猫を抱きかかえて宿屋の外に出ると、見覚えのある小型の幌馬車が入口扉の前に横付けされていた。荷物の積み込みはすでに終えていたらしく、依頼人である若き商人は変わらず愛想の良い笑顔で女将と談笑している。

「あ、ジーク君、今日はよろしくお願いしますね」

 ジーク達の姿を見つけると、ルイは右手を上げて声を掛けてきた。宣言通りに昨夜はよく眠れたようで、顔色はとても良く、爽やかさに磨きがかかっていた。
 商談用の着替え一式が入っているトランクを席の足下に横たえ、ルイは見送りの女将に挨拶してから御者席に腰を下ろした。

 ジークも乗り込もうと後方の幌を捲ってみると、アヴェンへの往路と同様に天井までぎっしりと積まれた商品の山が目に飛び込んできた。木箱や麻袋の中にはグランの商会へと卸す予定の品が詰め込まれているのだろう。
 その荷物の山の一角に、護衛の彼がギリギリ座り込める半畳ほどの空間が確保されてあり、ジークはティグを下してから自身もそこに乗り込んだ。さすがに足を伸ばすのは無理だが、窮屈と感じるほどではない。

「耐震用のマットを敷いてみたから、前よりはマシだと良いんだけど」
「うん、かなり快適ですよ」

 荷台全体に敷き詰められたマットは商品を運搬時の揺れから守る為に敷かれているのだが、その弾力のある柔らかさは床板に直で座らざるを得なかった前回とは比べ物にならないほど尻に優しかった。ジークの率直な感想をおかしそうに笑いながら、ルイは威勢よく手綱を振り下ろした。

 乱雑に畳まれたローブの上を陣取って、心地よい揺れの中をティグはすぐに二度寝を決め込んでいた。幌の後ろを開いた状態で、ジークは周辺の警戒を続ける。
 とは言っても、まだ日も浅く、すれ違う馬車の姿も頻繁にあるような時間帯だ、行きに関しては盗賊と遭遇する可能性は低そうだ。ルイも同じことを思っているのだろう、御者席からは陽気な鼻歌が聞こえていた。

 ルイの幌馬車がシュコールを出てグランの中心街に着いたのは、日が一番高くなる時刻だった。
 以前には馬を駆けて一人で出て行った覚えのある検問所を、幌馬車の荷台で縮こまったまま通り抜けると、ジークの記憶通りの街並みが広がっていた。そのあまりの変わりなさに思わずホッとした。人の出入りの激しいシュコールと比べ、ここは驚くほどゆっくりした時間が流れているのではという錯覚すら覚える。

 到着次第に商談があるというルイとは街の真ん中を走る中央通りで一旦別れ、ローブの中に猫を隠しながら実家に向かって歩いた。途中で何人かの顔見知りとすれ違いはしたが、皆が一瞬は「あれ?」という表情を見せるものの、あまりにジークが平然としている為か特に何か言われるということもなかった。

「ジ、ジーク様?!」

 さすがに領主本邸の守衛には分かりやすく驚かれたが、「ただいま」の一言で済ませる。門を抜けて館の庭園に入ってから、ずっと抱きっぱなしだった猫をようやく解放してやる。

「ここが、俺の実家だよ」

 庭師によって手入れを施された植木の匂いを嗅いだり、石像の上に登ってみたりとティグは初めて来た場所の探検にとても忙しそうだった。日当たりの良いベンチに腰を下ろして、自由に歩き回っている猫の姿を目で追っていると、庭の隅で作業していたらしい庭師がジークに気付いたようだった。

「おう、ジーク坊ちゃんじゃねえか、帰って来てたのかい」
「ああ、今日は護衛の仕事で、たまたまね」

 彼が子供の頃から館に従事しているベテラン庭師のクロードが、植木ばさみを片手に声かけて来た。ジークが目で追っているものに気付いて、不思議そうにしている。

「あれは、何だ?」
「虎の子供だよ。俺の契約獣」

 虎なんて初めて見たよ、と庭師は感心しながら、庭を駆けまわっているティグを物珍しそうに眺めていた。

「ティグ、そろそろ行こうか」
「にゃーん」

 呼ばれてすぐに戻って来た猫を抱き上げ、館の裏にある騎士の鍛錬場へと向かう。帰って来て真っ先に守衛に確認したところ、今日は任務外の護衛騎士達は鍛練場で行われている模擬試合で集まっているとのことだった。

 館の裏が近づいてくると、低い歓声と木製の模擬剣を打ち合う激しい音が耳に入ってきた。
 領主邸に仕える護衛騎士が剣術の心得のある者ばかりなのは当然だが、こういった模擬試合に出てくる者はその中でも特に腕が立つ。任務の種別によって分けられる班ごとに選抜された腕利きが、それぞれの班の威信を賭けて挑んでくるのだ。

 ジーク達が鍛錬場に着いた時はちょうど最終試合が行われている最中で、騎士達が最も熱くなっている時だった。
 ただその場で打ち合うだけでなく、エリアの広さを活かした立ち回りに、剣が重なり合う度に男達が歓声を上げる。

「さすがだな」

 圧倒的な剣術の鋭さを見せつけている白銀の髪の剣士の動きを目で追い、ジークは思わず言葉を漏らした。ただの鍛錬では身に着かない実践的な動きは、冒険者として積み上げて来たものの表れだ。彼が最初から騎士であったなら、これほどまでの強さを身に着けることはなかっただろう。

「ジーク!」

 試合後の礼を終えると、元冒険者のアデルがジークの元に駆け寄って来た。あれほどの動きを見せながら、友が鍛錬場の隅でこっそり見学していることにも気付いていたらしい。
 騎士服の袖で汗を拭いながら、アデルは驚きと喜びの入り混じった表情を浮かべていた。

「いつ戻って来たんだ? 依頼で?」
「そう、護衛。さっき帰ってきて、もうすぐ戻る――相変わらず、動きのキレがいいね」

 彼を護衛騎士に推薦した身として、アデルの活躍は素直に嬉しい。そして、元冒険者という異例の経歴を持つ彼が疎まれず、逆に羨望を持って騎士達に受け入れられていることを確認でき、ジークは心底安堵していた。