「お客さんとお昼をご一緒するんだから。お昼までにはちゃんと帰って来るのよ」
「はいはい」
玄関でスニーカーを履いた俺は、母さんへの返事もそこそこに家を出ると、自宅の駐車場に停めていた愛用の自転車に跨り、そのまま道へ漕ぎ出した。
時間は十時過ぎ。
既に夏らしい青空が広がり、入道雲の遥か上で輝く太陽の日差しのせいで、早くも肌にじっとりと汗が浮かぶ。
でも、風を切って走る涼しさもあって、めちゃくちゃ不快ってわけじゃない。
──高校生になって初めての、夏休み最初の日曜日。
知ってる客が来るから家にいろって言う、うるさい母親を振り切って向かったのは、家からそう遠くない俺のお気に入りの場所。近所を流れる、川の土手の近くだ。
橋の側から道なりに土手を降り、丁度日陰になった橋の下で自転車を止める。
ここなら陽射しも遮られていいだろ。
ふぅっと一息吐いた後、ハンカチで額を拭いた俺は、そのまま緩やかな石階段に腰を下ろすと、バッグに入れていたペットボトルを開け、ぐびっと水を一口飲み込んだ。
……ふぅ。
やっぱりこの季節、冷たい飲み物は最高だ。
喉から流れ込んだ水が、少し火照った体の熱を奪ってくれて、気持ちをシャキッとさせてくれる。
ほっと一息吐いた俺は、そのまま何気なく川の流れに目をやった。
わざわざ何でここに来たのか。
それは、母さんの話していた客と会いたくないから──ってわけじゃない。
夏休みになると家にやってくる、母さんの友達の木下さん夫婦。
毎年旅行と称し、家に遊びに来る二人は、昔から俺達家族に良くしてくれる、気さくで優しい人達だ。
二人が泊まる部屋は、二階の俺の部屋の隣。だから、部屋であまり騒げないのはちょっと大変ではある。
だけど、そんな理由だけで来てほしくないなんて思わないって。
ちなみに、今日のお客さんが木下さん夫婦だとは言われてないし、例年と比べるとちょっと時期が早い。
だけど、俺が夏休みに入る前から、二人が泊まる部屋を片付けている母さんの姿を見てたんだ。まず間違いないと思う。
じゃあ、何で家を出てここに来たかっていうと、ある夢を見たからだ。
夢の中に現れたのは、見覚えのある一人の少女。
髪を左右で三つ編みで縛り、黒縁の眼鏡を掛けた、自信なさげで物静かなその子は、両手で大事そうに一冊のノートを抱えている。
そして、彼女は緊張した顔で俺にすっとノートを差し出すと、こう言ったんだ。
──「次は、ター君の番だから」
って。
本当に短い、たったそれだけの夢。
だけどここ数年、彼女の夢なんて見てなかったからこそ、俺は酷く懐かしい気持ちにさせられた。
で、その想い出に浸りたくなって、ここに足を運んだってわけ。
◆ ◇ ◆
──彼女の名前は、葵春香。
俺が幼稚園に通っている頃に隣に引っ越してきた、いわゆるご近所さんであり、幼馴染ってやつだ。
彼女がまた引っ越す、小学四年までの約五年間。家族ぐるみの付き合いもあって、一緒にいる事も多かった春香は、本当に引っ込み思案を絵に描いたような、大人しい女の子だった。
幼稚園でも学校でも、本当に大人しかったあいつだったけど、それは俺を相手にしても変わらなかった。
とにかく喋るのが苦手だったあいつから、何かを話しかけてくる事は本当に少ないし、表情は何時も自信なさげ。
そんな性格のせいで、春香は幼稚園からずっと、友達らしい友達もできなくって。そんなあいつを放っておけなかった俺は、まるで兄貴にでもなったかのように、彼女と一緒にいたんだよな。これでも同い年なんだけど。
ただ、それでも話ができなきゃ、相手の性格や考えを知れないわけで。
俺の問いかけに、「うん」、「ううん」と返すだけの彼女には、当時かなり悩まされた。
ほんと、出逢ったあの頃が一番苦労したと思う。
話をほとんどできないまま一緒にいるという、何とももどかしい日々を過ごしていたある日。
春香のお母さんに提案されたのが、交換日記だった。
正直俺、文章どころか文字を書くのも苦手だったんだけど。うちの母さんもそれを知ってたから、
──「あら、いいじゃない。文字を書く練習になるし。一石二鳥よ」
なんて猛プッシュされ。家がお隣同士なのに交換日記をするっていう、何とも奇妙な関係が始まった。
でも、結果としてこれが功を奏したんだよな。
春香は本当に大人しい子で、人付き合いが苦手。
その代わりと言っちゃなんだけど。あいつは本が好きで、文章を書くのも得意。
