が行うため、騎士でありながら騎士服を身につけなくてもいい部署の一つである。
今日のフィアナが担当するのは、聖女を殺したと自首してきた少女カリノの取り調べだった。
「かわいそうだよな。分所のやつも」
ナシオンはアロンに同情しているのだろう。朝から聖女の生首など見せられたら、誰だって気が滅入る。
「そうですね」と、フィアナも落ち葉のような茶色の目を瞬かせて答えた。
「あ、ナシオンさん。できれば記録係として同席していただきたいのですが、可能でしょうか」
「ああ、もちろん。俺と君は、コンビだろ?」
こういった事件が起こった場合、騎士は常に二人一組で行動する。フィアナの相手はナシオンだった。
フィアナはそんなナシオンと肩を並べて取調室へと向かう。肩を並べてといっても、フィアナは小柄であるため、ナシオンの肩と同じくらいの位置に頭がある。
無機質な階段を下り、取り調べ室を目指す。
入り口にいた見張りの騎士に目配せをしてから、フィアナは中に入った。
鉄製の重い扉を開けると、茶色の髪を二つの三つ編みに結んでいる少女の姿があった。椅子にちょこんと腰掛けている様子は、年相応に見える。血に汚れていた服は、簡素なワンピースに着替えられていた。
そういえば、フィアナが本部にやって来たときに、管理部の同期の人間が、服がどうのこうのと言いながら外へ出ていったような気がする。
「こんにちは」
フィアナは少女に向かって声をかけた。
テーブルの一点を見つめていた少女は、ゆっくりと顔をあげる。吸い込まれそうなほどの深い海のような青い瞳が印象的だ。
「……こんにちは。お姉さんも騎士様?」
カリノがそう尋ねたのは、フィアナが騎士服を着ていないかだろう。
「そうです。こう見えても騎士団に所属する騎士です。これから、カリノさんからお話をうかがいたいのですが」
「はい。わたしが聖女様を殺しました。だからわたしを処刑してください」
後ろに控えていたナシオンから、動揺した様子が伝わってきた。彼にはチラリと視線を向け、もう一つの椅子に座るようにと顎でしゃくる。
「今すぐ処刑にはできません。どうしてカリノさんが聖女様を殺したのか。理由をきちんと確認しなければなりません。そしてなによりも、本当に聖女様を殺したのはカリノさんなのか、というのを確かめなければなりません」
するとカリノの視線が泳ぎ始める。
「そんなに緊張なさらないでください。話をしたくないことは話さなくても大丈夫ですから」
フィアナが少しだけ笑みを浮かべると、カリノも安心したように表情をゆるめる。
「……はい」
だけどその小さな返事には、不満の色がにじみ出ていた。
今までフィアナが対応した取り調べの相手とは、何かが違う。
たいていこうやって犯人扱いされる者は、何かと無罪を主張するものだ。あきらかに犯人だというのに「自分はやっていない」「自分は悪くない」とわめく。それもいい大人が、だ。
しかしカリノは、十三歳だというのに非常に落ち着いているし、罪も認めている。むしろ、処刑にしろとまで口にする。
なんとなく、違和感がある。
「では、最初にカリノさんのことを教えてください」
「そのようなこと、必要ですか? わたしが罪を認めているのだから、それでよいのではありませんか?」
「そうですね。ですが先ほども言いましたとおり、なぜカリノさんが聖女様を殺さなければならなかったのか。その真実を知りたいのです。教えていただけますか?」
「なぜ? わたしが聖女様を殺したか? 騎士様もおかしなことを質問するんですね。そんなの殺したかったからに決まっています」
そこでニタリと笑ったカリノを、不気味だと感じた。
フィアナだって十八歳の頃から騎士団に属し、そろそろ六年となる。入団当初から情報部として動いてきたのだ。もちろんこうやって犯人と思われる人物から話を聞く他にも、潜入調査と呼ばれる行為や諜報活動も行い、自分よりも身体も大きく、怖い顔の人間とも関わってきた。
だというのに、得たいの知れない気持ち悪さが、背筋をつつっと走り抜けていく。
十三歳の少女だからと侮ってはならない。この子は何かを隠している。
長年、情報部として動いてきたフィアナの本能が、そうささやいた。
「殺したかったから殺す。残念ながら、それはこの国では罪になってしまいます」
「だけど、戦争で人を殺すのは罪にはならないのですか?」
カリノは無邪気な笑みを浮かべて、首をコテンと倒した。
「五年前まで、この国は隣国グラニトと戦争をしていたわけですよね? その戦争でたくさんの人が死にました。戦争をしたのも、人を殺したかったからですよね」
カリノが言ったように、ファーデン国は隣国のグラニト国と争っていた。原因は国境にある魔石の眠る鉱山の採掘権である。それをめぐって、先に戦をしかけたのはファーデン国だった。というのも、隣国で諜報活動を行っていた騎士が、近いうちにグラニト国が挙兵すると情報を仕入れてきたためだ。
そうなる前に、ファーデン国が動いた。
その結果、カリノが言うようにたくさんの人の命が奪われた。特に国境の街の住民たちは、突然始まった戦に逃げ遅れ、戦火に巻き込まれた。
最終的には、鉱山の採掘権はファーデン国が握ることとなり、魔石をグラニト国へ輸出するという形でまとまったが、高い関税をかけたはず。ファーデン国は、金も権力も欲する国だからだ。
そこに至るまでの犠牲も数多く出た。戦争に駆り出された者も、巻き込まれた者もいる。
また、そういった戦地にまで聖職者たちが足を向ける。率先して剣を握るわけではないものの、騎士たちの身の回りの世話だったり、負傷した者の手当だったりと。
当時十四歳だった聖女ラクリーアも戦地に立ったはずだ。
騎士団に入団したばかりのフィアナは、本部に逐一入ってくる現地の情報から状況を把握し、戦地へと送る物資、人員、またそれらの確保の指示を出していた。
「あの戦争には理由がありました。いつでも、戦には理由があります。そして何よりも、戦を繰り返し、国は大きくなっていくのです」
「人を殺すなと言いながらも、国のためには人を殺せと言うのでしょう? 矛盾していますよね」
カリノの言葉が、ぐさりとフィアナの心に突き刺さった。彼女の言葉は間違いではない。カリノと同じように考えている者は、少なからずいるだろう。
だけど、それが不満の声としてあがってこないのは、それだけ『戦争』が特別な状況だからだ。
「鉱山の採掘権……そんなに、魔石が欲しいんですか? 魔石は人の命よりも大事なんですか?」
少女がここまで戦争の話に反応を示すのは、フィアナにとっても予想外だった。
そこでフィアナは、先ほど目を通した資料の内容を、はたと思い出す。
カリノは戦争孤児だ。両親を失い、その後、大聖堂に入って巫女となった。
当時、戦争で家族を失った者が心のよりどころを求めて大聖堂、もしくは地方の聖堂に入るというのは多かった。
考えてみれば、その戦争が終わったあとから、聖職者たちがめきめきと発言力をつけてきている。
王国騎士団と大聖堂の聖騎士たちとの見えない壁が分厚くなったのも、そのときからだろう。
「わたしは、この国が嫌いです。聖女様を殺したのはわたしです。どうぞ、わたしを処刑してください」
それ以降、カリノは口をつぐんでしまった。
フィアナは仕方なく、これからのカリノの身の扱い方について事務的に説明した。
カリノは聖女を殺したと口にしているが、それが事実であるかどうかをきちっと確認する必要がある。今、第一騎士団が中心となって現場となった場所を調べたり、関係者から話を聞いたりしている。
その間、カリノは騎士団本部の地下にある地下牢で身柄を拘束される。
いつまで拘束されるか。それは犯人が確定するまでだ。
カリノが犯人であれば、そのまま王城への地下牢へと移送される。刑が確定、執行されるまでそこからは出られない。
しかし彼女が犯人でなかったら。釈放されて自由の身となる。騎士団本部の地下牢で拘束されるのは、十日が上限となる。
フィアナが説明している間、カリノの顔からは表情が消え、ただテーブルの上の一点を見つめているだけだった。
情報部の騎士らは、基本的には司令室と呼ばれる部屋にいる。この部屋の隣には総帥の執務室もあるため、一般的な騎士たちはここには寄りつかない。
フィアナはナシオンから受け取った調書をぼんやりと眺めていた。
(本当に、あの子が殺したのだろうか……)
先ほどから考えているのは、そればかり。
「ほらよ」
目の前に、白い湯気が漂うカップがトンと置かれた。
「ありがとうございます」
顔を上げるとナシオンと目が合う。
「俺の調書に何か問題でも?」
「いいえ、違いますよ」
相手が十三歳の少女ということもあり、長い時間、話を聞くのも難しい。短時間で効率的にと思うものの、少女の話を聞いて猜疑心を抱くのも否定できない。
これは、何度か話を聞く必要があるだろう。先ほどは完全に失敗してしまった。
「大聖堂のほうはどうなっているか、わかりますか?」
聖女が死んだのだ。向こうだって混乱しているにちがいない。
「次の聖女をどうするかでもめているようだ。とは聞いたが、詳しくはわからん」
大聖堂からしてみれば、聖女とは替え玉のきく存在なのだろうか。だが、聖女には神聖力が備わっているという。そういった不思議な力を持つ女性を、たくさん確保しているのだろうか。
「聖女の神聖力というものがよくわからないのですが……」
フィアナからしてみれば、聖女は向こう側の世界の住人であり、同じ舞台に立つような者でもない。
聖女とは不思議な力を使って人々の心の隙間に入り込み、明るい未来へと導く存在なのだ。まるで神のような存在。
だからこそ、そういった力の詳細は、こちら側の住人は知らない。
「ああ、俺もしらん」
予想した通りの答えが返ってきた。これでナシオンが神聖力について知っていたらもうけもんだと、そんなふうに考えていただけだった。
ナシオンはフィアナの隣の席に座る。
「ナシオンさん。あの子と話をして、本当にあの子がやったのかって、そればかり考えているんです」
心の中にあったもやもやを吐露した。
「それは、何かの根拠があってそう思っているのか?」
「いえ、勘です」
だから、どこにも報告はできない。根拠のない勘は、捜査を混乱させるだけ。それなのに勘は大事にしろとも言われている。
「俺たち情報部の人間としては、情報を収集し、その情報から真実を見極めるだけだからな」
余計な感情は捨てろとでもナシオンは言いたげだった。
「おい、フィアナ」
部屋の入り口から大声で名前を呼ばれた。フィアナ以外の者も顔をあげ、声の出所を確認するように首を振る。
「は、はい」
立ち上がって、ここにいますとアピールしなければ、その者はフィアナの名前を大声で呼び続けるのではないかと思えてきた。
さらに声をしたほうに顔を向けると、情報部をとりまとめている情報部長、タミオスの姿が目に入る。
「なんだ、そこにいたのか。小さくて見えなかった」
フィアナの父親と同じくらいの年代のタミオスは、こうやってフィアナをいじるような発言をちょくちょくとしてくる。
「部長、それ禁句です」
すかさず反論したのはナシオンだ。
「なんだ。ナシオンまでいるのか」
「俺たち、コンビですからね。二人一組での行動が基本」
ナシオンとタミオスの話を聞きながらも、いったいこのようなときになんの用だろうと、フィアナは思案する。たいてい、タミオス本人がこうやってフィアナを探しているときは、面倒な仕事しか持ってこない。
今日のカリノの取り調べだって、彼がフィアナを指名したからだ。
ダミオスがずかずかと目の前にまで近づいてきたので、ぐいっと見上げた。
どうせなので、ついでに今日の調書も手渡しておく。
「部長。本日の調書です。たいした話は聞けておりませんが、今後の扱いについてはひととおり説明はしました」
「一度ですべて聞き出せなんては言わない。お前に望むのは、あの子の心に寄り添って真実を聞き出すことだ」
この男はフィアナをけなしたかと思えば、こうやって励ます言葉をかけてくる。フィアナも苦手とする人物の一人であるものの、嫌いになれないのはこのような面があるからだろう。
「明日は、大聖堂に行って巫女たちの話を聞いてくれ」
「それは、第一が担当ではないのですか?」
現場を確認したり関係者から話を聞いたりしているのは、第一騎士団に所属する騎士たちだ。
「そうなんだが……。巫女たちが、あいつらを見て怯えてるみたいでな。こう、会話が弾まないというか」
会話を弾ませるようなところではないのだが、巫女たちから必要な話が引き出せていないというのだけはわかった。
フィアナ自身も、今日は同じような感じだ。カリノから必要な情報を聞き出せていない。
巫女たちも、いきなり男性の騎士がずかずかとやってきて、話を聞かせてくれと言われたら、警戒してしまうだろう。まして俗世と距離を置いている彼女たちであれば、なおのこと。
「まあ。今日のこれからの会議であいつらの成果報告もあるだろうが。どこも似たり寄ったりだろうな。被害者が聖女様ってだけで、なんかこう、隠されている感じがするんだよな」
フィアナが手渡した調書を、手のひらにパシンパシンと打ち付けて、タミオスは自席へと戻っていく。同じ部署なだけに、その席もわりと近くにある。
「淹れ直す?」
ナシオンが聞いたのは紅茶のことだろう。カップから、ゆらいでいた白い湯気は消えている。
「いえ、大丈夫です」
ストンと椅子に座ったフィアナは、ぬるい紅茶を口に含んだものの、予想していなかった渋さに顔をしかめた。
渋みによって頭がすっきりとしたところ、フィアナはもう一度資料に目を通した。
被害者は聖女ラクリーア。朝の段階ではどれが致命傷になっているかがわからないとのこと。頭部切断、それから左手首も切断。さらに、胸部と腹部には複数回刺した跡がある。まるで、恨みでもあったかのように滅多刺しにされていたというのが、現場に駆けつけた者の見解だった。
詳しくは今、その遺体を調べていることだろう。
フィアナがずっと気になっているのは凶器だ。カリノのような少女が、成人女性を殺すためにはどのような凶器を用いるのか。
現場からもその凶器が見つかっていないし、カリノが東分所にやってきたときも、聖女の頭部は持っていたけれど、刃物は手にしていなかったと、そのとき対応したデニスが証言している。
ただカリノは、薪割りに使う斧でラクリーアの首を切断したと、デニスには伝えたようだ。今頃、その凶器が現場のどこからか見つかっているかも知れない。
ここは今日の捜査結果を待つしかないだろう。
ラクリーアは十二歳で神聖力に目覚め、そのときから聖女として活動していたようだ。だから、先の戦争でも聖女として戦地へ送られたにちがいない。
しかし、ラクリーアがいつ大聖堂に入ったのかとか、それまで何をしていたのかとか、そういった情報がまったく開示されていなかった。
これは意図的に大聖堂側が隠しているのか。
次に、カリノの経歴を確認する。
五年前の戦争で両親を亡くし、兄と共に神に仕えるために大聖堂に入る。
(……兄?)
カリノの兄キアロは、聖騎士として聖職者の護衛を務めているようだ。
(妹が巫女で、兄が聖騎士。よくある話ね)
大聖堂だって慈善事業をやっているわけではない。身寄りのない子を引き受けたとしても、その子らが大聖堂側にとって利益になるようにと教育している。
(兄のキアロはどうしているのかしら?)
