(3)
 息吹が外国に発ってから、1週間が過ぎた。
 しばらくは感情の赴くままに涙を流したが、今ではそれも堪えられる程度に収まった。多忙の合間を縫った両親からの電話にも、素直に笑顔を浮かべることができている。
 息吹からの電話は、1本もない。
 目の前で食い入るようにこちらを観察する2人の友人に、芽吹は苦笑を浮かべながらも説明した。
「確かに、顔色はさほど変わってないね。ちゃんと食べれてるってことでOK?」
「もちろん。三食きちんと食べて、早寝早起きで完璧ですよ」
 実は自分が落ち込みすぎて食事を疎かにすることを考慮して、事前にある程度冷蔵庫に作り置きしていた。しかしその必要もなかったようだ。
「大丈夫」という言葉は、自分に言い聞かせるのに散々脳内再生させていい加減飽きた。
「大丈夫」には早いけど少しずつ慣れてきた、が1番正しい表現だと思う。
「本当に辛くなったら、パンクする前にまた頼らせてもらうね」
「本当に辛くなる前に、話してほしい」
「うん。わかった。ありがとうね」
 華の真っ直ぐな瞳に、笑顔で頷く。
 予鈴が鳴り、自分の席に着いた芽吹は教科書類を机に並べる。ふと目にする光景がモノクロの世界になることも、現れた担任に息吹の影を重ねるなんてことも、今のところ1度もない。
 ただ、開いた地図帳ですっと息吹がいるかもしれない地域をなぞったり、教科書のカット写真を撮影している息吹の姿を想像したりは、数え切れないほど繰り返している。
 窓から見えるのは雲一つない青空。あの日の空も、こんな空だったっけ?


「今日、満月ですね」
「あーなるほど。どうりで道が明るいと思った」
 その分星が儚げに瞬く夜空を仰ぎながら、2人の影が夜道に揺れる。
 日に日に秋が近づくのを実感する夜の冷え込みに、芽吹はそっと両手を擦る。そんな様子を見かねてか、立ち寄ったコンビニで安達はホットココアを手渡した。
「カイロ代わり。1人暮らしで風邪っぴきは厳しいだろ」
「確かに。ありがとうございます。えっと」
「いーから。財布出さなくていいって。このくらい奢って貸しを作ったなんて、さすがの俺も考えたりしねーよ」
「ふふ、さすがの俺ってなんですか」
「言葉の綾だ」
 再度感謝を告げた芽吹に、安達は満足げに頷いた。
 今や当たり前のように、部活終わりには安達とともに家路についている。
 それも最近は、有無を言わさず芽吹の家の前まで送り届ける安達、というのが常となっていた。
 息吹がいなくなったからだろうが、さすがに連日は申し訳ない。芽吹も何度か断りを入れてきたが、安達は頑として譲ろうとしなかった。
 曰く、「お前がいくら拒否しても、お前の背後を歩く影ができるだけだけど、それでもいい?」だそうだ。そちらの方がよっぽど怖い。
「あんま恐縮すんなってこと。俺が勝手に、送りたくて送ってるだけだからさ」
「それは有り難いんですけど、でも」
「……別に、送り狼になるつもりはねーよ。いいから黙って送られてなさいって」
 微笑を浮かべて嘆息する安達に、胸の奥がきゅっと締まるのを感じる。
 苦しいわけじゃない。胸がそわそわして、ふわふわして、じわりと温かくなる。
 息吹がいなくなってから、安達は息吹のことを話さなくなった。
 それだけじゃない。以前はまるで挨拶代わりみたいに口にしていた軟派な口説き文句も。
 それなのに、ここ最近より明瞭に感じ始めた甘い感覚。
 今更こんな風に想いを自覚するなんて、本当、どうしようもない。
「ありがとうございました」
 自宅前にたどり着き、芽吹は深々と頭を下げた。
「家に入ったら、すぐに鍵締めろよ?」
「ふふ、送り狼に襲われないように?」
