(3)
 指定の時間には少し早いけれど、問題ないだろう。
 例のメモ以外に予定がなかった芽吹は、早めにグラウンドに向かうとひとまず野球部の小屋に入り込んだ。ここで待っていれば、人が来たらすぐに窓から確認できる。
 今日、廊下で一瞬安達を見かけた。しかし珍しく目を逸らされた。それだけ人目を気にする話、ということかもしれない。
「あれ」
 メモを何気なく眺めていると、あることに気づいた。
 一度浮かんだ違和感に引っ張られるように、芽吹は小屋内の棚にあるスコアブックを手に取る。パラパラページをめくっていくと、目当てのページでぴたりと手を止めた。
「……『安達』の書き方、微妙に違う……?」
 時折目にする安達の筆跡とよく似ていたため疑わなかった。
 でもこうして改めて以前安達が書いた文字と比べると、その違いが浮かび上がってくる。安達の書く「達」は、最後の払い部分が決まって上に数ミリ跳ねているのだ。
 じゃあ、このメモ、安達先輩が書いたものじゃない?
 妙な事実に行き着くのと、誰かの気配がしたのはほとんど同時だった。
 安達先輩だ。
 芽吹は慌ててスコアブックを本棚にしまう。文字のことはただの偶然らしい。だって安達先輩はここに来たもの。
 大きな安堵と大きな緊張が胸に過る。グラウンド裏に通じる緑地へ降りていく安達を確認し、芽吹も後を追おうと扉に手をかけた。
 その時だ。
「え」
 誰かが、苦しげな声とともに倒される音が、プレハブ内からでもかすかに届いた。
 え、なに、今の。
 扉を開けかけた手が硬直し、心臓がバクバクと大きく打ち鳴らす。すると誰かの怒号とともに、同じような音が何度か繰り返された。
 立ちすくみそうになる足を無理やり動かし、芽吹は緑地の方へ走りでた。
 グラウンド裏は、数段の階段を通じて学校外の緑地を繋がっている。
 見下ろした先の光景に、芽吹は無意識に声を上げた。
「安達先輩!」
「芽吹……?」
 数人の男に囲まれた安達が、顔をしかめて腰を落としている。その顔には、血のにじんだ傷があった。
「おいおい、あんたがここに来るには、まだ早すぎるよ」
 男のうちの1人が愉快そうに言う。芽吹は安達のもとに走り、庇うように首もとを抱き込んだ。
 はやし立てるような男たちからの口笛も、今は気にならなかった。
「あなたたちは、誰ですか」
 制服も着ていない。外見を見ても、歳は二十歳もとうに超えているだろう。もしかしたら、すでに社会人かもしれない。
「名乗るほどのもんじゃねえよ」
「人を呼び出しておいて、それはないんじゃないですか」
「はは、ばれちまったかあ」
 悪びれない様子で頭をかく男に、静かな怒りがこみ上げる。
 でも、一体どうやって部外者が校内に侵入したんだろう。下駄箱にせよ、安達のペンケースにせよ、部外者が手を出すことは、決して簡単ではないはずだ。
「俺たちはここの卒業生でなあ。昔は少しやんちゃしてた連中なんだよ」
「そんでやんちゃ者同士は、歴代の繋がりは持ったままってわけ」
「なるほど」
 うちの校内の「やんちゃ君」が、手足となって動いてたということか。でも、どうやらこいつらが主犯のようだ。
 正確には、先ほどから一歩引いてこちらの様子を眺めている、最も体躯の良い――あの大男が。
「逃げろ、芽吹」
 囁いた安達が、芽吹の体を押しのけるように後ろへやり、その場に立ち上がった。
「あんたたちの目的は俺なんだろ」
「まあ、そうだな」
「それなら」
 立ちふさがっていた安達の上体が、次には深く下げられた。
 驚きに目を見開いたのは、芽吹だけではなかった。
「お願いします。こいつには手を出さないで下さい。俺の事情ならこいつは何も関係ない。それにこいつは、女だ」
「先輩、私は」
「お願いします!」
 芽吹の反論をかき消すように、大きな声が響く。
 私にはって、それって先輩はどうなるの。躊躇なく人に怪我をさせるような大人3人相手に、安達先輩は、今から。
「いや。残念ながら、その女にも用はある」
 体躯の良い大男が、ようやく口を開いた。
「でも確かに、一番大事な用事はお前あてだ、安達、克哉」
「……名前をご存知ですか。俺の記憶では、あなたには面識はないようですけど」
「それでも、色々思い当たることはあるだろう。そんな色男ならな」
 大男があごをしゃくると、1人が芽吹に近づく。
 それに素早く反応した安達が、再び芽吹を自分の背中へ庇った。押し付けられた広い背中に、芽吹の胸がぎゅっと締まる。
「心配すんなよ」
 次の瞬間、鈍い衝突音が響き、安達が倒れた。
「っ、安達先輩!」
「この女はひとまず観客だ。お前が素直にボコボコにされてさえいればな」
「……それ聞いて、安心しました」
「やめて!」
 背後から羽交い絞めにされ、身動きが取れない。芽吹はただ喉を擦りつけるように叫ぶしかできなかった。
 鈍い音が辺りに響き、目の前で安達が次々に痛めつけられていく。鋭い膝蹴りが安達の腹に突き上げられ、安達はその場にひざをついた。私、何もできないの。私は、私は――。
「っ、い、ぶき。息吹……!」
「はーい」
 その返事は、あまりに呑気なものだった。
 声をした方へ視線を向けると、2人の長身がこちらを見下ろしていた。夕日が逆光になっている。
 息吹、と、小笠原先生?
「へえ、学校裏って、こんな広場になってたんだ。いいね。遠くの山が薄っすら見える」
「おい息吹。こりゃ一体どういうことだ」
「ああ、葵は手出ししなくていいよ。ただの目撃者Aになってほしいだけだから」
 無理やり目撃者役として付き合わされたらしい小笠原は、心底迷惑そうに溜め息をついた。
「んなもんこの暴行現場を、適当に写真でも撮っておけばいいだろーが。俺も暇じゃねえ」
「……あー、まあ確かに、芽吹を構図に入れなきゃそれでもよかったかな」
 少し考えた後、息吹は男たちを見据えて笑った。
「あんた達なら、別に死んでもいいしね」