話を終えると、唯は少し驚いたような顔をしたけれど思ったほどの驚きは見せなかった。
「喧嘩か…って聞いて驚いたけど、実はそんなに驚いてないかも」
「え…?」
私は予想外の反応に思わず問い返す。
「うーん、あの二人が仲いいのは間違いないと思うんだけど、でも…どこかお互いに遠慮してる感じはずっとしてたんだよね」
唯は少し遠くを見るように話し始めた。
「ほら、私バスケ部じゃん?だから宙くんと彗くんが体育館で練習してるのをよく見るけど…彗くんって、あんまり自分でシュートしないんだよね。ほとんど宙くんにパスしてるし、試合でもそんな感じ」
私は黙って耳を傾ける。唯は一息ついてまた話を続けた。
「あと、顧問の先生から聞いたんだけどね部長も最初は彗くんが頼まれたんだって。でも…それも宙くんに譲ったみたい」
「え…彗が?」
唯は頷いた。
「そう。だからあの二人の関係ってちょっと変だなって前から思ってたの。彗くんはいつも宙くんに譲ること多いし、いつも…本気じゃないって感じで」
話し終えた唯は軽く笑身を浮かべながらも眉を下げていて、きっと彼女も違和感は今まで抱いていたのだろう。
唯の話を聞いて胸の中に何か引っかかるものが残った。彗がいつも宙くんに譲っていたなんて、今まで全然気づかなかった。
でも、どうしてそんなことを…?
その理由がまったくわからない。彗は自分を押し殺してまで、宙くんを優先してきたってことだよね?それって本当に彼が望んだことなんだろうか?
その姿は少し想像がつかなくて。私が思う彗は自分の思っていることをズバズバ言えて、宙くんとも対等な関係のように見えた。
ふと、また今日の喧嘩のことが頭をよぎる。
あのときの彗の声、そして宙くんの必死な様子。二人の間には私が知らない何かがあるんじゃないか?
彗が譲るばかりで、何か大事なものを見失っているんじゃないの?
「彗はどうしてそこまで宙くんに譲るのかな…?」
私は唯に問いかける。唯は少し考え込んだ後、首をかしげながら答えた。
「うーん、それは私もよくわからない。でも…彗くんは宙くんのことをすごく大切に思ってると思う。だから、自分を引いてるんじゃないのかなぁ」
唯の言葉に、私は何も言えなくなった。本当にそれだけなのだろうか。もっと何か深い理由があるような気がしてならない。
彗が抱えているもの。その重さが、深さが…どれだけあるのか私には知りえない。
どんな顔をして、どんな気持ちで、あのとき私の名前を出してたのかな──。
やっぱり…このままじゃいけない気がする。唯の話を聞いてよりいっそうその想いが強まる。
「私…どうにかしたいんだ」
意を決して口を開いた。唯がこちらをじっと見つめる。
「お節介かもしれないけど、私は彗を…ううん、二人にまた仲良くなってほしい」
その瞬間、自分が言いかけた「彗を助けたい」という言葉を飲み込んだ。そのためにはまず二人の溝を取り戻さないと…きっと、彗にとって宙くんは大切な友達だ。そう信じている。
これは私の自己満足なのかもしれない。でもそれでも構わなかった。
彗のことが知りたい。彼の苦しみを知って助けたいと思う気持ちは消えなかった。
「唯、どうすればいいと思う?」
気づけば、私は率直にそう問いかけていた。
唯は少し驚いた顔をしていたけれど、すぐにいつもの柔らかい表情に戻って、私を見つめた。
「そっか。なら……ぶつけちゃいなよ!!」
「…え?」
唯の張り切った声についきょとんと目を丸くしてしまう。けれど唯の表情は思っていたよりも真剣で優しい顔をしていた。
「なんでもね、ぶつけるんだよ。人と人は上手くいかないことも沢山あって…でもそんなの言わないと分かんないじゃん」
その言葉にハッとする。
『 私は、莉桜のことも宙くんのことも…皆のことなにも知らない』
『───そんなん俺も分かんねーよ』
『人の気持ちなんて分かんないだろ』
修学旅行の夜に星空を見ながら彗と交わした会話。そっか、そうだよね。
なんで気付かなかったのだろうか。結局は分からない、話してみないと、ぶつけてみないと…分からないんだ。忘れてしまっていた。
私の最初の一歩。莉桜との会話の時だってそうだった。私達はぶつかりあった。
でも、それは悪いことだったの?違う。
今の宙くんと彗もぶつかってるんだ。それなら私も…ぶつかればいい。あんな仮面ぶつかって壊せばいい。
彗がつけてる"変わらない仮面"が君にどんな想いをさせているのか私には分からない。
でもきっと、君が抱えているものはそこにあるはずだから。宙くんにすら言えない辛くて、苦しいなにかが…あると思うから。
「唯…!ありがとう!私、ぶつかってくるよ」
口から出た言葉は、思いのほか清々しく響いて心地よさが広がっていく。自分でも驚くほど、自然と浮かんだ笑顔が心を明るく照らしていた。
「うん!行ってこーい!!」
私の背中を思いっきり叩く唯に思わず「ちょっ…痛いって!」と叫ぶけれど、口元は自然とほころんでしまった。
「…ふ、っあはは、もう唯は力加減知らないんだから」
「これくらいの方がいいでしょ?」
「どこがよ!」
唯と笑い合っていると、少しの緊張がほぐれていくようだった。
彗に助けられたことが沢山ある。伝えたい想いが沢山ある。だから私は…動き続ける。
──────君の笑顔が見られるように。
『─────おかぁさん…お腹減ったよ──」
『っうるさい…!静かにして』
なんでお母さんはいつも僕に酷いことをするの?
