結局一睡もできず、僕は何事もなく朝を迎えた。
 いっそ何か学校に行けない用事や事件が起きれば……とも思ったが、世界は早々甘くない。
 憂鬱に染まっている体に喝を入れ、ひんやりとしているフローリングに足をつける。

 また、つまらない一日がやってくる。
 そんな事を考える自分が一番つまらない事はよく知っている。知っている上で、また僕はつまらなくなっていく。
 ……なんて、朝からセンチメンタルな気分になるなんて寝覚め最悪だ。
 
 薄いカーテンを閉めたまま、軽く準備を済ませる。
 そして寝ぼけたままの意識でリビングに降りると、机の上にはいつもの書き置きが残してあった。

《おはよう凪、お弁当と朝ご飯はいつもの場所に置いてるからしっかり食べてね。ご飯抜いちゃダメよ。》

 暖かく丸みを帯びた見慣れた字が、母さんの控えめさを表しているようだ。
 その書き置きを残したまま、冷蔵庫を開けいつもの場所に目をやる。 やはりそこには僕の黒い弁当箱と少なめに盛り付けられた朝食があった。

 母さんはいない。もうとっくに仕事に出かけたようだ。
 雑に脱ぎ捨てられた薄いアウターを見て、いつもの事だからと洗濯機に入れる。
 また今日も遅くなるんだよね、母さん。
 正直、このまま働き続けたら母さんは死ぬかもしれないと最近は考えてしまっている。

 もう一週間も、母さんと顔を合わせて話をしていないような気がする。
 その事実を改めて認識すると、悲しいような虚しいような感情が小さく押し寄せてきた。

「……行ってきます。」

 結局朝ご飯はとらないまま、火の元と戸締まりをしてから家を出る。朝ご飯は夜に回そう、今は食べる気になれない。
 ここ最近ずっと自分自身にそう言い聞かせ、あまり食事をとらないようにしている。
 憂鬱な日常をこんなにも過ごしているんだ、食欲だって湧かなくなってしまうのはきっと仕方のない事だろう。



「……――という事なので、ステージショー責任者は昼休憩に会議室に行くように。」

 朝のHR、話を聞く気なんて全くなかったのに"ステージショー責任者”という言葉を聞き流す事はできなかった。
 あぁそうか、今からもう計画を練るのか……。その事に、『随分気が早いな』と感じるのは僕だけじゃないはずだ。
 けど、気怠く思うのは僕だけだろう。
 言葉こそ聞き取りにくいものの、ステージショーに心を踊らせているのは火を見るよりも明らかだから。

 だからこそ……。

『せっかくのステージショーなのに、何で真島が責任者なんだよ。』

 クラスメイトの落胆の表情を思い浮かべるのは、あまりにも簡単すぎた。
 そんな事を言われるくらいなら、せめてでしゃばりすぎないようにしないと。
 僕は目立つべき存在では、ない。



 そして、あっという間に来てしまった昼休憩。別に来なくても良かったのに、そもそも来てほしいなんて望んでない。
 さぞ捻くれているだろう思考を抱きつつ、指定された場所へと向かう。
 
 ……ひどく足取りが重たい。行きたくないと、全身が叫んでいるようだ。
 あまりにも気が進まなさすぎて、思わず吐き気を催しそうになった。

「真島くん、大丈夫?」

 その時隣から聞こえてきたのは、不安そうな表情を浮かべこちらの顔を覗き込んできた副委員長の声。
 そういえば、副委員長は生徒会にも所属してるんだったな……だからか。
 どうしてここに副会長が、という疑問は一瞬にして解決し一人で理解する。

「大丈夫です。」
「本当? でも顔真っ青だし、体調が悪いなら無理せずに保健室に行ったほうがいいよ。」
「……お気遣いありがとうございます。」

 大丈夫と言えるほど大丈夫な状態ではない。
 けどこうとでも言っておかないと落ち着かなくて、こみ上げてきた気持ち悪さを一気に体の奥に押し込んだ。
 あぁ、気持ち悪い。まるで体の中を平べったい何かが這い回っているような感覚に陥る。