なぜかそれが気になった。きっと、第一騎士団は兄からも話を聞いていることだろう。
捜査会議は一日に二回。朝、夕と行われる。
たいてい、朝はその日の予定を確認し、夕方は成果物の報告となる。
情報部としての成果物は、カリノから聞き出した話となるのだが、新しい発見などはない。ただ、彼女は自らの罪を認めており、処刑を望んでいる。
それを部長が冷えた声で報告した。
また、遺体を確認した第一騎士団より新しい結果が入る。
左手、頭部は死んでから切断されたもの。めった刺しにされた腹部であるが、内臓の一部が取り出されていたことが判明した。その内臓の一部と左手は、まだ見つかっていない。
ラクリーアの死因は失血死とされているが、どれが致命傷になったのかは不明とのこと。さらに、凶器となるようなものは見つかっていない。
ただ、カリノが頭部切断に使ったと思われる斧は、近くの川底から出てきた。しかし、この斧は他の傷口とは合わない。やはり、切断のためだけに使用されたのだろうという意見でまとまった。
同じく第一騎士団が、関係者から聞いた話を報告する。しかし、まともな情報は聞き出せなかったようで、巫女も聖騎士もなぜカリノが犯行に及んだのか、心当たりがまったくないとのことだった。
**~*~*~**
カリノが王都エルメルにある大聖堂で巫女となったのは、戦争で両親を失ったのがきっかけだった。似たような境遇の子たちはたくさんいて、そんな子どもたちに救いの手を差し伸べたのが、聖女ラクリーアだった。
――巫女や聖騎士となって太陽神ファデルに使えればよいのです。
彼女はそう言って、居場所のなくなった子どもたちを大聖堂へと連れて帰った。
当時、大人たちは大聖堂の噂を口にしていたものの、幼いカリノにはそれがよくわからなかったし、そんな大人たちも戦争でいなくなってしまったのだ。
だから、すべてを失ったカリノにとって、大聖堂は衣食住を与えてくれる場所という認識でしかなかった。
大聖堂に入ったカリノは巫女として、兄のキアロは聖騎士見習いとして、与えられた仕事を黙々とこなした。
巫女の朝は早く夜は遅い。日が昇る前から、井戸から水を汲み、教皇や枢機卿といった聖職者たちの食事の準備を始める。それが終われば、掃除、洗濯と次から次へと仕事をこなす。
大聖堂に来てからわかったのだが、巫女というのは聖職者たちの身の回りの世話をする侍女、あるいはメイドのような存在だった。
ある日、夕食後に彼らから声をかけられる巫女がいることに気がついた。カリノよりも年上の、美しい巫女たちだ。
そんな彼女たちは、聖職者の私室へと向かう。そこで何があるのかなんて、もちろんカリノはわからない。だけど、なんとなく羨ましいとすら思っていた。
まだ人恋しい時期であったため、聖職者たちを父親のような存在だと認識していたのかもしれない。そして、年上の巫女たちは姉だったり母親だったり。夜の寂しい時間に、誰かと一緒に過ごしたかったのかもしれない。
そんななかでも、聖女ラクリーアだけはカリノにとっても特別な存在だった。神聖力と呼ばれる力を持つラクリーアは、大聖堂の中でももちろん特別な存在である。
与えられた部屋も広くて豪奢なものだと聞いているし、カリノから見たらお姫様のような存在で、命を救ってくれた神のような人物。
さらにラクリーアは、意外なことに兄のキアロと同い年であった。もっと年上に見えたのに、兄と同い年と聞いただけで、ラクリーアに親近感が沸いた。
聖騎士見習いのキアロは、朝から晩まで鍛錬に励むものの、農作業も行っている。この農作業も鍛錬の一つなのだとか。また、大聖堂では自分たちの食べ物は自分たちで手に入れるのが基本方針だった。
聖騎士たちは、日常の鍛錬やら警護のほかにも、要請があれば地方の聖堂へと派遣されることもあった。
太陽神ファデルを信仰する者は、王都だけでなく国内各地に点在している。だから彼らが救いを求めたときは、手を差し伸べる必要がある。
キアロが初めて地方に派遣されたとき、さまざまなことをカリノに教えてくれた。気候の違い、食べ物の違い、人の違い。同じ太陽神ファデルを信仰しているのに、その違いに驚いたとキアロは興奮した様子で語った。そうするとカリノも、いつかはそこに行ってみたいと、憧れを抱くのだ。
だから大聖堂は、住む場所や家族を失ったカリノにとって、あたたかくてもう一つの家族のような場所だった。
あれを知るまでは――。
昨日、タミオスから言われていたとおり、フィアナはナシオンと一緒に巫女たちから話を聞くことになった。
隣を歩くナシオンをちらっと見上げる。
「何? 俺の顔に何かついてる?」
「いいえ」
あえて言うなら、目と鼻と口だろうか。相変わらず、悔しいくらいに整っている顔立ちだ。
王国騎士団と聖騎士団の大きな違いといえば、顔立ち、容姿だろう。がっちりと身体を鍛え上げている王国騎士団の顔は、日に焼け引き締まっている。それに引き換え聖騎士団は、線が細く顔立ちもやさしい者が多い。
そのなかでもナシオンは聖騎士よりも顔立ちをしているだろう。むしろ情報部にはそういった者が多い。
また、王国騎士団が黒い騎士服を身にまとうのならば、聖騎士団は穢れのない白の騎士服。
それだけ求められるものが違うといえば、それまでなのだが。それでも情報部の人間だけは黒い騎士服を普段は身につけない。一目見ただけでは騎士団所属とはわからないような姿である。だからフィアナとナシオンも、そういった姿で目的地に足を運んだ。
大聖堂は大きな窓と尖塔アーチを供え、白い石造りの建物をできるだけ軽く高く見せるようにと作られている。これがこの建物の特徴ともいえるだろう。
「王国騎士団情報部、フィアナ・フラシスです」
「同じく、ナシオン・ソレダー」
大聖堂の正門の両脇に立っている聖騎士に、銀プレートを見せる。これは私服で調査する情報部の人間にとって、騎士団所属であることを示す証なのだ。普段は見えない場所に身につけ、必要なときに提示する。
「今日はお二人ですか?」
門番の聖騎士からはそんな質問があがった。
「はい。今のところは……。ですが、人手が足りない場合は、応援を頼むこともあります」
「昨日のような人たちがやってくるなら、お断りしようかと思っていたのですが……」
そこまで言って、門番は口をつぐむ。
「どうぞ、中にお入りください。すぐに係の者が案内します」
「ご協力、感謝します」
「……いえ。真実を知りたいのは、私たちも同じですので」
どうやら、第一騎士団はよい印象を持たれていないようだ。
フィアナとナシオンは正門をくぐり、エントランスへと向かった。
広々としたそこには、見知った顔の聖騎士が出迎えてくれた。
「あなたに来てもらうように、私のほうからお願いしましたので」
親しげに声をかけてくる。
「第一ではダメだったのでしょうか?」
「巫女たちは、ああいった男性を見慣れておりませんので」
その言葉にナシオンが肩をすくめる。
「巫女たちは教室に集めています。ですが、どうしても手の放せない者も何人かおりまして」
そう言った彼は、フィアナに名簿を手渡してくれた。
教室とは幼い巫女や聖騎士見習いが一斉に教育を受ける部屋だ。そこに巫女たちを集め、隣の指導室で話を聞くようにと、彼が手はずを整えてくれていた。
「まずは、カリノさんと近しい者から話が聞ければと思っています」
「ああ。でしたら、カリノと同室だった者がいいですね」
「お願いします」
指導室に案内され、フィアナとナシオンは用意された椅子に座る。
「あなたは男性だから、少し離れた場所にいたほうがいいでしょう」
ここまで案内してくれた聖騎士は、ナシオンにそう言って、ニタリと笑った。
ナシオンは何か反論したそうであったが、フィアナがそれを手で制した。
聖騎士が部屋を出ていったのを見届けてから、ナシオンが苦々しく口を開く。
「なんなんだ、あいつは」
「ナシオンさん、抑えてください。すぐに巫女が来ますから。彼女たちは浮世離れしているんです。男性に慣れていない者がいるのも事実です」
トントントンと、扉が叩かれた。
フィアナはナシオンに目配せをしてから、立ち上がってその扉を開ける。
「こんにちは。よろしくお願いします」
やってきたのは、十二、三歳くらいのカリノと同年代と思われる少女だった。目線の高さはフィアナとほぼほぼ同じだから、きっと似たような背の高さなのだろう。
少女も驚いたように、目をくりっと大きく広げた。
「このような格好で申し訳ありませんが、私も騎士団に所属する騎士ですので」
門番の聖騎士に見せたように、フィアナは服の間から銀プレートを取り出し、それを巫女の前に出した。
「どうぞ、そこのお座りになってください。そんなに緊張なさらずに」
フィアナがにっこりと笑みを浮かべると、巫女の表情も少しだけ和らいだ。
「では、お名前から教えてもらえますか?」
「はい」
少女はメッサと名乗った。カリノとは四年前から同室とのこと。聖女が殺され、同室の巫女が殺人犯として拘束されているというのに、混乱している様子はない。
ただ、何が起こったのか信じられないと、そういった言葉は口にした。
「部屋は、四人くらいで一緒なんですけれども。巫女でも上の地位になれば、一人一部屋になります」
偉くなればなるほど、与えられる部屋が立派になるのは、どこの世界も同じようだ。
「カリノは夜が怖いみたいで、それに眠りも浅いから、よく毛布にくるまってうさぎのぬいぐるみを抱っこして眠っていました」
「うさぎのぬいぐるみ?」
「はい。カリノが巫女になるときに、唯一、持ち込んだものだと聞いています」
それからメッサは、カリノの普段の様子を教えてくれた。
カリノがいたって普通の巫女ということが、話を聞いてよくわかった。
突出することがない。目立たないけれども、落ちこぼれでもない。いたって普通。
「一昨日の夜から昨日の朝にかけて、何時頃、カリノさんが部屋を出たかわかりますか?」
その質問にメッサは首を横に振る。
「私はカリノと違って、一度眠ったら、朝までぐっすりなので」
「メッサさんが目覚めたとき、カリノさんはすでに部屋にはいなかったのですよね? 彼女の姿が見えないから、捜しに行こうとか、そんな話にはならなかったのでしょうか?」
「申し訳ありません……毎朝、カリノは私が起きるより先に、礼拝室で祈りを捧げているので、昨日もてっきりそう思っておりました。ですが、朝食の準備の時間になってもカリノの姿が見えなくて、もちろん朝食の時間になっても現れなくて……怖い騎士様たちがやってきて……」
次第に声と身体を震わせるメッサの姿を見ると、胸がツンと痛んだ。彼女たちは、第一騎士団の彼らを非常に怖がっているようだが、その原因がわかったような気もした。
「メッサさん。怖いことを思い出させて申し訳ありません」
メッサは黙って、ふるふると首を横に振った。
「夜中に、誰にも気づかれずに大聖堂から出ることは可能なのでしょうか?」
敷地は高い壁でぐるりと囲まれている。唯一の入り口は、先ほどフィアナも通ってきた正門であるが、あの門は夜間になれば閉ざされると、昨日、第一騎士団が報告してきた。
「それは……よくわかりません。少なくとも、私は知りません」
メッサから目を離さないフィアナだが、彼女が嘘をついているようには見えなかった。
きっとカリノしか知らないような秘密の抜け道があるのだろう。それについては、カリノから聞けばいいだろう。もう一度、話せる機会があれば、の話だが。
「では、話題を変えましょう。先ほど、四人で一部屋と言いましたが……あなたの部屋はカリノさんと二人きりのようですね」
フィアナは次の話題へとうつった。それは先ほどの聖騎士が手渡してくれた名簿からの情報だ。
「はい。他の人は部屋を出ていきました。今は二人部屋、一人部屋に移っています」
「部屋を移る条件。あなたはそれを知っていますか?」
「いいえ。詳しくは知りません。ですが、ファデル神へ祈りを捧げ、その祈りがファデル神に届いたときとも言われています」
話が抽象的すぎて、フィアナにはさっぱりわからない。
「聖女ラクリーア様について教えていただいてもよろしいですか?」
「はい。ラクリーア様の何が聞きたいのですか?」
「神聖力とは、いったいどのような力なのでしょう?」
神聖力と呼ばれる魔石のような力が使えるのであれば、殺される前に反撃ができたのではないかと、フィアナは考えていた。
「神聖力……聖女様が使える力です。私たちは湯を沸かしたり火を起こしたりするのに魔道具を使いますが、聖女様には魔道具が不要です。むしろ。聖女様の力を再現したものが魔道具であると、そう枢機卿が言っておりました」
聖女の力が魔道具になる。それはフィアナも知らなかった事実。何気なく使っていた魔道具にそんな謎が隠されていたとは。
「では、魔道具でできることは、聖女様は神聖力でできることだと?」
「そうです。そういえば次は……遠く離れた人とすぐに言葉のやりとりができるような、そんな魔道具を作りたいと枢機卿は言っておりました」
遠く離れて居る人と言葉のやりとりができる。
そんな魔道具があれば便利になるだろう。今はまだ、手紙を送ったり、急ぎであれば伝書鳩を使ったり。
「では、聖女様は、遠く離れた人と言葉のやりとりができるのですね?」
「はい、そうだと思います。詳しくはわかりませんが……」
彼女は実際の方法などは知らないにちがいない。
フィアナは話題を変える。
「聖女様がお亡くなりになられて、大聖堂は混乱しているのではありませんか?」
「はい。ですが、人とは必ず死ぬ生き物です。それが聖女様であっても同じです。聖女様も元は同じ人間ですから」
「次の聖女様は決まっているのですか? 神聖力を持っている巫女はいるのでしょうか?」
「それは、よくわかりません。神聖力は、だいたい十四歳前後までには現れるようです。残念ながら、私には神聖力がありませんでした……」
名簿を見て、フィアナは目の前の少女が十四歳であることに気づいた。
「いろいろとお話を聞かせてくださって、ありがとうございます」
メッサからは十分に話を聞き出せた。
その次も、カリノと同年代の巫女から話を聞いた。ちょうどこの年代の巫女たちは、例の神聖力が出現するかしないか、微妙な年頃らしい。
聞いたところ、この子も神聖力は目覚めなかったとのこと。これからも巫女としてファデル神の教えに従い、大聖堂に尽くすと決めたようだった。
フィアナは名簿を見ながら、話を聞いた人物を確認していく。
集められた巫女のなかでも、十八歳から二十歳くらいの人数が少ない。存在はしているものの、他の作業に従事しているのだろう。
他の巫女に確認してみると、彼女たちは別の奉仕作業があるから不在なのだと言った。
神聖力はだいたい十四歳くらいまでに出現するが、その次は十八歳のときに神託がおり、一部の巫女はファデル神に選ばれるらしい。そうなると、他の作業を与えられるのだとか。
そのような巫女を、大聖堂では上巫女と呼んでいるようだ。そして巫女でありながら、聖女と共に聖職者に分類されるらしい。
これは、大聖堂の中だけで通じる言葉や規則とのこと。もちろんフィアナは、そういった話を聞いたことがない。
チラリと顔をあげてナシオンに目で訴えると、彼も首を横に振ったから、彼も知らなかったのだろう。
五番目に話を聞いたとある巫女は、十九歳になってもファデル神に認められなかったため、これからも掃除、洗濯、料理など、聖職者たちのためにやっていかねばならないなぁ、なんて、寂しそうにぼやいていた。そう言った彼女は、年相応の女性に見えた。
「巫女として大聖堂に入ると、結婚などはできないのでしょうか?」
「いえ、できますよ。ですが、相手も聖騎士など、大聖堂と縁ある人になりますし、聖女や上巫女となると話は別です」
「結婚したら、巫女や聖騎士を辞めなければならないのですよね?」
「そうです。そういった身分は剥奪され、他の場所で一から始めなければなりません。それに、年に数回、大聖堂に寄付をする必要があると聞いております」
そういった寄付金が、大聖堂の資金源になっているにちがいない。
「今までも、結婚をして巫女や聖騎士を辞められた方はおりますか?」
「ええ、そうですね。年に一、二組は、そういう者もおります。ただ、大聖堂にいれば生活は保障されますからね。いくら好きな相手ができたとしても、いっときの感情と一生を天秤にかけて判断をする者が多いかと」
その結果、目の前の巫女は、一生、大聖堂で暮らす選択をしたにちがいない。そうやって話をしているときに、いっときの劣情が彼女の表情に表れた。
和んだところで、カリノについて質問する。
しかし、誰もが口をそろえて、カリノはよくも悪くも目立たない子だと言う。それでも仕事はしっかりとこなすから、他の巫女からも聖職者たちからも覚えはよい。真面目な子、そういった話もあった。
それにまだ十三歳というのもあって、神聖力を有することも期待されていた。
「カリノにはお兄さんがいたわよね」
「そうそう、聖騎士のキアロ様よね」
はじめは一人ずつ話を聞いていたが、何よりも人数が多すぎた。これでも全員ではないというのだから、やはりナシオンとの二人だけでは、どだい無理な話だったのだ。
カリノと近しい者の話を聞き終えてからは、こうやって一度に複数の巫女から話を聞くようにした。しかし、これが功を奏したのか、彼女たちの口は軽くなる。今、フィアナの周りには四人の巫女がいる。こうなれば、居づらいと思うのはナシオンで、彼は部屋の隅にちょこんと座っていた。
いくら巫女と呼ばれるようが、やはり年頃の娘なのだ。誰かと何かを話したくてうずうずしていたにちがいあるまい。まして、このような大きな事件が起こったのであればなおさらのこと。
だからこそ今、彼女たちはおしゃべりに花を咲かせている。
「そういえば、キアロ様はラクリーア様とも仲がよろしかったですよね」
フィアナはひくりとこめかみを動かした。むしろ、そういった話が聞きたかった。
「キアロ様が、ラクリーア様の専属護衛にという話もあったそうですよ」
「お似合いのお二人ですものね」
「それで、キアロさんは聖女様の専属護衛になられたのですか?」
きちんと聞いておきたい話には、フィアナも口を挟む。そうしなければ、彼女たちの話題はコロコロと変わるからだ。
「いいえ」
一人の巫女が首を横に振った。
「教皇様や枢機卿が反対されたと聞いております。キアロ様がまだ若いというのが理由です」
理由としておかしなところはないだろう。
「今、キアロさんはどちらにいらっしゃいますか?」
昨日の第一騎士団の報告では、キアロは大聖堂にはいないということだった。となれば、どこにいるのかまで突き止めればいいのに、彼らではそれ以上の話を聞き出せなかったのだ。
だからフィアナが今、ここにいる。
「キアロ様は、東のほうに派遣されていると聞いております。そういえば、カリノがそのようなことを言っていたような……」
「聖騎士がどこに派遣されるのかだなんて、私たちもいちいち把握していないので、それについては枢機卿か教皇様にお尋ねになったほうがよろしいかと」
それでも彼女たちは、フィアナに十分な情報を与えてくれた。
チラリと縮こまっているナシオンに顔を向けると、彼は小さく頷いた。
「今日はありがとうございました」
フィアナが礼を口にすると、巫女たちも互いに顔を合わせて「失礼します」と言い、席を立つ。
最後の背中を見送ってから、フィアナは大きく息を吐いた。
「疲れましたね」
「まあ、な。ほらよ」
ナシオンが水差しからグラスに水を注ぎ、それをフィアナに手渡した。
「ありがとうございます」
冷たい水が喉をゆっくりと通り過ぎていく。フィアナが感じていたよりも、身体は水を欲していたようだ。一口、二口だけ飲むつもりだったのに、途中でやめることができずにすべてを飲み干してしまった。
「……ふぅ」
「だけど、さすがフィアナだな。かなり情報を聞き出せただろう」
少なくとも、第一騎士団が話を聞いた昨日よりは、貴重な話を聞けたはず。
「そうですね。ここに来て、もう一人の人物が浮上しましたからね」
「聖騎士キアロか?」
ナシオンの言葉にフィアナは首肯する。
話を聞いたかぎりでは、ラクリーアは少なくともキアロに好意を寄せている。その好意がどういった種類のものであるかはわからないが、たびたび二人でいるところを目撃されているのだ。それに、専属護衛の話が出るくらいなのだから、二人の間には信頼関係も成り立っていたはずだろう。
巫女たちから話を聞き終えたフィアナとナシオンは、大聖堂を後にする。案内してくれた名も知れぬ聖騎士には感謝の気持ちを示した。
「また、お話を伺うこともあるかもしれませんが……」
フィアナの言葉に、聖騎士は「あなたが来てくださるなら、問題ありませんよ」と、意味ありげに微笑んだ。
ナシオンと並んで、本部へと足を向ける。
「なんなんだ? あいつ。フィアナの知り合いなのか?」
ナシオンの言う「あいつ」とは、先ほど大聖堂内を案内してくれたあの聖騎士のことだろう。そもそも最初に顔を合わせたときから、ナシオンは彼に対して不快感を示していた。
「知り合いと言いますか、一応、同じ騎士ですから。仕事で顔を合わせた程度です。ですから、名前は知りません」
むしろナシオンだって、顔を合わせたことがあるのではないかと思うのだが、どうやら彼にとっては初対面の相手だったようだ。
ナシオンと一緒に大聖堂関係者の捜査にあたるのは初めてのこと。フィアナがあの聖騎士と会ったのは、彼がここの本部をたまたま訪れたときに、たまたま案内しただけ。
あのとき、彼がなんのために本部へ来たのかはわからない。ただ、彼も聖騎士でフィアナも女性騎士となれば、自然と話が弾んだ。
「ふん」
フィアナの答えに納得がいったのかいかないのか、ナシオンは鼻息荒く返事をした。
「ナシオンさんは、どう思いましたか?」
「何がだ? あのいけ好かない聖騎士ヤローか?」
「ではなく、巫女たちのことです」
「ああ」
納得したようにナシオンが頷く。
「嘘をついているようには思えなかった。だけど、何かを隠しているような感じがした」
「なるほど。さすが、ナシオンさんですね。話を聞いてはいたものの、違和感があって……それがきっと、隠し事を隠そうとしているからなのでしょうね……」
それは、カリノも同じだ。何かを隠している。
騎士団本部に戻ったフィアナは、すぐに報告書の作成に取りかかった。もちろん、夕方の会議で報告もしなければならないが、報告書としてタミオスにも提出しなければならない。
カリノと同室だったメッサの話をまとめて、神聖力の表れる時期、その後、神託がおりる時期について記載する。
それから巫女と上巫女の話、巫女たちの結婚観や、カリノの兄、キアロの居場所について。
最後に、カリノが聖女を殺す動機について思い当たる巫女はいなかった。むしろ、巫女たちはカリノに聖女は殺せないのではと感じているようだ、と。
(巫女たちの起床時間は、朝の四時半。朝食は六時から。そしてカリノが東分所に出頭したのも朝の六時。メッサさんの証言と時間は合っている……)
報告書を、もう一度読み直す。
(この時期の日の出は五時半ごろ。暗闇のなか、聖女様を殺して切り刻む。それをカリノさん一人で可能なのかしら?)
時系列で考えたとしても、カリノがラクリーアを殺したのは真夜中だろう。メッサの話と出頭時間が考えれば、前日の夜の十時から朝の五時までが犯行時間にちがいあるまい。
(死亡推定時刻……何時だった?)
