(4)
タイピング音が、一瞬だけ空白を作った。
「言われてみれば、似てるところもあるか。変に手がかかるところが」
「ふふ、見てみたかったなあ。学生時代の息吹」
「家を探せば、写真くらいあるだろ」
「なかったんですよ。1枚も」
「そうなのか」
「はい。ありませんでした。写真だけじゃ、なくて……」
血の繋がりも、とは言えなかった。
言ったら最後、何かとてつもないことが起こりそうで。
性懲りもなくこみ上げるもに蒸しタオルを押し当てると、小笠原が黙って見やる。
「なるほど。消えそうな、か」
「え?」
「いや。お喋りは終いだ。今は、何も考えないで寝てろ」
「……はい」
時々薄く泣きながら、それでも芽吹は静かに寝付いた。悪夢に追われない睡眠は、久しぶりだった。
夢の奥で、ほのかに燻された煙草の香りがした。
保健室で仮眠を取ったあと、クラスに戻った芽吹を奈津美と華が出迎えた。
他のクラスメートの視線も自然と集まる。授業中に急に涙を流し始めたんだ。その反応が正常だろう。
当然のように芽吹の心配をしてくれる2人に、芽吹は少しすっきりした頭で大丈夫と返した。
「でもねえ、めっちゃ不謹慎だけど、写真撮りたいくらい綺麗な涙だったよ。さっきの芽吹ちゃん」
「奈津美、本当に不謹慎」
「そ、そんな素敵なもんじゃなかったでしょ。情けなくてもう」
「そんなことないよ!」
「え」
芽吹たちの会話に、ふと横から他のクラスメイトが参加してくる。
「正直、さっきの芽吹ちゃんの泣き顔、胸がキューンとしたもん。ねえ?」
「おい、こっちに話を振るなって。反応に困るべ」
「だってあんたもさっき言ってたことじゃん」
「おいそれ言うな!」
元気づけてくれる人の存在に感謝する。
その言葉すらはね除けようとする自分もたまに姿を見せるけれど、少し外に吐き出したからだろうか。今はその温かさを素直に受け取ることができた。
「それで、例の話をしようってことだったよね?」
そして、今日中に交わす予定だった話を奈津美に振る。
「ん。芽吹の体調が問題ないのが本当ならね、写真撮影で、ここに行こうと思ってるの」
「……ここ、は。もしかして、工場?」
奈津美のスマホに表示されていたのは、道東の端にある小規模な工場跡地だった。
勝手に豊かな自然が広がる光景を想像していたので、冷たいコンクリートが主の風景は少し意外だった。
夜の海に寄り添うように工場廃墟に包まれた世界。色鮮やかとは言いがたいが、日常から離れた不思議な魅力がじわりと届く。
「ちなみに芽吹の衣装も用意しています。日程は事前に話してた通り、来週末の土日で1泊2日。近郊のホテルも予約済み」
「うわあ……奈津美の行動力がいかんなく発揮されてるね」
「交通手段は、やっぱり車?」
「うん。息吹さんがレンタカー借りてくれるって」
すっかり親しみのこもった「息吹さん」の名に、一瞬胸が潰れそうになる。
この教室で、息吹は奈津美と週末のことを話し合ったのだ。夕日を浴びる2人の姿は、たいそう美しく見えるだろう。自分を映す写真なんかよりも、ずっと。
そんな思考を巡らせる自分に気づき、芽吹は我に返った。
「ホテルの部屋は、私と華で1部屋。芽吹と息吹さんで1部屋ね」
「……えっ」
「うん?」
あっけらかんと言う奈津美に、反応が遅れる。
でも、それが普通か。兄妹なんだから。
「わかった。楽しみ」
胸中の独り言のように返答が上滑りしなかったのは、芽吹にとって幸いだった。
「息吹。明日の準備はもう終わった?」
写真遠征前日。
一通りの荷造りを終えた芽吹が、リビングでくつろぐ息吹に声をかけた。
「へーき。男の準備なんて、そんな大それたもんじゃないし」