なんでお父さんは……したの?なんで二人は…ぁ……なの?
───なんで僕は───続……の。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「っはっ…ぁはぁ…夢……」
それは久々に見る夢だった。前にも見たことがある。幼い頃の自分が問いかけてくるんだ。決まって夢の中の言葉は霧がかかったようにぼやけている。
何を言いたいのかは…自分のことだからよく分かっているけれど。
想乃の家に行ったときにふとあの頃のことを思い出してしまったしまったからだろうか。彼女は一体どんな思いをして生きてきただろうか。あの涙を流す姿を思い出すと、胸が締め付けられそうになる。
「はぁ…くそっ、また俺は…」
最近はふとした時に想乃のことを考えてしまっているらしい。彼女はもう家でのことも解決した。
俺がすることなんて何もない。もう関係ない。
これ以上関わったら、彼女を傷つけてしまうかもしれないから。
『お前は、想乃ちゃんのこと好きなんじゃないのかよ…!?』
昨日宙に言われた言葉が頭を殴ってくる。俺は…。
──"好きなんかじゃない"。
彼女を幸せにはできない。仮に想乃が俺を好いてくれても付き合う気なんてないんだ。
それなのになんで俺は…宙に突っかかってんだよ。
想乃は前よりか少し明るくなって。宙にも笑顔を向けて。どんな会話をしているのかは聞こえなかった。
でも…幸せそうな表情をしていたことだけは分かる。
そもそも最初から俺が関わるべきじゃなかった。
バスケットボールが想乃にぶつかって怪我をさせた。もし宙に保健室に連れていかせていたら、俺が話しかけずに試合を続けていたら。
───1番初めは笑顔が胡散臭いヤツだった。自然と目で追っていた。不自然な笑顔を貼りつけて話す彼女は…嘘で出来ていて、見ていてムカついて、少しだけ苦手な部類だった。
でも、見ていくうちに彼女の印象は変わっていった。
帰り道が同じだということに気がついた。後ろから見かける時は大体友達と一緒にいて、でもたまに一人で帰る姿を見かける。
そういう時の彼女は、いつもとは違う道を通ったりしている。
年寄りのばぁさんが転んだ時に手を貸してたり、道端にある小さい花の写真を撮ったり。道端で泣いている子供を見つけて、少し迷いながらも声をかけてあげていたり。
ある時には公園にいる猫に一人で話しかけていたり。
猫に逃げられて落ち込んでいため息をつく彼女を見ているとつい笑いが込み上げてくる。
「っ…ふは、何してんだ」
つい声が漏れるほどには面白くて、自然と口角が上がった。
きっと誰にも見られていないと思っているのだろう。そう、この時だけは…彼女は誰の為にしているわけでもないのだろう。
そんなことしたって誰にも褒められないのに。
馬鹿な奴って思いながら、でも頭の片隅では彼女の優しさに惹かれていたのかもしれない。
それでも、関わることなんて今後ないと思っていた。
あの時俺は咄嗟に声をかけてしまったんだ。彼女の心に触れたいと思ってしまったんだ。
保健室で初めて会話をした時やっぱり胡散臭い奴だと思った。でもそれと同時に猫に話しかけていたあの時のように、笑顔を向けてほしくなった。
もうこの時からすでに俺は手遅れだったのかもしれない。
彼女と話していくうちに…やっぱり笑顔がかわいいだとか、思ったよりも猫が好きなところとか、一緒にいると心が軽くなるように感じる。
彼女といると"あの頃"のことなんて、どうでもいいのかもしれない。自分には関係のないことなんじゃないのかって考えてしまう。
でも、修学旅行の班決めの時に気付いたことがあった。宙が──想乃を慕っていることを。
「班、女子も一緒だよな。どうする?」
「んー、別に何でもいいけど」
何でもいいと口にしながらも頭には想乃の姿が浮かんでいた。何でだよ…と自分に突っ込んでいると、ふと宙の視線がどこかに向いていることに気付く。
「……」
それは、彼女だった。最初は篠原かと思ったけれど違うようだ。その瞳は、優しく想乃のことを一直線に見つめていたから。
