悪夢を見た時は、絶叫をしながら目覚めるものと思っていたが、実際は違った。悪夢と現実が混濁する中、覚醒途中の脳みそを引き摺るように目覚めるのだ。油に浸かったような全身の虚脱を感じながら、夏樹は右足首を確認した。

 「……ある」

 視線の先には、十六年間連れ添った足首が確かに存在していた。誰かにつかまれた跡もない健脚は、今日の戦いが待ち切れないとばかりに、筋肉が張っている。
 夏樹はそのまま、ベッドから這い出た。脱衣所の壁掛け時計を見る。時刻は7時。あんな悪夢を見たと言うのに、目覚まし時計よりも早く目覚めた。寝汗で湿った寝巻きを洗濯機へと投げ捨て、シャワーを頭からかぶると、漸く目が覚め、客観的な思考ができるようになって来た。
 確か、脳の持つ記憶機能のキャパシティは1ペタバイト、つまり100万ギガバイトとするのが通説だ。これは一本当たり4〜8バイトを持つ映画およそ25万本にも及ぶ。そして、その膨大な情報を処理する為に、人間は『夢』を使う。パソコンのフォルダを整理するように、散らかった情報を、夢を見ることで管理する。その際、溢れ出した断片的な情報が歪につなぎ合わさる事で、悪夢が誕生する。悪夢には、情報処理が敵わなかった記憶やオーバーフローした内容など、脳が、忘れるべきと判断した記憶が現れるのだ。

 ……俺は、何を忘れたいんだ?

 答えのない問答を断ち切り、清涼な水を止めて浴室から出た。自室に戻ると、ハンガーラックから、アイロンのかかったワイシャツ、センタープレスがしっかりと押された紺色のスラックスを取り出す。一瞬、公式戦用のジャージとどちらにするか迷ったが、今日の様な、公の場には制服の方が適しているだろうと考え、そのままシャツに袖を通した。
 着替え終わると、床に置かれたカンガルー革製のスパイクを手に取る。昨晩夜更けまで手入れしたせいか、室内にはオイルの据えた香りが未だ抜けきれずにいる。
 最近では、動物愛護団体の顔色を伺って、カンガルーレザーの代替として人工皮を用いたモデルが多数発売されているらしい。悪い事ではないとは思うが、商品価格が据え置きなのが頂けない。どうせ同額を払うのであれば、より自分の足形にフィットするレザー製の方が遥かに優れている。夏樹は、丁寧に手入れをした相棒をリュックサックへとしまった。

 何の気なしに、居間のテレビをつけると、カウンターに置かれた小さなテレビが囲碁番組を映し出した。画面では、落ち着いた声の解説者が「白殺し」について語っていた。
 「白殺しとは、相手の呼吸点をゆっくりと減らし、最終的に全ての白石を取る戦略です」
 夏樹はトーストをかじり、少し興味深そうに番組を見た。定点カメラに写された囲碁の盤面では、黒石が白石をじりじりと囲んでいる。
 「さて、盤面を見てみましょう。黒石が左上隅で白石を囲んでいる局面です。黒は慎重に呼吸点を制限し、白が動けなくなるように仕掛けます。この戦略が、『白殺し』です」
 解説者の手が、ゆっくりと黒石を動かす。

 「囲まれた白石には、もう道はありません。これで黒の勝ちが決定します」

 解説者の穏やかな声が部屋に響く中、夏樹はその言葉に妙に心が引っかかるのを感じ、テレビを消して、歯を磨いた。一応、アイツに声をかけておこうかとも思ったが、大事な日の朝からストレスを感じる必要もあるまいと考え、そのまま自宅を後にした。