「運転手がもたついたら、予定が全部押すことになるでしょ。いいから早く支度する!」
「えー。だってパンツくらいでしょ」
「し・た・く・し・ろ」
引き下がらないと踏んだ息吹が、渋々ソファーから立ち上がる。
この数日で、芽吹の気持ちも大分落ち着いていた。それと同時にはっきりしたことがある。
芽吹は息吹とのこの関係を、大切に思ってる。初対面の時では考えられないくらいに、強く。
願わくばずっと、このまま、兄と妹として──。
「……っ、う」
「芽吹?」
突然すきりと頭が痛み、こめかみを強く押さえた。それを見て、リビングを去りかけていた息吹が素早く背中を支える。
最近落ち着いてきた気持ちに代わって、こんな具合に原因不明の頭痛があった。
生理前には以前からよくあったが、こうも頻発するのは初めてだ。
「また、頭痛? こっち来て、座ってなよ」
「ん、大丈夫。続くようなら、薬飲むから」
「いいから。こっち」
断じるように告げた言葉が、予想以上に近い距離で吹き込まれた。
体が浮遊する感覚に、自分が抱き上げられているのだと気づく。
「だ、大丈夫だってば、下ろしてっ」
「ばたばたしない。黙って運ばれなって」
「恥ずかしいんだってば」
「ねえ、このやりとり、デジャヴだと思わない? 先週薬箱取ろうとして倒れかけたの、誰だっけ」
「……」
記憶に新しい醜態を引き合いに出され、返す言葉がない。
芽吹を運ぶ息吹の手つきが、やけに恭しく感じられる。見上げると視線が合うとわかっていたので、芽吹はそっと視線を落として胸の動悸をやり過ごすしかなかった。
ここ数日、息吹のスキンシップがより激しくなってるのは気のせいだろうか。
顔が熱くなる。兄と妹でいたいなら、妙に意識をすること自体も止めにしたいのに。
「今、薬取ってくるから。頭動かさないで待ってなよ」
異論を認める空気もなく、大人しく言われた通りソファーに横たわる。
薬の種類も錠数もマスターしたらしい。水とともに自信満々に持って戻ってくる兄の姿に、何故だか胸が温かくなった。
今の痛みの程度を考えると、薬を喉に通せば10分もすれば効いてくる。それまでの辛抱だ。
息吹に礼を言うと、真っ直ぐな視線とぶつかった。あ、しまった。さっきまで、この瞳をうまく交わしていたつもりだったのに。
「芽吹さ」
ソファーの前に膝をついた息吹とは、距離も随分と近い。
「な、なに?」
「奈津美ちゃんも言ってたけど。芽吹、最近綺麗になったね」
きれい。
写真モデルを始めて以降、ほんの時折応援がてら投げかけられるようになった言葉だ。
「そう、かな。何やかんやモデルを引き受けてから、色々手入れを気をつけるようになったしね」
「いや、もともと芽吹は可愛かったし。そういうんじゃない」
「そういうんじゃない、って?」
聞き返すと、珍しく息吹は一瞬視線を横に浮かばせた。
「息吹?」
「もしかして、それってさ、あだ」
そのとき、来訪者を知らせるチャイムが鳴る。
振り返った先のモニターには、思いがけない人物の姿が映っていた。
安達先輩──思わず名を呼ぶ直前に、息吹が素早く腰を上げモニターの受話器を取り上げる。
「帰れストーカー」
ガシャン、と受話器を置いた息吹は、清々しい笑みを浮かべていた。いやいやいや。
「ちょっと息吹! そんな乱暴な」
「こんな時間に来るとか非常識なストーカーだねえ。通報しよっか」
ストーカーに常識とか非常識とかあるのか。というか、非常識の塊みたいな人間が何を言ってるんだ。
本気で通報しそうな息吹から、慌てて家電の子機を奪い取る。
「すみません、今出ますっ」
背後のうるさい非難の声とまだ微かに残る頭痛を無視して、芽吹は玄関へと急いだ。