そこまで考えたとき、ナシオンが「ほらよ」と紅茶の入ったカップを差し出した。
「ありがとうございます」
「何、一人で百面相してるんだよ」
「え? そんな変な顔、してました?」
「してた。可愛い顔が台なしだな」
ナシオンの指がフィアナの頬をふにっとつねる。
「あ、ちょっと。やめてください」
その手をパシンと叩き落とした。
「フィアナには悩んでる顔は似合わないよ。もっとこう、余裕しゃくしゃくじゃないとな。で? 何をそんなに悩んでるんだ? 俺では力になれない?」
ナシオンのこういう距離の詰め方がずるいのだ。
「そうですね……」
そこでフィアナは喉の渇きを潤すかのように、紅茶を飲んだ。
「うっ……濃いですね……」
思っていたより渋めの紅茶だった。昨日も彼からもらった紅茶が渋かったのを思い出した。
「頭がすっきりするだろ?」
「そうですね……ナシオンさん。これ、見てもらえますか?」
先ほど、簡単に書き出したカリノの動きである。
「どう考えても、暗闇の中でカリノさんが聖女様を殺す必要があるんです。ですが、そんな暗闇の中、カリノさんのような女性が一人で聖女様を殺して、切り刻むなんて可能でしょうか?」
「そうだな。まず、暗闇なんていうのは、魔道ランプさえ使えば解決するだろ?」
魔道ランプ。その名の通り、暗闇を照らす魔道具のことだ。
「殺害現場は、大聖堂から少し離れた川沿いの原っぱだよな?」
「カリノさんの証言によりますと、そのようですね。そこの近くの川底から、首切断のために使われた斧が出てきたので、間違いないでしょう」
「そこで少しだけ魔道ランプが光ったとしても、他の者は気づかないだろうな」
さらに魔道ランプには、光の強さを調節できる機能があったはず。
それに真夜中に川沿いまで出歩くような者もいないだろう。目撃証言など期待できない。
「となれば、カリノさんが使用した魔道ランプがどこかにあるわけですよね? それを第一は見つけているのでしょうか?」
「あ~、どうだろうな」
そこでナシオンは、今朝の捜査会議で配布された資料を、パラパラとめくる。
「おお。見事に見つけていないね。今のところ、首切断の斧だけだって。凶器も見つからない。ランプも見つからない。これで彼女を犯人にというのは、いくら自供があったとしても厳しいな」
「ですよね……」
フィアナは腕を組んで、椅子の背もたれに身体を預けた。
「う~~~~ん」
唸っていると、また「フィアナ」と大きな声で名を呼ばれた。
やはり、その声の主はタミオスだった。
「はい」
手を挙げて立ち上がると、目が合った。ずんずんと彼は勢いよく近づいてくる。
「フィアナ。明日は容疑者の取り調べを担当してくれ」
「あれ? カリノさんは他の人間が担当になったのではないのですか? 私は第一の代わりに巫女の担当だと思っていたのですが」
「それがな……」
そこでタミオスは、ガシガシと頭をかいた。
「お前じゃないと、しゃべらないってさ」
意味がわからず、フィアナは小首を傾げる。
「容疑者。担当を昨日の人にしろと、騒いだらしい。そうしないと、何も喋らないってさ」
「フィアナは巫女にもてるんだな」
ナシオンが茶々を入れた。
カリノも巫女ということを考えれば、その言葉も間違ってはいない。
「承知しました。これからですか?」
「いや、今日は一度、話を聞いたからな。明日以降だ」
取り調べと称して話を聞くのは、一日一回とされている。それは容疑者の心身負担を考えてのことだが、この一回に時間制限はない。
話を聞く側の人は変わっても、話をする側はずっと一人のままという手法すら許されている。
しかし今回は、カリノの年齢を考慮して、そういったふざけたような手法は使わないのだろう。あれがいい方法ではないことをフィアナもナシオンもよく理解しているつもりだ。あれは、昔の人間が好むやり方。
「では、今日はカリノさんからは何も話を聞き出せていないと?」
「そうだ。凶器が見つかっていない。だから何がなんでもそれを聞き出せというのが第一の奴らからの指示なんだがな」
何も証言を得られていないから、今日の会議で報告することは何もない。そうとでも言いたげなタミオスの顔だ。
「自分たちは巫女から話を聞き出せないくせに、こういうときばかり俺らをやり玉にあげるのがあいつらでは?」
ナシオンの言葉に、タミオスは肯定も否定もしなかった。彼の立場を考えれば、ある種、これが正しい反応なのかもしれない。
「こちら。今日、巫女たちから聞いた証言をまとめたものになります」
微妙な空気を打ち消すかのように、フィアナは報告書を手渡した。
「なかなか興味深い話が聞けたかと思います」
「わかった。今日の報告も頼む」
報告書はタミオスに渡すものの、全体会議で報告をするのはフィアナかナシオンの役目だ。どちらがするか決まりはないので、その場の気分次第で決める。
だが、巫女から直接話を聞いているのはフィアナなので、この案件に関してはフィアナが報告する。
報告書に目を通したタミオスは、特別、何も言わなかった。この流れにそって報告すればいいだろうと、それくらいだった。
夕方の会議にナシオンと共に出席したフィアナだが、第一騎士団からは信じられないような報告があがる。
「容疑者カリノの兄、キアロですが、派遣されている東のドランの聖堂にはおりませんでした」
王都から東にあるドランの街。馬車で半日かかる場所にあるが、騎士団が所有する早馬であれば、その半分の時間で行き来が可能だ。
「いない? いないというのはどういうことだ?」
そんな声が捜査本部長からあがった。そう聞きたくなる気持ちもよくわかる。
隣に座っているナシオンに視線だけ向けると、彼の口の端もひくひくと動いていた。何かしら文句を言いたいようだ。それを堪えている。
「はい。大聖堂の聖騎士から、キアロは東のドランの聖堂に派遣されていると聞き、そこへ向かったわけですが。ドランの聖堂にいる聖騎士からはキアロは来ていないと……」
消え入るような語尾は、この次に聞こえてくる言葉がわかっているからなのだろう。もしくは、はっきりと言いたくないのか。
身体の大きな男性騎士が、背中を丸めている様子を目にすると、ほんの少しは同情していまう。
「来ていない? もう少し、わかりやすく説明しろ」
「は、はい。聖騎士キアロですが、大聖堂から東のドランの聖堂に派遣される予定でした。大聖堂を出た姿は仲間の聖騎士に目撃されており、挨拶も交わしていることから間違いはないかと思います。ドランの聖堂にいる他の聖騎士に確認したところ、キアロが派遣される話は聞いていないと……」
また語尾が小さくなっていく。
「引き続き、キアロの行方を追うこと。それから大聖堂とドランの聖堂の関係者から話を聞くように」
「は、はい……」
つまり、キアロは行方不明。
その事実をカリノに伝えていいものかどうかと一瞬悩んだものの、むしろ彼女はキアロの行方を知っているのではないかと、そう思えてきた。
フィアナの番がやってきて、メッサたちから聞いた話を端的に伝えた。やはり突っ込まれたのは、夜中にカリノが大聖堂からどうやって出ていったのかという点である。
「その件に関しましては、本人から直接話を聞きます」
どちらにしろ、明日はカリノから話を聞かねばならない。
それ以上の追求はなく、フィアナの報告は終わった。
**~*~*~**
「カリノにはお兄様がいらっしゃるの?」
ラクリーアとは、眠れない夜に川のほとりでよく話をした。
川面で波打つ月の形をぼんやりと眺め、穏やかな川の流れを聞くだけで心は凪いだものだ。
その場所を知ったのはたまたまただった。
仕事の多い巫女であるが、少しは自由時間がもらえる。その時間を、カリノは散歩の時間に当てていた。庭園をふらふらと歩きながら花を愛でる。そんななかで、大聖堂側と向こう側をつなぐ秘密の抜け穴を見つけたのだ。
昔からあった抜け穴なのかもしれないが、少なくともカリノが知っている巫女らは、この穴について何も言っていない。
カリノは、ふと誰もいないような場所で静かに時を過ごしたいと思った。
みんなも寝静まった夜ならば、この穴を使って壁の向こう側へ行ってもみんなには知られないだろう。
そんな気持ちが働いた。
手にする荷物は少ないほうがいい。そう思って選んだのが満月の日だ。月明かりで道が照らされるため、魔道ランプを手にする必要はない。
抜け穴を通って壁の向こう側へ出ると、どこからか川の流れの音と虫の鳴き声が聞こえてきた。その音がする方向へと爪先を向ける。
先客がいた。それが聖女、ラクリーアだった。
それからというもの、満月の夜はこうやってラクリーアに会いにくる。
「はい。わたしの六つ年上です。今年で、十六歳になりました」
「あら? わたくしと同い年ね」
共通点があるだけで、親近感が沸く。それはカリノも同じで、こうやって川辺を訪れるラクリーアを、勝手に姉のように思っていた。つまり、家族のような存在。
三年前にラクリーアに誘われて巫女となり、大聖堂の暮らしは悪くないとは思いつつも、やはり心の底では家族を欲していたのだ。
「はい。聖騎士見習いのキアロです。覚えておりますか?」
キアロもラクリーアの言葉で大聖堂に入ったのだ。
「ごめんなさい」
そう言って首を横に振ると、ラクリーアの銀色の髪はさらりと揺れる。空から降り注ぐ月光も相まって、宝石のように輝く。
「あのときは、カリノのような子たちを救わねばという思いから、たくさんの子に声をかけてしまったから」
「そうですよね。わたしだって、あのとき一緒にこちらに来た人たちを全部覚えているわけではありません。まして、聖騎士となればなおのこと。だからラクリーア様が兄を覚えていなくても仕方ないかと思います。わたしがこうやってラクリーア様とお話できているだけで、奇跡のようなものですから」
「あなたは、わたくしに媚びないもの」
ラクリーアの艶やかな唇が、少しだけ歪んだ。
「せっかくですから、今度はあなたのお兄様も紹介してほしいわ。同じ年なのだし」
「わかりました。兄にはそれとなく伝えておきます」
ラクリーアがキアロに会いたいと言ったのが先だった。
キアロがラクリーアに会いたいと言ったわけではないのだ。
それにこうやって満月の夜にラクリーアと会っていることを、カリノは誰にも伝えていない。
誰かに言ったら、この時間を奪われるような気がしていたから。
同じ大聖堂内で生活しているといっても、自由自在にキアロと会えるわけではない。カリノは巫女であるし、キアロは聖騎士見習い。それぞれにやるべきことがあった。
それでも近場で作業しているときは、声をかけることも許されている。血のつながりのある兄妹だと枢機卿たちも知っているから、親しげに言葉を交わしても咎められるようなことはなかった。
寂しがり屋の妹が兄に甘えていると、微笑ましく見ているのだ。
「お兄ちゃん」
「なんだ? カリノ、お前の作業は終わったのか?」
ちょうど農作業を終えたキアロに声をかけた。
「終わったよ。今日の分のお洗濯。だから、お兄ちゃんと少しならお話してもいいって」
「ふぅん」
額の汗をぬぐいながら、キアロは興味なさそうに返事をする。だけど、口元がにやけているのは、カリノと会えて喜んでいる証拠でもある。
「ねぇねぇ、お兄ちゃん。秘密の抜け穴、知ってる?」
周囲には聞こえないようにと、キアロの耳元に唇を寄せて話をした。
「なんだ、それは」
やはり、あの抜け穴は知らない人のほうが多いのだ。カリノは、声をひそめてその場所をキアロに伝える。
「だから、お兄ちゃん。満月の日に、あっちにある川辺に来て。わたし、その日だけ、いつも川の音を聞いてるの」
キアロの手が伸びてきて、カリノの頭をクシャリとなでた。
「眠れないのか?」
「そういう日もある。けど、うさちゃんがいるから平気」
「そっか」
そう呟きながら、カリノの頭をなでるキアロの手はあたたかかった。
今日は朝からぽつぽつと雨が降っていた。東の空は灰色に覆われていて、どこかもの悲しく見える。
こんな雨の中、関係者から話を聞いたり、現場を捜査したりする担当の騎士はかわいそうだなぁ。なんて、そんなことを考えていた。
フィアナはカリノから話を聞く必要があるのだが、同じ本部内の建物にいるから、雨の中、移動する手間が省けた。もちろん、ナシオンも一緒だ。
「こんにちは、カリノさん。昨夜はゆっくりとお休みになれましたか?」
「こんにちは、騎士様」
二日前に顔を合わせたときと、カリノの様子になんらかわりはなかった。
「昨日は、他の騎士とお話をしたのですか?」
「いいえ。あの人たちは偉そうな態度だったから、お話をするのも嫌でした。」
フィアナの代わりにカリノから話を聞き出そうとしたのは、もちろん情報部の人間だ。彼らはどのような手段を用いても、情報を仕入れるのが仕事であるため、時と場合に応じて態度を使い分けるはずだが、いつものように高圧的な態度をとって、カリノに警戒心を抱かせたにちがいない。
「そうでしたか。失礼しました。彼らに代わって謝罪いたします」
「だから初日にお話をした、女の騎士様にしてくださいってお願いしました。今日は来てくださってありがとうございます。後ろの騎士様も」
カリノがひょこっと身を乗り出して、ナシオンに声をかけた。ナシオンは少しだけ頭を下げる。
「騎士様。昨日は大聖堂に行っていたのですか?」
誰がそのような情報を流したのだろうか。つい、フィアナは眉間に力を込めてしまった。
「そのような顔をしないでください。昨日、女性の騎士様とお話をさせてくださいと言ったら、大聖堂に行っているからいないと言われたので」
よほどカリノに手を焼いたのだろう。不在であるのを伝えるのは問題ないが、具体的にどこへ言っていると伝えるのは褒められたものではない。
だが、彼女に大聖堂で話を聞いてきた事実を知られているのなら、こちらも腹をくくっていいだろう。
「はい。昨日は大聖堂へ行き、巫女たちからお話を聞いてきました」
カリノはニコニコと笑みを浮かべたまま、表情はかわらない。
「みんな、元気でしたか?」
「はい。カリノさんのことを心配されておりましたよ。早く、戻ってきてほしいと」
その言葉にカリノは首をゆっくりと横に振る。
「ですが、わたしはあそこには戻れませんよね?」
「いいえ、戻れる可能性はゼロではありません。まだ、カリノさんが聖女様を殺したと決まったわけではありませんから」
するとカリノは驚いたかのように、青い目をぐりぐりと大きく広げた。
「まだ犯人がわたしではないと、そう思っているのですか?」
「はい」
フィアナは力強く頷く。
「そもそも聖女様を殺した凶器が見つかっておりません」
「川底から、斧が見つかったのではないですか? 昨日の方はそう言って、わたしを脅したのですが」
「脅した?」
「はい。凶器が見つかった。どうやって殺したんだ。なんで殺したんだ。黙っていたら、そのまま断頭台に送るぞって」
フィアナは眉間に深くしわを刻んだ。場合によってはそういった話し方も必要だが、まして相手は十三歳の子どもだ。
「ですから、さっさと断頭台に送ってくださいと言ったのですが、逆にその言葉に怒ってしまったようで。今にもわたしを殴りたそうにしていたのですが、ほかの騎士様にとめられていました」
そこでカリノは、ふふっと笑みをこぼした。
「カリノさん。あなたは本当に聖女様を殺害したのですか?」
「ですから、ずっとそう言っていますよね?」
「でしたら、凶器のありかを教えてください。凶器をどこに隠したのですか?」
「川底から出てきたのでしょう? いつも薪割りに使っていた斧です」
フィアナは黙って首を横に振る。
「あれは、聖女様の首を切断するために使ったのですよね?」
カリノはうすら笑いを浮かべたままだ。
「凶器、ランプ、聖女様の左手。今のところ、これが見つかっておりません」
「やっぱり、騎士様とお話できてよかったです。昨日の人はとにかく怒鳴りつけるばかりで。だからもう、何も言わないって、ふんってしました」
カリノは独特な子どもだと思う。子どもでありながら子どもでないような、大人と子どもの狭間にいるような、そんな子だ。
いつも力ずくで証言を得ているような彼らだからこそ、カリノとまともに話ができなかったのだろう。
「凶器もランプも聖女様の左手も。わたしは持っていませんよ? 大聖堂のわたしの部屋を探してもらってもかまいません。隠すような場所もありませんし」
「もしかして、あなたのお兄様、キアロさんが持っているのですか?」
カリノのこめかみがひくりと反応した。
「どうでしょう? 兄は東の街、ドランの聖堂に派遣されておりますから。大聖堂を離れたあの日から、会っておりません」
「ですが、キアロさんはドランの聖堂にはいらっしゃらないようです。ドランの聖騎士たちも、キアロさんが派遣される話は聞いていないと」
カリノが「まぁ」と口を開く様子は、どことなくわざとらしさを感じた。
「でしたらきっと、大聖堂からの通知がドランの聖堂に届いていなかったのではないでしょうか?」
「通知?」
「はい。兄が言っておりました。大聖堂から地方の聖堂に派遣されるときは、通知を送るそうです。ですが、たまにその通知が事故にあって届かないこともあるそうです」
「つまり、郵便事故があったと?」
郵便事故。不測の事態によって、手紙や書類が届かなかったりなくなったりしてしまうことをそう呼んでいる。
「その可能性も否定できないのではないでしょうか? まあ、可能性の話ですけども」
カリノの言うことも一理あるだろう。これは教皇、もしくは枢機卿あたりに話を聞いておきたい内容だ。
「カリノさんのおっしゃるとおりですね。その件については、こちらできちんと調べておきます」
彼女に負けまいと、フィアナもにっこりと微笑んだ。
「あ」とそこでカリノが小さく声をあげる。そんな些細な仕草からは、幼さが見えた。
「つまり、兄は行方不明だと?」
かすかにふるえる唇は、兄を案じてのことなのだろう。
「申し訳ありませんが、そうなります。騎士団ではキアロさんの行方を把握してりません。ですが、全力をあげて探しておりますので」
心配するなとも、必ず見つけ出しますとも、その続きの言葉は言わない。
探した結果、どうなるかだなんてわからないからだ。
「やはり、キアロさんからも話しを聞かなければなりません。カリノさんが聖女様を殺した犯人だと、どうしても思えませんので」
その言葉にカリノの表情が曇る。
「まさか、兄が聖女様を殺したと?」
「そのようなことは言っておりません。ですが、カリノさんに近しい者から話を聞くのは基本ですから。それに、キアロさんは聖女様と仲がよかったとお聞きしております」
カリノの表情が今までよりも険しくなった。
「誰がそのようなことを言ったのですか?」
後方にいるナシオンがカタリと身体を動かした。もっと話を聞けと、そう訴えている。
「誰がというわけではありません。キアロさんが聖女様の専属護衛騎士にという話もあったと。しかし、まだ年齢も十九歳と若く、教皇や枢機卿がお認めにならなかったとお聞きしました」
「あの人たちは……いえ、失礼しました。兄が行方不明と聞いて、少し動揺してしまいました。兄にそういったありがたい話があったのも事実です。ですが、残念ながらその役は他の聖騎士の方になったようです。そういったありがたいお話もあったから、兄と聖女様の仲がよろしいと、皆、勘違いなさったのかもしれませんね」
いっときはカリノの目に宿った強い感情が、いつの間にか消え去っていた。
子どもでありながら、気持ちの制御がよくできている。
「もしかして、聖女様との仲のよい者は、聖女様を殺した犯人として疑われているのですか? これほどまでわたしが殺したと主張しているにもかかわらず」
「そういうわけではありません。私たちはさまざまな関係者から話を聞き、そこから真実を見極めるのが仕事なのです。だから、どんな些細なことでもお話していただけると助かります。カリノさんは誰かをかばっているのですか?」
「いいえ。かばうも何も。わたしが聖女様を殺した。殺したかったら殺した。ただ、それだけです」
また、振り出しに戻ってしまったようだ。
だがここでカリノがニヤリと不気味に口角をあげる。
「ですが、聖女様と仲がよかった人物を探しているのであれば、一番、大事な方を忘れておりませんか? 一昨日から一度もその方の名前が話題にあがっていないんですよね。それが不思議で仕方ありませんでした」
聖女と縁のある人物は、大聖堂関係者ではないのだろうか。教皇、枢機卿、巫女、そして聖騎士。その他に親しくしていた人物がいるとでもいうのか。
「アルテール王太子殿下が聖女様に求婚されたと、そういった話は伝わっておりませんか?」
