(2)
 体育館から保健室に行くまでは、どうしても購買前を通る必要がある。
「お兄さん、今は購買にいなかったみたい」
「そっか。よかった」
 華に付き添われる形で、芽吹は亀のようにゆっくりと廊下を進んでいく。その間も、手足が痺れるような感覚はなくならず、じとりと嫌な汗が額に浮かぶのがわかった。
 これだから嫌なんだ、生理痛は。
 月1で訪れるたびに、無意味な悪態をつく。さっき薬を飲んだのに、今回はなかなか効きが悪い。どうにも耐え切れなくなった芽吹を労わりつつ、華が保健室の扉を叩いた。
「失礼します。小笠原先生、ベッドは空いて……」
 保健室内の空気が、固まった。ただ1名を除いて。
 養護教諭の小笠原葵(おがさわらあおい)は、男性ながらいつも通り美しい佇まいだ。さらさらの黒髪と白い肌のコントラストに、少しだけ切れ長な瞳。
 男性の養護教諭は珍しいが、女子生徒からためらいなく「美人」と呼称されているこの人なら、そう違和感も覚えない。
 違和感だらけなのは――そう。
 ベッドに背をつき白衣が乱れた小笠原が、同じくらいの上背の男に組み敷かれている点だった。
 こちらを振り返る男の顔を見るなり、芽吹の視界が一気にぼやける。
「ああ、ベッドなら空いてるよー。俺たちがすぐにどければね」
 ――なんであんたが、小笠原先生とイチャコラしてんだ、息吹!
「どけ、息吹。来宮、折鶴。ひとまず扉を閉めろ」
「はい」
 小笠原に言われた通りに、華が扉を閉める。次に見たときには息吹はベッド下に叩き落されていた。
「保健室で養護教諭に怪我させられたー。あれ? これってもしかして大事件?」
「言っておくが、こいつがじゃれてきたのを避けきれなかっただけだ。誤解すんなよ二人とも」
「あ、葵ってば恥ずかしいのかー。そりゃそうだよね。うんうんそーそー、じゃれついてただけ」
「お前は黙れ。ぶっ殺すぞ」
 養護教諭らしからぬ殺伐とした物言いだが、特に驚きはない。保健室利用が初めてではない芽吹は、ベッドでまどろむ中で時折小笠原の粗雑な口調を何度か耳にしてきた。
 一部の女子生徒には、「そんなギャップもいい!」とさらに熱を上げる存在もいる。
 目の前の展開についていけなかったらしい華は、真顔のまま保健室を後にした。
「ベッド、いいですか?」
「ああ。いつものだな」
 小さく頷くと、芽吹はすぐにベッドに横になる。何となく、先ほど2人がイチャコラしていたベッドとは違うベッドを選んだ。
「にしても、珍しいですね。小笠原先生が病人以外を保健室に留まらせるなんて」
「もう100回『出て行け』と言ってる。1時間粘られて、こっちが疲れた」
「いいじゃん暇なんだし。久しぶりに会ったオトモダチのよしみ」
「お友達?」
「……中学時代のクラスメートだ」
「まじですか」
 心底嫌そうに答える小笠原に、笑みが漏れる。が、追うように鋭い痛みが腹を突き、早々に布団の中でうずくまった。
「どうしたの芽吹。顔色悪い」
 息吹が、いつの間にかベッドの隣にしゃがみ込んでいた。
「ただの、生理痛。薬は飲んだから、じきに良くなるけど」
 オブラートに包む余裕もなく、ストレートに答えた。「せいりつう?」漢字変換ができなかったらしい兄は放置することにする。
「役立たずの兄貴はどけ。来宮、これ、腹に当てとけ」
「ありがとうございます」
 なるほど小笠原先生は、私と息吹の関係も織り込み済みらしい。
 湯たんぽを手渡され、有り難くお腹に抱きかかえる。温かくして、薬を飲めばすぐに良くなる。自己暗示に近い思考をぐるぐる巡らせる。こう酷くなると、これで凌ぐ以外方法がない。
 その時、大きな手のひらが布団越しに乗せられた。手の主は、瞼を開かなくてもわかった。
「痛いの痛いの、飛んでいけー」
「馬鹿か。息吹、お前はとっとと職場に戻れ」
 本当、馬鹿か。
 小笠原の呆れ声に秘かに同意しながら、何故だろう。その温もりを避ける気にはなれず、溶けるように意識を手放した。


「芽吹の敵討ちは抜かりなく済ませたよ。あの女のチームをちゃんと粉砕しといたから」
 ひと戦終えた武将よろしく、奈津美は満面の笑みでおにぎりを頬張った。
「粉砕する必要はあったのだろうか」
「あったね。私、あの女嫌いだから。でもだからって、その辺歩いてるところを殴るわけにもいかないじゃない?」
 さらっと怖いことを言う。会話の内容と裏腹にふわりと爽やかな風が届いた。
 校舎前に立ち並ぶ桜の木は、夏の今は当然花も散っている。それでも心地いい木陰でとる昼食は、生徒の間でも秘かに人気だった。
「んで、芽吹はもうお腹は平気なわけ? 生理痛も辛い子は本当大変だねえ」
「うん、あのあと薬が効いたから。華も、付き添ってくれてありがとう」
「うん」
「……そうそう。小笠原先生とうちの兄、中学時代のクラスメートだったんだって。旧友なのをいいことに、保健室入りびたってたみたい」
 さり気ないていを装ったものの、妙に説明口調になってしまった。それでも、いつも以上に口数の少ない華の表情が、かすかに上向いたのがうかがえ、ほっとする。
「芽吹のお兄ちゃんも、今や我が校の人気キャラになってるもんねー」
「でも」と続けた奈津美が、手元の牛乳を飲み干して口を開いた。
「前にさ、芽吹言ってたじゃん。お兄ちゃんの昔の記憶が全然ないって。結構妙っていうか、不思議だよねー」