だからなのか。交換日記を始めた彼女は、まるで水を得た魚のように、日記の中だけは饒舌だった。
話せば済むのにと思いつつ、俺は面倒くさがりながらもそれに付き合ったんだけど、あいつは日常の話だけじゃなく、色々と世話を焼く俺に対する感謝とか謝罪とか、そういった物も沢山書いてくれてさ。
お陰で俺も、春香の良さとか悩みといった、色々な一面を垣間見えるようになったし。あいつが日記で行きたいって書いた場所に連れて行ったりもしてやれるようになって、会話は少ないままだったけど、色々と付き合いやすくなったんだ。
あいつが別の土地に引っ越す小学四年の夏休みまで、できる限り頑張って書いた交換日記。
最後は俺からの惜別のメッセージを託し、あいつに手渡す事でその役割を終え、同時に俺達の関係もそこで終わりを迎えた。
引っ越す前。日記の中で、春香に引っ越し先を聞いてみたけど教えてくれなかったし。小学校でスマホの持ち込みが禁止されてたせいで、二人とも連絡手段すら持ってなくって。あの日以来、あいつと連絡は取れていない。
もしかしたら彼女から手紙が来ないかな? なんて淡い期待もしてたけど、現実は非情。
特に連絡もなくそのまま疎遠になって、結局残ったのはあいつとの想い出だけ。
それも歳を重ねる内に少しずつ色褪せて、日常の新たな想い出にかき消されていき──俺は今日夢を見るまで、彼女の事をすっかり忘れていたんだ。
◆ ◇ ◆
春香と離れ離れになる六年前は、まだこの辺りも草むらだったけど、二年前に橋の周辺が整備され、こんなに綺麗になっている。
あいつは絵を描くのも好きで、よくこの辺で、雑草の中に咲いている花なんかをスケッチしてたっけ。
春香が今この景色を見たら、どう思うだろう?
真新しさに驚くのか。それとも、昔と違う光景を残念に思うのか……。
ぼんやりとそんな事を考えながら、俺は両手を頭の後ろに回し、そのまま階段にごろりと横になる。
見えるのは青空……ではなく、絶景とは言い難い橋の裏面。とはいえ、別に空が見たくってこうしたわけじゃないから、それでもいいんだけど。
……春香は今、何をしてるんだろう?
夢を見て、最初に思ったのはそれだった。
好きだった絵を描いたり、本を読んだりして、のんびり過ごしているんだろうか?
相変わらず、引っ込み思案なんだろうか?
気の合う友達くらいはできたんだろうか?
あの頃なんかより、可愛くなっているんだろうか?
考えても始まらない相手の事を思っている内に、ふわぁっと生あくびが出る。
夢のせいで、夏休みなのに思ったより早く目が覚めたから、正直まだ眠い。
流石に木下さん達の前であくびなんてできない。お昼まではまだ時間もあるし、ここで少しうとうとするか。
俺はゆっくりと目を閉じると──。
「す、すいません」
──え?
突然聞こえた透明感のある女の人の声に、思わず目を開いた。
見えたのは、頭側から俺を見下ろす、一人の女子。
多分、年齢は俺と同じくらいだと思う。
長く綺麗な髪。愛嬌のある大きな目に、整った顔立ち。
白いシャツにベージュのスカートが似合う、トートバッグを掛けた彼女を見て、最初に浮かんだもの。
それは可愛いという、語彙力もへったくれもない言葉だった。
いや、でも実際に可愛い。アイドルなんかにも引けを取らないくらい。
実際、ちょっと見惚れかけたし。
じーっとこっちを見たまま、何も言わない彼女。
っていうか、流石にこのままの体勢ってのは悪いよな。
「な、何かご用ですか?」
慌てて上半身を起こして彼女を見ると、目が合った瞬間、視線を逸らされた。
へ? なんで? こっちは声を掛けられた側だよな?
頭にただただ???が飛び交う中。大きく深呼吸した彼女が、再び俺に視線を重ねてきた。
美少女と言っていい相手に見つめられ、どうすればいいか分からず固まっていると。
「えっと、人違いだったらすいません。緋田、琢磨君じゃ、ありませんか?」
彼女はこっちの様子をうかがいながら、間違いなく俺の名前を口にした。
確かに、俺が緋田琢磨だけど。この子は一体、何者なんだ?
記憶を探っても、彼女の姿はまったく出てこない。
流石にここまでの美少女だったら、俺だって一度見たら、そう簡単には忘れないと思う。
中学や高校で見たことのなる女子を思い浮かべても、誰も彼女に重ならない……って、あれ?
今、人違いだったらって言ったよな?