またナシオンが反応を示す。フィアナの視界の片隅に入るような斜め後方にいるから、少し動けばわかる。
「残念ながら、そういった話は騎士団には伝わってきておりません。大聖堂側では、誰もが知っている事実でしょうか?」
「さあ、どうでしょう? 他の人が知っているかどうかなんて、わたしにはわかりません」
つまり、大聖堂側が正式に発表した話ではないということだ。
そこでカリノは姿勢を崩す。
「騎士様、ごめんなさい。少し、疲れてしまいました」
「そうですね。今日は長くしゃべりすぎたようです」
ナシオンに目配せをして、今日はここまでだと訴える。彼もそれに同意し、席を立った。
「騎士様。また、お話をしてくださいますか?」
「はい。またお話を聞かせてください。今日は、部屋まで送りますね」
「わたし、逃げも隠れもしませんよ。自分で罪を認めておりますから。心配性なんですね」
その言葉に、フィアナは返事をしなかった。
カリノを送ってから司令室に戻ると、今日は珍しく自席にタミオスがいた。
「部長」
いつも大きな声で名を呼ばれる側のフィアナだが、今日は負けじとタミオスを呼ぶ。
「そんなに大きな声を出さなくても聞こえてる」
しっしっと犬でも払うかのような仕草を見せるタミオスに、フィアナはずんずんと近づいていく。もちろん、二歩後ろにはナシオンの姿がある。
「フィアナ。この時間は、あの子の取り調べじゃないのか?」
壁にかかる時計をわざとらしく見たタミオスは、肩をすくめた。それは「お前でもダメだったのか」とでも言いたげに見て取れた。
「今日の分は終わりました。ですが、彼女が一つだけ、情報をくれたのです」
「……なんだ?」
フィアナを鬱陶しいでもいうかのような態度だったタミオスが身を乗り出してきた。
「アルテール王太子殿下が、聖女様に求婚されていたという話は、聞いたことがありますか?」
他のものには聞こえないようにと、フィアナは声のトーンを下げた。タミオスも顔色一つ変えずに、黙っていた。
しばらくしてから「わかった」と小さく口にする。
「アルテール王太子殿下と話ができるように手はずを整える」
あえて謁見という言葉を使わなかったのだろう。
「私、これから大聖堂へ行きたいのですが、よろしいですか?」
「大聖堂だと?」
「はい。そういった事実があったかどうかを確認してきます。王太子殿下と話ができるのは、早くても明日以降でしょうから」
タミオスは腕を組み、椅子の背もたれに背中を預ける。何かしら考え込んでから「わかった」とだけ許可を出す。
フィアナは後ろを振り返りナシオンに視線を送ると、彼は首肯する。意図は伝わったようだ。
ひとおりやることを終えたフィアナは自席に戻り、軽く息を吐いた。
カリノと話をして気が張り詰めていたから、こめかみが痛む。人差し指で円を描くようにぐりぐりとしていたら「ほらよ」とナシオンがカップを手渡した。
「お疲れ」
「ありがとうございます」
見るからに渋そうな紅茶だ。
「思ったのですが……」
「なんだ?」
「ナシオンさんは、紅茶を淹れるのが下手くそなのですか?」
「な、ん、だ、と?」
「いえ、なんでもありません」
口元にカップを近づければ、紅茶のかぐわしい香りが鼻腔を刺激する。このにおいだけは美味しそうなのだ。だけど、口に入れると舌先に渋みが残る。
「お子ちゃまには、この美味さがわからないようだな」
ずずっと紅茶をすすったナシオンも椅子に深く座った。
とにかく、一息つけるのはありがたい。
カリノから聞いた話を報告書としてまとめていく。先ほどの話で一番の収穫は聖女と王太子アルテールの関係だろう。アルテールが聖女に求婚していたとは、まったく知らなかった。
タミオスに報告したときのあの表情から察するに、彼もその事実を知らなかったに違いあるまい。いや、事実かどうかはこれから確認するのだが。
仮に事実だったとして、この話を知っている人間は騎士団にはいないのではないだろうか。
王族や大聖堂の関係者であっても、ほんのわずかな人間。
「それで、大聖堂へ行って、誰から話を聞くつもりなんだ?」
カップを口元に当てながら、ナシオンが尋ねた。
心当たりのある人物は一人。彼なら、教えてくれるのではないだろうかと、密かに期待を寄せている。だが、確信があるわけではない。
「聖騎士のイアンさんです」
「誰、それ」
「昨日、私たちを案内してくれた、あの聖騎士です。ナシオンさんがいけ好かないと言った……?」
「ああ、あいつか」
ナシオンがひどく顔をしかめた。
「フィアナ。あいつと仲がいいのか?」
「仲がいいといいますか。以前にも、仕事で顔を合わせたことがある程度です。名前も、昨日、調べて思い出しました」
「思い出した?」
「はい。ほんの数回しかお会いしていないから、お名前を失念しておりました」
それ以上、ナシオンは何も言ってこなかった。
午後になると雨はあがり、じとっとした空気が肌にまとわりついた。空は変わらず鼠色で、いつ雨が落ちてきてもおかしくはない。
フィアナはナシオンと並んで大聖堂へと向かっていた。正門の脇に立つ門番は、昨日と同じ男だ。
「こんにちは。聖騎士のイアンさんに会いに来たのですが」
「お約束はありますか?」
「いいえ、ありません。無理なようでしたら帰りますが」
「いえ。問題ありません。あなたが来たら通すようにと言われておりましたので」
ナシオンが肩をすくめた。何か言いたそうだが、フィアナはそれを視線で制した。
まるで、イアンはすべてを見透かしているかのよう。それがひしひしと感じられた。
大聖堂のエントランスに入り、待ち合わせ用の場所で所在なさげに立っていると、向こう側からイアンがやってきた。白い騎士服を身にまとい、大聖堂に使える聖騎士として一目でわかるいで立ちだ。
イアンの姿が見えた途端、ナシオンに対抗意識が芽生えたのがわかった。ナシオンが、そのような感情を抱くのは珍しい。やはり彼は、聖職者側の人間が好きではないのだろう。
「今日も来たのですね」
「はい。今日はイアンさんからお話を聞きたいのですが、よろしいでしょうか?」
「ええ、問題ありませんよ。庭園にお茶とお菓子を用意させましょう。いや、この天気なら談話室のほうがよさそうですね」
「いえ。そういった気遣いは不要です。こちらは仕事で来ておりますから。昨日と同じ場所でかまいません」
ふむ、と考える仕草すら洗練されており、真っ白な衣装がよく似合っている。
「では、応接室に案内しましょう」
「ありがとうございます」
フィアナは事務的に頭を下げ、イアンの後ろをついていく。もちろん、隣にはナシオンがいる。
案内された部屋は、昨日とは違って華やかな部屋だった。白地の壁紙には、金色で小さな花が描かれている。促されたソファもとっしりとしておりワイン色が部屋に映える。
「それで、どういったお話を聞きたいのですか?」
長い足を組みながら威圧的に問うてきたが、イアンの目はナシオンを捕らえていた。
「はい。単刀直入にお尋ねします。聖女様が、アルテール王太子殿下に求婚されたというのは事実ですか?」
薄ら笑いを浮かべたまま、イアンはフィアナに顔を向けた。
「どこからそういったお話を?」
「それが私たちの仕事ですから」
「なるほど。そうでしたね」
やはりアルテールがラクリーアに求婚したという話は事実なのだ。
「詳しく聞いてもよろしいですか? アルテール殿下と聖女様の関係を」
「詳しくも何も。その通りです。どうやらアルテール殿下は、ラクリーア様に懸想されたようで。急に結婚したいと言い出したのです」
「大聖堂側と王族側で話し合って決めた内容ではない、ということですか?」
そうです、とイアンは首を縦に振った。
「ご存知かもしれませんが、巫女や聖騎士たちの結婚は禁止されておりません。ですが、聖女様となればまた別です。何よりも、我々にはない神聖力を持っておりますからね。その神聖力を、王族側は取り込みたいのだろうと」
「聖女様は、その求婚を受け入れるつもりでいたのですか? 相手が王太子殿下であれば、憧れを抱く女性は一定数いるわけですから」
「あなたもその一人ですか?」
「え?」
フィアナが声をあげるのと同時に、ナシオンの身体がピクリと小さく揺れた。だが、彼は何事もなかったかのような表情を浮かべている。
「失礼しました。揶揄いすぎましたね。ですが、聖女様もあなたと同じような気持ちです。アルテール殿下にはまったく興味がなかったのです。それに聖女様は、この国を案じておりましたから、聖女としての役目を全うしたいと、そう願っていたのです」
そこでイアンの表情が一気に曇った。
「だというのに、志半ばで命が失われ、どれだけ無念か……」
「イアンさんは、あの巫女が本当に聖女様を殺したとお考えですか? むしろ、大聖堂側はそれを受け入れているのですか?」
「個人的な意見を口にして、あなたたちの捜査を攪乱させるのは申し訳ないですね。ですが、我々は大聖堂の人間です。こちらの人間を守るのが我々の役目でもあります」
つまり、カリノは犯人だと思っていない。むしろ――。
「アルテール殿下は、よく大聖堂を訪れたのですか? 聖女様に会いに」
「よく、という定義が曖昧なのですが。過去に、五回ほど聖女様に会いにこられました。最初の一回は事前に連絡があったのですが、あとは、こう、突然やってきて……。きっと、二回目の連絡があったときに、聖女様がお断りされたのが原因かと思います」
「逆に、聖女様が王城を訪れることはありましたか? そのアルテール殿下と会うために」
「そうですね。正確な回数までは覚えておりませんが、アルテール殿下がこちらに来られると、他の者に迷惑がかかるからと、最後のほうは聖女様が王城へ足を運んでおりました。それがアルテール殿下がこちらに来られた五回目以降の話です」
「そのときの護衛には誰がつきましたか?」
フィアナはイアンから目を逸らさない。まっすぐに見つめ、その答えを待つ。
「私ですね。他にも四人ほど」
「その他の四人のなかに、カリノさんのお兄さん、キアロさんはおりましたか?」
「だから、私はあなたに興味があるのですよ」
イアンはゆっくりと口角をあげた。
ひととおりイアンから話を聞いたフィアナは、大聖堂を後にする。
やはり王太子アルテールは聖女に求婚していた。しかし、聖女ラクリーアはそれを拒んでいた。だからアルテールはラクリーアを我がものにするために、という動機は十分に考えられるし、単純である。
その日の夕方の報告会議では、第一騎士団からもめぼしい情報はあがってこなかった。聖女が殺されたと思われる場所の周辺に住む者たちから話を聞いたようだが、あの場所から人が住んでいる場所まではずいぶんと距離がある。気晴らしに散歩で訪れる者はいるかもしれないが、わざわざ何か目的をもってあの場に足を運ぶ者はいないだろう。まして、時間も時間だ。
物音は聞こえなかった――
怪しい明かりも見えなかった――
何かあったんですか――?
と、返ってくる言葉はそればかり。
聖女ラクリーアが亡くなったという情報は公表されていない。それが大聖堂側からの指示だからだ。次の聖女が決まるまでは伏せてほしいとのことだった。だから彼らは、聖女ラクリーアが死んだことを知らない。
第一騎士団が初日から現場周辺の足跡も確認したものの、川辺ということもあって岩場も多く、それらしい足跡は見つからなかった。血に濡れたカリノの足跡くらいだろう。
情報部からは、タミオスが、王太子アルテールから話を聞くことにしたと報告をする。そうなった経緯を伝えるためには、アルテールが聖女に求婚した話についても報告せねばならない。
タミオスが包み隠さず報告すると、一同にざわりと動揺が走った。
**~*~*~**
なぜか満月の日になると、心がざわざわして眠れなくなる。
それはきっと、両親を失ったのが満月の日だったから。っかもしれない。
秘密の抜け穴を通って、敷地内から外へと出る。この抜け穴を知っている者はどれだけいるのだろう。人が踏み固めた様子もあるから、ここを知っているのは少なくともカリノ一人だけではない。
いつものように川辺へ向かって歩く。
カリノにとっては、こうやって川の音を聞くだけでも心は落ち着くのだ。一日中、何かの仕事をしているような巫女たちは、夜はぐっすりと身体を休めたいと思うのも事実。
そう思っても、休めないときもある。
「あっ……」
いつもの場所にラクリーアの姿があった。川岸の大きな石の上に腰をおろし、川の流れを眺めている。だけど、その隣にはいつもいない人物がいた。
「お兄ちゃん……」
「カリノ。遅かったじゃないか」
カリノの声にキアロもラクリーアも振り返る。
夜だというのに、空から降り注ぐ月光によって二人の表情ははっきりと見えた。
「こんばんは。カリノ」
「こんばんは。ラクリーア様」
「キアロさんは、カリノのお兄様でしたのね。カリノが来るまで、一緒に待っておりました」
満月の夜。河原。そして秘密の抜け穴。
これらをキアロに伝えたのはカリノ自身だ。
遠くから見えた二人の後ろ姿。
この状況を望んでいたのもカリノ自身である。
「メッサが眠ったのを確認してから出てきたので、遅くなりました」
同室のメッサは、一度、寝入ってしまうと朝までぐっすりと眠りこける体質だ。だから、カリノも自分のベッドにちょっと細工をして(人が眠っているように、掛布をこんもりとさせて)から、部屋を出てきたのだ。万が一に備えて。
カリノはキアロの隣に座る。
今日も静かに川は流れている。水面は付きの明かりを受け、きらきらと輝いていた。
この川は、故郷にまでつながっている。そこから、さらに流れて海へと出るのだ。
「お兄ちゃんは、ラクリーア様とどのようなお話をしていたの?」
「カリノの話だよ。僕たちの共通点は、今のところカリノしかいないからね」
自分がいない場所で話題にされるというのは、恥ずかしいものがある。
「お兄ちゃん。ラクリーア様に変なことを言わないでよ」
「変なこと? 変なことって何? カリノが川にうつる月が美味しそうだと言って、じゃぼじゃぼと川に入ったこととか?」
「あぁ……」
それは黙っていてほしい話だ。よりによって、ラクリーアには知られたくなかった。
まん丸い月がふかふかのパンのように見えて、それが川の表面に映り込んでいたのだ。空には手が届かないけれど、川には届きそうだと思って水の中に入った。だが、川に入ったとたん、浅い場所にある石の上で滑って尻餅をつき、びしょ濡れになって終わっただけという、そんな情けない思い出がある。カリノがまだ五歳くらいのときの話。
「お兄ちゃん、ひどい」
「カリノは昔からかわいらしい子だったのですね。今でも、十分にかわいらしいですけれども」
ラクリーアはころころと楽しそうに笑う。月光が、よりいっそう彼女を輝かせたようにも見えた。
こうやってラクリーアと話をするようになって、カリノは寂しさを紛らわせていた。満月の夜に家族を失ったやるせなさを、満月の夜にラクリーアと会うことで埋めていたのだ。
だからカリノにとって、ラクリーアは姉のような存在だと、恐れ多くも思っていた。
だけど姉のようであって姉ではないというのも理解しているし、それでも姉であってほしいという願望もあった。
「それにしても、カリノが聖女様と知り合いだったなんて、驚いたよ」
キアロから見ればそうなるのだろう。いや、キアロだけではない。ほかの巫女たちも、カリノがこうやって満月の日に、ラクリーアと密会していることなど知らないのだ。
「ラクリーア様が、お兄ちゃんに会いたいとおっしゃったの」
「えぇ?」
キアロはカリノに向けていた視線を、慌ててラクリーアに向けた。
「だって、カリノのお兄様なんですもの。聖騎士見習いとして大聖堂にいらっしゃるのであれば、会ってみたいと思うでしょう? まして、年も同じと聞けばなおのこと」
そこでラクリーアの表情が曇ったように見える。
カリノはそんなラクリーアを励ますためにも話題を変える。
「わたしも、ファデル神に祈りを捧げていたら、ラクリーア様のように神聖力が使えるようになりますか?」
幼い巫女たちにとって、神聖力を手に入れ、聖女になるというのは、一種の憧れでもある。
「どうでしょう?」
首を傾げたラクリーアの目が陰った。
「カリノはまだ幼いですから、ほかの巫女たちの言うことをしっかり聞いて、なんでも自分でこなせるようになりなさい。まずはそこからです」
聖女になれるかどうか、という話をはぐらかされてしまったような気がする。
だけど、カリノはしっかりと感じた。これは拒絶だ。これ以上、この話題に触れてはいけないというラクリーアからのけん制なのだ。
沈黙が落ちた。
いつも、ラクリーアとはどのような話をしていたのだろうか。話題を考えてみるものの、間にキアロがいるためその距離が遠く感じる。
「キアロさんも、あの戦争がきっかけでこちらに来られたと、カリノから聞きました」
「はい。僕とカリノは、聖女様に声をかけていいただいたのがきっかけです」
「カリノにも言ったのですけれど。あのときは、たくさんの子どもたちに声をかけたので、キアロさんのことをすっかりと失念しておりました。申し訳ありません」
「いえ。僕たちは、聖女様に感謝しておりますから。こうやって不自由なく暮らせているのも、聖女様のおかげです」
キアロの明るい声に反して、ラクリーアの表情は沈んでいく。
「もしかしてわたくしも、誰かに話を聞いてもらいたいのかも知れませんね」
そう言ったラクリーアは、ぽつぽつと自身の過去について語り始めた。
きっと幼いカリノだけではラクリーアもそれを口にはしなかっただろう。同い年で、聖騎士見習いのキアロがいたから、話そうという気持ちになったのだ。
ラクリーアの話は、カリノも想像していなかった意外なものだった。
彼女が大聖堂に来た理由。そして彼女がここでは珍しい髪の色をしていた理由。
「ラクリーア様は、ご家族のところに戻りたいとは思わないのですか?」
話をお聞き終えたカリノは、自然とそう尋ねていた。
「どうなのかしら? わたくしのことなんて、向こうもきっと忘れているわ……」
キアロの向こう側に見えるラクリーアの横顔は、どこか遠くを見つめている。やはり家族を思い出しているのだろう。
カリノは手を伸ばしてラクリーアの手を掴んだ。間に挟まれているキアロは、身を縮めている。
「わたしがラクリーア様の家族になります。わたしには、家族がお兄ちゃんしかいないから……。ここにいるこの時間だけでも、ラクリーア様と家族になります」
「まぁ」
ぱっとラクリーアの顔がほころんだ。
「嬉しいです、カリノ。そうなりますと、カリノはわたくしの妹かしら?」
それがカリノの望む結果だ。
「キアロさんんは、わたくしのお兄様? それとも弟?」
なぜかキアロが不機嫌そうにムッとした。
「それは詳しく審議する必要があるかと思います。なにしろ僕たちは同じ年ですから」
「では、どちらの誕生日が早いかで決めましょう」
だからこうやって、カリノの夢は少しずつ叶うのだ。
ラクリーアとキアロと、そしてカリノ。少しずつ家族が増えていくのだと思っていた。
今日は朝から雲一つない青空が広がっていた。天気が雨だろうが晴れだろうが、聖女殺しの捜査は続いている。そして、四日目ともなると苛立ちを隠せないような者たちが増えてきた。カリノを騎士団の地下牢で拘束するのは、十日間が限度だ。
「早く移送させろ」
犯人はカリノと決めつける第一騎士団たちからは、そう言った声も聞こえてくる。それでも、凶器が見つかっていない以上、彼女が犯人であるとは言い切れない。誰かをかばっている可能性だってあり得るのだ。
カリノは、自分が聖女を殺したと言っているわりには、凶器については何も証言しない。凶器のありかを知っているのか、凶器が何であるのかを知っているのか、疑わしいところでもある。
だから彼らも、進展のないこの状況に苛立っているのだ。
そんななか、フィアナは王太子アルテールから話を聞くこととなった。
聖女ラクリーアに求婚していた王太子アルテール。ラクリーアがその求婚を拒み続けていたなか、彼女は殺された。単純なシナリオが、今回の事件の事実にどう絡んでくるのか、それを見極めねばならない。
昨日、タミオスはすぐにアルテールへ話をもっていこうとした。しかし、聖女が殺されたという事実は、大聖堂側からの要求により、王族側にも隠されている。そのため、アルテールに話を聞く前に大聖堂へ寄り、参考人として王太子から話を聞きたいため、事実を一部、王族にだけ公表してもいいかと許可を取ってきたようだ。
もちろん、その情報は騎士団上層部とも共有され、アルテールから話を聞くことについても承認された。その足でタミオスは王城へと向かう。
