(4)
「……!」
 身内の芽吹ですら、ぞくりと胸が粟立った。
 あっけらかんと残酷な宣告の後、息吹がグラウンドから軽快に緑地へと降り立つ。
「目撃者Aになるのはいいが、目に余る行動は控えろよ。俺は見たまんまを説明するぞ」
「うん。ありがとね、葵」
「っ、きゃ……!」
 次の瞬間には体の拘束が解かれたかと思うと、すぐそばで男が地面に振り落とされた。
 聞きなれない変な音が鳴ったようだ。心配する筋合いはないが、大丈夫だろうか。
「い、息吹」
「芽吹。怪我してない?」
「うん私は。でも、安達先輩が」
 腕の後ろに庇われた芽吹が、咄嗟に安達を指さす。指先に倣った息吹は「あー」と目を細めた。
「なるほど。プレイボーイは、傷をつけられても絵になるねえ」
「っ、てめえ、一体何もんだ!」
「うん。脇役Bも、少し黙ってて」
 言うや否や、安達を痛めつけていた男の体が素早く宙に浮く。息吹が蹴り倒したのだと、芽吹は一瞬後に気づいた。
 短い悲鳴の後、脇役Bもそのまま気を遠くしてしまった。
「で。あんたは俺の妹に何の御用?」
「妹、か」
 話を振られた大男が、一歩こちらに歩み出た。
「よくわかったな。妹さんが呼び出された場所と時間が」
「あんたたちの校内の手下、登校する生徒ばっかに気をとられててね。購買のお兄さんが見てることに、気付かなかったみたいだよ」
「人選を誤ったか。靴箱にメモを入れるくらい、スマートにやってほしいもんだな」
 苦笑する大男が、膝をついていた安達の前髪を乱雑に持ち上げる。
「ちょ、やめてってば!」
「芽吹、いいからそこにいな」
「でもっ」
「今芽吹が飛び出して万一怪我でもしたら、お兄ちゃんが殺人犯になるかもだけど、それでもいい?」
「……」
 いいわけがない。
 本気か冗談かわからない発言に、芽吹の勢いが削げる。それを笑顔で確認した息吹が、大男と安達を交互に見た。
「あんたはそこのプレイボーイに恨みがあるんでしょ。そこにどうして芽吹が巻き込まれてるのかな」
「こっちにはこっちの事情があるんだよ」
「へえ、お互い『妹』に振り回されてる、ってわけ?」
「……」
 芽吹の問いに、大男は答えない。無言の肯定だった。
「妹さん……?」
 小声で洩らす安達に、再び大男はぐいっと前髪を引き上げる。
 苦し気な声とともに、安達の瞳が大きく見開かれた。
「ああ、そういうわけか」
「安達先輩?」
「身に覚えのない恨みなら、これ以上はご免だけどな」
 まるで悟ったような安達の表情に、大男の顔にはじわりと不快感が浮かんた。
 それはつまり、安達にも身に覚えがある、ということだろうか。
「無駄口は叩くな。いずれにしろ、お前に選択肢はねえんだよ、色男」
「でしょうね。痛いのは嫌いですが、仕方ありません」
「力加減は保証できねえ。歯あ食いしばれよ」
 みしっと地鳴りのような関節音を鳴らし、男が拳を振り上げる。
 思わず息吹を押しのけて踏み出た芽吹だったが、結局それは叶わなかった。
「……おい。何のつもりだ?」
「言ったでしょ。俺も、可愛い妹に振り回されてるお兄ちゃんなんだってば」
 大男の強靭な拳を、息吹の右手が受け止める。
 安達を後ろに追いやると、息吹はそのまま大男と対峙した。
 前にも後ろにも動かない拳におののきを覚えながら、芽吹は急いで安達に駆け寄る。
「先輩!」
「あー……、マジで、悪かった。芽吹」
「と、とにかく傷を」
 慌ててポケットからハンカチを取り出すと、すぐ横に救急箱が置かれるのが見えた。
「小笠原先生……」
「行き掛けの駄賃だ。一応、養護教諭なもんでな」
「ありがとうございます」
 手際よく怪我の様子を見る小笠原に安達を任せ、息吹に視線を移した。
 2人はいまだに組み合ったまま、力を拮抗させている。
「あんたの妹さんを傷つけるつもりはハナからなかった。あんたがでしゃばるところじゃねえだろう?」
「そうなんだけど、仕方ないでしょ。芽吹は、あのプレイボーイを守りたいみたいだからね」
 言葉通り「仕方なさ」を全面に出した息吹は、そのまま男の拳を勢いつけて振り払った。それなりの衝撃があったのか、受け止めていた手をひらひらと仰いでいる。
「うわー、あんたの腕っぷし、結構やばそう」
「あんただって、わかるんじゃねえのか。心底惚れた男に泣かされる妹を見た時の、兄貴の気持ちが」
 絞り出すように告げた大男に、息吹は迷う間もなく頷いた。
「ん。そうだね」
「あんたもそう堪え性があるようには思えねえ。男に拳をお見舞いするくらい、躊躇なくするだろう」
「ん。だと思うよ。でも」
 再度肯定する兄に内心突っ込みを禁じ得ない芽吹だったが、続く言葉がそれを制した。
「妹が『それ』を望んでないなら――自分の腕を落としてでも、その拳を収めるけどね」
「息吹……」
 息吹から向けられる思いに、芽吹はひどく戸惑った。
 自分には想像したことのないほどの、激しい愛情。兄だというだけで、誰でもそこまで盲目的な愛を持てるものなの。
 そして――それを垣間見るたびにせりあがってくるこの感情は、いったい何なんだろう。
「それは、あんただって一緒でしょ。妹が望んでいないなら、こんな馬鹿げたことはしない」
「……」
「つまり、『それ』を望んだわけだ。あんたの妹さんは」
 大男は、苦虫を噛み潰したように顔を歪ませた。
「自分の手を汚さず、兄を頼ったわけだ。随分賢い妹さんだね」
「……あいつが、俺に何かするよう指示をしてきたわけじゃねえ」
「でも妹さんは知ってるんだよ。あんたに泣いて相談しさえすれば、自分の望む行動を取ってくれるってさ」
 残酷な笑顔で言葉を続ける息吹が、ポケットの中から小型器機を取り出す。いくつかあるうちのボタンを押すと、薄い雑音に覆われた音声が流れてきた。
 誰かが、電話している女の声が聞こえる。
 涙に沈んだ口調で話を終えたその声は、電話を切った瞬間に口調が変わった。
 ――本当、扱いやすいんだよね。単純馬鹿なお兄ちゃん。