父親が待つ部屋の前で、ジークはふぅっと溜息を吐いた。なぜ呼ばれたのかは分からない。けれど、ここに呼び付けられる時は決まってロクなことはない。
大陸のやや南に位置するグラン領。その地を治める領主の屋敷の三階一番奥の間。その大きく重厚な観音開きの扉に向かって掲げられた右手は、先程から宙に浮いたままだった。躊躇いを吐き出すようにもう一度だけ溜息をつく。
このまま引き返してやろうかという考えも一瞬だけ頭をよぎったが、諦めたように扉を二度だけ叩いてみる。中から返事が聞こえたのを確認して名を名乗ると、白髪の執務官が顔を出した。
「こちらへ」
促されるまま、応接用のソファーへと腰掛ける。大きな四人掛けのソファーの真ん中に座ると、老齢の執務官が二客分のティーカップをテーブルの上に並べ始めた。淹れたてのお茶からはふんわりと湯気が立ち上っている。
呼び出して来た張本人は執務机に向かって何やら書類に目を通しているようだったが、息子に気付くと軽く片手を上げる。きっちりと後ろへ撫でつけられた栗色の髪には随分と白い物が混じっている。五十を過ぎたばかりにしては少し老け顔の領主は、立派に整えられた口髭の下から白い歯を覗かせていた。その様子を見る限り、かなりご機嫌のようだ。
ジークも釣られて手を上げかけたが、ギリギリのところで堪える。もう19だ、親と馴れ合う歳じゃない。途中まで上げてしまった手は、父似の栗色の前髪を掻き上げることで誤魔化した。
「すまん、待たせたな」
「いえ、別に」
ニコニコと機嫌良くやって来た父の手には、一通の封書。間違いなく、それが今回の呼び出しの理由なのだろう。素っ気なく返事しながらも、領主が握っているそれを注視する。
「ついに来たぞ。どうする?」
そういって手渡されたのは、真っ白な上質の紙が使われている封筒だった。表に書かれている宛名はジーク・グラン。彼の名だ。
くるりと裏返して差出人を確認してみても、特に記名はない。代わりにあったのは赤い薔薇模様の蝋封。それなりの教育を受けた者なら、それだけで察するに十分だ。
「王城からですか?」
「ああ。昼の便で届いた」
まあ開けてみろよ、と視線で促してくる父の期待に満ちた顔に、少しばかりイラつきを覚える。気持ちを落ち着けるように一度大きく息を吐いて、中から一枚の紙を取り出した。
「王城への誘いですね」
さっと目を通したところ、予想していた通りの内容だ。この場にいる者全てが中を見なくても分かっていたこと。宮廷魔導師としての素質が認められたので王城へ来ないかという招待状だった。
「思ったよりも遅かったなぁ」
「事務的な手続きに時間でもかかっていたんでしょう」
「で、どうする?」
息子の将来を左右する事を、他人事のように聞いてくる。この父にとっては彼がどちらの道を選ぼうと、どちらも正解だったし反対することはないだろう。
招待を受けて宮廷魔導師になることを選ぼうが、父の後に領主職を継ぐことを選ぼうが。
王城からの招待と言っても、この場合の強制力は全くない。この国では魔法使いの意志は何よりも尊重される。彼らが決して強要されるということがないのは、国家の歴史の中で魔導師の反乱ほど深刻な史実はなかったからだ。
宮廷魔導師には国中の魔法使いの中でも一握りの者しか選ばれることはない。なので、選ばれれば王都での身分と生活の保障は当然のこと、魔導師を輩出した領地へもたらされる恩恵も大きい。
また、嫡男でもあるジークがグラン領の領主になることを反対する者もいないだろう。彼は生まれた瞬間からその権利を持ち合わせているのだから。
彼には今、どちらを選んでも羨まれる選択肢が与えられていた。けれど、彼が選んだのはそのどちらでもなかった。
「王城には行きません。領のことは弟のゾースに」
予想外の息子の答えに、グラン領主である父親は目をぱちくりと瞬かせた。ジークの性格から王城には行かないだろうなとは思っていたが、領主になる道も蹴られるとは予想だにしなかった。