つまり、この子は俺の外見を知らないはずなのに、俺の名前を呼んだって事。
一体どういうことだ?
まさか、俺が知らない間に、近隣他校で噂になってるとか……いや。それは流石に飛躍しすぎだ。
俺なんて別に、有名人でもなければ女子にモテたわけでもない、平凡な高校生。そんなのあるわけないだろ。
でも、じゃあ何でだ?
考えれば考えるほど、混乱に拍車が掛かる。
彼女の方はといえば、こっちの返事を待ってるのか。未だに様子を窺ったまま。
うーん……ま、いいか。
これ以上考えたって、何も始まらない。
「はい。そうですけど」
やや警戒しながら、歯切れ悪くそう答えると、彼女が心底ほっとした顔をした。
「よ、良かったぁ。ター君じゃなかったら、どうしようかと思った……」
……タ、ター君?
その呼び方に、俺は内心ドキッとする。
い、いや。だって。
俺のことをこう呼ぶ相手なんて、今まででにたった一人しかいなかったんだぞ。
つ、つまり……まさか!?
「もしかして、春香か?」
「……うん。お久しぶり、かな?」
「は? 嘘だろ!?」
少し顔を赤らめ微笑んだ、春香だという女の子相手に、俺は目を瞠る。
だ、だって仕方ないだろ!
小さい頃の、三つ編みに眼鏡という地味さを全く感じさせない、あまりに垢抜けた姿。
そこに春香らしさなんて全く感じられない。
しかも六年間まったく連絡のなかった彼女が、突然目の前で春香だって名乗ったんだぞ?
そりゃ驚かないって方が無理だし、疑いだってするだろ!
俺のあからさまな否定が気に入らなかったのか。
少しムッとした彼女が俺の横にしゃがみ込むと、肩に掛けていたバッグを下ろし、そこから何かを取り出す。
「これ、読んで」
ぶっきらぼうに渡されたのは、一冊のノート……って、こ、これ……。
そう。まさしくそれは、俺の記憶にある、夢にも出てきたあのノートだ。
いやいやいやいや。
まさか。これが本物なんて事は……。
未だ信じられない気持ちが勝る中、恐る恐るそれを手に取った俺は、ゆっくりとページを開き、中に目を通していく。
……この筆跡。この内容。
俺の記憶の奥底にある日記と同じだ。
最初は普段通りの交換日記。でも、ペラペラと捲っていくにつれ、春香との別れが近づく内容に変わっていき、それと合わせて当時のことが鮮明に思い浮かぶ。
そして、最後に書いた自分の日記を見た瞬間──顔が一気に赤くなっていくのがわかった。
◆ ◇ ◆
2018年 7月22日(日)
春香がこれを読むのは、きっと引っこしした後かな。
お別れの日。多分オレ、泣くのをがまんするのに必死で、ほとんどしゃべれないと思う。
だから今までの事、きちっと伝えようと思う。
春香に初めて会った日。どうすれば良いか、全然わからなかった。
女の子相手なのもあったけど、全然何も話してくれなかったし。でも、おとなりさんだからむしもできないし。
だから、交かん日記なんて、うまくいかないって思ってた。
だけど、春香が日記をいっぱい書いてくれたから、お前のこともわかって、話しやすくなったと思う。
それでも、大変なことは沢山あった。
オレの字、メチャクチャ文字ヘタだったろ?
お前に「読めなくてごめんなさい」って書かれた日のショック、今もわすれてない。
そのせいで、消しゴムで書いては消してってしすぎて、グチャグチャになっちゃったページもあって、ごめんって書いた日もあったっけ。ほんとごめん。
でも、いつのまにか日記がすごく楽しみになって来たのに、これで最後なんだよな。
オレ、お前の前じゃ泣かないぞって決めてる。
だけど、今これを書きながら、ちょっと泣いてる。
うそだ。ちょっとじゃない。すごく泣いてる。
このページにできたしわ、オレのせいだ。ごめんな。
本当は、五年もいっしょだったのにあまり話せなかったなって、ガッカリしてる。
でも、お前がくれた思い出もいっぱいあるし、きっと俺があげれた思い出もいっぱいあると思う。
もしなかったら、ゴメン。
後、オレはもう側にいれない。だからすごく心配なんだ。
春香がひとりぼっちになったらどうしようって、引っこすって聞いてから、ずっと不安だ。
だから、最後にワガママを言うな。
向こうに行ったら、たった一人でもいいから、ちゃんと友達を作れ。
お前と同じ本好きな子でも、全然ちがう子でもいい。お願いだから、友達を作れ。
今まではずっと、オレがずっと近くにいたから、春香も変わらなくって良かったんだと思う。
でも、もうそれじゃダメだから。
春香がまた一人ぼっちなんて、オレ、イヤだから。
オレなんかと仲良くできたんだ。お前ならきっと友達もできる。
そして、友達ができたら、きっと学校も楽しくなるから。がんばれよ!
