(4)
「いや。実はあのときは生理前で少し苛ついてて。自分のうっ憤を晴らしただけでそんな格好いいもんじゃ」
「そんなことないよ。現に私は助かったから。それに実は私も、あの時はまだ精神的にキテる時期でねえ。来宮さんが収めてくれなかったら、店の商品投げつけて暴れまわったかもしれない」
 まるでいたずらっ子のように笑う智子に、芽吹もつられた。
「あ、そういえば。来宮ちゃんのご両親、今朝海外に発たれたんだよね」
 ああ、あの無責任と過保護を器用に両立させた人たちですね。
「ご家庭で話し合ったことだろうから、私から何か言うわけじゃないけれど、何か困ったことはない?」
「いえ、大丈夫です」
 本当は、人生最大の困ったことを抱えている。でも口にすることがせずに、早めに話を打ち切った。智子の表情が、わずかに陰ったのを感じたから。
「それより智ちゃん、もしかして体きつい?」
「あーううん大丈夫。ちょっとだけね、お腹が、張って」
「大丈夫? とりあえずこっち、寄りかかって」
 言うや否や、智子は眉をしかめ身を屈めた。救急車を呼ぶか問うと、旦那が今日は休みで家にいるという。
 職員室から荷物を拝借した芽吹は、職員玄関で智子とともに旦那の迎えを待つことにした。
「来宮ちゃん、本当にごめんねえ。何から何まで」
「頼れるところは頼っていいんだよ。こんなに大きなお腹抱えてるんだから」
「はは、それ、夫の最近の口癖そのまま――」
 芽吹は、無意識に玄関フードの先を見た。頬の筋肉を強張らせたまま息をのんだ智子に倣って。
 視線の先には、特段おかしなものは何もなかった。もし旦那の車でこの反応をするのなら、即刻離婚した方がいいだろう。
 智子の瞳は、何かにひどく怯えていた。
「智ちゃん? 何か……」
「せ、いもんに、あ、待って、来宮ちゃん」
 すぐさま正門に目を凝らす。けれど、視界には何も映らなかった。
 制止する智子の声を残して、上履きのまま正門へと向かう。
 そして、すぐに後悔した。
「あれ。本当に会えるとは思わなかった」
「……」
 なぜ、あんたがここにいる?
「散歩がてらあちこち回ってたら、学校の立て札があってさ。もしかしたら芽吹に会えるかもって。制服も確かこんなんだったし」
 野生のような嗅覚だ。
 相変わらずうっとおしい長髪は、日の光を浴びて幾分か軽くも見える。それでも、グレーのパーカにお世辞にもヴィンテージとは言えないデニム姿の息吹は、やはり「不審者」と形容するしかないいで立ちだった。
「いいね、この学校。夕日の入りが綺麗」
「あのね。とにかく今すぐここから――」
 そこに、大きなクラクションが鳴り響いた。
「え」
「あら」
 よもや息吹と芽吹を狙うように、一台の車が突っ込んでくる。
 唐突なことに、芽吹は小さく息をのむのがやっとだった。車は、金切り声を上げた後、急停止した。
「ちょっとあんた! こんなところでなにやってんだ!」
 車から飛び出してきたのは、私服姿の真面目そうな男だった。
「いい加減にしろ! こんなまで押し寄せるなんて……!」
「はあ」
 顔を真っ赤にして食い掛かる男に、息吹は気の抜けた返答を漏らす。
 いやいやいや。ちょっと待て。
 今怒鳴るべきは轢かれそうになったこちらであって、運転していたそちらじゃないでしょうよ。
 目の前で起こった出来事のインパクトが強すぎて、思いは声にならない。
 よれついたグレーのフードが、芽吹の視界をのそりと覆った。
「待って健太さん! その人は違うよ!」
「智子……え、違うって……」
「――この人は、私の兄です」
 慌てて駆け寄ってきた智子と暴走男の会話に、芽吹の言葉が重なった。
 口から滑り落ちたそれに、芽吹は自分でも驚いた。


「ごちそうさまでした。芽吹は料理もうまいねえ」
 出した料理を出した分だけ腹に収めた息吹は、満足げにお腹をなでる。
 先ほどの智子と全く同じ動作なのに、浮かぶのは呆れと脱力感だけだった。会話をすべて無視するわけにもいかないので、「お皿は下げといて」とだけ告げた。
 まだ食べている芽吹の視界の端で、息吹は自分の分の食器を洗い始める。水がちょろちょろとしか出していないからか、進みが異様に遅い。
「芽吹の先生夫婦、なんか妙だったね」
 読心術があるのか、と芽吹は思った。智ちゃんは先生ではないけれど、訂正しないことにする。
「先生も旦那も、あの後普通に頭下げてたけど。あれかな、車に乗ると性格変わるってやつ」
「智ちゃんも顔真っ青にして、何だか様子がおかしかった」
 ついまともな返答をしてしまう。智子は息吹の人影に怯え、旦那は怒り、車で脅かそうとまでした。
 まあ、息吹には通用しなかったけれど。
「でも、こんな風貌じゃ不審者と思われても仕方ないでしょ」
「越してきたばかりで、暇なんだよねえ」
「仕事探しなよ。すぐに」
「はは」
 はは、じゃないよ、と芽吹は思った。
 このまま平日の日中に浮浪され続けたら敵わない。1週間で仕事を見つけなければ、本気で追い出してやると心に決めた。
「まあ、先生は大事ないといいねえ。お腹も大きいことだし」
「ん」
 息吹がふんふんと妙な調子の鼻歌を奏でる。次第に上がっていったキーを辿れなくなったのか、すん、と空砲に終わったところで、芽吹の夕食も終わった。
 さて、これからどうするか。
 リビング以外にある部屋は、2階の芽吹の部屋と元両親の部屋。息吹は当然後者の部屋を使うことになる。両親もそうしろと言っていた。
 部屋の扉に、鍵はない。
 自意識過剰だろうが、ほぼ見知らぬ男と一つ屋根の下。うん、やっぱり異常だ。夕食をともにした手前、今から抵抗を示すのも変かもしれないけれど。
「怖い?」
 いつのまにか目の前に立っていた長身に、芽吹の肩がびくと震える。
 昨夜はまだ両親がいたから、本音に近いことも明け透けに口にできた。でも今は、そうじゃない。
 ただのひとつも、間違いは許されない。そんな難解なテストを前にしている気分だった。
「俺に気にしないで、芽吹はもう寝なよ」
 誰のせいだ、と目を細めると、息吹はいつ用意していたのかわからない鞄を肩に担いだ。
「俺は、外で眠るから」