領主の斜め後ろに控えていた執務官までも、驚きのあまりに目をきょとんとさせている。
「私は家を出て、冒険者になります」
「ぼ、冒険者?!」
「はい。シュコールに行こうと思っています」
隣接するシュコール領には冒険者や狩人の集まる街が多くある。そこに拠点を置いて力試しがしたいと言う息子の言葉をすぐに理解することができなかった。誰よりも恵まれた環境にある彼が、どうして危険と隣り合わせで生活も不安定な冒険者という職に就かないといけないのか。
確かに、ジークは宮廷に呼ばれるくらいに強く優秀な魔法使いだ。その魔力を持ってすれば、冒険者としても上手くやっていけるのかもしれない。実際に騎士達と一緒に森へ魔獣討伐に出ることも度々あるし、全く経験が無いわけじゃない。
「いや、しかしなぁ、ジーク」
顎髭に手を当てて困り顔をする父に、ジークはきっぱりと言い切った。
「勿論、気が済んで冒険者を辞めることがあるかもしれません。その時は王城へ行かせていただきます」
万が一にも戻ってくることがあっても、領主にはならない。その点ははっきりしておかないと、後を任される弟を振り回すことになる。
どちらにしても家には残らないと言い切られると、その決意の硬さに父は何も言えなかった。息子の眼差しを見れば、この場で思いついたばかりの浅はかな考えという訳でないことくらいは分かる。
完全に説得できたとは言えないだろうが、反対されもしなかったので、まぁ大丈夫だろうと、ジークは父の執務室を後にした。背後で扉がばたんと閉まる音を聞きながら、「よし!」と小さくガッツポーズする。
これからすることは決まっている、前もって用意していた荷物を持って家を出るだけだ。言ったからには即行動だ。出発の日を伸ばせば、それだけ引き留められる率が上がってしまうのだから。
目的の街までは馬を飛ばせば半日くらいだろう。それからは彼の新しい生活が始まるのだ。憧れの冒険者としての生活が。
大陸のやや南に位置するグラン領。その地を治める領主の屋敷の三階一番奥の間。その大きく重厚な観音開きの扉に向かって掲げられた右手は、先程から宙に浮いたままだった。躊躇いを吐き出すようにもう一度だけ溜息をつく。
このまま引き返してやろうかという考えも一瞬だけ頭をよぎったが、諦めたように扉を二度だけ叩いてみる。中から返事が聞こえたのを確認して名を名乗ると、白髪の執務官が顔を出した。
「こちらへ」
促されるまま、応接用のソファーへと腰掛ける。大きな四人掛けのソファーの真ん中に座ると、老齢の執務官が二客分のティーカップをテーブルの上に並べ始めた。淹れたてのお茶からはふんわりと湯気が立ち上っている。
呼び出して来た張本人は執務机に向かって何やら書類に目を通しているようだったが、息子に気付くと軽く片手を上げる。きっちりと後ろへ撫でつけられた栗色の髪には随分と白い物が混じっている。五十を過ぎたばかりにしては少し老け顔の領主は、立派に整えられた口髭の下から白い歯を覗かせていた。その様子を見る限り、かなりご機嫌のようだ。
ジークも釣られて手を上げかけたが、ギリギリのところで堪える。もう19だ、親と馴れ合う歳じゃない。途中まで上げてしまった手は、父似の栗色の前髪を掻き上げることで誤魔化した。
「すまん、待たせたな」
「いえ、別に」
ニコニコと機嫌良くやって来た父の手には、一通の封書。間違いなく、それが今回の呼び出しの理由なのだろう。素っ気なく返事しながらも、領主が握っているそれを注視する。
「ついに来たぞ。どうする?」
そういって手渡されたのは、真っ白な上質の紙が使われている封筒だった。表に書かれている宛名はジーク・グラン。彼の名だ。
くるりと裏返して差出人を確認してみても、特に記名はない。代わりにあったのは赤い薔薇模様の蝋封。それなりの教育を受けた者なら、それだけで察するに十分だ。
