荷物を片付けた俺は、自転車を押しながら、川沿いの土手を家に向かい歩き始めたんだけど。今隣を歩いているのは、垢抜けた外見とは裏腹の、まるで昔に戻ったかのような春香だった。
 身を小さくし俯いたままの彼女は、何も言わずに俺の脇を歩いている。
 今、俺達を包んでいるのは、夏の暑さと蝉の声。そして、自転車のタイヤが回る音だけ。

 さっきまでちゃんと話せてたのに、何でこんな風になってるんだ?
 そんな疑問はあったし、それを聞いてみたくもあった。
 だけど、聞けなかった。
 理由は単純。今の彼女こそ、間違いなく俺の知っている(・・・・・・・)春香だからだ。

 昔っから、大人しく表情もあまり変えない彼女と、こうやって歩いてきた。
 だから感覚でわかる。今あいつに何かを尋ねても、まともな会話はできないだろうって。
 返事をもらえても、いいとこ「うん」、「ううん」くらいだと思う。
 それくらい、当時から人と話すのが苦手だったしな。
 
 折角再会したのに、全然話をできていない。
 そこにもどかしさがないかといえば、嘘になる。
 だけど、正直この状況にちょっと懐かしさも感じていて、嫌だっていう気持ちもあまりない。

 昔っからこんな感じで、無言のまま並んで歩く事もざら。
 だからこそ、やっと春香が側にいるんだって実感できてる所もあってさ。
 この方が気持ち的に楽だと思っている自分がいるのは、ちょっと複雑でもあるけど。

 まあでも、これだけ可愛くなったあいつが、まるで別人のように積極的に話し掛けてきたらこっちが困るし、これはこれで助かってる。
 春香以外の女子と二人っきりで話す機会なんて、まともになかったしな……。

 でも、外見がこれだけ変わっても、流石に内面までは変わりきれなかったのか。
 最初は少し話してくれたけど、きっとあいつなりに、無理してでも頑張ろうとしたんだと思う。
 だけど、ずっとそれをさせるのは大変だし、可哀想だもんな。
 きっとこの後、うちの両親と話すのだって大変なはずだし。昔のように、うまく会話の橋渡しをしてやるか。

 俺は過去を懐かしみながら、表情には出さずに気合を入れ直したんだけど──。

      ◆   ◇   ◆

「春樹おじさん。園子おばさん。この度は両親と私のわがままを許してくれて、本当にありがとうございます」

 家に帰るとダイニングに案内され、テーブルを挟み両親と向かい合わせに座った俺達。
 そこで、開口一番。凛とした春香が口にした言葉は、さっきとは打って変わった、淀みも迷いも感じない、流暢で自然なものだった。

 笑顔を浮かべる親の反応を見ても、彼女は間違いなく春香なはず。
 それなのに、これだけ自然に会話しているっていう現実が、どうにもしっくりこない。

「春香ちゃん。そんなにかしこまらなくっていいのよ」
「そうだぞ。これからは、ここが家になるんだから。琢磨みたいにリラックスして構わないからね」
「ありがとうございます。おじさんとおばさんも、お手伝いできることは協力しますので、何でも言ってください」
「あーら。嬉しいこと言ってくれちゃって。琢磨に爪の垢を煎じて飲ませたいわね」

 にこにこしている両親と春香の会話は、本当に自然──って、ちょっと待った。
 あまりに自然過ぎて聞き逃しかけたけど。春香のわがままを聞いたって、どういうことだ?

「父さん。母さん。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「ああ。構わんよ」

 俺を見る二人は、どこか意味深な笑みを浮かべている。
 まさかこっちが混乱してるのを楽しんでるのか? まあいいけど……。

「えっと、もしかして二人共。引っ越し後もずっと、春香のご両親と連絡を取り合ってたの?」
「ああ。そうだとも」
「毎年お中元なんかも送ってきてくれたものね」
「そうだな」

 いや、そうだなって……。
 あまりにあっさりした父さんの返事に少しだけ唖然としたけど、すぐにイラッとした気持ちが湧き上がってくる。
 小さかったとはいえ、俺からすれば、あの日が今生の別れくらいの気持ちだったんだ。
 それなのに、今まで何も教えてくれないなんて……。

「それなら何で、春香の連絡先を教えてくれなかったんだよ!?」
「何でもなにも、お前から聞かれなかっただろ?」
「そうよ。春香ちゃんに手紙を書きたいとか、そういう事も一切口にしなかったでしょ?」
「んぐ……」

 そういやそうだった……。
 あまりの正論にぐうの音もでず、俺は苦虫を噛み潰したような顔になる。

 まあ、春香が教えてくれなかった時点で、何となく無理強いしちゃ駄目だなって思ったのもあったけど。やっぱり初恋の人が離れていったってショックが強すぎて、当時はずっと落ち込んでたもんなぁ……。

「まあ、理由はそれだけじゃないのだけど」

 何とも言えない俺を見て、母さんが肩を竦めた後、春香の方を見る。

「春香ちゃん。もう六年も経ったのだし、琢磨にあの話をしてもいいかしら? もう完治(・・)してるんでしょ?」
「……完治?」

 予想だにしなかった言葉に、困惑しながら春香を見ると、あいつはちらっと横目でこっちを見た後。

「は、はい……」

 申し訳無さそうに俯き、か細い返事をする。
 それを聞いて優しく微笑んだ母さんは、再び俺を見ると、少し真剣な顔で語り始めた。

「六年前。春香ちゃんのご両親の転勤が決まって、引っ越しをしたのは事実よ。だけどもうひとつ、引っ越す直前。あることがわかったの」
「ある事?」
「ええ。それは、春香ちゃんが心臓の病を持っていたって事」
「は? まさか。流石に冗談だろ?」
「琢磨。私だってこんな不謹慎な冗談、口にしないわよ」

