(5)
「安達先輩!」
 すっかり遅くなってしまった、グラウンドの片隅。
 ようやく帰ってきた安達を見とめ、芽吹はベンチを立ち上がった。
 監督の指導予定が急遽変更になり、部活は1時間ほど早めに撤収していた。芽吹は、それでもいまだランニングから帰らない安達を待つ役を買って出た。
「……芽吹?」
「大丈夫ですか、すごい汗……」
 見たことのない大量の汗を流している姿に、慌ててタオルを持ち寄る。
 こんな時間まで、ずっとランニングをしていたのか。上がりきった息はとうに掻き切れ、喉元から変にくぐもった音がしている。
 咄嗟に出そうになったのは諭しの言葉。しかし、安達の視線に気づき、それは吐息に溶けて消えた。
 こちらを見てるようで見ていない――そんな、虚空を見るような眼差しに。
「安達、先輩?」
「ああ、さんきゅ。待っててくれたのか」
 向けられた笑顔に、違和感があった。
 先ほどの話を聞いたからだろうか。何か言いたそうにする表情は珍しく、芽吹の胸をざわつかせる。
「こんな時間までランニングなんて、無茶苦茶です。田沼先輩も、心配してたんですよ」
「そっか。明日怒られとかなきゃだな」
「少し休んだら、鍵閉めますから。とりあえずベンチに」
「いやいいよ。もう暗いし、鍵なら俺が返しとく。先に上がって」
 ここまできて、違和感の正体がわかった。
「安達先輩」
「ん?」
「どうして、こっちを見てくれないんですか」
「……え。見てるって」
「見てません。一度も」
 安達の瞳は、いつも真っ直ぐ誤魔化しがない。すでにライトが落ちら夜のグラウンドだろうと、この指摘には確信があった。
 芽吹の強い言葉に、安達は観念したようにゆっくり顔を向ける。
 凪のように静かな表情に、芽吹の胸の奥がすうっと冷たくなった。
「……あーあ。せっかくランニングで振り切って、頭冷やしてきたはずだったのに、全部パーだな」
「先輩……?」
「やっぱり俺、お前のことが好きだわ」
 直球で告げられたのは、愛の言葉。
 それでも、今この場の空気には到底馴染むものではない。
 照れるという感情は、心のゆとりがあって初めて抱けるのだと、芽吹は初めて知った。
 じゃり、と安達が地面を踏みしめる音が、やけに耳につく。
「本音言うとさ。最近は特に、俺への警戒心も解いてくれたのかなとか思ってたんだ。それって俺の自惚れだった?」
「……いえ。自惚れなんかじゃ」
「それじゃあ」
 とうとう互いのつま先が触れるほどまで、距離が詰まる。
 見上げると、すぐそこに安達の端正な顔が広がった。
「どうしたら俺は、お前に振り向いてもらえんのかな」
 しかし、いつも向けてくれる太陽のような笑顔は、そこにはない。
「せん、ぱい……」
「駄目だな。ついさっき、『気長に待つ』なんて言っておきながら」
 くしゃりと髪を掻いた後、小さく溜め息がこぼれる。「でもさ」
「例えば……今ここでキスしても、お前に嫌われないっていう絶対の保証があるんなら」
「っ」
「今すぐにでも、してえよ。少しでも、俺のモンにしたいし……そう感じたい」
 頭を掻く手の隙間から、揺らめく瞳の光がぶつかる。
 詰まるような鼓動が、胸を激しく叩く。目の前の人を求めるように、強く、強く。
 芽吹は、震える唇をきゅっと締めた後、意を決して口を開いた。
「安達先輩。あの、わ、私」
 この胸にある焦燥感も戸惑いも、この人に伝えたい。伝えなければ。
「私、も。あ、安達先輩のことが……っ」
「っ……」
「ん……、っえ?」
 しかし、紡ごうとした言葉は、安達の指先に留められた。
「安達、先輩?」
「悪い。本当は、今の続きを死ぬほど聞きてえ。……でもその前に、確認しなくちゃいけねえことがある」
 せき止められた想いの行き場に困惑する。それでも向けられた真剣な表情に、芽吹は続く言葉を待った。
「本当は、ずっと考えてたことだ。口にするつもりもなかった。でもやっぱ、自分を誤魔化し続けんのは、しんどい」
「先輩? 一体何を」
「馬鹿な質問と思うかもしれないけど、聞いて」

 芽吹お前――本当の本当は、あの兄貴に惚れてるんじゃねえのか。

「……え?」
 その問いは、芽吹の胸に未知の穴をあけた。
「少なくとも、あの兄貴のお前への執着はでかすぎる。躊躇いなく妹にキスだって、普通なかなかできるもんじゃねーよ」
 その通りだ、と芽吹は思った。
 でも、まだ長いとは言えない同居生活の中で、「息吹はそういうもんだ」という認識で片づけていた。
「そんな兄貴と一緒にいれば、情にほだされることだってあっても不思議じゃないよな。よく見ればあの人、見た目も整ってる」
「そんな……馬鹿なこと。だって私たち、兄妹ですよ?」
「最近まで、顔もろくに知らないような、だろ?」
 芽吹の言い分を軽く交わす安達は、自ら傷ついているように見える。
「本当に悪い。こんなこと言うつもりなかった。だって、敵に塩送るような真似だもんな」
「先輩……」
「でも――もしそれが、俺に対する好意に繋がっていたら?」
 告げられた意味が、すぐには理解できなかった。
「芽吹が俺に心を許してくれている気がするのも、向ける表情が柔らかくなった気がするのも。俺に兄貴の面影を見てるからじゃねえのか?」
 息吹の、面影を?
 その瞬間、告げる安達の顔に息吹の顔が薄く重なる。違う。今のは、言葉に引きずられただけだ。
「さっき野球部の奴らにも言われた。2人はどこか似てるってな。もしかしてお前も、無意識にそう思ってたんじゃねえのか」
「っ、待ってください。そんなことあるわけ」
「本当か? 100%絶対にないって、断言できるのかよ!?」
 感情的に放たれた言葉に、肩がびくつく。
 はっとした安達が、「悪い」と苦しげに言う。
「わかってんだ。こんなん、単なる嫉妬だって。俺が勝手に勘ぐって、お前も巻き込んで……はは、格好悪いよな」
「安達先輩……」
「でも、もし本当にそうなんだとしたら……さすがにへらへら笑ってられねえから」
 一瞬だけ和らいだ空気が、ピンと再び強く張る。
「言葉だけもらえても、意味ねえよ。本心では他の男を見てるんだとしたら……空しいだけだ」
 最後の最後に、安達はいつもみたいに明るく笑って見せた。
「だから、もしそうだとわかったら――もう少し残酷に、俺との距離を取ってほしい」
 じゃねえと、お前に惚れたこと自体を、後悔しちまいそうだ。
 この笑顔をこんな気持ちで見ることになるなんて、思いもしなかった。