タイピング音が、一瞬だけ空白を作った。
「言われてみれば、似てるところもあるか。変に手がかかるところが」
「ふふ、見てみたかったなあ。学生時代の息吹」
「家を探せば、写真くらいあるだろ」
「なかったんですよ。1枚も」
「そうなのか」
「はい。ありませんでした。写真だけじゃ、なくて……」
血の繋がりも、とは言えなかった。
言ったら最後、何かとてつもないことが起こりそうで。
性懲りもなくこみ上げるもに蒸しタオルを押し当てると、小笠原が黙って見やる。
「なるほど。消えそうな、か」
「え?」
「いや。お喋りは終いだ。今は、何も考えないで寝てろ」
「……はい」
時々薄く泣きながら、それでも芽吹は静かに寝付いた。悪夢に追われない睡眠は、久しぶりだった。
夢の奥で、ほのかに燻された煙草の香りがした。
保健室で仮眠を取ったあと、クラスに戻った芽吹を奈津美と華が出迎えた。
他のクラスメートの視線も自然と集まる。授業中に急に涙を流し始めたんだ。その反応が正常だろう。
当然のように芽吹の心配をしてくれる2人に、芽吹は少しすっきりした頭で大丈夫と返した。
「でもねえ、めっちゃ不謹慎だけど、写真撮りたいくらい綺麗な涙だったよ。さっきの芽吹ちゃん」
「奈津美、本当に不謹慎」
「そ、そんな素敵なもんじゃなかったでしょ。情けなくてもう」
「そんなことないよ!」
「え」
芽吹たちの会話に、ふと横から他のクラスメイトが参加してくる。
「正直、さっきの芽吹ちゃんの泣き顔、胸がキューンとしたもん。ねえ?」
「おい、こっちに話を振るなって。反応に困るべ」
「だってあんたもさっき言ってたことじゃん」
「おいそれ言うな!」
元気づけてくれる人の存在に感謝する。
その言葉すらはね除けようとする自分もたまに姿を見せるけれど、少し外に吐き出したからだろうか。今はその温かさを素直に受け取ることができた。
「それで、例の話をしようってことだったよね?」
そして、今日中に交わす予定だった話を奈津美に振る。
「ん。芽吹の体調が問題ないのが本当ならね、写真撮影で、ここに行こうと思ってるの」
「……ここ、は。もしかして、工場?」
奈津美のスマホに表示されていたのは、道東の端にある小規模な工場跡地だった。
勝手に豊かな自然が広がる光景を想像していたので、冷たいコンクリートが主の風景は少し意外だった。
夜の海に寄り添うように工場廃墟に包まれた世界。色鮮やかとは言いがたいが、日常から離れた不思議な魅力がじわりと届く。
「ちなみに芽吹の衣装も用意しています。日程は事前に話してた通り、来週末の土日で1泊2日。近郊のホテルも予約済み」
「うわあ……奈津美の行動力がいかんなく発揮されてるね」
「交通手段は、やっぱり車?」
「うん。息吹さんがレンタカー借りてくれるって」
すっかり親しみのこもった「息吹さん」の名に、一瞬胸が潰れそうになる。
この教室で、息吹は奈津美と週末のことを話し合ったのだ。夕日を浴びる2人の姿は、たいそう美しく見えるだろう。自分を映す写真なんかよりも、ずっと。
そんな思考を巡らせる自分に気づき、芽吹は我に返った。
「ホテルの部屋は、私と華で1部屋。芽吹と息吹さんで1部屋ね」
「……えっ」
「うん?」
あっけらかんと言う奈津美に、反応が遅れる。
でも、それが普通か。兄妹なんだから。
「わかった。楽しみ」
胸中の独り言のように返答が上滑りしなかったのは、芽吹にとって幸いだった。
「息吹。明日の準備はもう終わった?」
写真遠征前日。
一通りの荷造りを終えた芽吹が、リビングでくつろぐ息吹に声をかけた。
「へーき。男の準備なんて、そんな大それたもんじゃないし」