オレ、忘れないから。
いっしょに遠足でおべんとうを食べたのも。
オレのたんじょう日に、ハンカチを買ってくれたのも。
川でいっしょに花火を見たのも。
夜にこっそり大きなクリスマスツリーを見に行って、みんなにおこられたのも。
あと、これが本当に最後だから言っとくな。
春香! 大好きだ!
だから、向こうでも元気でがんばれ!
琢磨
◆ ◇ ◆
……俺、こんな事書いてたのかよ。
改めて最後の日記を読み終えた俺は、顔の火照りをそのままに、ただ呆然としていた。
いや、まあその……。
小さい頃に、感情が昂ってる中で書き殴ったから、正直あまり内容を覚えてなかったんだよ。
決して綺麗じゃない文字と文章の拙さは、小学四年なんだし仕方ない。
にしてもだ。
友達を作れ作れうるさいし、泣いた涙の跡がノートにはっきり残ってて、一部文字が酷く滲んでる。
しかもお前、何さらっと好きとか書いてるんだよ!?
い、いや。そりゃ好きだったよ。好きだったさ。
だって、春香は俺の、初恋の相手なんだから。
ほとんど口を利いてなくっても、日記とか態度からあいつが優しいのは知ってたし。
確かに地味な外見だったけど、知り合って五年でちょっとずつ可愛くなっていってたし……。
ずっと一緒にいたら、そりゃ好きにもなるって。
でも、だからって匂わせじゃなく、直接好きとか書かなくてもいいだろ!
しかもこれ、春香に読まれてるんだろ!?
当時の自分のあまりの考えなさに、何と言っていいかわからず呆然としていると。
「これで、信じてくれた?」
春香は片手で頬杖を突いたまま、少し赤い顔で微笑みながら、こっちを見つめてくる。
昔じゃ考えられない、可愛らしい表情。そこにあいつの面影はやっぱりないけれど。
そりゃ、このノートを見せられたら──。
「あ、ああ」
──流石に、信じるしかないよな。
正直、まともにあいつの顔を見るのは、気恥ずかしくって仕方ない。
だけど、吸い込まれるほどに可愛く見える初恋の人から、俺は目が離せなくなって……って。
じっと見てたら流石にキモいだろ!
「こ、これ、ありがとな」
俺は慌ててノートを閉じると、それを彼女に返そうとする。
だけど、あいつは首を横に振って、受け取ろうとしない。
「それは、ター君が持ってて」
「へ? 何で?」
「……次は、ター君の番だから」
さっきからの笑顔から一変。気恥ずかしげに俯く春香が口にした言葉に、俺はまたもドキリとする。
だって、今朝見た夢と同じ一言を、あいつが言ったんだから。
こんな偶然があるのか?
たまたまここに来ただけなのに、そこで春香に再会して。まるで正夢かってくらい、夢と全く同じ台詞を──って、ん? 待てよ?
混乱していた頭に浮かんだとある疑問。それで我に返った俺は、思わずあいつにそれを尋ねていた。
「ちょっと待った。それ、どういう意味だ? お前、こっちに戻って来たのか?」
そう。それだ。
交換日記をするったって、郵送で送り合うって話じゃないとは思う。
そこまでするくらいなら、わざわざノートなんて送らなくても、手紙で十分だし。
つまり、あいつがこっちの方に引っ越して来たとかでもなきゃ、どうやったって辻褄が合わない。
「え?」
俺の質問に、春香がちょっと驚いた顔をする。
って、何でそっちが驚いてるんだよ?
まったく意図が読めず、首を傾げた俺を見て、彼女がおずおずとこう尋ねてきた。
「あの……園子おばさんから、聞いてない?」
「聞いてない? って、何を?」
「あ、その。えっと……」
さっきまでの雰囲気が嘘のように、俺から目を逸らし、目を泳がせる彼女。
園子おばさんってのは、俺の母さんの名前。
何かを聞いてないかって? えっと今日は──。
「あ」
ふっと繋がった点と点に、俺は間抜けな声をあげる。
母さんは言っていた。俺が知っている客が来るって。
つまり……。
「お前、うちに泊まりに来たのか!?」
驚きを隠せず大声で問いかけると、ちらっとだけこっちを見た春香が、その場で指をもじもじとしながら首を横に振った。
え? 違う?
