(5)
 赤の外国車は、落ちかけた夕焼けが滲む近隣の高原で見つかった。
 帰りを気遣うタクシーを見送った後、芽吹は外国車の中を確認する。やっぱり自分たちが乗ってきたものだ。目的の人物は、中にいない。
「でも、どうしてこんなところに」
 零す言葉が辺りに溶けるより先に、「あ」と思い至る。
 見渡すとそこには、街中の風景とは打って変わって雄大な赤紫の空が一面に広がっていた。揺れる草原と細く続く道の先には、小規模ながら並ぶ山々が薄く浮かび上がる。
 芽吹の家で、似た風景を見てきた。何度も、何度も。
 家族を毎日静かに見守ってくれていた、あの大きなフレームの中で。
「山が見える景色、好きなんだ」
 そんなことだって、今まで知らなかった。歩を進めながら、決して見通しの悪くない高原で求める人影を探す。
「息吹……、息吹!」
 ここにいるのは間違いない。あとは自分が見つけるだけだ。
 それなのに、風がさらう高原の表面には誰の影も見つけられない。
「い、ぶき」
 本当は、自分と息吹に血の繋がりがないってこと、あの夜に初めて知ったの──そう、芽吹は言った。
 あの言葉をどう聞いて、感じて、自分から背を向けたのか。
「いぶき……っ」
 もし何かあったら、兄ちゃんが守ってあげるからさ。
 そう言ったでしょう。あの言葉があったから頑張れた。それなのに、あんたは。
「だったら……勝手に人の前からいなくならないでよ」
 視界がぼやける。眉を寄せながら、ごしごしと目元を拭った。瞼が腫れる。
 でも知るもんか、あんたのせいだ。
「勝手に、お兄ちゃんを辞めて、離れていかないでよお……っ!!」
「芽吹」
 高原を撫でるような風が吹く。
 元々無雑作感が否めないその髪には、辺りの草が紛れていた。そのうちの数本かが風に撒かれ、茜色に染まる草木に消えていく。
 凪のような表情。その静けさに、芽吹は一瞬口を噤んだ。
「っ……い、ぶき」
「ごめん。急にいなくなったから、やっぱ驚かせたよね」
 肯定と否定の言葉が、同時に胸に宿る。
 驚いたよ。こんなに息を切らすくらい。でも言いたかったのは、そんな言葉じゃない。
 兄としての優しさをはらんだ言葉に、芽吹はゆっくりと首を横に振った。
「……何も聞いてない振りは、しなくていいよ」
 思った以上に、弱々しい響きになってしまった。そんな言葉にも、息吹の目は小さく見開かれる。
「さっきの電話の話、聞いてたんだよね?」
「……うん。ごめん」
「謝ることじゃ、ないでしょ」
 いよいよ言葉尻が震える芽吹に、息吹は穏やかに息を吐いた。
「でも、ようやく合点がいった。最近の芽吹が、どこかずっと、苦しそうにしてた理由」
「っ……」
「俺のせいだったか。どうして気づかなかったのかなあ」
 話したいと思っていた。苦しみから逃れるためじゃない。苦しみを受け入れるために。
 それなのに、既に何もかも飲み込んだような息吹を前に、芽吹はくすぶる思いを持て余すしかできない。
「騙してて、ごめんね」
 いつもは、うるさいくらいに向けてくる視線なのに。
「騙して、た?」
「うん。だってそうでしょ」
 ねえ。私を、ちゃんと見て。
「俺は芽吹の兄でもなければ、家族でもないんだから」
 乾いた音が、高原の静けさを鋭く切り裂いた。
 いつの間にか荒くなっていた吐息に気づき、ぎゅっと口元を結ぶ。叩いた手が、怒りで震えていた。
 ぶたれたままでいる息吹の頬は、微かに赤みを帯びていく。
「ドア越しの話し声は聞こえてたのに……さっき私が叫んでた声は聞こえてなかったの」
「……」
「いつもは馬鹿みたいに察しがいいくせに、聞こえなかったふりなんてしないでよ……っ」
 震える指先をぎゅっと拳で覆う。
「今まで言ってくれた言葉も、全部全部、ただの出任せだったの」
 妹を守るのが、お兄ちゃんの仕事でしょ。
 だって俺、芽吹が世界で一番好きで、大切だから。
 あんたに芽吹は渡さない、俺の、可愛い妹だからね。
 馬鹿みたいに真っ直ぐで、シンプルで、迷いがない。恥ずかしくて仕方ない言葉の数々が、芽吹の背を確かに押してきた。
「私のこと、大切な妹って言ってくれたのも、全部全部、嘘だっ……」
 泣きじゃくるようなわめき声は、体を覆うほどの広い胸に押し留められた。
 背中に回る腕がまるで縋るようで、芽吹も同じように抱きしめる。
「……いじめないでよ」
「っ……ごめん。だけど、でも、だって……!」
「うん。ごめん酷いこと言って。ちょっと、自棄になってた」
 回された腕に、ぎゅっと力が籠もる。
 そっと見上げると、落陽に染まる息吹の綺麗な眼差しが注がれていた。
 今にも何かが滲みそうな、危うさをはらんだ瞳から。
「もう二度と……馬鹿なこと言わないでよね。馬鹿」
「うん。ごめん」
 再び、ぎゅっと隙間なく抱きしめられる。そのまま肩の上に息吹の顎が乗せられ、首筋に息吹の髪の毛が優しく掠めた。
「嬉しいな。まだ、こうして抱きしめさせてくれるんだね」
「……やっぱり、大馬鹿」
 散々好き勝手にスキンシップを取ってきた奴が、何を今更遠慮してるのか。
 遠い山に薄く日が閉じていくのを感じ、そっと視線を馳せる。「きれい」と零せば、息吹も小さく「うん」と頷いた。
「ねえ、芽吹」