幼い頃から自己肯定感が極度に低かった。
 別に何かトラウマを持っているとか、何か劣等感を抱いているとか、そんな大層な理由なんてない。
 元々、ただ単に自分を肯定する事ができないだけの話。



「なぁ今日ってさ、数Ⅰの課題提出だったよな? やっべー、俺何もしてないわ。」
「最近暑すぎ……。日焼け止め塗ってもすぐ落ちるし、日傘必須だから荷物かさばるし……早く秋になってくれないかなー。」
「え、文化祭終わったら即テスト!? ……この学校何考えてんの?」

 季節は梅雨で六月。といっても、梅雨とは思えないほど乾いた日々が続いていた。
 朝早くからガンガンにかかっていたクーラーの風を浴びながら、ぐったりした顔で入ってくるクラスメイトたち。外は冗談抜きで鉄板のような暑さだから、無理もないだろうけど。

 それは僕もそうで、数十分前の暑さを思い出してため息を吐いた。
 ここ最近は異常気象だか何だかで、毎日のように過去最新気温を更新している。天気予報アプリの通知も毎日《熱中症警戒アラート》の文字ばかり。このままだと地球が溶けてなくなりそうだ。

 ……まぁ、そんな事気にしていたって仕方ないか。考えて涼しくなるわけでもないし、考えるだけ無駄な労力だろう。
 そう気付いていつ訪れるか分からない抜き打ちテスト対策の為に、ぼんやりと英単語帳をめくる。何の面白味もないそのページにはぎっしりと英単語と意味が書かれていて、見ているだけでは頭に入りそうもない。
 けどこのまま勉強しないままでいると成績がまずくなるのも事実で、僕は諦めて小さいノートを取り出した。

「……。」
 
 シャーペンがノートの上を走る音を感じる。肌に紙を感じる。
 きっと、こんな僕は傍から見たらモブの一人にすぎないんだろうな。
 別に、物語の主人公になりたいわけじゃない。なろう系に憧れているわけでもない。僕はモブで充分だ。

 そう思うのに、どうして寂しさなんて感じるんだろう。
 目立ちたいわけでも、活躍したいわけでもないのに。僕に限って、そんな事あるはずないのに。

 ……だって僕は、何の取り柄もないつまらない人間なんだから。

「あっ、太陽来るのおそーい!!」

 ふと、シャーペンを動かす手が止まった。
 女子の甲高い声と共に扉のガラス越しに見えたのは、学年きってのムードメーカーの男。
 名前なんて知らない。クラスが違うから知る事もないし、知らなくても困りはしない。

 ただ……容姿だけは、嫌なくらい覚えている。
 175はあるだろう身長を持ち、女子顔負けの綺麗な髪と整った人懐っこい顔を持ち、他者を惹きつける柔らかい雰囲気を持ち。
 持っていないものなんて何も無いんじゃないかと感じるほどの人間なんて、忘れたくても忘れられないだろう。
 自分より優れている人間は、良くも悪くも頭に残りやすいものだ。

「ごめんごめん、ちょっと寝過ごしちゃって。」
「もーっ! 今日は太陽の誕生日なんだから、朝一でお祝いしたいから早く来てって言ったのにーっ!」

 ……よく朝からそんな大声が出せるな。
 人気者のあの男に向かって、女子が膨れっ面をしながら怒っている。本気で怒っているわけではないようだけども。
 そしてそれを皮切りに、あの男の周りにたくさんの人数が集まる。男も女も、年齢だって関係ない。ムードメーカーくらいの人気者になると、誰からも好かれやすいらしい。

 まぁ、僕には関係ないけど。
 ほんの数十センチの距離だけど、あの人たちと僕が生きている世界はきっと違う。
 …………――いや、絶対に違う。



 ――キーンコーンカーンコーン……
 
 遠いどこかで無機質なチャイムが鳴り響く。
 それを聞き流しながら、僕は薄暗い階段の踊り場で不格好なおにぎりを食していた。
 入学してきてからずっとここで昼休憩を過ごしているけど、やはり落ち着く。この階段くらいじめじめとしていて根暗な僕にはぴったりの場所だ。

 階段でのボッチ飯が、学校での僕の心の唯一の安寧。
 こんな陰気臭いところにパリピ系は来るはずないし、教室の自分の席より居心地がいい。

 ……そういえば、今日は母さん帰ってこれるのかな。
 なんとなく気になってスマホを開くと、通知にはこんな文字があった。

《母さん
 今日、本当は早く帰ってこれるつもりだったんだけど、夜にお仕事が入っちゃって……ごめんね、今日も変えるの遅くなりそうなの》

 その文字を見るとどうしても『やっぱり……』と思わずにはいられない。
 母さんは昔から頼み事を断れない性分。例えどんな面倒な事でも、大変な事でも受け持ってしまう質。
 それ故いいように使われる事が多く、今日のもそんな感じなんだろうなと見て取れた。

 早く、自分で稼げるようになりたい。

 ……僕には父さんがいない。僕が小学生の頃に他の女と恋仲になったから。
 つまりは不倫をしていて、父さんはかつては母さんと愛し合っていて僕まで作ったのに、別の女に目移りした最低な男だと。
 だから僕をここまで育ててくれたのは、今でも無理をする母さん一人。いくら支援があったって、生活費やら養育費やらを考えていたらキリがない。