それはそれで拍子抜け。
またも間抜けな顔を晒す俺を見たあいつは、すっと立ち上がりこっちに背を向けると、
「その……まずは、ター君家に行こ?」
何故か自信のない声で、そう言ったんだ。
「はいはい」
玄関でスニーカーを履いた俺は、母さんへの返事もそこそこに家を出ると、自宅の駐車場に停めていた愛用の自転車に跨り、そのまま道へ漕ぎ出した。
時間は十時過ぎ。
既に夏らしい青空が広がり、入道雲の遥か上で輝く太陽の日差しのせいで、早くも肌にじっとりと汗が浮かぶ。
でも、風を切って走る涼しさもあって、めちゃくちゃ不快ってわけじゃない。
──高校生になって初めての、夏休み最初の日曜日。
知ってる客が来るから家にいろって言う、うるさい母親を振り切って向かったのは、家からそう遠くない俺のお気に入りの場所。近所を流れる、川の土手の近くだ。
橋の側から道なりに土手を降り、丁度日陰になった橋の下で自転車を止める。
ここなら陽射しも遮られていいだろ。
ふぅっと一息吐いた後、ハンカチで額を拭いた俺は、そのまま緩やかな石階段に腰を下ろすと、バッグに入れていたペットボトルを開け、ぐびっと水を一口飲み込んだ。
……ふぅ。
やっぱりこの季節、冷たい飲み物は最高だ。
喉から流れ込んだ水が、少し火照った体の熱を奪ってくれて、気持ちをシャキッとさせてくれる。
ほっと一息吐いた俺は、そのまま何気なく川の流れに目をやった。
わざわざ何でここに来たのか。
それは、母さんの話していた客と会いたくないから──ってわけじゃない。
夏休みになると家にやってくる、母さんの友達の木下さん夫婦。
毎年旅行と称し、家に遊びに来る二人は、昔から俺達家族に良くしてくれる、気さくで優しい人達だ。
二人が泊まる部屋は、二階の俺の部屋の隣。だから、部屋であまり騒げないのはちょっと大変ではある。
だけど、そんな理由だけで来てほしくないなんて思わないって。
ちなみに、今日のお客さんが木下さん夫婦だとは言われてないし、例年と比べるとちょっと時期が早い。
だけど、俺が夏休みに入る前から、二人が泊まる部屋を片付けている母さんの姿を見てたんだ。まず間違いないと思う。
じゃあ、何で家を出てここに来たかっていうと、ある夢を見たからだ。
夢の中に現れたのは、見覚えのある一人の少女。
髪を左右で三つ編みで縛り、黒縁の眼鏡を掛けた、自信なさげで物静かなその子は、両手で大事そうに一冊のノートを抱えている。
そして、彼女は緊張した顔で俺にすっとノートを差し出すと、こう言ったんだ。
──「次は、ター君の番だから」
って。
本当に短い、たったそれだけの夢。
だけどここ数年、彼女の夢なんて見てなかったからこそ、俺は酷く懐かしい気持ちにさせられた。
で、その想い出に浸りたくなって、ここに足を運んだってわけ。
◆ ◇ ◆
──彼女の名前は、葵春香。
俺が幼稚園に通っている頃に隣に引っ越してきた、いわゆるご近所さんであり、幼馴染ってやつだ。
彼女がまた引っ越す、小学四年までの約五年間。家族ぐるみの付き合いもあって、一緒にいる事も多かった春香は、本当に引っ込み思案を絵に描いたような、大人しい女の子だった。
幼稚園でも学校でも、本当に大人しかったあいつだったけど、それは俺を相手にしても変わらなかった。
とにかく喋るのが苦手だったあいつから、何かを話しかけてくる事は本当に少ないし、表情は何時も自信なさげ。
そんな性格のせいで、春香は幼稚園からずっと、友達らしい友達もできなくって。そんなあいつを放っておけなかった俺は、まるで兄貴にでもなったかのように、彼女と一緒にいたんだよな。これでも同い年なんだけど。
ただ、それでも話ができなきゃ、相手の性格や考えを知れないわけで。
俺の問いかけに、「うん」、「ううん」と返すだけの彼女には、当時かなり悩まされた。
ほんと、出逢ったあの頃が一番苦労したと思う。
話をほとんどできないまま一緒にいるという、何とももどかしい日々を過ごしていたある日。
春香のお母さんに提案されたのが、交換日記だった。
正直俺、文章どころか文字を書くのも苦手だったんだけど。うちの母さんもそれを知ってたから、
──「あら、いいじゃない。文字を書く練習になるし。一石二鳥よ」
なんて猛プッシュされ。家がお隣同士なのに交換日記をするっていう、何とも奇妙な関係が始まった。
でも、結果としてこれが功を奏したんだよな。
春香は本当に大人しい子で、人付き合いが苦手。
