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「透、もうすぐ着くわよ」

「……ん」

 近鉄電車に揺られているうちに、いつの間にか船を漕いでいた僕は、母さんの一言でうっすらと目を開けた。
 電車は、三年ぶりに祖母の実家の最寄駅に到着しようとしていた。民家がポツポツとあって、他は田んぼや畑、河川ばかりが広がる田舎の風景。海辺の町なので、駅に降り立つと潮の香りがした。

「ばあちゃんちは、音がしなくていいね」

「音? ああ、前に教えてくれたやつ? 確か、ばあちゃんもそんなこと言ってたけど、私には聞こえないのよねえ」

「聞こえない方が良いよ」

 母さんはしみじみとした口調で答える。僕は、僕自身を悩ます音が聞こえない母さんのことが羨ましいと思う。
 物心ついた時から、僕には他人から音が聞こえる。音は、その人たちが今抱いている感情に応じているのか、高かったり低かったり、雑音だったり綺麗な音だったり様々だ。今まで誰一人として、同じ音を持つ人に出会ったことがない。十人十色、まさにこの言葉がぴったりだ。
 普段、東京という大都会で生きている僕には、圧倒的に雑音が多く聞こえてくる。

 会社に行きたくない。
 学校に行きたくない。
 今日も満員電車かよ。
 ってー、またぶつかりやがって。

 不協和音を通じて聞こえてくる誰かの不満げな言葉が、次々と思い浮かんでは消えていく。幻聴だって分かっているけれど、不快な音が聞こえるたびに、気が滅入ってしまい、僕自身「学校に行きたくない」と引きこもってしまったこともある。
 特に中学生の多感な時期は大変で、中三の一学期に、僕は実際不登校になっていた。
 また学校に行こうと思ったのは、中三の夏休みに、ハルカに出会ったからだ。

「あ、そういえばばあちゃんからスーパーに寄ってきてって言われてたんだった。よし透、歩くわよ」

「スーパー? それってあの川の向こうの?」

「ええ。なに、文句ある?」

「ありません」

 田舎だから、スーパーに行くなら車で行くべきなのだと思うが、ばあちゃんはあんまり身体が丈夫じゃないし、娘が帰ってくるならお使いを頼みたいという気持ちは理解できた。
 僕は母に連れられて、スーパーまでせっせと歩く。
 片道二十分ほどかかるが、東京とは違い、澄んだ空気を吸いながら歩くのは苦痛ではなかった。

 やがて目的のスーパーへと辿り着き、母さんが買い物をする。大きめの買い物袋二つ分ほどたっぷり買い込んだあと、ばあちゃんちへと歩き出した。荷物はもちろん僕が持っている。他にもスーツケースまであるので、かなり大荷物だ。
 ばあちゃんちまでの道を歩いていると、タイミングよく空車のタクシーが通りかかった。母さんはすかさず手を上げる。

「こういう時のために、日々働いてるのよ」

「はあ」

 確かに母さんは、タクシーやいざという時の娯楽にはお金を惜しまないタイプだ。僕に楽をさせたい、楽しませたい、という気持ちもあるのかもしれないけれど、そのために働いているという母さんの主張はもっともかもしれない。
 僕は母さんとタクシーに乗ろうとしたのだが、ふと視界に懐かしい川が飛び込んできて、目を細めた。ちょうど前方を横切るようにして流れている川だ。名前はよく知らないが思い出深い場所だった。

「ちょっと、寄り道してから行ってもいい?」

「え、寄り道? いいけどどこに?」

「あの川。母さん、先に帰ってて」

「ほう。よく分かんないけど、夕飯までにはばあちゃんち来なよ」

「うん」

 基本的に放任主義の母はすぐに承諾をしてくれて、僕はタクシーに乗らず、川に向かって歩き出した。

「懐かしい」

 川のすぐそばまで来ると、草木がさわさわと揺れる音や川のせせらぎが自然の空気に溶けて、思わず目を細める。
 三年前、この川の橋の下でよく涼んでいた。そこにやって来たのがハルカだったっけ。
 僕は記憶に誘われるようにして、川辺へと降り立ち、橋の下の日陰に座る。辺りには誰もいなくて、雑音ひとつなかった。あの時と同じ。懐かしさがぐんと込み上げて、小さく息を吐いた。
 持って来た鞄から、緑色の表紙をした文庫型ノートと、電車の中で飲みかけたミネラルウォーターを取り出す。表紙を開くと、見覚えのある文字が飛び込んできた。