「そうだよ畜生」
 肩をすくめながら返す。そんなこと、微塵も考えていない笑顔だった。
 ああ、格好いいな、と思った。
 初めて会ったときと同じように。
「安達先輩、好きです」
 あ、ようやく、意表を突けた。
 真顔に戻った安達を見とめ、芽吹は密かに喜びが芽生える。
「それじゃあ、おやすみなさ」
「待て待て待て。ちょっと待て」
 玄関に滑り込む直前に、手首を掴まれる。しばらく落ちてきた沈黙を破ったのは、少し上擦った安達の声だった。
「まじか、それ。俺が、その、好きって」
「……ごめんなさい。どうしても伝えたくなってしまいました。でも大丈夫です。今更だって、私、ちゃんとわかってるので」
「は?」
「すみません、今は、言い逃げさせてください」
 掴む手の力が弱まったのは、芽吹の目尻に浮かんだ涙を見たからだろうか。
 引き留めの言葉よりも先に振り払った手を見送り、芽吹は自宅に駆け込んだ。どきどきを通り越して、胸をどんどんと叩く鼓動が響く。
 誰かの言いつけ通り施錠を済ませると、おぼつかない足を引きずって玄関先に座り込んだ。長く溜めていた息を吐き出す。
 最近、安達に生じた変化を、芽吹は敏感に感じ取っていた。
 例えば、部活終わりに待ち合わせている玄関口で、芽吹の視線を確かめつつ誰かにメッセージを送っていること。
 例えば、芽吹が家に入った直後、誰かにメッセージもしくは電話をかけていること。
 ──別に、心配かけるようなことは何もしてないって。
 ──俺はただ、純粋にあいつが心配で送ってるだけ。
 ──俺の気持ちはもう、嫌ってほどあんたに伝えたはずだけど?
 扉に耳を当て辛うじて聞き取った会話は、気を許せる恋人の存在を物語っていた。
「……ほんと、どうしようもないなあ」
 以前安達に投げかけられた、息吹が好きなんじゃないかという問いかけ。あれは、半分当たりだったのだと思う。
 まだ幼い日に1度だけ再会したという、異国へ発つ直前の息吹の姿。その人に、芽吹は確かに憧れを抱いていたのだ。
 安達に出会った瞬間不思議な引力を感じたのは、記憶の片隅で眠っていたその兄の姿に重なるところがあったのだろう。
 でも、それだけのために部活に入り、心を開き、笑顔にいちいち惹かれるなんて、ただの憧れとは言い表せない。
「一緒の帰り道も、これが最後かな」
 むしろ、都合がよかったかもしれない。
 せっかく、安達に素敵な相手ができたんだ。
 今までの距離感のままでいたば、いつまで経っても想いに終止符を打てない。
 告白されてもなお、明確な返答から逃れ続けていた自分には、ふさわしい罰だ。甘んじて受けるべきだ。
 今すでに、胸が鋭い針で刺されるように痛くても。
 そこまで思考を這わせ、のろのろとリビングに足を向ける。
 扉を抜けると同時に、冷たい違和感が体を襲った。
 咄嗟に目の前のソファーを覗き込む。もちろん誰の姿もない。リビングを視線だけで見回す。荒らされているわけでもない。今朝家を出たままだ。
 それじゃあ、いったい。
「こんばんは」
「──ぁ」
 声を上げる間もなく、耳を掠めた男の声。
 咄嗟にリビングを出ようとするも、掴まれたらしい服の裾を思い切り引っ張られる。床に投げつけられ、背中を強く打つ。
 容赦のない暴力を前に、体中の血の気が引いた。
 誰? だめだ、怖い、逃げなくちゃ。
 暗闇で浮かび上がる男の影から距離を取ろうと、投げ出された側の窓を開けようとする。施錠を解こうとした瞬間、またも力ずくで引きずられ、体が横に倒された。掴んだカーテンが巻き込まれ、大きな音とともに床に落ちる。
 満月に浮かび上がったその顔に、引きつるように息を飲んだ。