(3)
「えっと、倉重さん?」
「本当は私も、辞めたくなんかなかったんだけど……でも私、やっぱり今でも、克哉さんのこと……」
ん? 辞めるけど、辞めたくないけど、辞める?
よくわからない発言を残したまま、百合は潤んだ瞳をしっかりこちらに見せつけた後、廊下の向こうに走り去って行った。え、何だったんだ今の。というか、克哉さんって誰のこと。
ぽかんと立ち尽くしていた芽吹に、廊下奥からやってきた担任が声をかける。ああそうだ、ホームルームだ。
教室へときびすをかえした芽吹を待ち受けていたのは、好奇と不信の目線だった。
「やってくれたね。あの性悪女」
扉近くの席の奈津美が、隠す気のない声量で吐き捨てる。
いまだ混乱する頭を抱え、ひとまず自分の席についた。そこでようやく合点がいく。
さっきのやりとりを見た人のほとんどは、芽吹とのやりとりが原因で百合が泣き出したと思うだろう。平民の芽吹が、隣クラスの美少女を傷つけたと。
わざわざ注目を浴びるタイミングで呼び出したのも、人目につく場所で話を始めたのも、もしかして仕組まれた?
そして、ようやく思い出した。
「それと、来宮芽吹は、ホームルーム後速やかに職員室まで来るように」
克哉――ああそれ、安達先輩の名前だ。
職員室に来たはずの芽吹は、いつの間にか校長室に立っていた。
目の前には、教頭と学年主任、そして野球部監督と顧問と、そうそうたるメンツが揃っている。
促されて椅子に腰を掛けたが、座り心地を堪能する余裕はもちろんなかった。今から何が起こるのかまるでわからず、思考がほとんど停止している。
「突然お呼びだてしてごめんなさいね、来宮さん」
「いえ、大丈夫です」
「今日来てもらったのはね、その、あなたに確認したいことがあったからなの」
まるで羊に似た印象を覚える女性教頭が、言いにくそうに話を切り出す。
テーブルにそっと差し出されたものに、芽吹は息をのんだ。
「今朝早く、匿名でこの写真が送られてきたの。それでその、ここに写っているのは、あなたじゃないかしら」
見覚えのある光景だった。
グラウンド隅の野球部倉庫の陰。雑巾類を洗濯するためのレールが引いてある、あの場所だ。
扉が半開きになっている倉庫の中に、男女2人が肌をむき出しにして絡む姿が写っていた。
1人は芽吹、もう1人は――安達だ。
「それでね。こちらもこんなものが送られてきた以上、何か対処しなければということになって。あ、もちろん男女交際に口を出すつもりはないわ。個人の自由よ。ただ、その」
「教頭先生、後は私が」
言葉を探りあぐねている教頭に代わって、学年主任が引き継いだ。
「あー、つまりだ。こういった行為が学内であったと世間に知れたら、どの程度影響が出るかわからない時代だ。野球部はここ数年活躍も目覚ましいし、安達は2年ながらすでに期待のエースだ。ここでチームから抜けることは、お前としても本意ではないだろう」
「……」
ああ、そういうことか。
藍の色がじわりと布に染みるように、云わんとすることを読み取れた。
「……はい。入部間もないマネージャーがいなくなったほうが、ずっとましでしょうね」
「来宮。俺はこの写真を信じられない。本当のことを言ってくれないか。この写真は本当にお前と安達なのか」
ずっと押し黙っていた監督が、堪えきれなくなったように声を上げた。でも、そんな確認はすでに無意味だ。
出所のまるでわからないこの写真が誰かから送られてきた以上、次はどこに流出するのかわからない。
今とれる最良の策は、問題の2人の関わり合いを完全に断つことだ。
「ありがとうございます。でも、部に迷惑をかけてまでマネージャーを続けるつもりはありません」
「来宮……!」
写真をそっと一瞥した後、芽吹は深く頭を下げた。
きっと、この野球部には縁がなかったのだろう。1か月前にも抱いた諦めの感情が、胸の中を支配する。
「何度もお手数をお掛けしてすみません。退部届を頂けますか」
「待てよ」
無理やり扉が開けられる音とともに、憮然とした声が校長室に響く。
頭を上げると、息を大きく弾ませてこちらを睨む安達の姿があった。瞬間、つん、と芽吹の鼻の奥が痺れる。
「先輩……、なんでここに」
「当事者の1人しか呼ばないなんて、フェアプレイじゃないですよ。そうでしょ、監督」
「……ああ。まったくだ」
同調する監督に促されるようにして、安達がテーブルの前に進む。
その上に置かれた写真を手に取り、ぐっとその手に力がこもった。
それ、私の裸じゃありません。とっさにそう言いたくなった自分に、芽吹は驚いた。
「これは、100%有り得ません」
「でも、じゃあ、この写真はいったい」
「知りません。合成とかそういうことでしょ。少なくともこんなこと、俺もこいつも一切身に覚えがありません」
「しかしなあ、どう見てもこれは」
「俺は、こいつに絶賛片想い中なんですよ」
「えっと、倉重さん?」
「本当は私も、辞めたくなんかなかったんだけど……でも私、やっぱり今でも、克哉さんのこと……」
ん? 辞めるけど、辞めたくないけど、辞める?