タミオスから聖女の件を聞いたアルテールは悲しみ、事件解明のための協力は惜しまないとのことだった。
いつもはのらりくらりとしているタミオスだが、やるときはやる男なのだ。
だから、朝の会議が終わって早々に、フィアナはナシオンと共に王城へ向かっていた。
建物は互いに独立しているものの、同じ敷地内にあるため、王族と騎士団はそれだけ近い関係でもある。
王太子に会いに行くというのに、騎士団情報部所属というだけで今日も私服だった。といっても、上着を羽織ってクラヴァットも結んだ。いつものシャツにトラウザーズ姿よりも、少しだけめかし込んだ二人なのだが、ナシオンはクラヴァット片手に「結び方を忘れた」と騒いでいたため、仕方なくフィアナが結んであげた。
騎士団の一員として式典などに出席する場合は、正装用の騎士服を身につけるため、クラヴァットを結ぶ機会などほとんどない。
「本日は、急な申し出にもかかわらず面会を許可いただき、ありがとうございます」
フィアナとナシオンは簡単に名乗る。
案内された場所は、応接の間だった。国内外の重鎮たちと面会をする部屋だと記憶している。だから、室内もいたるところに金色が飾り付けられており、天井の真ん中からつり下がっているシャンデリアも、ろうそくに似た形の魔道ランプを何十本も灯す形状となっている。魔石の無駄遣いのようなこの部屋だが、そう思っても口に出してはならない。
「いや、聖女が亡くなったことについては、私としても協力できることは協力したいと思っていた」
そう言ったアルテールは金色のまつげを伏せ、悲しんでいるような仕草を見せた。
「だが、すでに犯人は拘束されているのだろう? さっさと処刑すればいいじゃないか。それにまだ、民には公表していないと聞いたのだが?」
「聖女ラクリーア様がお亡くなりになられたことは、まだ伏せております。事実を知った民が、暴挙に出るのを防ぐためでもあります。新しい聖女様が決まり次第、公表するというのが大聖堂からの通達です」
フィアナとナシオンは、花柄の刺繍の入ったソファに座っている。この刺繍だって凝ったものだというのは、一目見ただけでわかった。しかしこういった華やかな部屋は慣れない。取り調べ室のような、無機質な部屋のほうが、逆に居心地がいいと思ってしまうくらいだ。
「なるほどね。あいつらが考えそうな言い訳だな」
アルテールの言葉からわかるように、大聖堂側と王族の仲がよいとはいいきれない。ただ、ファーデン国は太陽神ファデルが建国に尽力を尽くした国であるため、王族関係者たちも太陽神ファデルをないがしろにするわけではない。ファデル神を信仰しながらも、大聖堂に反発しているだけなのだ。
その関係を、フィアナはもちろん把握している。だからアルテールがラクリーアに求婚した裏には、何が隠されているのかを見極めたかった。
「早速ですが、お話を伺ってもよろしいでしょうか」
「しかし、王族と大聖堂側の関係は君も把握しているだろう? つかず離れず。必要最小限しか付き合わない。そういった関係だ」
「はい。ただ、王太子殿下が聖女ラクリーア様に求婚されたというお話を伺ったものですから、そちらの真偽を確かめに参りました」
「ほほぅ」
アルテールの顔色が変わった。
「まあ、いいだろう。ここまでくれば隠すようなことはないからな。あぁ、私は聖女ラクリーアに求婚した。それが何か問題でも?」
「いえ。問題はありません。事実かどうかを確認したかっただけですので。つまり、求婚は実際にあったと」
「だけどね。残念ながら、向こうに受け入れてもらえなかったんだ。だから、婚約にはいたっていないよ」
そう言ったアルテールは肩をすくめておどけてみせる。
「この私を振るとは、聖女も見る目がないよね?」
どう返事をすれば正解なのか、フィアナにはまったくわからない。隣のナシオンをゆるりと見やれば、うんうんと頷いているから「そうですね」と小さく声に出した。
「ところで、殿下はなぜ聖女ラクリーア様に求婚を?」
目下のところ、それが謎だった。
今さらながら、王族と大聖堂のつながりを太くしたいと考えるわけでもないだろう。
「なぜ? なぜと聞かれると難しいな。だが、彼女に惹かれる何かがあったとだけ答えておこうかな。あまり、人の色恋沙汰を追求するものではないよ。私のように傷心を抱く男のことは、そっとしておいたほうがいい。君が慰めてくれるならまだしも」
「それは、失礼いたしました」
フィアナは素直に頭を下げる。この男も非常にやりづらい相手だ。その身分はもちろんのこと、こちらを探るような形で話をのらりくらりと交わしている。
「では、形式として質問させていただきます」
つまりこれから質問する内容は、騎士団情報部として決まりきったやり方なのですと、遠回しに伝えたつもりだが。
「君たち騎士団も大変だね。私には何もやましいことがないからね。気がすむまで質問してくれ。だけど、心の傷がやっと塞がり始めたところだからね。それをえぐらないように頼むよ。ただでさえ聖女が亡くなったと聞いて、こう見えてもショックを受けているんだ」
そうは見えない。だからこそ「こう見えて」なのだろう。
「では、質問させていただきます。三日前の夜から朝方にかけて、殿下はどちらにおりましたか?」
「どこ? その時間は寝室で眠っていたよ」
「それを証明してくれる人はおりますか?」
「控えの間に侍従は控えていたが……」
つまり、同じ部屋には誰もいなかったということになる。こうなれば、アルテールがずっと自室で眠っていたという証明にはならない。隣室にいた侍従の目を盗み、自室から抜け出すことも可能だろう。
「そのときの侍従からも話を聞くかい? 私が朝までぐっすり眠っていたことを証明してくれるかと思うが?」
「では、あとでお話を伺わせてください」
フィアナの言葉にアルテールは鷹揚に頷く。
「ところで、聖女ラクリーア様と最後に会ったのはいつですか?」
「う~ん、いつだったかなぁ? 一ヶ月くらい前だったかもしれない」
「最近は、あまりお会いになられていないのですね?」
聖騎士イアンの話によると、はじめはアルテールがラクリーアを訪れていたが、大聖堂にいる巫女たちが騒ぐからと、ラクリーアが王城に足を運ぶようになった。それでも、最近まで、ほんの十日前にもラクリーアは王城を訪れたと言っていた。
「こちらの情報によりますと、聖女ラクリーア様が王城を訪れたのは十日前です。そのときは、お会いになられていないのですか?」
「ああ、十日前だったかもしれない。すまないね、日付の感覚が曖昧で」
「いえ。では、十日前には聖女ラクリーア様にお会いになられたわけですね?」
「ラクリーアがこちらに来たときには、顔を合わせている。なによりも好いた女性だ。機会があれば会いたいと思うだろう?」
隣でナシオンが頷いているから、そういうもののようだ。
「それ以降は、お会いになられていない?」
「おそらく。まあ、私がいつ誰と会ったかは記憶されているだろうから、帰りにそれを確認してもらってかまわない」
「ご協力に感謝いたします」
決まり切った台詞を、今まで何度、口にしただろうか。
アルテールから聞いた話の裏付けととるために、彼付きの侍従からも話を聞いた。アルテールの就寝時には隣の間で控えてはいるものの、特別な呼び出しがないかぎり、寝室へ足を向けることはない。夜の事情で人払いされることもあるが、ここ十日ほどはそれもない。
いつものように礼を告げたフィアナは、王城をあとにする。
「大した収穫も得られなかったな」
ナシオンが頭の後ろで両手を組んで、とぼとぼと歩く。
太陽の光がさんさんと降り注ぎ、騎士らの訓練の号令が風にのって聞こえてくる。ここだけはいつものようにゆったりと時間が流れている感じがした。
フィアナはまっすぐ前を見る。
「ええ、話の内容はあらかた予想していたとおりなのですが……」
そこでフィアナが言いよどむと「何か、気になることでもあるのか?」と、ナシオンが見下ろしてくる。
「そうですね。ナシオンさんは、気がつきませんでしたか?」
「何を?」
「この国で帯剣が許されているのは?」
「帯剣? 騎士と王族だろ?」
ナシオンが答えたとおり、この国では騎士と王族のみが帯剣を許されており、今だってフィアナとナシオンも腰紐で剣を吊っている。だが、情報部に属する二人が持ち歩く剣は、刃渡りの短いもの。短剣である。上着によって隠されているため、すぐには誰も気づかない。
「アルテール殿下ですが、いつもは二本、帯剣しています。長剣と短剣、短剣は予備ですよね」
騎士団でも常に長剣を帯剣している者は、予備として短剣も備えている。フィアナたちのように情報部の者たちは短剣のみを身につけているが。
「ですが、今。アルテール殿下は短剣を持っていませんでした」
「破損でもしたのか?」
のほほんとしたナシオンの声だが、そこにはどこか憂いを孕んでいる。
「だが、王城に賊が侵入したという話も聞いていないな。短剣を扱う機会なんて、なかっただろう?」
「まあ、王族の帯剣なんて飾りのようなものですから」
彼らの周囲には常に護衛の近衛騎士たちがうようよとしている。王国騎士団であっても、近衛騎士隊は先鋭の騎士たちの集まりだ。アルテールの身の周りに何かあったとしたら、彼が剣を抜く前に近衛騎士らが動くだろう。
「ですが、いくら飾りであっても短剣ですよ? 人を刺せないわけではないですからね」
アルテールがなぜ短剣を持っていないのか、それがフィアナには気になった。
あの場で確認しようと思ったものの、アルテールであればのらりくらりと話をかわすだろう。それとなく侍従に尋ねてみたが、そういった事案に心当たりはなさそうだった。
「その短剣が凶器だったりして」
軽く言葉にしたナシオンだが、それを否定できないところが怖い。
「ナシオンさん。誤解されるようなことを言ってはダメですよ」
一つの思い込みが、間違った道を選択してしまうことだってあるのだ。
「冗談だよ、冗談。フィアナは眉間にしわが寄りすぎ」
まるで子どもをあしらうかのように、頭をぽんとなでられ、フィアナはじろりとナシオンを見上げた。
司令室に戻れば、先ほど聞いてきた話を報告書としてまとめなければならない。
話を聞いてはまとめ、まとめたら話を聞いて。
情報部の役割は、聞いた話から真実の糸口を見つけること。
だというのに、聖女殺しの犯人像はさっぱりと見えてこない。犯人がカリノだと言い切るだけの情報もない。
カリノの言葉をうのみにして、彼女を犯人にしてしまっていいのだろうかと、何度も自問自答している。
カリノは犯人ではないと本能はささやいているのに、それを証明できるだけの証拠もない。今のところ、彼女の自供が一番の材料となるだろう。
このままいけば、カリノが犯人だと間違いなく確定する。
自席に戻ったときには、タミオスの走り書きのメモが置いてあった。
――お嬢ちゃんが、話をしたいそうだ。
これだけで十分に通じる。
カリノは、フィアナがアルテールとどのような話をしてきたかが聞きたいのだ。アルテールが何を言ったのか。彼が何を隠しているのか。
だが、こうやってフィアナがカリノと話をするのも、そろそろ終わりだろう。
真実を聞き出せないまま、カリノが犯人だと決められ、王城へ移送するのだ。
「ナシオンさん。お昼過ぎたころ、カリノさんのところに行こうと思っているのですが」
タミオスからのメモをクシャリと握りしめたフィアナは、ナシオンへ声をかけた。
「わかった」
ひらりと手を振ったナシオンも、今回の事件の資料に手を伸ばす。
取り調べ室でナシオンと待っていると、カリノが女性騎士につれられてやってきた。
「こんにちは、騎士様。遅くなって、ごめんなさい」
「いいえ? カリノさん。顔色が悪いようですが、体調はいかがでしょうか?」
カリノを椅子に座らせた女性騎士は、黙って部屋を出ていく。入り口で待っているのだ。仮にカリノがフィアナとナシオンを押し倒して部屋を出ていこうとしても、彼女たちが取り押さえてくれる。
「騎士様もおもしろいことをおっしゃいますね。あのような場所に四日も閉じ込められたら、疲れますよ。だから、早く場所をかえてください。そして、さっさと処刑してくださいな。死ねば、もう苦しむこともないのですから」
「先ほど、アルテール王太子殿下にお会いしてきました」
カリノの話を遮るように、フィアナは口を開いた。
「そうですか。何か、お話をされたのですか?」
はい、とフィアナはゆっくりと頷く。
「アルテール王太子殿下が、聖女ラクリーア様に求婚したかどうか、それを確認してきました」
ニタリとカリノが笑みを浮かべる。
「それから昨日、大聖堂へも行き、そういった事実があったかどうかを聞いてきました」
「それで、どうでした? わたしが嘘を言っていないこと、わかりました?」
「はい。アルテール王太子殿下は、聖女ラクリーア様に求婚されたのは事実でした。ですが、聖女ラクリーア様がそれを拒んだため、婚約にはいたっていないと」
「そうですね。アルテール王太子殿下は、聖女様に振られたんですよ。滑稽ですね」
くすくすと声を立てて笑う様子は、アルテールを馬鹿にしているようにも見える。
「一方的な思いだけでは、結婚はできませんからね。こればかりは仕方ありません。ですが、アルテール王太子殿下は、それ以降も聖女ラクリーア様とお会いになられていたようです」
「あきらめきれなかったのですよ。しつこい男は嫌われると思うのですが、騎士様はどう思われます?」
「そうですね。それは好みの問題になるので、一概には言えないかと」
「なるほど。騎士様はしつこい男でもかまわないと?」
右手で口元をおさえながら、カリノは笑っている。
後方にいるナシオンは黙っているものの、カリノに対する苛立ちが感じられた。それでも立ち上がったり、声を荒らげたりしないのは、立場をわきまえているからだ。
「相手がどのような方であるか。それは、時間をかけて知っていけばよいのです。少なくとも、私はそうします」
「つまり、出会ってすぐに求婚されても受け入れないってことですよね? それをやったのがアルテール王太子殿下なのです。聖女様だって困っておりました。王太子殿下の顔くらいは知っていたようですけれども、どのような人物であるかなんてさっぱりわからないと」
「でしたら、そこから聖女ラクリーア様は、アルテール王太子殿下を知ろうと努力されたのですか?」
「まさか」
カリノは大げさに身体を反らす。
「第一印象は大事ですよね。聖女様にとって、アルテール王太子殿下の第一印象は『最悪』だったようです」
「それは、なかなか……」
フィアナも何を言ったらいいかがわからない。第一印象で『最悪』だと思われるとは、いったい何をしたのだろうか。ちらりとナシオンに視線を向けてみたが、彼も唇を結び机の一点を見つめていた。
「……その後の関係改善というのは、難しいでしょうね。まして、相手が結婚を望んでいるのであれば」
「ふふっ、ですよね。だから、わたしもアルテール王太子殿下は嫌いなのです」
カリノから感じられるのは、はっきりとした拒絶。
「だから、騎士様にいいことを教えてあげます」
そう言った彼女の口が、ニィっと笑う。
「騎士様、アルテール王太子殿下と会って、何か、感じたことはありませんか?」
「感じたことですか?」
フィアナは首を傾げる。フィアナだって頻繁にアルテールと顔を合わせているわけではない。騎士団に所属していながらも、情報部とあれば表に立つことはないからだ。王太子周辺の警護とか警備とか、フィアナには縁遠い仕事である。
「あるべきものがなかったとか、そういったことはありませんか?」
またカリノがニタリと笑う。
「あるべきもの……」
それは、例の短剣しか心当たりがない。それを口にしていいのかどうか。
「あっ、騎士様。やっぱり心当たりがあるのですね?」
どうやら、顔に出てしまったようだ。情報部の人間として、感情を制御すべきところなのに、相手がカリノということもあって油断したのだ。
それをめざとく見つけるカリノの観察力は、目を見張るものがある。
(……やはり、カリノさんが犯人だとは思えない)
ずっと巣くっている違和感が、カリノが犯人ではないと訴え続けていた。けれど、その違和感の正体がわからないもどかしさ。
「そうですね。いつも、アルテール殿下が身につけている短剣が、ありませんでした」
「やっぱり、騎士様ですね。わたしが見込んだだけのことがあります」
口元を手で覆ってくすくすと笑う。
「聖女様がお亡くなりになられた場所。そして王城。この二つの場所を結ぶどこかに、隠されていますよ」
「隠されている?」
フィアナは腰を浮かしそうになったが、それをぐっと耐えた。
「何が、隠されているというのですか?」
一つ息を吐いて、カリノに尋ねた。
「さあ? なんでしょう? ですが、騎士様が思っているものかと。それとも、アルテール殿下がなくされたもの、と言えばいいですか?」
そこでまた、カリノは口を閉ざした。
「カリノさん。ここにいられるのは、十日間が限度です。ですから、知っていることがあれば話をしてほしいのです」
カリノは答えない。
「王城に移送されると、裁判が開かれ刑が確定します。王城の地下牢では、私はカリノさんを助けることができません」
その言葉に、カリノは肩をピクリと震わせた。それからニッコリと微笑んだ。
「アルテール王太子殿下の短剣を見つけてください。わたしが、それを隠しました。騎士様、今日のおしゃべりは、もうおしまいです。短剣が見つかったら、またここに来てください」
そこでピタリとカリノは口をつぐんだ。
フィアナはナシオンに目配せをして、立ち上がる。
「わかりました。カリノさんの思いを、けして無駄にはしません」
カリノは先ほどの女性騎士に連れられ、戻っていく。
「フィアナ」
ナシオンの声は鋭い。
「わかっています。まずは部長の許可をとらなければなりません」
「第一は、動くか?」
主にそういった外での捜査は第一騎士団の役目だ。
「わかりません」
彼らは、カリノをそのまま犯人として、王城への移送を希望している。これ以上、証拠らしい証拠が出てこないのも原因だ。だから十日も待たずにカリノを王城へ移そうとしている。
「部長」
司令室に戻り、自席に座っていたタミオスへと、二人はずかずかと向かう。
「お、おう。二人そろって、どうしたんだ?」
フィアナもナシオンも、怖い顔をしていたのだろう。タミオスが、一瞬、怯んだ。
「お話があります。カリノさんから、凶器と思われる証言を引き出しました」
タミオスは室内をぐるりと見渡してから、顎をしゃくる。ここでは話す内容ではない、別室に移動だと、無言で伝えている。
「では、小一で」
小一とは第一小会議室を指す。各会議室は、魔石を用いて声が漏れないようにされている。小会議室は、五人も入ればいっぱいになってしまうような、狭い部屋だった。
「それで? あの嬢ちゃんが何を言ったんだ?」
椅子を引いて座るやいなや、タミオスが切り出した。
「凶器は、アルテール王太子殿下の短剣である、と」
「はぁ?」
フィアナが伝えれば、タミオスは素っ頓狂な声を出す。魔石がなければ、その声は司令室にまで響き渡るのではないかと思えるほどの。
「いやいやいや、ちょっと待て。なぜ、そこにアルテール王太子殿下が出てくる?」
「それは、わかりませんが……とにかく、その短剣が聖女殺害の凶器として使われたようなのです」
「で? その凶器はどこにある」
「それを第一に探してもらいたいのですが……」
腕を組んで、せいいっぱい背もたれに身体を預けたタミオスは、天井を見上げた。それから、犬のようにぶるぶると顔を左右に振る。
「駄目だ……あいつらには、そんなこと言えない……」
「駄目ってどういうことですか?」
フィアナがバンと机を叩いて身を乗り出した。
「相手は、アルテール王太子殿下だ。つまり、それは王太子が犯人だと、そう言っているようなものだろう? 俺らはまだしも、第一や近衛は王族の腰巾着だ」
チッとナシオンが舌打ちをする。
王国騎士団。その名のとおり、国に忠誠を誓う騎士団だ。国の中心に王族がいるのだから、もちろんそこへも忠誠を誓う。
彼らが黒といえば、白いものも黒にする。そう教え込まれている。
公正でありながら、不正がはびこっている組織なのだ。国民のためにと言いながら、結局は王族のための組織。
だが情報部だけは、他国の諜報活動も行うことから、そういった考えに染められていない部分もあった。
「第一の奴らは、十日も待たずにして嬢ちゃんを王城へ移送するようだ」
「ですが、カリノさんは犯人ではありません。聖女様を殺した犯人は別にいます」
「そう思う根拠はなんだ?」
「それは……」
