(7)
 意識して眺めて、初めて気づく。
 アルバムのところどころに、写真が剥がされ移動された跡が残っていた。
 ただ眺めるだけじゃ「ただのスペース」と捉えてしまうような、絶妙な配置。でも確かに、薄く黄みを帯びた写真跡が、アルバムのイルムに残っている。
 ここに、息吹が写った写真があった?
 憶測だった。でもほとんど確信だ。
 どうして、こうも徹底的に息吹の写真が排除されているんだろう。家を出るときに息吹が持って出たのか。それにしたって、少し異様じゃないか。
 いつだったか、奈津美に言われた言葉が頭をよぎる。
 芽吹言ってたじゃん。お兄ちゃんの昔の記憶が全然ないって。結構妙っていうか、不思議だよねー。
 胸が、大きくざわついた。当初の目的とは、まったく別の何かで。
 掻き立てられるような焦燥感に、芽吹の探索の手つきが荒くなる。すると本棚をあさる手が何かにぶつかり、ばさりと芽吹のひざ元に落ちてきた。
 母子手帳だ。そこからはみ出ているものはエコー写真か。黒い写真が何連かになって、綺麗に折りたたまれている。表紙には、サインペンで大きく「来宮芽吹」の字が書かれていた。
 私が生まれたときの。
 そう思い微かに和らいだ心が、自然と手帳を開かせる。中にはエコー写真の他に、いくつかの手紙も入っていた。「Happy Birthday!」と書かれている。たぶん出産祝いについていた手紙だろう。
 可愛らしいレターセットに記された祝いの言葉に目を通す。そして次の瞬間、動きが止まった。
 表情も。感情をそぎ落としたように、ぴたりと。


《お父さんお母さん、元気にしてる? ちゃんとご飯食べてる?》
《食べてるよー。芽吹たちこそちゃんと食べてる? 体調崩したりしてない?》
《大丈夫。少なくともそっちよりはまともな生活のはず》
《そりゃそうだ(笑)こっちは激務でもみくちゃよ》
《それより唐突なんだけどさ、息吹のお母さんの名前、お母さんはわかる? さっき会話で出たんだけど、ちょっとうまく聞き逃しちゃって》
《随分仲良くしてるみたいね。お名前は空美さんよ。東海林空美さん》
《ありがとう。何度も聞き返すのも躊躇っちゃって、助かったよ》
《亡くなったお母さんの話もするようになったんだ。何だか安心したわ》
《忙しい時間なのにごめんね。仕事根詰めすぎないようにって、お父さんにも伝えておいて》


「……芽吹?」
 何度かドアに耳を押し当てた後、音を立てないように慎重に扉を開く。
 するとそこには、ジト目で息吹を見上げる芽吹が立っていた。
「あのね。扉を開けるのは返事を待ってからって、前にも言ったはずだけど?」
「だね。ごめん」
 息吹は素直にぺこりと頭を下げる。
「俺も、そろそろ眠るけど。芽吹も風呂に入らなくちゃじゃない?」
「そうだね。あのあとちょっとふて寝したら、すっきりしたかも。さっさと済ませて、とっとと寝ようかな」
「泣いたの」
 目元の赤みに気づいた息吹が、とても優しく目尻に触れる。
 眉を下げた芽吹は、それでも焦る様子なく笑った。
「ちょっとだけね。でもまあ、明日には響かないでしょ」
「もしかして、この涙の原因、安達くんだったりするわけ」
「違うよ。……まあ、そうだとしても言わないけどね。息吹、また相手に何するかわからないし」
 あっさり違うと答える、芽吹の言葉を息吹が疑う様子はなかった。事実だったからだ。
 この涙は、安達のことで流した涙じゃない。
「そこは善処する。だから、」
「うん。話したくなったら話すよ。だから、それまで待っててね」
 静かに諭され、息吹は頷いた。
「それじゃあ、おやすみ」
「うん。おやすみなさい」
 静かに閉ざされた扉を見つめ、1階に下りていく。
 浴室で湯船に浸かりながら、先ほど母親と交わしたメッセージを思い返す。
 母の文面には、後ろめたさがひとつもなかった。ほんの僅かでもあるのなら、仕事中だろうと電話をかけてきたに違いない。
 息吹のことは、今までも何度か聞かされていた。芽吹のお兄ちゃん、今はどこにいるんだろうねえ。きれいなお空、お兄ちゃんもどこかで見てるかもしれないよ、と。
 当時中学生の兄を連れた母が、父と再婚し、その後私が生まれた――きっと、どこかで取り違えて覚えていたんだろう。
 誰でもない、芽吹自身が。
「……お父さんは、私のお父さん。息吹のお父さんは、もう亡くなってる」
 確認するように、呟く。
 目頭を両手で押さえた。先ほど開封したメッセージカードには、こう綴られていた。
《初めての出産お疲れさま! 旦那さんと息吹くん、そして芽吹ちゃんと、幸せな家族になってください。友人一同》
「お母さんの、初めての出産が私。息吹のお母さんも――もう、亡くなってる」
 きっと、芽吹だけが知らなかった。
 両親も息吹も、もちろん知っているのだろう。芽吹と息吹は、母も父も違うこと。血の繋がりがないことを。
 芽吹は俺の、可愛い妹なんだよ。
 だって俺、芽吹が世界で一番好きで、大切だから。
「……っ、ぅ」
 長い息を吐く。体に震えが起きるのをこらえきれず、くしゃりと顔が歪んだ。リフレインする兄の声が、今は酷く愛しい。
 私たちは、兄妹じゃなかった。
 私は、息吹の妹なんかじゃなかったんだ。