よくわからない発言を残したまま、百合は潤んだ瞳をしっかりこちらに見せつけた後、廊下の向こうに走り去って行った。え、何だったんだ今の。というか、克哉さんって誰のこと。
ぽかんと立ち尽くしていた芽吹に、廊下奥からやってきた担任が声をかける。ああそうだ、ホームルームだ。
教室へときびすをかえした芽吹を待ち受けていたのは、好奇と不信の目線だった。
「やってくれたね。あの性悪女」
扉近くの席の奈津美が、隠す気のない声量で吐き捨てる。
いまだ混乱する頭を抱え、ひとまず自分の席についた。そこでようやく合点がいく。
さっきのやりとりを見た人のほとんどは、芽吹とのやりとりが原因で百合が泣き出したと思うだろう。平民の芽吹が、隣クラスの美少女を傷つけたと。
わざわざ注目を浴びるタイミングで呼び出したのも、人目につく場所で話を始めたのも、もしかして仕組まれた?
そして、ようやく思い出した。
「それと、来宮芽吹は、ホームルーム後速やかに職員室まで来るように」
克哉――ああそれ、安達先輩の名前だ。
職員室に来たはずの芽吹は、いつの間にか校長室に立っていた。
目の前には、教頭と学年主任、そして野球部監督と顧問と、そうそうたるメンツが揃っている。
促されて椅子に腰を掛けたが、座り心地を堪能する余裕はもちろんなかった。今から何が起こるのかまるでわからず、思考がほとんど停止している。
「突然お呼びだてしてごめんなさいね、来宮さん」
「いえ、大丈夫です」
「今日来てもらったのはね、その、あなたに確認したいことがあったからなの」
まるで羊に似た印象を覚える女性教頭が、言いにくそうに話を切り出す。
テーブルにそっと差し出されたものに、芽吹は息をのんだ。
「今朝早く、匿名でこの写真が送られてきたの。それでその、ここに写っているのは、あなたじゃないかしら」
見覚えのある光景だった。
グラウンド隅の野球部倉庫の陰。雑巾類を洗濯するためのレールが引いてある、あの場所だ。
扉が半開きになっている倉庫の中に、男女2人が肌をむき出しにして絡む姿が写っていた。
1人は芽吹、もう1人は――安達だ。
「それでね。こちらもこんなものが送られてきた以上、何か対処しなければということになって。あ、もちろん男女交際に口を出すつもりはないわ。個人の自由よ。ただ、その」
「教頭先生、後は私が」
言葉を探りあぐねている教頭に代わって、学年主任が引き継いだ。
「あー、つまりだ。こういった行為が学内であったと世間に知れたら、どの程度影響が出るかわからない時代だ。野球部はここ数年活躍も目覚ましいし、安達は2年ながらすでに期待のエースだ。ここでチームから抜けることは、お前としても本意ではないだろう」
「……」
ああ、そういうことか。
藍の色がじわりと布に染みるように、云わんとすることを読み取れた。
「……はい。入部間もないマネージャーがいなくなったほうが、ずっとましでしょうね」
「来宮。俺はこの写真を信じられない。本当のことを言ってくれないか。この写真は本当にお前と安達なのか」
ずっと押し黙っていた監督が、堪えきれなくなったように声を上げた。でも、そんな確認はすでに無意味だ。
出所のまるでわからないこの写真が誰かから送られてきた以上、次はどこに流出するのかわからない。
今とれる最良の策は、問題の2人の関わり合いを完全に断つことだ。
「ありがとうございます。でも、部に迷惑をかけてまでマネージャーを続けるつもりはありません」
「来宮……!」
写真をそっと一瞥した後、芽吹は深く頭を下げた。
きっと、この野球部には縁がなかったのだろう。1か月前にも抱いた諦めの感情が、胸の中を支配する。
「何度もお手数をお掛けしてすみません。退部届を頂けますか」
「待てよ」
無理やり扉が開けられる音とともに、憮然とした声が校長室に響く。
頭を上げると、息を大きく弾ませてこちらを睨む安達の姿があった。瞬間、つん、と芽吹の鼻の奥が痺れる。
「先輩……、なんでここに」
「当事者の1人しか呼ばないなんて、フェアプレイじゃないですよ。そうでしょ、監督」
「……ああ。まったくだ」
同調する監督に促されるようにして、安達がテーブルの前に進む。
その上に置かれた写真を手に取り、ぐっとその手に力がこもった。
それ、私の裸じゃありません。とっさにそう言いたくなった自分に、芽吹は驚いた。
「これは、100%有り得ません」
「でも、じゃあ、この写真はいったい」
「知りません。合成とかそういうことでしょ。少なくともこんなこと、俺もこいつも一切身に覚えがありません」
「しかしなあ、どう見てもこれは」
「俺は、こいつに絶賛片想い中なんですよ」