「少しでも調子が悪くなったら言ってね。」
「……はい。」

 副会長の厚意を雑に受け取って、窓の外に目をやる。
 晴れている空は、いつ見ても僕と相反している。だから僕は晴れが嫌いだ。

 そんな事を考えている内に、足はいつの間にか会議室の目の前で立ち止まっていた。
 今からでも逃げ出してしまおうか……そう、馬鹿げた事を思う。
 できるはずがない希望に目を眩ませながら、僕は会議室の中に足を踏み入れた。

「ねぇねぇ、そっちのクラスは何するの? やっぱ王道のシンデレラとか?」
「今回映像だけってショーはできないんだってよー。だったら無難にダンスとかにしようかなー。」
「そもそもステージショーってどこまでやっていいんだろうね? それが分かんないとできないよねー。」

 瞬間、ガヤガヤした雑踏のような雰囲気を肌に感じた。僕が嫌いな、陽の雰囲気。
 ただの説明会だと疑わなかったから、てっきりもっと物静かなものだと思っていた。
 そんなわけあるわけがないとやっと気付き、できるだけ静かに隅の席に座る。
 
「もう全員来たか?」
「いや、まだ2年3組と5組と3年の1組が来てないっす。」
「……2分待って来なかったら始めるか。」

 近くにいた生徒会役員の会話が聞こえ、気分がまた重くなる。
 あと2分も、こんな雰囲気を感じてなきゃならないのか……。
 他の人からしたら楽しくいい空間なんだろうが、僕にとっては辛くただただ疲れるだけの空間だ。頼むから早く始まってほしい。

 そう思い耽って、目を伏せた時だった。

「ねぇ、隣座っていい?」

 おもむろに尋ねられ、反射的に瞼を上げる。
 そして首と視線を動かして声のしたほうを向くと、視界には知っている顔が映った。
 
 毎日飽きられずに、ちやほやされている学年きってのムード―メーカーの男。
 爽やかな顔で遠慮がちな表情は幼く見えて、あぁこれがモテる所以かと妙に納得する。この顔ならそりゃちやほやもされるよな、と。
 そんなどうでもいい事を考えていたからか、目の前の男は更に不安そうな表情を浮かべた。

「君……もしかして、体調悪い?」
「べ、別にそんなんじゃ……」
「ほんと~? でもなんかしんどそうだし、少なくとも俺には体調悪そうに見えるよ。」
「……いえ、本当に平気なので。」

 このやりとり、副会長ともやったな。そんなに僕は顔色が悪そうに見えるのか。
 けどそこまで心配されるほど酷くないから、一応ちゃんと断っておく。
 そうしたら、どうやらこの男は心配性なのか隣の席に腰を降ろし、右手を僕の額に当ててきた。

「うーん……熱はないっぽいかな。むしろ俺のほうがあったかいかも!」
「な、何してるんですか……」
「熱がないかの確認だよ! でも大丈夫そうで良かった。」
「……そりゃ、体調悪くないんで。」
「まぁ万が一とかもあるから、何かあったら教えてね!」
「……、はい。」

 やはり僕は、この男からしたら相当貧弱に見えているらしい。なんて失礼な男だ。
 口に出す勇気こそないものの、愚痴るように心に吐き溜める。
 
 ……偏見かもしれないが、こういう男女共にモテる奴は僕なんかの隣なんか好まないんじゃないか?
 さっきから抱いていた疑問をやっと言語化できた気がして、不審に思わずにはいられない。
 好き好んで僕の隣なんか普通来ないだろうし、もしかしたら後でとんでもない要求をされるのかも……なんて。
 例えばの話、現金をせびられたりパシリにされたり。ヤンキーアニメでしか見ないような光景がなんだか想像できてしまい、ぶるっと身震いする。
 そして僕の様子に気付いた男は、またもや不安の影を落としていた。

「やっぱり体調悪いんじゃ……、保健室行こ?」
「いや、ほんと大丈夫ですから……体調が悪いとか、そんなんじゃないんで。」
「ほんとに?」
「……ただ、疑問に思っただけですから。」
「え?」

 あ、と思った時にはもう遅い。自分が失言をしてしまった事に気付き、慌てて視線を逸らす。
 別にわざわざ言う事でもないし、かまってちゃんみたいに聞こえてしまうだろう。
 だけども……。

「疑問……って?」
「……だって、変じゃないですか。あなたみたいな男女問わずモテる人が、影の薄い地味な僕なんかの近くにいるのが。」

 嫌味みたいな言い方になってしまったが、謝る気はさらさらない。事実だから。
 思っていた少し黒い感情を言葉にして吐き出すと、横に座る男は……からっとした、なんとも思っていなさそうな笑顔を見せた。