その代わりと言っちゃなんだけど。あいつは本が好きで、文章を書くのも得意。
だからなのか。交換日記を始めた彼女は、まるで水を得た魚のように、日記の中だけは饒舌だった。
話せば済むのにと思いつつ、俺は面倒くさがりながらもそれに付き合ったんだけど、あいつは日常の話だけじゃなく、色々と世話を焼く俺に対する感謝とか謝罪とか、そういった物も沢山書いてくれてさ。
お陰で俺も、春香の良さとか悩みといった、色々な一面を垣間見えるようになったし。あいつが日記で行きたいって書いた場所に連れて行ったりもしてやれるようになって、会話は少ないままだったけど、色々と付き合いやすくなったんだ。
あいつが別の土地に引っ越す小学四年の夏休みまで、できる限り頑張って書いた交換日記。
最後は俺からの惜別のメッセージを託し、あいつに手渡す事でその役割を終え、同時に俺達の関係もそこで終わりを迎えた。
引っ越す前。日記の中で、春香に引っ越し先を聞いてみたけど教えてくれなかったし。小学校でスマホの持ち込みが禁止されてたせいで、二人とも連絡手段すら持ってなくって。あの日以来、あいつと連絡は取れていない。
もしかしたら彼女から手紙が来ないかな? なんて淡い期待もしてたけど、現実は非情。
特に連絡もなくそのまま疎遠になって、結局残ったのはあいつとの想い出だけ。
それも歳を重ねる内に少しずつ色褪せて、日常の新たな想い出にかき消されていき──俺は今日夢を見るまで、彼女の事をすっかり忘れていたんだ。
◆ ◇ ◆
春香と離れ離れになる六年前は、まだこの辺りも草むらだったけど、二年前に橋の周辺が整備され、こんなに綺麗になっている。
あいつは絵を描くのも好きで、よくこの辺で、雑草の中に咲いている花なんかをスケッチしてたっけ。
春香が今この景色を見たら、どう思うだろう?
真新しさに驚くのか。それとも、昔と違う光景を残念に思うのか……。
ぼんやりとそんな事を考えながら、俺は両手を頭の後ろに回し、そのまま階段にごろりと横になる。
見えるのは青空……ではなく、絶景とは言い難い橋の裏面。とはいえ、別に空が見たくってこうしたわけじゃないから、それでもいいんだけど。
……春香は今、何をしてるんだろう?
夢を見て、最初に思ったのはそれだった。
好きだった絵を描いたり、本を読んだりして、のんびり過ごしているんだろうか?
相変わらず、引っ込み思案なんだろうか?
気の合う友達くらいはできたんだろうか?
あの頃なんかより、可愛くなっているんだろうか?
考えても始まらない相手の事を思っている内に、ふわぁっと生あくびが出る。
夢のせいで、夏休みなのに思ったより早く目が覚めたから、正直まだ眠い。
流石に木下さん達の前であくびなんてできない。お昼まではまだ時間もあるし、ここで少しうとうとするか。
俺はゆっくりと目を閉じると──。
「す、すいません」
──え?
突然聞こえた透明感のある女の人の声に、思わず目を開いた。
見えたのは、頭側から俺を見下ろす、一人の女子。
多分、年齢は俺と同じくらいだと思う。
長く綺麗な髪。愛嬌のある大きな目に、整った顔立ち。
白いシャツにベージュのスカートが似合う、トートバッグを掛けた彼女を見て、最初に浮かんだもの。
それは可愛いという、語彙力もへったくれもない言葉だった。
いや、でも実際に可愛い。アイドルなんかにも引けを取らないくらい。
実際、ちょっと見惚れかけたし。
じーっとこっちを見たまま、何も言わない彼女。
っていうか、流石にこのままの体勢ってのは悪いよな。
「な、何かご用ですか?」
慌てて上半身を起こして彼女を見ると、目が合った瞬間、視線を逸らされた。
へ? なんで? こっちは声を掛けられた側だよな?
頭にただただ???が飛び交う中。大きく深呼吸した彼女が、再び俺に視線を重ねてきた。
美少女と言っていい相手に見つめられ、どうすればいいか分からず固まっていると。
「えっと、人違いだったらすいません。緋田、琢磨君じゃ、ありませんか?」
彼女はこっちの様子をうかがいながら、間違いなく俺の名前を口にした。
確かに、俺が緋田琢磨だけど。この子は一体、何者なんだ?
記憶を探っても、彼女の姿はまったく出てこない。
流石にここまでの美少女だったら、俺だって一度見たら、そう簡単には忘れないと思う。
中学や高校で見たことのなる女子を思い浮かべても、誰も彼女に重ならない……って、あれ?
今、人違いだったらって言ったよな?
