体育館に響くボールの音。二人きりの広い空間に、ただその音だけが反響していた。


目の前では、宙が軽やかにドリブルを続けている。
俺はその様子をただ眺めるばかりで、自分のプレイに集中できていなかった。手に持つボールの感触がいつもよりも重く感じる。

『───…これでいいのか?』

自分自身が心に何度も問いかける。想乃を好きだと認めてしまった。でも、その思いを押し殺してでも譲ることが一番だと言われている気がするんだ。自分なんかより、きっと宙の方が想乃を幸せにできるんじゃないかと。

「彗…本気でやる気あんのか?」

宙の声が聞こえてきた。挑発的な言葉とは裏腹に、その声には微かに苛立ちと切なさが混じっていた。
俺は返事もできず、ただボールを手に持ったまま立ち尽くしている。

「お前、まだ譲るつもりなのか?自分を偽ってまで、俺に譲るのか?」

宙の言葉が心に突き刺さる。その通りだ。想乃への気持ちを口にしてからも、ずっとその気持ちを引き下げようと──譲るべきだと考えている。

「…俺の方が、想乃ちゃんを幸せにできるかもしれないって、そう思ってんのか?」

宙の問いに答えられない。胸の中で何かが崩れ落ちるような感覚がした。譲ることで想乃を守れるのか?それとも、それは自分への単なる逃げ道に過ぎないのか?

頭の中で繰り返し考える。想乃の笑顔、彼女がふと見せる寂しそうな横顔、泣きじゃくる姿。俺はそのすべてを見てきた。
彼女の傍にいたい、守りたい──そう強く思っていたはずなのに。だが、俺はその気持ちを宙に託そうとしていた。彼なら、想乃を幸せにできるかもしれない。俺なんかじゃ、彼女を守り切ることはできないのかもしれない。

「…っ」

拳を強く握る。その感情を宙にぶつけようとしたが、どうしても言葉にならない。

「──彗は、想乃ちゃんが誰にとられてもいいって、そう思ってるのか?」

宙はさらに言葉を重ね、俺の目をじっと見つめた。
その目には自分に嘘をつくなという強い意志が込められているようだった。

心が揺れ動く。想乃が笑ってさえいれば、それでいいんじゃないのか?──そう言い聞かせてきた。
でも今は胸の奥でくすぶり続ける感情が、それを否定する。俺が、あの笑顔を守りたいんじゃないのか?

想乃の傍にずっといたいんじゃないのか?
その瞬間、宙の言葉が決定的なものとなった。

「俺は…!」

自分の中に抑えつけていた感情が一気に溢れ出して、言葉が喉から絞り出された。

「俺は、想乃が好き(・・)だ…!!」

その言葉を口にした瞬間、自分がどれだけその気持ちを隠していたのか、そしてどれだけ強く想乃のことを思っていたのかを痛感した。

ボールを強く握り直す。これ以上、逃げたくはない。宙の真剣な想いに応えるためにも、自分に嘘をつかず本気で…ぶつかるために。

顔を上げ、宙と向き合う。そして再びドリブルを始めた。今度は迷いのない力強いステップで、宙に向かって突き進んでいく。

「ようやくやる気になったか。そうこなくちゃな、彗」
宙は笑みを浮かべ、再び俺に向かって立ちはだかった。
俺の動きに宙もすぐに反応し追ってくるが、今の俺に躊躇はない。自分の中で何かが確かに変わった瞬間を感じていた。
スピードを上げて軽やかにボールを操ると、一瞬の隙を突いて宙を抜き去る。その一瞬が、まるで時間がゆっくりと流れているかのように感じられた。

「っ…!おい、まじかよ!」

宙の声が背後から聞こえたが、振り返ることなく俺はそのままゴールへと向かう。心の中でずっと迷い続けていた感情が、今はまるで風に吹き飛ばされたかのように消え去っている。

ボールが指先を離れ、弧を描いてバスケットへと向かう。全ての重みが消え去り、ただ、その瞬間だけが輝いて見えた。

体育館にボールがリングを通過する音が静かに響く。ゴールに吸い込まれたその音は、まるで今までのすべてを肯定してくれるかのようだった。

その後も何度もシュートを入れる。何度か宙に点を取られてしまったが、最後は点を勝ち取った。

「…勝った…」

呟くように言った俺の声に、静かだった体育館が一瞬だけ息を吹き返したかのように感じた。
しばらくして、宙が息を切らしながら笑った。

「お前本気だとこんなに強えーのかよ!」

俺も笑いながら肩をすくめる。
「まぁな…」

お互いに笑い合う。茶化すような返しも、宙の笑い声を聞くのも久々のように思えた。汗が額から流れ全身を覆っているが、これまでにないほど清々しい気持ちが駆け巡る。

宙はボールを拾い上げながら深く息を吸い込んだ。そして少し真剣な表情に戻り、俺をじっと見つめる。

「なぁ彗、俺らにはさ優しい未来(・・・・・)が待ってるよ。心優しい女の子が…そう言ってたから」

その言葉に、俺は少しだけ驚いた。それは彼女が言いそうな言葉でふと笑みがこぼれる。

「…ああ。」
宙は少し驚いたように目を見開いた後、静かに微笑んだ。

「…彗って、そんな顔もするんだ。俺が負けた甲斐もあるな」
その言葉を聞いて、胸の奥がじんわりと温かくなった。宙は負けて悔しいはずなのに、その顔には穏やかな満足感が漂っていた。まるで、今までのすべてが報われたかのようなそんな表情だ。

俺は宙に感謝の言葉を言おうとした。だけど、彼がそんなものを求めていないことは分かっていた。
宙はただ俺と本気で向き合いたかっただけなんだ。それが伝わった瞬間、言葉は必要なくなった。

「次は絶対、負けねぇからな!」
「ふっ…その時は俺も全力で迎え撃つから、覚悟しとけよ」

俺たちは再び笑い合った。言葉なんてなくても、俺たちの間には確かな絆が存在していた。それを感じながら、今まで感じたことのない安堵感と喜びが胸に広がる。

体育館を出る頃には二人とも無言だったけれど、その沈黙が何よりも心地よかった。静かな夜の風に身を委ねる。