俺とは違う。真剣な眼差しを見ていれば伝わってくる。きっと宙なら相手が誰であろうと幸せにできるのだろうと思う。
そんなことを考えていた時に宙が口を開いた。
「あそこにいる二人はどう?」
「…あぁ。いいよ何でも」
修学旅行が始まってバスにひどい隈を浮かべた想乃が乗ってきた時は驚いた。
「ふっ…なにその顔 」
「想乃ちゃん大丈夫?眠いならバスの中で寝てもいいからね」
俺とは対称的に違って優しい声をかける宙。想乃には宙を見習えって言われたけれど。でも、これでいいんだ。
俺は想乃の存在のなかで軽く会話ができるくらいの"友人"でいられればいい。
そう思っているはずだ、それなのに…想乃が隣に座った時少しだけ嬉しく思ってしまった。
「───おやすみ」
隣ですやすやと穏やかに眠る彼女が愛おしく見えた。
星空を二人で見た夜に、彼女の本音を聞いて助けたいと思ったんだ。そして彼女を救うまでは一緒にいてもいいだろうかと…自分に言い訳をした。
想乃が笑顔でいられるように。家族とのわだかまりがなくなるように。本音を話せるような友人がいてくれるように。
そう願って────願い続けて、叶ったんだ。
だからもう俺はもう彼女と話さない方がいい。これ以上…この想いが募らないように、広がらないように。
「よし…頑張るんだ!私!」
鏡の前で自分にそう言い聞かせる。昨日の夜、心の中で決めたんだ。次は私が彗を救う番だって。
…この気持ちをぶつけるんだ。
「想乃、行こー!」
唯の声が玄関の外から聞こえてきた。いつも明るくて、私を励ましてくれる彼女には感謝しかない。
唯と一緒にいると、不思議と安心するのが分かる。
「はーい、今行く!」
急いで鞄を持って、玄関へ向かう。唯はいつも通り元気いっぱいな笑顔を浮かべている。
「今日もちゃんと眠れた?顔色悪くないから大丈夫そうだね」
「うん、昨日はぐっすり寝たよ」
本当はまだ心の中で少しモヤモヤが残っているけど、今はそんなこと言っていられない。
少しでも前に進むためにまずは学校へ行って彗と話をするんだ。
「じゃ、行こっか」
唯と並んで歩きながら私は自分に言い聞かせる。
素直に、ありのままの私で怖がったりしてる自分には絶対に負けない。彗が言ってくれた言葉だ。
学校に着くと、校庭にもあちこちに生徒たちが集まっている。私はさっそく彗の姿を探してみるけどクラスメイトたちの間で話をしているのが見えた。
でも…何か違う。その輪のなかに宙くんもいるけれど、彗はいつもより口数が少ないし、お互いが気まづそうで二人は一切会話を交わしてない。
ふと、彗の目がこちらを見たかと思うとすぐにそらされた。
あ、また話せなかった…。胸の奥がぎゅっと痛む。
「二人とも、元気なさそうだね…」
唯が小さな声でつぶやいた。
「うん、でも今日話しかけてみるよ。頑張って…話そうって決めたんだもん」
そんな風に言い聞かせるものの、気持ちの整理がつかないままチャイムが鳴り、結局そのまま授業が始まってしまった。
話しかけるチャンスはいつもすぐに遠のいていく。
授業の合間にも彗に声をかけようと何度も思ったけど、先生に呼ばれたり、彗がすぐに教室を出たりと、なかなかタイミングが合わない。
…そして気付けば昼休み。時間がどんどん過ぎていっていた。
「今こそ…!」
お昼ご飯を食べようとする手を止めて、私は勇気を出して席を立つ。
ガタンッ。
思ったよりも大きな音を立ててしまって、教室中が一瞬静まり返る。唯も目を丸くして私を見ていた。
恥ずかしくて顔が真っ赤になるけど、今はそんなこと気にしていられない。彗に話しかけなきゃ。
彗と目が合った。でも、またすぐに目をそらされて彼はお弁当を持って教室を出ていってしまう。
いつもなら宙くんと一緒に食べているのに、今日は宙くんも別の男子たちと話しているみたいだった。
その姿を見て、また胸がちくりと痛む。きっと…二人だってこんなことになりたいわけじゃない。
「想乃、大丈夫だよ!行ってこい!」
浮かない表情をしている私に、唯が笑顔で背中を押してくれる。
「…うん!」
私は小さく返事をして、急いで彗の後を追った。
彗は思っていたよりも足が速くて、追いつくのに時間がかかりそうだ。急いで彼のあとを追い廊下を曲がる。