つまり、この子は俺の外見を知らないはずなのに、俺の名前を呼んだって事。
一体どういうことだ?
まさか、俺が知らない間に、近隣他校で噂になってるとか……いや。それは流石に飛躍しすぎだ。
俺なんて別に、有名人でもなければ女子にモテたわけでもない、平凡な高校生。そんなのあるわけないだろ。
でも、じゃあ何でだ?
考えれば考えるほど、混乱に拍車が掛かる。
彼女の方はといえば、こっちの返事を待ってるのか。未だに様子を窺ったまま。
うーん……ま、いいか。
これ以上考えたって、何も始まらない。
「はい。そうですけど」
やや警戒しながら、歯切れ悪くそう答えると、彼女が心底ほっとした顔をした。
「よ、良かったぁ。ター君じゃなかったら、どうしようかと思った……」
……タ、ター君?
その呼び方に、俺は内心ドキッとする。
い、いや。だって。
俺のことをこう呼ぶ相手なんて、今まででにたった一人しかいなかったんだぞ。
つ、つまり……まさか!?
「もしかして、春香か?」
「……うん。お久しぶり、かな?」
「は? 嘘だろ!?」
少し顔を赤らめ微笑んだ、春香だという女の子相手に、俺は目を瞠る。
だ、だって仕方ないだろ!
小さい頃の、三つ編みに眼鏡という地味さを全く感じさせない、あまりに垢抜けた姿。
そこに春香らしさなんて全く感じられない。
しかも六年間まったく連絡のなかった彼女が、突然目の前で春香だって名乗ったんだぞ?
そりゃ驚かないって方が無理だし、疑いだってするだろ!
俺のあからさまな否定が気に入らなかったのか。
少しムッとした彼女が俺の横にしゃがみ込むと、肩に掛けていたバッグを下ろし、そこから何かを取り出す。
「これ、読んで」
ぶっきらぼうに渡されたのは、一冊のノート……って、こ、これ……。
そう。まさしくそれは、俺の記憶にある、夢にも出てきたあのノートだ。
いやいやいやいや。
まさか。これが本物なんて事は……。
未だ信じられない気持ちが勝る中、恐る恐るそれを手に取った俺は、ゆっくりとページを開き、中に目を通していく。
……この筆跡。この内容。
俺の記憶の奥底にある日記と同じだ。
最初は普段通りの交換日記。でも、ペラペラと捲っていくにつれ、春香との別れが近づく内容に変わっていき、それと合わせて当時のことが鮮明に思い浮かぶ。
そして、最後に書いた自分の日記を見た瞬間──顔が一気に赤くなっていくのがわかった。
◆ ◇ ◆
2018年 7月22日(日)
春香がこれを読むのは、きっと引っこしした後かな。
お別れの日。多分オレ、泣くのをがまんするのに必死で、ほとんどしゃべれないと思う。
だから今までの事、きちっと伝えようと思う。
春香に初めて会った日。どうすれば良いか、全然わからなかった。
女の子相手なのもあったけど、全然何も話してくれなかったし。でも、おとなりさんだからむしもできないし。
だから、交かん日記なんて、うまくいかないって思ってた。
だけど、春香が日記をいっぱい書いてくれたから、お前のこともわかって、話しやすくなったと思う。
それでも、大変なことは沢山あった。
オレの字、メチャクチャ文字ヘタだったろ?
お前に「読めなくてごめんなさい」って書かれた日のショック、今もわすれてない。
そのせいで、消しゴムで書いては消してってしすぎて、グチャグチャになっちゃったページもあって、ごめんって書いた日もあったっけ。ほんとごめん。
でも、いつのまにか日記がすごく楽しみになって来たのに、これで最後なんだよな。
オレ、お前の前じゃ泣かないぞって決めてる。
だけど、今これを書きながら、ちょっと泣いてる。
うそだ。ちょっとじゃない。すごく泣いてる。
このページにできたしわ、オレのせいだ。ごめんな。
本当は、五年もいっしょだったのにあまり話せなかったなって、ガッカリしてる。
でも、お前がくれた思い出もいっぱいあるし、きっと俺があげれた思い出もいっぱいあると思う。
もしなかったら、ゴメン。
後、オレはもう側にいれない。だからすごく心配なんだ。
春香がひとりぼっちになったらどうしようって、引っこすって聞いてから、ずっと不安だ。
だから、最後にワガママを言うな。
向こうに行ったら、たった一人でもいいから、ちゃんと友達を作れ。
お前と同じ本好きな子でも、全然ちがう子でもいい。お願いだから、友達を作れ。
今まではずっと、オレがずっと近くにいたから、春香も変わらなくって良かったんだと思う。
でも、もうそれじゃダメだから。
春香がまた一人ぼっちなんて、オレ、イヤだから。
オレなんかと仲良くできたんだ。お前ならきっと友達もできる。
そして、友達ができたら、きっと学校も楽しくなるから。がんばれよ!