「運転手がもたついたら、予定が全部押すことになるでしょ。いいから早く支度する!」
「えー。だってパンツくらいでしょ」
「し・た・く・し・ろ」
引き下がらないと踏んだ息吹が、渋々ソファーから立ち上がる。
この数日で、芽吹の気持ちも大分落ち着いていた。それと同時にはっきりしたことがある。
芽吹は息吹とのこの関係を、大切に思ってる。初対面の時では考えられないくらいに、強く。
願わくばずっと、このまま、兄と妹として──。
「……っ、う」
「芽吹?」
突然すきりと頭が痛み、こめかみを強く押さえた。それを見て、リビングを去りかけていた息吹が素早く背中を支える。
最近落ち着いてきた気持ちに代わって、こんな具合に原因不明の頭痛があった。
生理前には以前からよくあったが、こうも頻発するのは初めてだ。
「また、頭痛? こっち来て、座ってなよ」
「ん、大丈夫。続くようなら、薬飲むから」
「いいから。こっち」
断じるように告げた言葉が、予想以上に近い距離で吹き込まれた。
体が浮遊する感覚に、自分が抱き上げられているのだと気づく。
「だ、大丈夫だってば、下ろしてっ」
「ばたばたしない。黙って運ばれなって」
「恥ずかしいんだってば」
「ねえ、このやりとり、デジャヴだと思わない? 先週薬箱取ろうとして倒れかけたの、誰だっけ」
「……」
記憶に新しい醜態を引き合いに出され、返す言葉がない。
芽吹を運ぶ息吹の手つきが、やけに恭しく感じられる。見上げると視線が合うとわかっていたので、芽吹はそっと視線を落として胸の動悸をやり過ごすしかなかった。
ここ数日、息吹のスキンシップがより激しくなってるのは気のせいだろうか。
顔が熱くなる。兄と妹でいたいなら、妙に意識をすること自体も止めにしたいのに。
「今、薬取ってくるから。頭動かさないで待ってなよ」
異論を認める空気もなく、大人しく言われた通りソファーに横たわる。
薬の種類も錠数もマスターしたらしい。水とともに自信満々に持って戻ってくる兄の姿に、何故だか胸が温かくなった。
今の痛みの程度を考えると、薬を喉に通せば10分もすれば効いてくる。それまでの辛抱だ。
息吹に礼を言うと、真っ直ぐな視線とぶつかった。あ、しまった。さっきまで、この瞳をうまく交わしていたつもりだったのに。
「芽吹さ」
ソファーの前に膝をついた息吹とは、距離も随分と近い。
「な、なに?」
「奈津美ちゃんも言ってたけど。芽吹、最近綺麗になったね」
きれい。
写真モデルを始めて以降、ほんの時折応援がてら投げかけられるようになった言葉だ。
「そう、かな。何やかんやモデルを引き受けてから、色々手入れを気をつけるようになったしね」
「いや、もともと芽吹は可愛かったし。そういうんじゃない」
「そういうんじゃない、って?」
聞き返すと、珍しく息吹は一瞬視線を横に浮かばせた。
「息吹?」
「もしかして、それってさ、あだ」
そのとき、来訪者を知らせるチャイムが鳴る。
振り返った先のモニターには、思いがけない人物の姿が映っていた。
安達先輩──思わず名を呼ぶ直前に、息吹が素早く腰を上げモニターの受話器を取り上げる。
「帰れストーカー」
ガシャン、と受話器を置いた息吹は、清々しい笑みを浮かべていた。いやいやいや。
「ちょっと息吹! そんな乱暴な」
「こんな時間に来るとか非常識なストーカーだねえ。通報しよっか」
ストーカーに常識とか非常識とかあるのか。というか、非常識の塊みたいな人間が何を言ってるんだ。
本気で通報しそうな息吹から、慌てて家電の子機を奪い取る。
「すみません、今出ますっ」
背後のうるさい非難の声とまだ微かに残る頭痛を無視して、芽吹は玄関へと急いだ。