そうであってほしいというフィアナの願望かもしれない。勘と言い切ってしまってもいいが、勘のどこかにも希望が含まれている。
「わかりませんが、だけど、彼女に聖女様を殺すことはできません。相手は聖女様ですよ? 魔石のような存在で、神聖力を使えると言われている……それに、彼女一人で首の切断などできるとお考えですか?」
「つまり、共犯者がいると言いたいのか?」
「もしかしたら、誰かをかばっているのか……」
「その誰かが、アルテール王太子殿下だと?」
流れ的にはそう考えるのが自然だろう。だけど彼女は、アルテールを嫌っている。
「例えばですけど」
そう切り出したナシオンの声は、ほかの二人よりもずいぶんと明るい。
「相手は王太子ですからね。カリノちゃんが脅されているとか、そういうこともありませんかね?」
「どういうことだ?」
タミオスが目を細くして、じろりとナシオンを見やった。
「王太子が聖女を殺したところに、たまたま幼い巫女が現れて。焦った王太子は巫女を脅した、とかね? 俺の代わりに聖女を殺したと自首してこい、とか?」
「おいおい、ナシオン。脅すというのは、相手の弱みを握るから成り立つもので、通りすがりの巫女に脅されるような材料があるのか?」
「あるでしょ」
さも当たり前のようなナシオンの言葉に、フィアナも目を丸くした。
「大聖堂の巫女。この存在だけで、十分に脅しの材料になりますよ。ほかの巫女に手を出す、大聖堂への援助を打ち切る、などなど。彼らの考えそうなことではありませんか?」
「おいおい、お前たち。自分がどれだけ危険なことを言っているのか、わかっているのか?」
「わかっています。ですが、このまま闇に葬り去ってもよい案件だとは思えません。仮に王太子殿下が聖女様を殺害したのであれば、やはりそこははっきりすべきです」
フィアナがこれほどまで大きな声を出すのも珍しいだろう。
「動機はなんだ? お嬢ちゃんが聖女様を殺す理由がないのであれば、王太子殿下にだってないだろ?」
「聖女と王太子という関係であればないのかもしれませんが。男と女になればあるのでは?」
ナシオンの言葉にタミオスもぎょっと目を見開く。ナシオンののんべんだらりとした言い方が思い雰囲気をやわらげてはいるものの、それがタミオスの眉間のしわの原因にもなるのだ。
「王太子は聖女に求婚して振られているようです。しかも、聖女からみれば王太子の第一印象は最悪ときたもんだ。それはもう、挽回できないくらいに。それでも王太子はしつこく聖女のもとへ通っていたようですが、聖女はそれを全力で拒否する。だというのに、それが突然、聖女のほうから王城へ向かうようになった。あれだけ王太子を嫌っていたはずなのに、なぜ王城へ行くようになったのか? この心変わり具合もよくわからないのですがね。まあ、二人の関係は交際にまでは発展していないみたいですけど。とにかく、聖女を手に入れたい王太子と、その王太子から逃げたい聖女。そんな男女であれば、もめ事も起こりやすいのではないですか?」
タミオスが額に右手を押しつけて唸っている。
「お前たちは、頭が痛くなるようなことしか言わないな」
「俺が言ったわけではないですよ? カリノちゃんが言ったんですって。王太子は聖女に振られたってね。ですがね、振られてもしつこく言い寄って、その挙げ句に感情が爆発したってこともあるかもしれませんよね? まあ、そんな事件、その辺にもごろごろしているでしょう?」
ナシオンの言ったことが間違いではないのが恐ろしい。
恋人、夫婦関係のもつれから事件が起こるというのは、ここ王都エルメルでも珍しい話しではない。そういった事件の捜査に駆り出されたことだって、何度もある。
「とにかくだ。この件について、俺からはなんも言えねぇ。第一の奴らにも伝えない。だが、お前たちがそれを時間外にやるというのであれば、止めはしない。なにしろ、時間外だからな。俺の管轄外だ」
フィアナはナシオンと顔を見合わせた。
「お前たちの言い分もわかるし、現場から王太子殿下の短剣が出てきたら、事件の内容がひっくり返る。だが、それを俺が主導でやってはいけないんだ。そうなったとたん、この情報部は王国騎士団全部と王族を敵にまわす」
「だけど、俺たちが勝手にやったことであれば、万が一のときには、俺たちだけばっさりと切ればいい。そういうことですね?」
ナシオンが右眉をひくりと動かした。
「すまん。俺には俺の部下を守る義務がある」
「いえ、知っていながらも黙って見過ごしてくれる。これほど心強いものはありません。もしものときは、骨を拾ってください」
フィアナは真っ直ぐにタミオスを見つめる。
「拾いはするが、お前たちの意志は継がないからな。お前たちが骨になれば、この事件の真相は闇に葬り去られるわけだ。だから、真実を明らかにさせたいのであれば、骨になるなよ」
先ほどからタミオスも素直ではない。だけど、その素直ではない言葉が、フィアナには嬉しかった。
間違いなく、カリノは聖女殺しの犯人ではない。
それを信じてくれる仲間がいるのだから。
**~*~*~**
水面にうつる月は、ゆらゆらと揺れている。
「え? お兄ちゃんが、聖女様の専属護衛騎士にですか?」
「ええ、そうよ」
そう言ってゆっくりと頷くラクリーアは、自信に満ちている。
「キアロをわたくしの専属護衛として推薦したの」
「お兄ちゃん、すごい」
たいていカリノはラクリーアとキアロの間に座っていた。そこに座れないときは、同室のメッサがなかなか眠らなくて、いつもよりここに来る時間が遅くなってしまうとき。
キアロは恥ずかしいのか、カリノから視線を逸らした。
「キアロでしたら、信頼できますから」
「聖女様にそうおっしゃっていただけるのは、嬉しいような恥ずかしいような気がします」
カリノは、キアロがファデル神の教えに従い、日々、鍛錬に励んでいたのを知っている。遠くの場所へ行けと言われても、文句言わずにそこへ行き、やるべきことを終えて返ってくる。
大聖堂側にとっても、キアロは黙っていうことをきく扱いやすい人間だろう。
「ええ、どうせ側にいるのなら、知らない人より知っている人のほうがいいでしょう? キアロであれば気が楽ですし」
「気が楽って……どういう意味ですか?」
笑いながらも、キアロは声を荒らげた。
二人の間にいるカリノは、ラクリーアを見てキアロを見てと、忙しい。
「お兄ちゃん、すごいね」
それがカリノの本心だった。こうやって兄が聖女に認められていく。まるで自分のことのように誇らしい。
いつもの他愛ない話でさえ、心はわくわくと躍っていた。
だけど、そんな楽しい気持ちは長続きしない。
「ごめんなさい、キアロ……」
その日のメッサは寝付きが悪く、川辺へと足を向けたのは、いつもよりも遅い時間であった。
だからカリノがその場についたときには、ラクリーアとキアロの間にはなんとも表現しがたい気まずい空気が流れていたのだ。
キアロは悔しそうに唇を噛みしめ、顔を背けている。ラクリーアとキアロが並んでいるときは、キアロの隣に座るカリノも、今日はラクリーアの隣に腰をおろした。
「聖女様、どうかされたのですか?」
そう尋ねれば、ラクリーアは困ったように目尻を下げる。
「駄目になったんだ……」
キアロのぽつんとした言葉に、ラクリーアがかぶせてきた。
「ごめんなさい。キアロをわたくしの専属護衛騎士にするという話なのですが、枢機卿たちが反対したため、なくなったのです」
「そう、なんですね……」
後頭部をガツンと殴られたように、頭の中がぐらんぐらんとした。
聖騎士の中でも、もっとも名誉ある地位。それが聖女の専属護衛騎士。
だから、カリノも期待していたのだ。それでも一番がっかりしているのは、キアロ本人だろう。
「お兄ちゃん……?」
「別に僕は、僕の幸せなんて求めていない。ラクリーアが幸せであれば……」
「そんなことを言わないで。わたくしだって、専属護衛騎士にあのようなことを求めるなど知らなかったの……イアンは先代の聖女からの専属だったから……」
二人が何を言っているのか、カリノにはさっぱりわからない。
だが、今までラクリーアについていた専属の護衛騎士はイアンという聖騎士だった。だが彼は、年齢を理由に専属を退くとのことだった。これからは一歩引いて、次世代への育成に力をいれたいそうだ。
「だけど、専属になれば、いつでもラクリーアの側にいられる」
「だからって、そのために代償を支払う必要はないの。キアロにはカリノもいるでしょう? カリノが悲しむようなことはしないで」
それではまるで、カリノがキアロの重荷になっているかのよう。
「……お兄ちゃん、ごめんなさい」
「カリノが謝る必要はない。むしろ、カリノは関係ない。これは僕の問題なのだから……」
キアロのその声には、どこか怒りが滲んでいた。
「僕が弱いからだ。ラクリーアを守ると言いながらも、中途半端な気持ちでふらふらとしているから。だから、ラクリーアの専属護衛になることをためらったんだ」
カリノにはさっぱりわからない話だった。
それでもキアロとラクリーアの間には、二人だけで成り立つ話であり、キアロがその結果を後悔しているのだけは伝わった。
「キアロ。あなたがわたくしの幸せを願うように、わたくしもキアロとカリノの幸せを願っております。ですから、自らを犠牲にするようなことだけは、けしてなさらないでください」
タミオスなりの気遣いなのかなんなのか、フィアナとナシオンは仲良く休暇となった。
カリノの件もあり、連日、司令室に詰めていたのは事実。その前だって、別の案件の諜報活動をしていたため、休暇らしい休暇は十日ぶりだ。
その二人は、大聖堂近くの川沿いを歩いていた。
「一応、第一のやつらが片づけはしていったようだな」
聖女がここで殺されて五日が経とうとしていた。捜査の残滓など微塵も感じられない。
それに、ここには誰もいない。
犯人もわかっているし、必要最小限の確認さえ終われば、自分たちの役目は終わったとでも、彼らは思っているにちがいない。
まだ真実の欠片すら掴みきれていないというのに。
「カリノさんの話では、こちらで聖女様を殺害したということですが……」
川の近くは岩場になっていて、足場がいいとは言えない。
「こんな場所で聖女と追いかけっこでもしたのかね、あの王太子は」
ナシオンの言葉からは、王太子に対する敬愛など微塵も感じられない。
「そうですね。仮にアルテール王太子殿下が、聖女様を殺害するために追いかけたというのであれば、お互いに走りにくい場所ではありますね」
岩がごろごろ転がっているのだ。歩くだけでも、下手をすれば転ぶ。
「ですが、聖女様にはそういった抵抗したときにできるような傷がなかったと記憶しております」
ラクリーアの遺体は、表面上はきれいだった。肌にひっかき傷や切り傷など、そういったものはなかった。ただ、内臓をめちゃくちゃに切り刻まれていただけで四肢の表面に擦り傷などはなかった。
「まあ、カリノちゃんの話によれば、あっちで聖女をやってしまったわけだな」
川の近くは岩場だが、そこから少し離れると草が生えている茂みとなる。その一部分に土が剥き出しとなっている場所があった。
「雨が降ってしまいましたからね。血痕は流されていますよね」
岩場から茂みに移動する。
「人が通ったようなあとは……まぁ、第一の人たちが捜査に入りましたからね」
ところどころ草が倒れていた。
「場所的には、この辺でしょうか」
流されたと思った血液だが、土に黒くにじんでいた。
「やっぱり、フィアナの言うとおりかもしれないな」
「何がですか?」
見上げると、ナシオンの後ろの太陽が目に入り、おもわず目を細くする。
「なんだ、その顔」
笑いながらも、彼は影を作ってくれた。
「まぶしかったもので、つい。今日は天気がよいですからね。こうやって外を歩き回る分にはいいのですが」
「そうそう、今日はデート日和というやつだ。だけど、夜はどうだ? ここは建物からも離れているし、人がいるほうからこちら側を見ても、気づかれないだろう? ある意味、夜は誰にも知られずに人を殺すには適している場所だ」
「カリノさんがここで聖女様を殺した。そのあと、首を切断して斧は川へ投げ込んだ。戻ってきて、首だけ持って、東分所へと向かう……」
「カリノちゃんが東分所へとやってきたのは、周囲が明るくなるような時間帯だろ? てことは、切断したときはまだ暗かった可能性がある。死亡推定時刻から考えても、そうだろうとは思うのだが。まあ、その暗闇の中、足場の悪い岩場を歩いて、斧を川に投げ捨てる。できなくはないが、なんか不自然なんだよな。殺害した凶器は隠したくせに、なんで斧だけはわざわざすぐに見つかるような川へ投げ込んだ? この川の流れの勢いなら下流まで流されないことくらい、わかるよな?」
ナシオンがそう言葉にするくらい、川の流れは穏やかだった。きらきらと太陽の光を反射させ、表面は波打つ程度。
「まぁ、雨が降ったりして川が増水すれば別だが。さすがに、あの子に天気を操るような力はないだろう? まして、そんな魔石も聞いたことがない」
「ですが、聖女様の神聖力ならどうでしょう?」
「ん?」
フィアナの声に、ナシオンが右目だけひくっと動かした。
「聖女様の神聖力であれば、天気を自由に操れるかとか、そういったことはできないのでしょうか?」
「それを俺に聞くか? 俺も知らん。だけど、聖女は殺されているだろう?」
「あっ」
聖女の力を当てにしすぎていた。
「それよりも、だ。カリノちゃんが言っていた短剣を探そう。ほんと、タミオスのおっさんも素直じゃないというか、ひねくれているというか」
ナシオンの言うこともわかるが、タミオスの立場を考えれば仕方ないことなのだろう。
フィアナの暴走によって、情報部に所属する彼らに迷惑をかけてはならない。
「立場かわればってことですよ。ところで、ここから王城の方角は、あちらであっていますよね?」
フィアナが指で示した方角には、真っ白い尖塔が見える。
「あっちが大聖堂で、こっちが王城だな」
「では、ここからあちらに向かって歩けば、隠されている何かがあるということですね」
カリノの話を信じれば、ここから王城へと向かう間に何かを隠したようだ。
「草、生えてるな」
ナシオンの言葉のとおり、フィアナの腹部にまで届くような草がもさもさと生えていた。
「ものを隠すにはもってこいですね。この様子では、第一ではここまで調べてはいないようですね」
草はしっかりと生えている。むしられた様子も、狩られた様子もない。
「ま、草が生えているからな」
よっぽど草の中を歩きたくないのだろう。ナシオンからは、そういった不満な様子が伝わってきた。
ぶつぶつと「草、生えてる。草、生えてる」と文句ばかり言っている。
草を歩きやすいようにと根元から倒すようにして歩く。その後ろをナシオンがついてくるのだから、彼が歩くときにはさほど草も邪魔にはならないと思うのだが。
それでもフィアナが先頭を歩いていてよかった。以前、誰かがここを通ったような、そんな草の倒れ方をしている場所が何カ所かあったのだ。相手もかなり気をつけて歩いたのだろう。意識しないとわからなかった。
「あ、ナシオンさん。あそこ……」
明らかに土を掘り返したような、不自然な場所があった。
「おっ」
ナシオンも察したようだ。
「現場からここまでけっこう距離があるな。あいつらじゃ、ここまで見ないよな」
あいつらとは、もちろん第一騎士団の面々だ。犯人がわかっているから、形だけ捜査したようなものだろう。関係者からの話を聞くのだって、形式だけのもの。その形式的な話すら、聞けていないところはあるが。
「掘ってみます?」
いつの間にかフィアナは、園芸用の移植ごてを手にしていた。今日は休暇ということもあり、帯剣は許されていない。そのかわり腰にぶら下げてきたのが小さなこてであった。
「か弱いレディに掘らせるのは、心が痛むな」
その場にしゃがみ込んだナシオンが、フィアナから小さな移植ごてを受け取り、不自然に盛られている土を掘り起こす。
「子どもの土遊びみたいになってきた」
童心に返るとでも言いたいのだろうか。ナシオンは、せっせと土を掘り起こしていた。
――カツン。
こての先端が固いものに当たった。
「そういや、俺。宝探しが得意な子だった」
「そうですか、ここでもその能力を発揮してくださったようで。ありがたいですね」
そこからは革手袋をした手で、ナシオンがゆっくりと土を掘る。
「フィアナ……やっぱり俺って天才かもしれない……」
そう言った彼の手には、柄と鞘が金色の短剣が握られていた。柄の部分には赤色の宝玉が埋め込まれ、鞘には赤色で紋章が描かれている。
土に汚れていなければ、太陽の光を受けて、まばゆく輝いていただろう。
「どうするんだ? これ……血痕だよな?」
「そうですね。土で汚れてはいますが、血痕ですね。おそらく、聖女様のものでしょう。詳しくは調べる必要がありますね」
「つまり、これが聖女を殺した凶器?」
「そうなるかと思います。少なくとも、斧は首切断にしか使われておりませんから」
信じられない、とでも言うかのようにナシオンは顔を横に振る。
「仮にだ。これが凶器だとしたら、致命傷はなんだ?」
「腹部を刺されたか、頸動脈を切られたか、もしくは……」
消えた左手も気になっている。あそこだって、切られた場所が悪ければ失血死に至る。
「詳しくは、調べてもらわないとわからないですが……」
そこでフィアナも言い淀む。とにかく、聖女の遺体はきれいとは言えなかった。
「とにかく、これが王太子の短剣っていうのが問題だよな?」
ナシオンの言うとおりだ。凶器が王太子アルテールの短剣。これを第一騎士団に手渡したところで、もみ消されるような気がした。
「……では、見なかったことにしましょうか」
「はぁ? わざわざ休暇にこんな草のところにまでやってきて?」
ナシオンは草むらが嫌いなのだろうか。やけに草にこだわっている。
「ええ。ですから、こちらは第一騎士団には渡しません。これは、ここぞというときに使います」
「証拠物の隠蔽」
「お互いさまでは?」
王国騎士団なんて、そもそも王族や貴族たちの子飼いだ。力ある貴族に睨まれれば、黒だって白になるくらいなのだから。
その中でも異端児がフィアナだろう。入団してすぐ隣国グラントとの戦争。あれによって、フィアナの心にどこかがぽっかりと穴が空いた。その隙間を埋めるかのように生まれたのが、騎士団や王族に対する不信感。
民のために存在する騎士団は、結局は国のために存在する。
民を守るためではなく国、すなわち王族と貴族を守るための存在。
いくら彼らが罪を犯そうと、権力と金によってその事実はねじ伏せられる。
それを間近で見てきたのだ。特に「情報」を扱う部署にいるからなおのこと。
他の者と同じように、見て見ぬふりをすればよかった。いや、実際にはそうしてきた。
だけど、そのたびに心の奥にはやるせない気持ちが込み上げてくるのだ。
「ナシオンさん。私を見捨てるなら今のうちです。私は、彼らの汚い部分をすべて、さらけ出そうと思っています」
「そんなことをしたら、君はこの国にいられなくなるぞ?」
「かまいません」
ナシオンは「いてててててて……」と言いながら立ち上がり、「うぅっ」と腰を押さえて状態を後ろに反らした。
「ずっと座っていたから腰にきたわ」
フィアナも、ふと、笑みをこぼす。
「しゃあないな。俺は君とコンビだからな。とことん付き合ってやるよ」
「え?」
驚いたフィアナも立ち上がろうとしてみたものの、急な動きに身体がついていかず、くらりと目の前が暗くなる。
気づけばナシオンの腕の中にいた。
「あ、ありがとうございます」
「だから。こういうところが目が離せないんだよ」
ナシオンが、右手の人差し指でピンと額を弾いてきた。
「痛いです」
「そりゃそうだ。それなりに力をいれたからな。あ、赤くなってる。悪い」
謝罪の言葉を口にした彼は、フィアナの額に唇を落とした。
目的のものを探し終えた二人は、川辺へと戻り、大きな石の上に並んで腰をおろす。目の前の川は、太陽の光を反射させながら、ちろちろと穏やかに流れていた。
二人の間にはバスケットがあるものの、並んでいるサンドイッチの数はだいぶ減っていた。
「だから、デート日和だって言っただろ?」
ナシオンの手の中には、鶏肉を挟んだサンドイッチがある。
「そうですね」
返事をしたフィアナは、ハムとチーズのサンドイッチをパクリと食べた。
「ナシオンさんって。紅茶を淹れるのはへたくそですけど、料理はまともなんですね」
フィアナがそろそろ「お腹が空いたから帰りましょう」と言い出したところ、ナシオンが背負っていた荷物からいきなりバスケットを取り出したのだ。
そしてこうやって二人でサンドイッチを食べているわけだが。