「王城からですか?」
「ああ。昼の便で届いた」
まあ開けてみろよ、と視線で促してくる父の期待に満ちた顔に、少しばかりイラつきを覚える。気持ちを落ち着けるように一度大きく息を吐いて、中から一枚の紙を取り出した。
「王城への誘いですね」
さっと目を通したところ、予想していた通りの内容だ。この場にいる者全てが中を見なくても分かっていたこと。宮廷魔導師としての素質が認められたので王城へ来ないかという招待状だった。
「思ったよりも遅かったなぁ」
「事務的な手続きに時間でもかかっていたんでしょう」
「で、どうする?」
息子の将来を左右する事を、他人事のように聞いてくる。この父にとっては彼がどちらの道を選ぼうと、どちらも正解だったし反対することはないだろう。
招待を受けて宮廷魔導師になることを選ぼうが、父の後に領主職を継ぐことを選ぼうが。
王城からの招待と言っても、この場合の強制力は全くない。この国では魔法使いの意志は何よりも尊重される。彼らが決して強要されるということがないのは、国家の歴史の中で魔導師の反乱ほど深刻な史実はなかったからだ。
宮廷魔導師には国中の魔法使いの中でも一握りの者しか選ばれることはない。なので、選ばれれば王都での身分と生活の保障は当然のこと、魔導師を輩出した領地へもたらされる恩恵も大きい。
また、嫡男でもあるジークがグラン領の領主になることを反対する者もいないだろう。彼は生まれた瞬間からその権利を持ち合わせているのだから。
彼には今、どちらを選んでも羨まれる選択肢が与えられていた。けれど、彼が選んだのはそのどちらでもなかった。
「王城には行きません。領のことは弟のゾースに」
予想外の息子の答えに、グラン領主である父親は目をぱちくりと瞬かせた。ジークの性格から王城には行かないだろうなとは思っていたが、領主になる道も蹴られるとは予想だにしなかった。
領主の斜め後ろに控えていた執務官までも、驚きのあまりに目をきょとんとさせている。
「私は家を出て、冒険者になります」
「ぼ、冒険者?!」
「はい。シュコールに行こうと思っています」
隣接するシュコール領には冒険者や狩人の集まる街が多くある。そこに拠点を置いて力試しがしたいと言う息子の言葉をすぐに理解することができなかった。誰よりも恵まれた環境にある彼が、どうして危険と隣り合わせで生活も不安定な冒険者という職に就かないといけないのか。
確かに、ジークは宮廷に呼ばれるくらいに強く優秀な魔法使いだ。その魔力を持ってすれば、冒険者としても上手くやっていけるのかもしれない。実際に騎士達と一緒に森へ魔獣討伐に出ることも度々あるし、全く経験が無いわけじゃない。
「いや、しかしなぁ、ジーク」
顎髭に手を当てて困り顔をする父に、ジークはきっぱりと言い切った。
「勿論、気が済んで冒険者を辞めることがあるかもしれません。その時は王城へ行かせていただきます」
万が一にも戻ってくることがあっても、領主にはならない。その点ははっきりしておかないと、後を任される弟を振り回すことになる。
どちらにしても家には残らないと言い切られると、その決意の硬さに父は何も言えなかった。息子の眼差しを見れば、この場で思いついたばかりの浅はかな考えという訳でないことくらいは分かる。
完全に説得できたとは言えないだろうが、反対されもしなかったので、まぁ大丈夫だろうと、ジークは父の執務室を後にした。背後で扉がばたんと閉まる音を聞きながら、「よし!」と小さくガッツポーズする。
これからすることは決まっている、前もって用意していた荷物を持って家を出るだけだ。言ったからには即行動だ。出発の日を伸ばせば、それだけ引き留められる率が上がってしまうのだから。
目的の街までは馬を飛ばせば半日くらいだろう。それからは彼の新しい生活が始まるのだ。憧れの冒険者としての生活が。