(5)
「安達先輩」
「悪い、こんな時間にストーカーして」
 シンプルなTシャツにパーカーを羽織り、安達は門柵の前に立っていた。
 苦笑を浮かべながら小さな冗談を言う姿に、ほっと安堵の息をつく。
 保健室での短いやりとりの後、結局部活での最低限度のやりとりに留まったままだったのだ。
「すみません、さっきのは息吹が勝手に……」
「悪いと思ってんなら今すぐ帰れ、ストーカー」
「ちょっと、息吹!」
 後ろで帰れオーラを出し続ける息吹に、芽吹は溜め息とともに鋭い視線を突き刺す。
「息吹はいいから、中に入ってて。聞き耳立てないでよ」
「んー……わかった。それじゃ」
 ガラガラ、ガシャン、と金属音が夜の住宅地に響く。
 いつもは開いたままになっている門扉とその留め具を、息吹がさくっとかけた。胸の高さまである柵に隔たれた2人の姿に、息吹は満足げに頷く。
「5分だけね。ちゃんと迎えに出るから」
 玄関へ消えていった兄の姿に、再びため息が漏れる。
「本当、子どもみたいで……すみません」
「いや。別に気にしねーよ。そんなことより……」
 夜の住宅地を照らすものは、街灯と家からかすかに漏れる明かりしかない。
 そんな中でも、安達の瞳が柔らかく細められたのがわかった。
「その……元気そうだな」
「何とか。と言っても、部活で毎日会ってますよね?」
「だな。でも、なかなか話しかける空気じゃねーから」
「そう、ですね。さすがにお互い気まずいですよね。はは」
「俺はいいんだ。自業自得。でも、お前が……」
 一瞬言葉を詰まらせた後、頭をかきながら続けられた。
「お前の最近見せる笑顔が、時々なんだけど、すっげー脆く見えてさ」
 意外な指摘だった。
 自分では既にほとんど癒えていると思っていた衝撃が、まだ目に見えるほどだったのだろうか。奈津美にも華にも、最近は心配そうな顔をさせていなかったはずだ。
 それとも……安達だけには、伝わってしまっていた?
「本当に、悪い。俺がこんなこと言う立場じゃねえ。こんなお節介焼く資格もねえよな。小笠原先生に言われた通り、覚悟が足りなすぎた」
「先輩……」
「でも、こんな俺でも聞ける話があるなら、吐き出し口に使ってほしい。独り言を言うつもりでも、なんでもいい」
「そんな、使ってだなんて」
「俺は、お前が好きだよ」
 夜風が横切る。
 外なのにどこか籠もっているいるようだった互いの距離に、新しい空気が流れ込んだ。
「あの兄貴が好きなら──なんて、嫉妬まみれの言葉投げつけておいて、しょうもないよな。あんな無様な姿見せて、正直今更お前に好かれようなんて、都合よすぎだってこともわかってる」
「っ……」
「でも……お前の気持ちに関係なく、やっぱ俺は、芽吹のことが好きだ。この1週間話しかけることもできないでいて……つくづく思い知った」
 気持ちを綺麗に映し出した言葉が、芽吹を包んでいく。
 表情を忙しく変えながらもその実直すぎる告白に、胸の奥がぎゅっと苦しいくらい締め付けられた。
 息を吸おうとするも失敗し、唇がかすかに震えを帯びる。
「先輩は、すごいですね」
「え?」
「私はそんなに、潔く、自分のことを認められない」
 目の前の門扉に手をかける。
 もうすぐ息吹が来るかもしれない。涙は、堪えなければ。
「私……怖いんです。最近は大分収まっていると……そう、自分に言い聞かせてました。でも本当は今も、どうしたらいいのか、わからなくなる」
「芽吹」
 柵を掴んだ手に、安達の大きな手のひらがそっと重なった。
「それは、写真のモデルのことでか?」
「いいえ」
「それじゃあ、やっぱその……あの兄貴のことか?」
 安達の問いかけに、芽吹は小さく頷いた。
 大きな不安だけが常に頭の上にあって、でもその正体がわからない。見て見ぬふりをしても、どこまでも追いかけてくる。
「あのさ、すっげーピントずれた答えかもしれないけど」
 小刻みに震える芽吹の手を、安達が力強く包みこんだ。
「あの兄貴にとっては、芽吹の存在が、大きな支えなんだと……思う」
 屋上に呼び出されて起こったいざこざの直後、安達はドア越しに息吹の弱い呟きを聞いていた。
 ──芽吹を支えられない自分なんて、いる意味、ないんだけどな──
「あの言葉を聞いて、正直圧倒された。あの人は変人だし常識外れもいいとこだけど、そういう想いは、つえーよな」
「っ……」
「だから、俺でも友達でも、この際あの兄貴でもいい。話せそうになったら、少しずつ吐き出せばいいって。みんな、お前のことが大切で、心配してる」
 頭を撫でられる。それはとても心地のいい温度で心が少し軽くなった。
 その手が頬に降りてきたのを感じ、芽吹はそっと手を乗せる。安達の指先が、微かに震えた。
「ありがとうございます、安達先輩」
「め、ぶき」
「さっきインターホンが鳴って、安達先輩が会いに来てくれたって知って、……嬉しかった」
 本当は保健室前で鉢合わせたあの時も、同じ気持ちだった。
 もし安達が今の状況を「寂しい」と感じてくれているのなら、自分も同じなんだと、今ならはっきり答えることができる。
「……っ、あの、さ」
「はーい。5分経過しました」
 いつの間にか開けられていた扉に、息吹が無表情でもたれていた。
「もう話は済んだよね。気をつけて帰ってね安達くん。また学校で」
「ちょ、息吹! そんな態度は……」
「っ、明日からの土日、部活休むって聞いた。例の写真撮影の本番なんだよな!?」
 中に引きずりこまれる芽吹に向かって、安達が大きな声を張った。
「頑張れよ! いつも応援されてる野球部の奴らも、お前のこと応援してるってこと、ちゃんと覚えとけ!」
「……はい!」
 扉が閉じられた。
 北海道の夜は、夏の今でもほんのり冷える。それでも、胸の奥は驚くほど温まっていた。
「で。話は済んだの」
「あのね。強制で断ち切っておいて、今更聞く?」
「……5分じゃなくて、3分にしときゃよかった」
 幾分か表情が柔らかくなっている芽吹に、息吹が面白くなさそうに眉を寄せる。
 ぶつくさ言いながらリビングへ向かう兄の姿に、芽吹は密かに笑みを零した。