階段を駆け上がるたびに心臓の音が耳に響いてくる。少し息が切れて、胸の中が焦りと緊張でいっぱいだ。あと少し…そう思いながら最後の一段を踏み出すと、屋上への扉が目の前に現れた。
「はぁ…はぁ…」
ドアを開けると、ひんやりとした風が頬に触れて、少しだけ熱くなった顔を冷ましてくれる。
屋上はいつも通り静かでまるで世界から切り離されたかのように感じる。そんな中、彗は一人でフェンスのそばに立って、遠くの空をじっと見つめていた。
風で少し髪が揺れる彼の背中はなんだかいつもより小さく見える。声をかけたいのに足が少しだけすくんでしまう。
でも、ここで諦めたくない。そう自分に言い聞かせて、私は一歩踏み出した。
「彗…!」
静かに、でも確かな声で彼の名前を呼んだ。その瞬間、彼の背中がピクリと反応した。
「…想乃?」
振り返った彗は、私がここまで着いてきたたことに驚いた表情を浮かべていた。
昨日ことなのに、彗の声を間近で聞くのはなんだか久しぶりのように思えてしまう。
私は呼吸を整えてから口を開いた。
「…彗!私ね、彗がなにに悩んでるのか抱えてるのか分からない!!だから、教えて!私に…ぶつけてよ!」
私たちが一緒に過ごした時間を思い出す。彼が私の仮面を剥がそうとしてくれた瞬間、少しずつ心を開く勇気をもらったこと。
あの時、彼がそばにいてくれたから私は少しずつ変われた。
「……」
立て続けに話したせいで少し息切れしてしまう。彗の表情は曇っていて、口は固く閉ざされていた。
でも、それでも…君のその仮面は───!
前よりも広がり大きくなっているひびがある。
君はいつも無表情で、最初こそ人の心にずけずけ突っ込んできて私の心を掻き乱しにきた。
感情欠落してんじゃないの?って思うくらい仮面の表情もずっと変わらない。
「っ、でも…彗は優しいよね、私のことを何度も助けてくれた。でも自分のことは全然話さない」
私は、ずっと勘違いしていた。仮面が変わらない君はもしかしたら何も感じていないのかなって。でもそれは違う。
君の仮面の裏にはもうひとつ仮面があるのだろう。
心の中で押し殺して何もかも感情なんてなくしたみたいに。辛いも、苦しいも、怒りも、涙も…全部隠してる。ひびが徐々に大きくなればなるほど、私はそれを感じる。
その裏に見える君の本当の仮面が見える。本当の──想いが。
「っ…負けるな!!!」
「…っ!」
彗が一瞬目を見開いたのが分かる。
自分の気持ちを伝えるのは怖い。ヘルメットを脱いで思いっきり地面にぶつかるのは怖い。
でも…それでも、その先にあるのは本当に地面なの?
怖くて、不安で、そんな時に誰かがそれを支えて受け止めてくれたなら。
それはきっと地面なんかじゃなくて、柔らかくて心地いい綿あめみたいな場所。彗が好きな…綿あめだよ。
私のことを受け止めてくれたように、私だって君がどれだけ重たかったとしても、君を絶対に地面に落としたりしない。
私は大きく息を吸って今までにだしたことがないほどの声で叫んだ。ちゃんと君に届くように。
「仮面なんて、っぶち壊せーー!!!」
「…は?仮面って…」
意味の分からないことを言い出す私に驚いたのか彼が目を丸くしているのが見える。けれどそんなことお構い無しに私は続けた。
「全部っ…全部、隠さなくていいんだよ!少なくとも私はそうした!彗が教えてくれたんだよ」
感情が昂ったせいだろうか。涙が目からこぼれ落ちているのが分かる。
「っ…!!想乃!」
先程まで黙っていた彗が私の元に駆け寄ってくる。
乱雑に、でも優しいその袖で私の涙を拭ってくれた。
彼は一瞬戸惑ったように顔を逸らしたけれど、すぐになにか決心したように私の方を向いて口を開いた。
「…俺の話、聞いてくれるか?」
その言葉を聞いた瞬間、胸の中にじわっと暖かいものが広がる。涙でぼやけた視界の中でも、彗の真剣な表情ははっきりと見えた。私はただうなずくことしかできない。
「うん、聞くよ。聞かせて…」
彗は少し息を吸い込んで迷いを振り払うように顔を上げた。風がまた吹き抜けて、私たちの間をそっと撫でる。