「君から見た俺ってそんなコミュ強なの? なんか照れるなぁ~、あんまりそういうの言われた事ないから。」

 ははっと心底面白そうに笑いつつ、照れた頬を指先で掻いたその男。
 僕はその、簡単に笑ってしまう彼に何とも言えないもどかしさを覚えた。
 ……変な男だ。
 そしてやっぱり、珍しい男だと思った。

 僕の発言を、真っ向から肯定してくれるなんて。

「それでは今から、ステージショーの説明を始めます。まずは――……」

 靄がかかったようなこの感覚に苛まれ、思考が一瞬戸惑う。
 けどもすぐに意識を切り離し、配られた用紙に目を通しながら聞き漏らさないようにシャーペンを強く握った。
 それは隣の彼も同じ、みたいだ。



「ねぇねぇ、ここってどうだって言われたっけ? 俺、別のとこ間違えて聞いちゃってたみたいでね……。」
「……ここは、企画書の締め切り日時が来月の5日まで伸びたって訂正がありました。」
「あれっ、そうだったんだ……! 助かったよ、ありがとう!」

 無事に一通り説明会が終わったところで、僕は隣の彼の質問に答える。
 僕の用紙はメモ書きでいっぱいで、ぱっと見だと何が大事なのかが一目で分からない。僕しか見ないから、別にどうでもいいけど。

 シャーペンをペンケースにしまい、用紙を四つ折りにして席を立つ。早くしないと昼ご飯を食べ損ねる。
 近くに置いていた弁当箱の袋を持って椅子を戻したら、不意にもう一度声をかけられた。

「あ、ちょっと待って!」
「……何ですか。」
「君の名前教えてよっ、せっかく同じ責任者なんだから仲良くしたいなーって思って。」

 ……そういうものなのか?
 彼の言葉を聞いて一番最初に出てきたのは、率直な疑問。関わる事も関わるつもりもないのに、何の為に必要になるんだろう。
 我ながら棘が生えているような感情が芽生え、さっさと出て行こうと視線を逸らす。

 でも、何故だろう。別に名前くらいなら教えてもいいと思ったのは。
 まぁ僕の名前なんてありふれた名前だし、知られたところでまずい情報があるわけでもない。
 それに……僕の負の気持ちをすべて抑えつけてしまうような、キラキラ眩しい眼差しを向けられていてなんとなく断りづらい。
 …………、名前くらいなら。

「真島、です。」
「下の名前は?」
「……凪です。」
「真島凪君かぁ……かっこいい名前だね! じゃあ凪君って呼んでもいい?」
「お好きにどうぞ。」
「やった! 俺は神楽宮太陽! 気軽に太陽って呼んで? むしろそう呼んでほしいな。」

 ……やっぱり安易に名前を教えるべきじゃなかったかもしれない。
 ムードメーカーと僕の思考が同じなわけがなく、お構いなしに言ってくる彼に逃げ腰にならざるを得ない。
 このノリで喋るなんて……僕なんかにできるはずない。
 だからとりあえず一言だけ伝え、そそくさと会議室を出た。

「流石に急に名前は難しいので……神楽宮君、でお願いします。」

 神楽宮君の顔を見ずに、近くの扉から廊下に移る。
 その瞬間に室内から、中々に籠った声で会話が聞こえてきた。

「太陽~? 早く弁当食べねーと昼飯抜きだぞお前ー。」
「あたしもまだお昼食べてな~い。太陽一緒にご飯食べよっ?」
「んー、じゃパン買ってくるから先食べといてくれない? 今日お弁当忘れちゃったんだよね。」

 壁越しでも分かる、コミュ力が高い人たちの会話。それを聞く度に、あぁ住む世界が違うなと感じる。
 さっきまで僕と何気なく話していた神楽宮君もそっちの人で、パリピ特有の構いだったんだとすぐに分かった。
 これが普通だ、これが当たり前だ。僕と彼は、相容れない。
 僕と彼は、相容れない。むしろさっき神楽宮君と会話できていたのが、おかしいんだ。
 
 その考えが腑に落ちすぎて、僕は逃げるようにいつもの場所へ向かった。