正午を迎えた空は、まだ夏の出口が見えないような、重い暑さを孕んでいた。
 真新しい緑のフィールドは、踏みしめるたびに少し沈み込み、ゴムチップが舞う。風が時折フィールドを横切り、選手たちの汗と熱気を一瞬だけ冷やしていくが、すぐにまた試合の熱に包まれる。

 「ゴール前中央、13番警戒!」

 敵ディフェンスの声が響く。密集した臙脂色の合間を縫って夏樹へと向かうパス。夏樹は、それを受け取ると無理やり体を反転させ、ディフェンスのマークを受けながらシュートを放った。しかしシュートは大きく枠を外れ、ゴール裏へ吸い込まれるように消えていった。

 「くそっ!」
 予想していた通り、関東選抜選考会の紅白戦は苛烈なものであった。
 石岡を中心とした敵チームは、カウンター主体の4―4―2のフォーメーションを組んだ。この布陣は、1950年代のイタリア代表が用いた、同国の言葉で『南京錠』を意味する『カテナチオ』と言う堅守速攻の戦術であった。
 ディフェンスの最終位置を高めに設定する事で、敵フォワードをオフサイドにかけ易くする。こうしてフォワードが無力化する事で、敵チームに対して数的優位を確立するのだ。その上で、中盤から総力をかけてボールを追い、敵陣地付近で奪ったボールを起点にカウンターを発動する。そのまま、前のめりになった相手の隙をついて、雪崩れ込むように、短時間でゴールを狙うのだ。
 この戦術は、石岡の所属する明光高校の戦術と全く同じだ。恐らく、彼を中心にチーム全体で戦術の共有を行っているのだろう。彼は今回で2度目の召集だと話していた。その為、二年生以上の選手とは旧知の中、一年生は古株に従わざるを得ないというこれ以上ない環境が醸造されているのだ。用意周到な事で。
 対して、夏樹のチームは全員が初対面、それぞれが得意なポジションにつくだけで、具体的な戦術も決まっていなかった。ゾーンプレスの対策として、選手同士の距離をとったものの、その開いた距離すらも、敵選手達は鍛え上げた肉体とスタミナを躍動させて追い詰めた。
 負けじとパスを回すも、迫りくるプレッシャーに耐えかねて、ロングパスを選択する局面が多くなった。その結果、空中戦での競り合いに負け続けてはカウンターの餌食となり、前半のうちに2失点を許してしまった。
 夏樹も、自分と同等かそれ以上の体格をもち、そして自分のチーム以上に統制された動きをとる相手に、ボールを抑えるだけで精一杯であった。試合前に溢れていた自信も掻き消え、度重なるダッシュの影響で、水中を歩いているように全身が重い。

  敵ゴールキーパーがボールを回収しに向かう間、フィールド選手達は布陣を整える。
 夏樹は、息を整えつつ、自分を採点している観客席に視線を投げた。古びたスタンドには、応援に来た親や友人たちが詰めかけているが、それらをかき消すように、全身を黒にまとめた男達が、真っ直ぐにこちらを見てはペンを動かしている。
 このままではまずい。まだ一本シュートを打ったきりだ……

 「……くそ」
 夏樹は、足元の大きなゴムチップを蹴飛ばした。
 「夏樹」
 その最中、敵チームのトップ下の長谷川が、夏樹のもとへ駆け寄ってきた。
 「なんですか? ゴールキックきますよ」
 40分にも及ぶ時間の中、攻撃と守備の両方で貢献した疲労からか、長谷川の白色のビブスに、汗の黒い染みが出来ている。
 ドリブル突破から2得点を上げた長谷川への劣等感で、夏樹はその顔を見ることができずに、そのまま所定の位置に戻ろうとした。しかし、長谷川はそのまま夏樹に、声をかける。

 「なーに、お利口なプレイしているんだよ。お前の持ち味は執念だろ?」
 「執念も何も、レベルが高すぎます」
 「俺はそうは思わないけどな。ディフェンスラインを見てみろよ。お前が思うよりも、苦労しているみたいだぜ?」
 長谷川の視線の先では、石岡を中心としたディフェンスラインが肩を上下させ、苦しそうに息をしている。空を仰ぐように上を向く選手に、膝に手をついて俯く選手。

 「敵に、そんな事を伝えてもいいんですか……?」
 「いいんだよ別に。兎に角いいとこ見せくれよ。兄弟」
 「わかりましたよ。敵に塩を送った事、後悔させてやります」
 満面の笑顔を浮かべると、そのままポジションへと戻って行く長谷川。こんな時でさえ、俺を鼓舞してくれるこの人に、夏樹は頭が上がらない。
 敵のゴールキックが伸びる。センターラインを超えたそれは、中盤選手同士での競り合いへとつながった。後半のこの時間帯は、ミスが増え始め、得点の可能性が高まる時間帯でもある。競り合ったボールがあらぬ方向に行かないよう、夏樹は競り合いの勝利を願った。
 コートの中央に落ちるボールを二人の選手が競り合うが、若干背の高い敵選手に軍配が上がった。少しでも敵陣へとボールを進めるために、後頭部でヘディングをされたボールが、夏樹達のゴールへと迫る。そのこぼれ球を、ディフェンスがいち早く蹴り出した。この時間帯で3点目を決められては、もはや試合が決まってしまう為の判断だ。

 大きく伸びたボールは中盤の頭上を通り、夏樹のいる前線へと届いた。落下地点を読んで素早く駆け寄るが、石岡が素早く体を入れ、落下地点を奪う。

 「今日は、お前に仕事をさせるつもりは無い。このまま御退去願おう……!」

 荒れる息の中、煽る石岡。夏樹は、審判に気取られないように石岡のビブス、その背中を引っ張り、体制を崩させた。一瞬よろめいた隙をつき、再度落下地点に入りボールをトラップする。それと同時にドリブルを開始し、石岡を抜き去った。
 一見隙の無い『カテナチオ』だが、大きな弱点が一つある。それは、一度密集地帯を抜け出せば、大きなチャンスが訪れる事だ。
 自陣のゴールから離れた位置に密集するという事はつまり、その背後に広大なスペースが生まれることを意味する。石岡を抜き去った今、夏樹の目の前にはキーパーしかいない。

 夏樹は、全速力で無人のスペースをドリブルし、ペナルティエリアへと侵入した。
 ゴールまで残り5メートル弱、ディフェンスも必死に夏樹の背後へと迫るが、そのスピードに追いつく事は無かった。

 迸るアドレナリンに全身が加熱されるのを感じながら、夏樹は、あえてゴールから遠ざかるように、ゴールとは逆方向、右側へとドリブルした。そのままサイドへ追いやろうと追って来たキーパーを視界の端で捉えると、重心が傾いた敵の上半身に、左腕を預ける。そしてそれを起点にし、迫るキーパーを、ルーレットで躱し、無人のゴールへとボールをたたき込んだ。
 轟くような、絶叫がグラウンドに響き渡る。夏樹は、その声の主が自分であることに、数秒を有した。