(6)
 芽吹の頬を、少し硬い指先が撫でる。
「俺、芽吹の兄でいていいの」
 どこか緊張を秘めた触れ方が、こちらにも伝染してしまいそうだった。
「……私も、同じこと、何度も聞いてたよ」
「え?」微かに目を瞬かせた息吹の頬に、芽吹もそっと手を添える。
 息吹と血の繋がりがないと知ってから、何度も何度も、息吹の背中に投げかけていた。
 それでも、結局言葉にできないまま、有耶無耶な悪夢に昇華していたのだ。ああ、そうか。
 ずっとずっと、怖くてたまらなかったのは、この質問の答え。
 ねえ私──息吹の妹でいていいの?
「もう、あんな目で、私のことを見ないでね」
「……? あんな目、って」
「懐かしい思い出を見るような目。今日の撮影で白いワンピースを着た私を見て、息吹、そんな目をしてた」
 息吹の目が小さく見張られた。きっと無意識だったのだろう。
 今なら、あの目の意味がわかる。
 あれは、そのうち自分が、この場からいなくなることを受け入れた目だ。何の疑いもなく、ごく自然に。
「あんな満足そうな顔をするのは、本物のウエディングドレスを見てからにしてよ」
「えー……、それは逆に、見たいような見たくないような」
「無理にでも見せるよ。花嫁の、兄なんだから」
 嫌そうに眉を寄せる息吹に、芽吹は笑った。


 翌日の夕方、芽吹たちは無事に住み慣れた街へ戻っていた。
 高原での出来事の後、案の定夕食の時間を大幅に過ぎた帰還に、親友2人からはこっぴどく怒られた。
 鬼のような着信履歴を刻んだスマホは部屋に忘れ去られていた。散々心配をかけた代償に、兄妹揃って小言の山を受け入れた。
 それでも、ようやく悩みの渦が過ぎ去ったのを理解した友人は、最後は晴れやかに笑ってくれた。
「ほんと、いい友達を持ったねえ」
「そうだね。いつもいつも、いらない心配ばかりかけちゃってるけど」
「心配をかけるっていうのは、相手を信頼してるってことでしょ」
 それっぽい言葉を吐き出す兄に、呆れ顔を浮かべる。レンタカーショップを後にした芽吹たちは、穏やかな空気で家路を進んでいた。
 こんな何気ないやりとりも、今は酷く幸せに感じる。
 願わくば、これからもずっと──そう、思っていた。
「息吹?」
 角を曲がったところで、息吹の歩みが止まったのに気づいた。
 振り返った先の息吹は前を凝視したまま、表情を固めている。
「やっとご帰宅か。随分焦らすじゃねえの」
「え……」
 聞き慣れない声色だった。
 家の前にはとんでもなく大きな荷物を携えた人影が、気怠そうに立ち上がる。
 前髪が左右に分けられた長い金髪は、大きな垂れ目を包み隠すことなくさらけ出す。息吹と同世代だろうか。いや、年齢だけじゃない。
 肌で感じる、どこか浮世離れしている空気は、初めて対面したときの息吹とよく似ていた。
「久しぶりだな、息吹」
「……浩太郎(こうたろう)」
 次の瞬間、芽吹の耳元を鋭い衝撃音が飛んだ。
 反射的に瞑った目を慌てて開くと、息吹の口元が朱く血が滲んでいる。
「っ、何するの、やめて!」
「芽吹、大丈夫。落ち着いて」
「落ち着けるわけ……!」
 何故か宥める息吹を、ひとまず腕の向こうに庇う。
 息吹の頬を殴りつけた「浩太郎」と呼ばれた男は、表情を険しくする芽吹の姿を上下くまなく見定めた。
「へえ、君がかの有名な『芽吹ちゃん』か。大きくなったね」
「大きく、って?」
「浩(こう)。芽吹には、手出し無用だよ」
 唇の血を不快そうに拭った後、息吹がのそりと前に出る。
 見たことのない鋭い眼光が視界を掠め、芽吹の胸が不安に震えた。
「よく探し当てたね。ここの住所」
「カメラマン業界の情報網のヤバさは、お前だって知ってんだろ」
 カメラマン業界。それじゃあこの人は、息吹の仕事仲間か。
 展開が読めず、胸が大きくざわめく。
「こちとら誰かさんが残した仕事を捌くのに、危うく過労死しかけたんだぜ。労りの言葉は?」
「ご丁寧にどうも。用件は?」
「まず1つ目。お前が国に置いていった荷物は、着払いで数日中に届く。要らねえものでも所持品は自分で始末しろよ?」
「……」
「そして2つ目。例の家族が、お前にもう一度会いたいと言っている」
 息を小さく飲みこむ音がした。
「それだけだ。それと芽吹ちゃん、これを」
「っ、あ……」
 恭しく差し出されたものを、咄嗟に受け取ってしまう。
 フリーカメラマン 谷浩太郎─TANI KOTARO─
 名刺には、名前とともに連絡先電話番号とメールアドレスが載っていた。
「猶予は1週間。それまでに、国に戻るかカメラを捨てるかを決めろ。過労死しかけたついでに、周りに話はつけてある」
「浩太郎」
「久しぶりの日本だ。俺は適当にビジホでゆっくりするわ。それじゃあまたね。芽吹ちゃん」
 ひらひらと手を振り、その男は去って行った。男の背を見送った後も、息吹はしばらくその場に立ち尽くす。
 途方に暮れたその表情が、痛いくらいに芽吹の記憶に焼き付いた。