オレ、忘れないから。
いっしょに遠足でおべんとうを食べたのも。
オレのたんじょう日に、ハンカチを買ってくれたのも。
川でいっしょに花火を見たのも。
夜にこっそり大きなクリスマスツリーを見に行って、みんなにおこられたのも。
あと、これが本当に最後だから言っとくな。
春香! 大好きだ!
だから、向こうでも元気でがんばれ!
琢磨
◆ ◇ ◆
……俺、こんな事書いてたのかよ。
改めて最後の日記を読み終えた俺は、顔の火照りをそのままに、ただ呆然としていた。
いや、まあその……。
小さい頃に、感情が昂ってる中で書き殴ったから、正直あまり内容を覚えてなかったんだよ。
決して綺麗じゃない文字と文章の拙さは、小学四年なんだし仕方ない。
にしてもだ。
友達を作れ作れうるさいし、泣いた涙の跡がノートにはっきり残ってて、一部文字が酷く滲んでる。
しかもお前、何さらっと好きとか書いてるんだよ!?
い、いや。そりゃ好きだったよ。好きだったさ。
だって、春香は俺の、初恋の相手なんだから。
ほとんど口を利いてなくっても、日記とか態度からあいつが優しいのは知ってたし。
確かに地味な外見だったけど、知り合って五年でちょっとずつ可愛くなっていってたし……。
ずっと一緒にいたら、そりゃ好きにもなるって。
でも、だからって匂わせじゃなく、直接好きとか書かなくてもいいだろ!
しかもこれ、春香に読まれてるんだろ!?
当時の自分のあまりの考えなさに、何と言っていいかわからず呆然としていると。
「これで、信じてくれた?」
春香は片手で頬杖を突いたまま、少し赤い顔で微笑みながら、こっちを見つめてくる。
昔じゃ考えられない、可愛らしい表情。そこにあいつの面影はやっぱりないけれど。
そりゃ、このノートを見せられたら──。
「あ、ああ」
──流石に、信じるしかないよな。
正直、まともにあいつの顔を見るのは、気恥ずかしくって仕方ない。
だけど、吸い込まれるほどに可愛く見える初恋の人から、俺は目が離せなくなって……って。
じっと見てたら流石にキモいだろ!
「こ、これ、ありがとな」
俺は慌ててノートを閉じると、それを彼女に返そうとする。
だけど、あいつは首を横に振って、受け取ろうとしない。
「それは、ター君が持ってて」
「へ? 何で?」
「……次は、ター君の番だから」
さっきからの笑顔から一変。気恥ずかしげに俯く春香が口にした言葉に、俺はまたもドキリとする。
だって、今朝見た夢と同じ一言を、あいつが言ったんだから。
こんな偶然があるのか?
たまたまここに来ただけなのに、そこで春香に再会して。まるで正夢かってくらい、夢と全く同じ台詞を──って、ん? 待てよ?
混乱していた頭に浮かんだとある疑問。それで我に返った俺は、思わずあいつにそれを尋ねていた。
「ちょっと待った。それ、どういう意味だ? お前、こっちに戻って来たのか?」
そう。それだ。
交換日記をするったって、郵送で送り合うって話じゃないとは思う。
そこまでするくらいなら、わざわざノートなんて送らなくても、手紙で十分だし。
つまり、あいつがこっちの方に引っ越して来たとかでもなきゃ、どうやったって辻褄が合わない。
「え?」
俺の質問に、春香がちょっと驚いた顔をする。
って、何でそっちが驚いてるんだよ?
まったく意図が読めず、首を傾げた俺を見て、彼女がおずおずとこう尋ねてきた。
「あの……園子おばさんから、聞いてない?」
「聞いてない? って、何を?」
「あ、その。えっと……」
さっきまでの雰囲気が嘘のように、俺から目を逸らし、目を泳がせる彼女。
園子おばさんってのは、俺の母さんの名前。
何かを聞いてないかって? えっと今日は──。
「あ」
ふっと繋がった点と点に、俺は間抜けな声をあげる。
母さんは言っていた。俺が知っている客が来るって。
つまり……。
「お前、うちに泊まりに来たのか!?」
驚きを隠せず大声で問いかけると、ちらっとだけこっちを見た春香が、その場で指をもじもじとしながら首を横に振った。
え? 違う?
それはそれで拍子抜け。
またも間抜けな顔を晒す俺を見たあいつは、すっと立ち上がりこっちに背を向けると、
「その……まずは、ター君家に行こ?」
何故か自信のない声で、そう言ったんだ。