 高校を卒業したら、大学には行かずに就職する予定でいる。
 本当の事を言えば学びたい事はあるけど、わがままなんて言えるはずない。
 今の母さんはいつ倒れてもおかしくない。父さんに捨てられてもいくら仕事がきつくても笑っている母さんに、これ以上の負担はかけたくなかった。

 けどたまに、ふと考える。
 もしも、もしもだ。

 『僕がいなければ、母さんは別の誰かと幸せに過ごせていたんじゃないか』

 僕がいるから母さんの負担は大きくなる。僕がいるから母さんは再婚の一つもしない。
 僕がいるから……、僕が母さんを苦しませているんじゃないか……と。

 この命を投げ捨てようかと、愚かな考えを抱いた事もある。
 僕はどうあがいたって母さんを振った男の子供で、母さんにとっては憎らしい対象になってしまう。

 それでも死を選ばなかったのは、こんな自己否定に溢れる中にあった僅かな自己肯定。
 僕がいるから母さんは笑えてるんだ……って、思ったからだった。
 いつも母さんは言う、『凪がいるから母さんは頑張れる!』
 母さんの原動力になれているって考えは案外悪くなくて、あまりなネガティブ思考に入りかけた時はその考えを引っ張ってくるようにしている。

 この話をすると、僕が自己否定にまみれているのは父親の不倫があったからじゃないのか?と思われる気がする。だけど実際はそうじゃない、本当に元々なのだ。
 文才がなければスポーツ万能でもない、飛び抜けた個性も特技もない。
 そんな平々凡々な男で、毎日をつまらなく生きている普通の学生。何をしたっていい方向にも悪い方向にもいかないのなら、少し捻くれたっていいと思っている。

 "普通”って言葉は好きだ。普通である事に越した事はないし、特別になんか死んでもなりたくない。
 けど普通が続きすぎると、生きている価値が分からなくなってくる。
 そして結果、何をするにしてもマイナス思考な野郎の完成ってわけ。

「……水買ってこよ。」

 なんだか更に嫌な奴になりそうだ。そう悟った僕は重たい腰を上げ、はした金を掴んで一番近くの自販機まで足を運んだ。



「きりーつ、れーい、これから――……」

 それから数十分後、またつまらない授業が始まってしまう。
 と、思いきや。

「えー、今日は9月の学校祭に向けた話し合いをしたいと思ってます。今日決めなきゃいけない事はステージショー係、クラス展示係、そして体育祭の係です。」

 ……すっかり忘れていた。
 委員長の司会で昨日話された出来事を思い出し、元々沈んでいるテンションが更に沈んだ音がした。
 確かに『明日は学校祭の全ての係を決めるので、各々何がしたいかを考えてきてくださ―い。』って言われていたような気がしている。

 けど、僕には関係ない。どうせ上位カーストの奴が勝手に決めるだろう。
 頬杖をついてぼんやり見る気もない空を見ながら、思考を完全に放棄する。

「それじゃ、まずは文化祭のほうの係を決めたいと思いまーす。文化祭にはステージショーとクラス展示の二種類の係があって、まずは責任者を決めたいです。誰か立候補とかありますかー?」

 いかにもテンション高い奴が好きそうな名称が聞こえてきて、僕は本格的に机に突っ伏した。
 聞く気も参加する気も全くない僕にとって、こういう話し合いはあまり得意じゃない。
 元々イベント事は好きじゃないから、こういうのに本気で向き合えないって面もあるかもしれないけど。

 なんて、遠い意識の中で思っていた時。

「……立候補いなさそうですね。困ったな……」

 そう言って苦笑した委員長の声は、僕の意識をぎょっと驚かせた。
 立候補がいないなんて……そんな事態起こらないと思ってたのに。
 クラスメイトの性格を細かく把握しているわけじゃないけど、少なくとも数人は乗りそうな人がいる。
 なのに誰も……だなんて、何を考えているのか僕にはさっぱり分からない。

 そこで初めて、意識を教室内に向けてみる。
 そうすると一番に耳に入ってきたのは、驚くべきほどの静寂。何を間違えたのか、学校祭の話をしているという雰囲気にはとても見えない。
 僕がアニメを見すぎているせいかもしれないけど、そんな考えを抱かずにはどうもいられなかった。
 むしろクラスメイト全員が係を避けているように思えて……少しばかり嫌な予感がした。

「まぁ、なんとなくこうなるのは分かっていたので推薦もありにしましょうか……。」
「ならさ、俺推薦したい人がいるんだけどいい?」

 自分にはどうする事もできないと言うように吐き出した委員長に提案をしたのは、にこにこしながら板書していた副委員長だった。名前はやはり覚えていない。
 その副委員長はホワイトボード用のペンを教卓に置くと、視線を上げてある一点を見つめた。

「俺、真島君にステージショー係の責任者してもらいたいんだよね。」

 その視線の先は……――僕。

「え……?」

 この時ほど、素っ頓狂で馬鹿な声を出した事はなかったと思う。