 俺の疑いの声を咎めるように、母さんの表情がきつくなる。
 確かに、母さんがそういう性格じゃないのは息子の俺がよく知ってる。流石に疑うのは悪いよな。

「ご、ごめん。それで?」
「彼女の病気は、手術をしないと治せない所まできていたの。とはいえ、手術自体はそこまで難しいものじゃないし、手術が成功した後、亡くなる可能性も低いものだったんだけど。その時に春香ちゃんが、彼女の両親や私達に申し出たの。あなたに自分の連絡先を教えないで欲しいって」
「教えないでって。なんで……」
「その……私、不安で……。それで……」

 愕然とする俺の耳に、必死に口にしたであろう春香の、途切れ途切れの小さな声が届く。だけど、彼女からそれ以上の言葉は続かない。
 あいつの心情を察したのか。再び母さんが話し始めた。

「そう。小学四年生で心臓の手術をする。それは彼女にとって、とても不安な事だった。だから万が一の事を考えて、春香ちゃんはあなたとの連絡を断つ事にしたのよ。連絡しあっていて、もし亡くなるなんて事があったら、あなたに伝えないわけにはいかない。だったら、別れたままで終わったほうが、きっといいって。小さかったのに、ちゃんと考えてくれたのね。あなたの事を」

 ……知らなかった。
 俺は思わず、隣で俯いたままの春香を横目で見る。

 あいつは口下手。
 みんなに話すのだって勇気もいっただろうし、本当に大変だったに違いない。
 でも、それ以上に驚かされたのは、当時のあいつの態度だ。

 病気のことを知ったであろう後も、春香は全然普段通りだった。
 勿論、引っ越しで別れることになる寂しさは、あいつも日記に書いていた。
 だけど、病気やそれに対する不安なんて、仕草どころか、日記にすら全く出てこなかった。

 つまりあいつは、小さいながらに感じていた恐怖を、全く俺の前で見せなかったんだ。
 引っ越しの日。車に乗り去って行った、あの時まで……。

 愕然とする俺を見て、母さんが優しい顔をする。

「琢磨。そんなに深刻にならないの。さっき話した通り、春香ちゃんの手術は成功しているし、経過観察でもう問題ないって、お医者様にお墨付きをもらってるわ」
「そうだぞ。お前に伝えなかったのは、彼女も悪いと思ってるだろうが、そんなものは些細な話だ。これからまた一緒にいられるんだ。離れていた分の時間を取り戻せばいいだけだ」

 ……そっか。そうだよな。
 父さんの言う通り、これから一緒にいられる──って。そう! それだ!

「父さん。その、一緒に暮らすって、どういう意味?」
「ん? 春香ちゃんから聞いてないのか?」
「うん。春香には『母さんから聞いてない?』って言われたけど……」

 質問に素直にそう返すと、父さんが眉間に皺を寄せ母さんを見る。

「母さん。まだ琢磨に話してなかったのか?」
「ええ。折角のサプライズでしたから、知り合いが来るとだけ」
「おいおい。それじゃ琢磨だって困惑するだろうが……」

 大きなため息と共に、頭を抱える父さんに対し、母さんは澄まし顔のまま。
 サプライズって事は、母さんが言っていたお客が春香で、俺を驚かせたくって事実を濁してたのか。

 一緒に暮らす……ってことは……。

「つまり、春香がうちに居候する、って事?」

 あまりに現実味のない、ひとつの答えに辿り着いた俺がそう口にすると、父さんが顔を上げこっちを見る。

「そうだ。春香ちゃんのご両親が、仕事の都合で海外に転勤することになったんだが。春香ちゃんは日本に残りたいって言ってな」
「ただ、彼女の通っていた高校には寮もないし、一人暮らしをさせるのも不安だからって、ご両親から相談を受けたのよ」
「それで、うちに……」
「ええ。うちには空き部屋もあるし、何よりあなたもいるでしょ? 春香ちゃんも安心だと思って」

 ま、まあ、俺が春香の面倒を見てやれるのは確かだけど……。

「ちなみに、何時まで居候する事になるの?」
「わからん」

 俺の素朴な質問に、またも一言で片付ける父さん。
 ……って、わからない?

「どういう事?」
「言葉通りだ。向こうでどれだけの期間仕事をする事になるのか、葵さん達もわからんそうだ。一応、最低半年は確定してるらしいがな」 
「半年……。じゃあ、高校は?」
「勿論。あなたと同じ高校に転校するわ。手続きは既に済んでるみたいだから、夏休みが終わったら、二人で一緒に通学ね」

 ……マジかよ……。
 両親の説明を聞いて、俺はただ呆然とする事しかできない。
 いや、考えてもみろ。
 こんなに可愛くなった初恋の相手と、同じ家で暮らすって事だろ!?
 しかも、昔みたいに時々会うってわけじゃない。一緒に暮らすってことは、毎日顔を合わせる事になるわけで……。

 またも横目であいつを見ると、同じようにこっちを見ていた春香が視線に気づき、慌てて両親に向き直る。

「あ、あの。これから色々ご迷惑をおかけしますが、どうぞよろしくお願いします。えっと……ター君も……」

 両親に対してはハキハキと。俺に対しては昔のように、おずおずと言葉少なく挨拶をする春香。

「あ、うん。こちらこそ、よろしく」

 あまりにちぐはぐな彼女の反応と、予想しなかった展開に、俺は戸惑いを隠せぬまま、何とかそう挨拶するのが精一杯だった。