(2)
「っ……、あ」
 その声と差し出された手に、靄かかっていた思考がふっと明瞭になる。
「着替えお疲れさま。準備はいい?」
「ありがとう、息吹」
 見ると、先に車を降りていた息吹と華が、既に撮影の準備を整えていた。
 カメラとつなげるためのパソコンは既に屋外にしっかり固定され、小型の日よけの設置も済んでいる。
「息吹さん。必要ならこのタオル、使ってください」
「ありがと華ちゃん。腰のポケットにズボッと入れておいてくれる?」
「わかりました」
 てきぱきと小道具の準備をする華も、思いのほか息吹とスムーズな連携ができている。
 いつものイメージとは違う華のジーンズ姿も、とても格好良い。
「息吹さん、今日の日光の具合を考えてEV補正をしたんですけど」
「ん。何枚か撮ってみて、確認してみようか」
 同時に車を降りた奈津美は、いつの間にか三脚カメラで細かな調整を行う。
 試し撮りの写真を数枚確認する奈津美と息吹は、並ぶ横顔が凜と鋭い。
 そんなひとつひとつの周囲の光景が、クリアに見えてくる。すうと息を吸って、ゆっくりと吐き出した。
 よし。大丈夫。大丈夫だ。だってみんながいてくれるから。
「それじゃあ、できればサクッと撮影を済ませましょう。よろしくお願いします!」
 奈津美の音頭とともに、各々が役割の位置に着いていく。
「芽吹。足元かなり不安定だから、怪我のないように気をつけて」
「うん。わかった」
 確かに、想像以上に足元の砂利が大きく、しっかり踏みしめないとぐらつく。加えて今履いているのは、まだ足を通したばかりのミュールだ。
 慎重に踏み出したはずの足は、思いも寄らない方向へと滑りあげた。
 気づいたときは、ミュールの爪先は青く広い空をさしていた。
「……えっ」
 耳元にかかる熱い息。
「い、ぶき?」
「足、怪我するかもでしょ。向こうまで運ぶから、じっとして」
 それは昨夜頭痛を起こしたときに感じたそれと重なり、今自分が息吹に抱き上げられているのだと気づいた。
 一瞬突き刺すような親友2人の視線を感じだが、確かに息吹の言い分も一理あった。さらに、今ここで暴れて転倒したら息吹も怪我をしかねない。
「せめて、抱き上げる前に一言欲しいんだけど」
「そんなことしたら、芽吹は恥ずかしがって断るじゃん」
 沈黙で肯定すると、息吹は何故か嬉しそうに口元を綻ばせる。
「衣装なんて言うからフリフリしたドレスでも出るかと思ったけど、白いワンピースか」
「そんな衣装、私に似合うわけないでしょ」
「芽吹なら何でも可愛いって思うよ、俺は」
「はいはい」
 照れそうになる自分を振り切るように、素早く淡泊な口調を返す。
「モデルが主役の写真じゃないから、背景に馴染む色がちょうど良いんだって」
「なるほどね」
 立ち位置付近まで来た。声をかけようと口を開いた芽吹を、息吹は真っ直ぐ見下ろしていた。
「なんだか、シンプルなウエディングドレスみたい」
「え」
「はい。到着」
 結局、発するはずだった言葉は空に溶け、芽吹はゆっくりと地面に下ろされた。
「それじゃ、頑張って」
「……そりゃもちろん」
 遠ざかる息吹の背中を見つめる。
 奈津美のかけ声にすっと瞼を閉じ、廃墟の「記憶」となって目を覚ます。その間頭にあったのは、たった今向けられた視線だ。
 ウエディングドレスみたい。そう言う兄の目は、まるで思い出の写真を見つめるようだった。


 宿泊予定のホテルには、予定通り16時過ぎに到着できた。
「それじゃあ、18時の夕食の時間に迎えに来るね」
「うん。それまではひとまずお疲れさま」
 ぱたん。部屋の扉を閉じた瞬間から、この空間には芽吹と息吹の2人きりだ。
 よたよたと足を引きずった芽吹は、力尽きたようにベッドにダイブする。
「奈津美ちゃんたちの部屋は、この部屋の2つ隣みたいだね」
「……、……ぃ」
「うん。いいよ。思いの丈を叫んでも」
「いたい。痛い。足の靴擦れが、死ぬほど痛いぃ!!」
 憂さ晴らしに近い声量で叫ぶ。それほどまでに、この痛みは酷いものだった。最近の頭痛の方がましとさえ思えるほどに。
 撮影も終盤にさしかかり、一種のトランス状態になっていた時に踏み出した跳躍。その後着地。ぐっと留まった瞬間、弾かれるように我に返った。ほとばしる痛みによってだ。
 幸い、その直後に奈津美の「お疲れ様ー!」の声が響いた。痛みに震えそうになる声を抑え込み、笑顔で3人の元に戻ろうとする。
 そんな妹を止めたのは、やはり兄の声だった。
「お疲れさま。良い写真が撮れたよ。頑張ったね」
「そっか、よかった……」
「──芽吹が履いてたスニーカー、車から持ってきた。ミュールのストラップ外したげるから、じっとして」
 ここまでくると、息吹の察しの良さに驚かなくなっていた。
 外が暗がりになっていたこともあり、血が滲んだミュールは気づかれることなく荷物鞄にしまわれた。それでも、スニーカーに履き替えてもなお鈍痛が届いて、何度も声を上げそうになった。
「夕食までまだ時間あるし、ちゃんと手当てした方がいいね。俺、近所のドラッグストアで買い出ししてくるよ」