「惚れ直した?」
「惚れ直すも何も。最初から惚れておりませんので」
むすっと最後の一口を口の中に押し込めたフィアナは、両手を合わせて「ごちそうさま」と言う。
「休暇らしいことをしておこうという俺の心遣いだっつうの。休暇中に、二人で証拠を探してましたっていうよりは、デートをしてましたのほうがいいだろ?」
「そうですね。そのほうが偽装にはなりますね。ですが、何も殺人現場でデートなんてしなくても……」
「大丈夫だ。聖女が殺された事実は公表されていない。ここで殺人事件が起こっただなんて誰も知らない」
このような場所に足を運ぶ者もいないのだろう。騎士団がうろうろしていても、気にならないくらいに。
それがいいのか悪いのかわからないが、結局、まともな目撃証言だって得られなかったのだ。
「今日で五日目ですよね。カリノさんが自首してきてから」
「そうなるか? てことは折り返しか?」
騎士団で預かるのは十日が限度。あとは王城へと移送される。
「だが、あの子の場合は十日も待たずして移送されそうだな。あいつらも相当焦っているようだからな」
犯人が明らかなのになぜすぐに裁判をしないんだ、という意見も騎士団内部ではちらほらとあがってきているらしい。さらに、その意見に国王も同意し始めてるというのであれば、何かしらの意図があるのだろうとやはり勘ぐってしまうのだが。
「裁判になったら、私たちが証言できるように根回しをしましょう」
「根回し? 誰に?」
「カリノさんは大聖堂側の人間です。温情を訴えるのであれば、大聖堂の人間が出てきますよね」
この国の司法権は貴族が持っている。立法権は国王のみで、行政権は貴族と国王。
大聖堂はそれらとは独立した組織であるため、国の法律によって裁かれる者に対して手出しはできない。しかし、その対象が大聖堂側の人間であれば、司法の場で証言をすることは可能だ。
「フィアナ……もしかして……」
フィアナはバスケットをのぞきこむと、残っていたサンドイッチに手を伸ばす。先ほど「ごちそうさま」と言ったことなどおかまいなしだ。
「最後の一つ、いただきますね」
最後のサンドイッチはハムとチーズだった。
フィアナが聖騎士のイアンに会いに行くと言うと、ナシオンもついてくると言葉にする。
もしかして彼は、フィアナの保護者気取りなのだろうかと、そんなふうに考えてしまう。
数日の間に何度も大盛堂を訪れれば、門番もなんとなく察するところがあるようで「この時間でしたら、イアン様は執務室におります」とのこと。
聖騎士の中でも上位に属する彼は、そうやって執務用の部屋を与えられているようだ。
門番が呼んだ巫女に案内され、執務室へと向かった。
聖女が不在だというのに、大聖堂は比較的落ち着いていた。そういえば、フィアナが話を聞いた巫女たちも、取り乱すことなく対応していた。今だってそうだ。
あのような事実があれば恐怖で震えたっておかしくはないだろうに。
大聖堂では、気持ちの制御方法まで教えてくれるのだろうか。
「イアン様。お客様をお連れしました」
黒檀の執務席で山のような書類に囲まれていたイアンが顔をあげた。
「客人はあなたでしたから」
ナシオンと二人でいるのに、まるで一人しかいないようなその言い方が気になるものの、フィアナはうながされた先のソファに座った。
「今日はどういったご用でしょうか?」
イアンはベルを鳴らして巫女を呼び出すと、お茶の準備をするように言いつける。フィアナは巫女の仕事の一部を垣間見た気がした。
巫女が部屋から出ていったところで、フィアナは口を開く。
「今日は、騎士団としてではなく、私、個人として会いにきました」
「なるほど。ですが、個人というわりには、保護者がついているのですね?」
保護者。間違いなくナシオンのことを指している。否定も肯定もせずに、にっこりと微笑むだけにした。
やはりイアンとナシオンの相性はよくないのだろう。
ナシオンはイアンを睨みつけてはみたものの、反論しようとか悪態をつこうとか、そういったことはしなかった。
フィアナも保護者が必要だと思われていることは心外であったものの、にこやかに笑みを浮かべる。
「保護者というよりは相棒ですから」
相棒――。
この言葉が一番しっくりくる。何か事件が起これば二人一組で動くのが鉄則の情報部のなかで、フィアナがナシオンとコンビを組んで二年。今ではそれなりに実績がある。
だが、わざわざそこまで目の前のイアンに説明するつもりはなかった。彼にとってはどうでもいい話だろう。
「なるほど」
片眉をぴくっと動かしたイアンは腕を組んだ。これは自然と相手を拒絶しようとする表れだ。それでもフィアナは話を切り出した。
「大聖堂側は、カリノさんの罪を認めているのですか?」
「認めるも何も。私たちは彼女から話も聞けておりませんから。そちら側のほうが、より事実に近いのではないでしょうか?」
「そうですね。ですが、第一騎士団はカリノさんからろくに話を聞きもせずに、王城へと移送しようとしています」
「そのためのあなたなのでは?」
首を傾げる姿すら、女性のフィアナから見ても艶めかしいと感じた。イアンにはなんとも表現しがたい艶があるのだ。男とか女とか、そういった性別を超えた何かが。
「はい。私はカリノさんが犯人だとは思っておりません。ですが、それを覆すだけの証拠がないので難しいです」
「ふむ」
そこでイアンは組んでいた腕をほどいた。何かを考えるかのように、顎に手をあてる。
「いいでしょう。そのままカリノを移送させてもらってください」
イアンの言葉に反応を示したのはナシオンだった。
「移送されたあとは王城。つまり王族、貴族の管轄となり、俺たちは出だしができない。それでいいのか?」
「なるほど。あなたもカリノを信じている一人でしたか」
イアンは柔和な笑みを浮かべた。
「カリノが犯人とされている以上、私たちも手出しができません。だからといって、このまま彼女の刑が確定するのを、指をくわえて見ているわけではありませんよ? 刑確定のためには、裁判がありますからね」
そう言ったイアンは、今度はニタリと笑う。
「こちらが反論する機会は、裁判しかないと思っていたのですよ」
「はい。私もそう思います。おそらく、関係者として大聖堂から幾人かが呼ばれます。そのうちの一人として、私も仲間に入れていただけないでしょうか」
しんとした空気が生まれる。
イアンもフィアナからそういった提案がされるとは思ってもいなかったのだろう。むしろ、ナシオンが驚いて口をパクパクと開けていた。
「フィアナ。何を言っているのかわかってるのか? 君は騎士団の人間だ」
「わかっています。ですが、あれを有効に使える場は裁判しかありません。ナシオンさんも共犯者になってくれるんですよね?」
フィアナが真っ直ぐに見つめると、ナシオンも同じようにじっくりと見つめ返す。互いに互いの目を見つめ、互いに視線で訴える合うものの、先に折れたのはナシオンだった。
「……わかった。君の言うとおりだ。あれを効果的に使える場所は……裁判しかない」
ナシオンも認めてくれたことで、フィアナはほっと安堵のため息をこぼす。だが、イアンはニコニコと笑みを浮かべ「なんのことでしょう?」と口にする。
この部屋には、ほかに誰もいないとわかっていても、フィアナはつい周囲を確認してしまった。
「安心してください。ほかには誰もおりませんから」
「あ、はい……」
みっともないところを見せたかもしれないと少しだけ焦ったフィアナだが、これからの件について、そっと話を始める。
イアンの表情からは笑みが消え、驚きへと変化する。さらには、大口を開けて笑い始めた。
「あなたも、なかなかすごいことを考えますね。ですが、私もその考えは嫌いじゃない。協力しましょう」
イアンの協力、つまり大聖堂側の協力だ。それを得られたことに、フィアナは胸をなでおろした。
馬鹿正直に騎士団に提出すれば、もみ消されてしまうかもしれない証拠。それを確実に人の目に触れさせるために、フィアナは大聖堂側と手を組むのだ。
騎士団に所属する自分が、なぜ組織を裏切る行為に手を出そうとしているのかはわからない。
きっと、ただ真実を知りたいだけなのだろう。
聖女ラクリーアを殺したのは誰か。
どうして聖女ラクリーアは殺されなければならなかったのか。
「ところで」
イアンが話題を変える。
「聖女様のご遺体は、いつになったら返していただけるのでしょうか? 次、あなたたちが来たら確認するようにと、枢機卿たちからは言われておりましてね。ですが、今日は仕事ではないということなので、お答えしなくてけっこうです。ただ、まだ聖女様のご遺体がそちらにあることを忘れずに」
イアンの言葉が、ぐずりと胸に深く突き刺さった。
聖女ラクリーアの遺体を、騎士団はいつまで保管しておくつもりなのか、フィアナにはさっぱりとわからない。
必要な話を終えたフィアナとナシオンが、イアンの執務室から立ち去ろうとすると、見送りとして巫女を一人つけられた。
イアンは「見送れなくて申し訳ありません」とやわらかく声をかけてくれたが、彼の机の上にこんもりと山積みにされた書類を見れば、納得できるものがあった。
ナシオンと並んで帰路につく。
今日の目的はすべて果たした。何よりも、例の短剣を見つけたのは大きいだろう。
早くカリノに伝えたいという気持ちすら生まれてくる。
「フィアナ」
突然ナシオンに名を呼ばれ、フィアナはおもむろに彼を見上げる。
「あんまり突っ走るなよ」
その言葉が、フィアナの心にずしっとのしかかった。
**~*~*~**
カリノが他の巫女たちと一緒に洗濯物を干していると、どこか騒がしい。
「どうしたのかしら?」
一人の巫女が言った。
洗い立てのシーツを手にしつつも、何が起こっているのかさっぱりとわからないカリノは「さぁ?」と首を傾げる。
洗濯ロープにすべての洗濯物を干してから、カリノも他の巫女も、騒ぎの原因が気になって声がする方向へと足を向けた。
「あっ……アルテール王太子殿下よ?」
誰かがそう呟いたことで、王太子が大聖堂を訪れたということだけは理解した。
エントランスの中央には、アルテールとその護衛の者たちが立っている。それを遠巻きに見ている巫女や聖騎士、もしくはその見習いの者たち。
アルテールは誰かを待っているようだった。だが、この大聖堂にまでわざわざやって来て、会いたいと思うような人物は一人しかいないだろう。
カツーン、カツーンと足音が響く。
「あ、聖女様」
カリノが口にすると「しっ」とすぐに隣の巫女に制される。
「わたくしがラクリーアです。今日は、どういったご用件でしょうか」
眩耀たる銀糸の髪を背中に流し、燃えたぎるような赤色の目はアルテールを睨みつける。
普段のラクリーアからは考えられないほどの鋭い形相だ。
彼女の後ろには、聖騎士が五名、ずらりと並んでいた。その真ん中にいる聖騎士が、専属護衛だと聞いたことがある。どこか中性的な顔立ちで、黒髪は後ろで一つに束ねている聖騎士だ。
あの聖騎士よりもキアロのほうがラクリーアの側にいる騎士としてふさわしいのに、とカリノが思ってしまうのは、やはり身内のひいき目によるものかもしれない。
聖騎士らからは、ラクリーアを守るというお思いがひしひしと漂っている。
ラクリーアの姿を目にしたアルテールは、すっと彼女の前に進み出て、そこでおもむろに跪く。
洗練されたその動きに、カリノも思わず目を奪われた。
アルテールはラクリーアの左手をとった。
「聖女ラクリーア。どうか、私、アルテール・ファーデンと結婚していただけないだろうか?」
その言葉で大聖堂内はシンと静まり返った。こそこそと話をしていた巫女たちも、一斉に口をつぐむ。
ファーデン国の王太子アルテールが、聖女ラクリーアに求婚した。
だが、今まで聖女が王族と結ばれた過去はない。
すうっとラクリーアが息を吸うのが感じられた。
「お断りいたします。わたくしは大聖堂に身を置く者。あなた様と共に生きる道はございません」
せん、せん、せん……と、ラクリーアの声は静かな室内に反響する。
一瞬だけ驚きの表情を見せたアルテールは「なるほど」と口角をあげた。それからゆるりと立ち上がり、威圧的にラクリーアを見下ろすものの、ラクリーアに怯む様子はなかった。
「わたしの誠意が伝わらないとは残念です。今までは王族と大聖堂と別れておりましたが、昔は一つだったのではありませんか?」
アルテールの言葉に偽りはない。
そもそもファーデン国は、太陽神ファデルが建国した国と言われている。建国時には王族やら聖職者やらと、今ほどまで別れてはいなかったのだ。
それが王族を支持する者は王城に、太陽神ファデルを信仰する者たちが大聖堂に集まるようになった結果、今のような関係になった。
だが、どちらも根本には太陽神ファデルの存在がある。
「そうですね。このファーデン国は太陽神ファデルによって建国された国。太陽神ファデルのもとに、わたくしたちは一つでした。ですがそれも昔のこと。今は、わたくしたちも己の信念に則っておりますので」
「なるほど。私の想いはそう簡単には届かないということですね。また来ます」
アルテールは優雅に腰を折る。
「次からは先触れをお願いします。わたくしたちも暇ではございませんの」
ラクリーアの言葉に返事をせず、アルテールはぞろぞろと騎士を引き連れて大聖堂内から出ていった。
「みなさん、お騒がせして申し訳ありません」
やっとラクリーアが笑顔を見せた。それによって止まっていた時間が緩やかに動き出すような感覚があった。
だが、その後すぐに、王太子アルテールが聖女ラクリーアに求婚した話はけして口外しないようにと、きつく言われた。だからあの日見たことを、誰も口にしない。
「おはようございます」
司令室に入ったフィアナはタミオスの視線に気がついた。チラリと顔を向けると目が合う。
こいこいと、タミオスが手を振っている。朝から大声で呼ばれなかっただけマシだと思うことにした。
荷物を自席に置いたフィアナは、小さくため息をついてからタミオスの元へと向かう。
「おはようございます、部長。何かありましたか?」
「昨日は、何をして過ごしたんだ?」
タミオスが私的なことを聞いているわけではないとわかっているのだが、周囲にはそう思わせる必要がある。だけど、上司であるタミオスが、あまりにもフィアナの私的な内容に踏み込んでしまえば、上司からの嫌がらせと思われる可能性もある。
「はい。ナシオンさんとデートしておりました」
「なるほどな。で、どうだった? デートは、楽しかったか?」
「どうと言いましても……。二人で川沿いを散歩して、お弁当を食べておしまいです。あ、ナシオンさんからは素敵なプレゼントをいいただきました。どうやらナシオンさんは、宝探しが上手なようです」
フィアナがにっこりと微笑むと「なるほど」とタミオスも頷く。
「久しぶりの休暇を満喫できたようで何よりだ」
だがな、とそこでタミオスの声が低くなる。それは、周囲に聞こえないようにという彼なりの配慮の仕方だ。
「嬢ちゃんの移送が決まった。今日の午後だ」
フィアナはすぐには言葉が出てこなくて、ぱくぱくと口を開けた。大きく息を吸って、やっとの思いで小さく尋ねる。
「まだ、時間はあるはずですよね?」
「ああ、上から圧力がかかった。何よりも亡くなったのが聖女様だからな」
「つまり、大聖堂側はそろそろこの件を公表するということですか?」
昨日、イアンと話をしたときには、そういった内容を聞いていない。
「それは知らん。だが、聖女様の遺体の引き渡しを要求されたようだ。聖女様の遺体がなければ、次の聖女様も指名できないとかなんとからしい。となれば、さっさと事件としては解決させておきたいところだ。ようは、こっちとしては、何かのどんでん返しがあって、もう一度、聖女様の遺体を調べなければならない状況を懸念してるんだよ」
タミオスの言わんとしていることがなんとなくわかった。
大聖堂は聖女の遺体の返還を求めている。しかし、犯人がカリノだと断定できていない今では、遺体を返すことはできない。
だからさっさとカリノを王城へ移送させ、聖女の遺体を大聖堂に返すという手順を踏みたいのだろう。
「ですが、聖女様の遺体を返すのは、カリノさんの移送とは関係ないですよね?」
そうでなければ、犯人が確定しない間は、被害者の遺体をずっと保管しておかなければならなくなる。
「そうなんだが。今回は何よりも被害者が聖女様だからな。きっちりと犯人が決まったところで、遺体を返したいらしい。大聖堂側からあれこれ文句つけられて、再捜査となることを懸念しているんだ。そのときに聖女様の遺体は、こちら側にあったほうが自由にできるからな」
「でしたら、矛盾しませんか? カリノさんを移送したところで、彼らが再捜査を要求しないとは限らないですよね?」
「何よりも、嬢ちゃん本人が自供している。自分でやったとな。だから、再捜査にはならないと、上は睨んだようだ」
話を整理すると、大聖堂側からの反論にそなえて聖女の遺体を保管していたが、大聖堂側が遺体を返せと言ってきたため、カリノを犯人として王城に移送し、そこで遺体を返す。
矛盾しているような気もしないでもないが、これはどちらかといえば、鶏が先か卵が先かの話に近いのかもしれない。
だが、上が決めたというのであれば、今は従うしかない。
「カリノさんが移送される前に、話せますか?」
フィアナの言葉にタミオスはにたりと笑う。
「お前さんのことだから、そう言うと思っていた。移送は午後からだ」
今回の件は取り調べとは異なる。フィアナが個人的に話をしたいだけなのだ。
そしてカリノが王城へ移送となったら、フィアナは手出しができない。だから今のうちにカリノと話をしておきたかった。
「根回ししとくから、嬢ちゃんに今後のこと、説明してくれないか?」
「今後のこと、ですか?」
タミオスのやろうとしていることにピンときた。
「ああ。今日の午後、移送が決まったことはまだ嬢ちゃんの耳には届いていない。お前から、嬢ちゃんに伝えてほしい。それから、王城移送後、刑確定のための裁判が開かれることもだな。今回は事件が事件なだけに、裁判を早める予定のようだ」
「わかりました」
フィアナからみたら、願ってもない話だ。
「朝会で嬢ちゃんのことが報告される。だから俺のほうから、移送の手続きはお前にやらせるように伝える。それでいいな?」
「はい。ありがとうございます」
移送前にカリノと話ができる機会があるのは大きい。
これもタミオスのおかげなのだが、彼も騎士団では上層部に片足を突っ込んでいる人間であるのに、その考えに染められていないところは、やはり情報部という特殊な部門に属しているからかもしれない。
カリノには何をどこまで、どうやって伝えるべきか。
アルテールの短剣が見つかったことは言うべきか否か。
なにしろ、第一騎士団にも報告していない証拠品だ。これは、ここぞというときの切り札にしておきたい。
たとえそれが、証拠隠蔽だと言われようが。
タミオスが言ったように、カリノを王城へ移送させるという話は、朝会で報告された。
それが終われば、この捜査本部も解散となるだろう。カリノの移送が終わった今日の夕方には「解散」の号令がかかるはずだ。
凶器が見つからない、動機がわからない、聖女の遺体の一部が見つからない。
そうやってないないづくしであっても、犯人さえ王城へと送ってしまえば、あとは王城にいる彼らが処遇を決める。つまり、騎士団の管轄からは外れるというわけだ。
「では、容疑者移送補佐はフィアナ・フラシス、頼んだぞ」
総帥に名を呼ばれ、フィアナも「はい」と凛とした声で答える。
タミオスの根回しにより、フィアナはカリノの移送補佐として指名された。
それに不満そうなのはナシオンだった。
「今日はフィアナだけだ」
朝会が終わり、それぞれが持ち場へ戻ろうとしたとき、そんなナシオンの肩をタミオスがポンと叩いた。
「いやいや。二人一組が基本ですよね?」
「それは捜査のときな? 今日は取り調べで嬢ちゃんのところにいくわけではないからな?」
「ナシオンさんも、ずいぶんとカリノさんのことが気に入ったようですね」
とにかくナシオンはぶうぶうと文句を垂れていた。そんなに彼もカリノと話をしたかったのだろうか。
自席に戻り、今回の事件のあらましをまとめた報告書に最初から目をとおす。
カリノが聖女ラクリーアの頭部を持って東分所を訪れたのは、六日前。そのときから、聖女を殺したのは自分自身だと言っていた。
そのわりには凶器についても証言しないし、ラクリーアの身体を刻んだ理由も言わない。
殺したかったから。そうしたかったから。
そういった表向きの言葉を並び立てるだけ。
だけどそれが、アルテールをかばっての言動だったら?
そして彼女が、アルテールに脅されているとしたら?
十分に考えられる。
それにナシオンも言っていたように、大聖堂にいる巫女や聖騎士見習いは後ろ盾のない弱い人間だ。その彼らを人質のように扱われたら、幼いカリノは逆らえないだろう。
もしかして、キアロが姿を消したのはアルテールに囚われているから、とか。
できれば、その辺の話をカリノから聞いてみたい。
ナシオンもいないだろうし、見張りも外にいるだろうから、こっそりと聞けば答えてくれるだろうか。
そんなことを考えながら、いつもの取り調べ室へと足を向けた。
「こんにちは、騎士様」
「こんにちは、カリノさん」
「今日は、騎士様、おひとりなんですか? いつもの方はどうされたのですか? クビになったのですか?」
カリノはナシオンをきちんと認識していたようだ。
「はい。今日は私、一人です。彼とも話をしたかったのでしょうか?」
カリノは黙って首を横に振る。
「今日は、カリノさんのこれからについて説明をしにきました」
フィアナの言葉に、彼女は首肯する。そういった身のこなしの一つ一つを見ても、年齢の割には大人びている。
ただ、地下牢での拘束も六日目となったためか、その顔に疲労の色は濃く出ていた。強がる口ぶり、凛とした姿勢を見せても、目の下の隈や、かさついた唇は隠しきれない。
「本日の午後、カリノさんは王城の地下牢へと移送されます」
その瞬間、カリノの目は大きく開かれた。少しだけ唇を震わせたのち、すぐさま平静を装う。
「今は騎士団管轄になっていますが、王城へと移送されたあとはそちらの管轄となります。王城関係者、つまり貴族たちが中心となり、カリノさんの裁判を行います」
「わたしが聖女様を殺したと、やっと認められたわけですね?」
「それはちがいます。むしろ、裁判は真実を明らかにする場。これ以上、騎士団で調査を続けても、今以上の成果が得られないと判断されたためです」
つまり、騎士団の力不足を露呈させたようなものだ。いや、彼らのやる気のなさか。
ただ、聖女ラクリーアが被害者であっただけ、なんとか体裁を保つための調査を行ったようなものだろう。
組織としては、最初からカリノを犯人として、さっさと王城へ移送させたかったのだ。捜査本部を立てたのも、大聖堂側へ「きちんと調べていますよ」と見せつけたかったからだ。
きゅっと唇を引き締めていたカリノだが、それをゆるりと開いた。
「騎士様。わたしは斬首刑ですか? 絞首刑ですか? きっと聖女様と同じようにされるのでしょうね」
「カリノさん。裁判は刑を確定させるとともに、真実を明らかにする場所です。もしカリノさんが隠していることがあるならば、その場ではっきりと伝えてください」
「わたしが隠していることですか? 何もありませんよ?」
こてんと首を倒すカリノは、心に大きな壁を作ったように見えた。これ以上、踏み込んではならないと。
だが、フィアナだって罪のない人間を裁くようなことはしたくない。それが、組織ぐるみで行おうとしている内容であるならば、なおのこと。まして相手は、このように幼さが残る少女だ。
「カリノさんの捜し物が見つかりましたよ。それは、私が大事に預かっております」
カリノがひゅっと息を呑んだ。
「カリノさん。脅されているのではないですか? たまたまそこに居合わせ、それを目撃してしまったために、犯人にされているわけではないのですか?」
かさかさに乾いているカリノの唇は、小刻みに揺れている。
「わたし……わたし……」
少女の眦に涙が浮かぶ。
言葉を紡ぎ出そうと、心を奮い立たせている様子が伝わってきた。
「カリノさん……ここには、私しかおりません。カリノさんから本当のことを聞くために、彼もおいてきました」
はっとカリノは大きく目を見開いてから、つつっと一筋の涙をこぼす。
「わたし、聖女様を殺していません……」
かすれたような声でカリノがつぶやいた。
だけどフィアナは、ずっとその言葉を聞きたかったのだ。
「わかりました。私たちはカリノさんを信じます。すべては裁判で決着をつけましょう」
カリノがこくりと頷いた。そしてきょろきょろと周囲を見回し、声を低くする。その顔は、先ほど涙を流した少女とは思えないほど、凛々しいものだ。
「騎士様は、わたしの言うことを信じてくださるのですか?」
「それが真実であるならば、信じます」
カリノの青い目が不安そうに揺れている。
「わたし……」
「ゆっくりでいいです。あの日、何があったのか。教えていただけますか?」
フィアナの言葉にカリノは大きく頷いた。
ぽつりぽつりとカリノが話し始める。それはもちろん、フィアナも初めて耳にすることだった。
カリノは満月の夜になると自室を抜け出して、あの川辺へと足を向けていた。そこで聖女ラクリーアと聖騎士キアロと顔を合わせ、他愛もない話をして、寂しさを紛らわせていた。
「ラクリーア様と出会ったのは、たまたまなのです。それからなんとなく、満月の夜に外へ出るようになりました。特に約束をしたわけでもないのですが……」
「キアロさんも、その場にはいたのですか?」
「はい。お兄ちゃんを誘ったのはわたしです」
ここでカリノの素顔を見たような気がした。今まで「兄」と口にしていたキアロを「お兄ちゃん」と言った。できることなら、ここでキアロの情報も手に入れておきたい。
「キアロさんは、聖女様の専属騎士にという話もあったようですね?」
「……はい」
「ですが、それは叶わなかったと」
「はい。ラクリーア様が反対されたのです……」
ぼそぼそと喋っているカリノは、背中を丸めた。下を向いてテーブルの上の一点を見つめているため、どのような表情なのかをうかがうことはできない。
「聖女様が? 枢機卿たちが年齢を理由に反対されたと聞きましたが……」
「それは、表向きの理由です……騎士様は、聖騎士のイアン様とお会いしたことがありますか?」
「はい。今回の件について、協力いただいております」
それでもカリノは顔をあげず、小刻みに身体を揺らしている。
「……騎士様は、イアン様とお会いになられて、どう思いましたか?」
どう、と言われても、綺麗な男性だという印象だ。そもそも聖騎士と呼ばれる彼らは、王国騎士団に所属する騎士らと別の生き物ではないかと思えてしまうほど、線の細い男性が多い。
「そうですね。こちらの騎士団の彼らとは異なりますね。中性的といいますか、綺麗な方ですよね」
そこでカリノがはっと顔をあげる。
「そのような男性が聖騎士となるのも事実ですが、イアン様は、他の聖騎士よりも群を抜いて綺麗な方だと思いませんか?」
フィアナを真っ直ぐに見つめるカリノの瞳は、力強く燃えていた。何かを決心したかのようにも見える。
「そうですね。私から見ても、うらやましいくらいにお綺麗な方です」
「イアン様は、ラクリーア様の前の聖女様の専属でした。ですから、その……子を望めないそうです……」
言いにくいのか、恥ずかしいのか、カリノの視線は再び下を向く。
カリノが言いにくそうにしている様子が気になった。
だが、このくらいの年齢であれば、子を授かる行為を口にするのが恥ずかしいというのもわかる。
「イアン様がお綺麗なのはそれが原因であると、ラクリーア様がおっしゃっておりました。そして、それをお兄ちゃんには望まないと」
カリノの話を、フィアナを手早く頭の中で整理する。
男性でありながら中性的な魅力を持つイアンは、以前は聖女の専属護衛を担当していた。そして彼は子を望めない。
つまり、聖女との間に間違いがあってはならないように、処置をされているということだろうか。どこかの国の後宮にいる男性のように。
「……わかりました」
しかしフィアナはその考えの答え合わせをするつもりはなかった。
ただ、そういった処置が必要となるのであれば、ラクリーアもキアロも専属護衛について考えることがあったのだろう。
「聖女ラクリーア様の専属護衛には、ほかの聖騎士の方が選ばれたと聞いております」
「そうですね。聖女様の専属護衛。それは、聖騎士にとっては名誉なことですから。そのようなことであっても、なりたいと思う人はいるようです」
イアンの大聖堂での立ち位置を見れば、その地位にあこがれを持ってもおかしくはないだろう。
「念のための確認ですが。聖女様には、四六時中、護衛が付き添っているわけではないのですよね?」
そうであれば、ラクリーアがあのような場で殺されるわけはないだろう。
「はい。基本的に護衛につくのは、人前に出るようなときと聞いております。いくら護衛といえども、ラクリーア様だってずっと誰かと一緒にいたら、息がつまってしまいますから」
となれば、やはりラクリーアが一人になる時間はあったということだ。だからといって、専属護衛を攻めるのはお門違いというものなのだが。
その彼が今、どのように過ごしているのかは確認していない。そこはフィアナの管轄外だ。
大聖堂の巫女から話を聞くこと。カリノから話を聞くこと。その裏付けをとるために、イアンから話を聞いたこと。そこから、ラクリーアの護衛の話には発展しなかったのだ。
きっと専属護衛本人から、第一騎士団の騎士が話を聞いているものと思いたい。
「カリノさん。あの日、何を見たのか、教えてもらえますか?」
フィアナの言葉でぱっと顔をあげたカリノだが、かすかに唇を震わせてから、また下を向く。
「あの日は、満月ではありませんでしたよね?」
むしろ新月だ。月明かりのない暗闇の中、どうやって聖女ラクリーアを殺して切り刻んだのか。そこに、王太子アルテールが絡んでいるというのであれば、今のうちに確認しておきたい。
「たまたまです。眠れなくて、それで外に出ました」
「いつもと違って周囲もよく見えなかったのではないですか? 明かりは手にしなかったのですか?」
「はい。明かりを持つと、ほかの人に知られてしまいますから。こっそりと抜け出すときは、いつも明かりを準備しません。それに、新月だといっても星の明かりはありますし、少し過ぎれば目も慣れますから」
カリノの年齢であれば、暗闇への順応も早いのだろう。
「なんとなくですが。騎士様も、胸騒ぎするといいますか。そういうときってありませんか?」
フィアナにも心当たりはある。第六感というのか、何かが働いて嫌な予感がするとき。それのおかげでフィアナが気づき、命拾いした者もいるくらいだ。
「その日はそんな感じがしたのです。眠れないというのもありましたが。それに、いつものように慣れた道というのもあったので、暗闇はさほど気になりませんでした」
フィアナも川沿いを歩いてみたが、慣れない者にとっては非常に歩きにくい場所だった。まして暗闇でとなれば、転んでもおかしくはない。
カリノにとっては定期的に訪れていた場所だから、勝手がわかっているのだろう。
「ですがあの日は、いつもと違いました。誰もいないだろうと思っていたあの場所で、男女の言い争いが聞こえました」
「その声は、大きな声でしたか?」
「いえ。本当に近づかないと聞こえないような、ボソボソとした声で、何をしゃべっているのかはわかりませんでした。ただ、遠くからでも二人の人間が向かい合っているのだけはわかって……だけど、そのうち……」
カリノはその瞬間を遠くから見ていたのかもしれない。
「だから、わたしも慌ててそこへ行くと、女の人が倒れていて、それがラクリーア様でした……」
「そこに、アルテール王太子殿下の姿もあったのですね?」
カリノが小さく頷くと、無造作に結ばれている髪も小刻みに揺れる。
ただフィアナもなんとなく今の話にひっかかりを覚えたものの、それがなんなのかはわからなかった。
「アルテール王太子殿下が、短刀でラクリーア様を、こうやって……」
カリノはお腹のまで両手で短刀を構える姿勢をとった。
「あのお方が聖女様のどこを刺したのか、わかりますか?」
これ以上、フィアナの口からアルテールの名を出すのはまずいだろう。言い方を濁す。
カリノは、首を横に振った。
「驚いて声をあげたら、アルテール王太子殿下に気づかれてしまって」
そこからはフィアナが予想していたとおりの内容が、カリノの口から飛び出してきた。
たまたまその場にいたことで、アルテールに脅され、犯人として自首しろと言われたこと。
致命傷を誤魔化しアルテールの痕跡を消すために、ラクリーアの死体を切り刻んだこと。
ただ、そうやって指示を出したアルテールはある程度見届けたものの、慌てて逃げ出していったため、短剣を落としたことにすら気づかなかったようだ。だからそれをカリノが人の目から隠すように土の中に埋めたとのこと。
これは何かあったときに、逆にカリノがアルテールを脅すための切り札としてとっておいたのだろう。
「なるほど。その切り札がこうやって役に立つときがきましたね」
「はい。騎士様ならそれを見つけてくださるだろうと思いましたし、それを隠すこともせずに、わたしが望むようにしてくれるのではないかと、そんな期待を込めました」
「もし、私がアレをもみ消したら、どうされるおつもりですか?」
「そのときは、ラクリーア様のお側にいくだけです」
カリノが満足そうに微笑んだ。もう、後悔はない。やり残したことはない。
まるで、そう言うかのように。
「カリノさん。再度の確認ですが、聖女様の身体をめちゃくちゃにしたのは、あの方の指示で間違いないのですね?」
その言葉に、彼女はゆっくりと首を縦に振る。
「……はい。ラクリーア様の身体に、アルテール王太子殿下の痕跡が残るようなことはあってはならないと……」
「すべて、あの方の指示なのですね? 首を切断したのも?」
「そのほうが、みな、驚くだろうって。衝撃を与えるだろうって」
東分所で対応した騎士らにとっては衝撃だったろう。今でも若手の騎士のアロンは、部屋に閉じこもっていると聞いている。
「だから、大聖堂に戻って、いつも薪割りに使っている斧を持ってきました。首を切断したのはアルテール殿下です」
「それから、あのお方は……」
「逃げていきました」
これで話はつながった。
だが、この内容を明らかにするのは今ではない。
ここで騎士団に報告したとしても、すべてはもみ消されてしまう。なによりも王太子アルテールがかかわっているからだ。
「カリノさん。言いにくいことなのに、教えてくださってありがとうございます」
「今日は、あの人がいなかったから……」
あの人。ナシオンのことにちがいない。
「わたし、あまり男の人が得意ではありません。ごめんなさい」
それは、大聖堂で会った他の巫女らも同様だった。
「こちらこそ配慮不足で申し訳ありませんでした。あの人は、私の相棒なので」
「相棒? それは騎士様と恋人同士ってことですか?」
「それとはまた違いますね。仕事をするうえでの仲間です。私たちは、単独行動が禁じられています。そして女性騎士は少ないため、どうしても男性と組む必要が出てきてしまうのです」
カリノが小さく顎を引いたのを見て、なんとか納得してくれたようだと胸をなでおろす。
「ですが、今日のこのことについては、彼にも協力を頼む必要があります。それは、よろしいですか?」
「はい。騎士様が信頼されている方であれば」
「ありがとうございます。私は、真実を明らかにしたいと思っています」
「その結果、王族を敵にまわすことになってもですか? わたしは怖くて、アルテール殿下の言葉に従っています。誰かに助けを求めたとしても、同じ巫女では力にならないですし、聖騎士様に伝えても、相手が王国騎士団では勝ち目がありません。枢機卿や教皇様には、私からは伝える手段がありません。雲の上のような方たちですから」
今の話によって、一般的な巫女と、枢機卿や教皇との関係性が見えた。
「ところで、キアロさんはどちらにいらっしゃるのですか?」
キアロについては先ほど、曖昧に終わってしまった。ここまで話を聞いたのだから、キアロについてもはっきりとさせておきたかった。
「あの方に人質にとられているとか、そういったことはありませんか?」
ふるふると、カリノは勢いよく首を横に振った。
「それは、ありません。ですが、わたしもお兄ちゃんがどこにいるかはわかりません。ドランの聖堂に派遣される話は聞いていました。ですが、ドランにいないとなれば、わかりません」
それはカリノの心からの言葉なのだろう。
そのあと、彼女の心を落ち着けるかのように他愛のない話をしてから、フィアナは取り調べ室を出た。入り口に立っていた女性騎士に目配せをする。それはもちろん「終わった」という合図だ。
フィアナがカリノにしてやれることは、今はもう、何もない。
いや、移送された先の王城の地下牢での待遇を改善してもらうように、お願いすることだけはできるかもしれない。
**~*~*~**
ざわざわと胸騒ぎがした。これはあのとき、両親を失った夜に似ている。
毛布にくるまって何度も寝返りを打ちつつも、眠れなかったあの日。
突然、キアロが「逃げるぞ」と言ってカリノの手を引っ張ったあの夜。
両親の背を、キアロと一緒に追いかけていたのに、目の前に閃光が走ったあのとき。
何が起こったのかなんてわからなかった。
『カリノ、こっちだ』
『お父さんとお母さんは?』
『わからない。だけど、あっちには行けない』
とにかく無我夢中で走って、逃げて、走って――。
空が白み始めた頃には森の中にいた。
町を見下ろす場所に広がっている森。そこから見下ろすと、ごぉごぉと炎が音を立てて、建物を燃やしていた。
森の中には同じように逃げてきた人がいるものの、誰もが呆然と立ち尽くす。
『お兄ちゃん……』
カリノはキアロにひしっと抱きついて、町の火が消えるのをただただ待った。
燃やすものがなくなれば、火は自然と消える。次の日に少し雨が降ったのも幸いしたのだろう。
まだ熾火がくすぶっているのは、弱い雨の力ではすべての火を消さなかったからだ。
家があっただろう場所には、燃えかすしかない。まだ熱気が残り、きな臭いにおい。
『ここは、駄目だな。他の場所で食料を探そう』
何もかも燃えてしまった。
だけど、カリノは生きている。生きているからお腹は空くし、眠くなる。
キアロの手をしっかりと握りしめ、食べられそうなものを捜し歩く。
『……あっ』
真っ白いローブを羽織っている女性が、こちらに向かって歩いてきた。後ろには、白い騎士服を着ている騎士たち。
彼女は途方に暮れている人たちに向かって声をかけ、食べ物を分け、希望を与えていた。
その彼女がラクリーアだったのだ。
(ラクリーア様……?)
同室のメッサがすやすやと寝息を立てているのを確認してから、カリノはそろりと部屋を出た。
部屋と部屋をつなぐ通路は、もちろん真っ暗だ。だけど、それもしばらくすればうっすらと見えるようになるのを知っている。
心の中で十数えれば、どこに何があるのかを把握できるようになるのだ。
いつものように足音を立てずに、素早く歩く。建物から出てしまえば、少しは緊張も解けた。
外は、いつもより暗く感じた。今日は新月だった。星の光は小さく地上に降り注ぐ。
それでも足元や少し先が見えるほど明るい。
慣れた道、いつも使っている道。
それから秘密の抜け穴をくぐって、敷地外へと出る。川を流れる水の音が次第に大きく聞こえるようになってきたのは、それだけ川に近づいてきた証拠でもある。
ここからもっと川辺に向かえば、いつもラクリーアとキアロと座って話をしている場所に着く。
ボソボソと人の声が聞こえた。
こんな時間、こんな場所に誰がいるというのか。
できるだけ足音を立てないように、ゆっくりと彼らに近づく。なぜか、その彼らが気になった。
ぼんやりとだが、その人物が誰であるかを確認できる距離まで近づいたとき、一人の身体が大きく傾いて崩れ落ちていく。
(何……? どうしたの?)
一人は倒れ、一人はそれを見下ろしていた。
だが、なぜその者が倒れなければならないのか。その原因をカリノはしっかりと見てしまった。
「お兄ちゃん……?」
カリノの言葉に、立っている人物が、身体を大きく震わせた。
驚いたようにカリノに視線を向けたその者の手の中には、血で汚れた短刀が握られていた。