家出というほど大それたものではないけれど。
 とにかく遠くに行ってしまいたかった。
 自分のことを誰も知らないどこかへ。
 高校一年生の夏休みのある日、行き先も決めずに自転車で家を飛び出した。
 二時間ほどあてどなく走っていると、澄みきった川が見えた。
 河川敷には人気がない。
 ちょうどいい。ここでひと休みしよう。
 近くにあった自動販売機でレモン果汁入りの天然水サイダーを買い、河川敷に腰をおろして、リュックのなかに入れていた文庫本を広げる。
 サイダーをぐっとひと口飲みこむと、ほてった身体にさわやかな安らぎが訪れた。
 さっきまでいそがしかった心臓の鼓動も、だんだんと静かになっていく。
 知らない町の、川の景色が静かに自分の心を包みこむ。

 ――ぼくはもう、遠くへ行ってしまいたい。
 ――みんなからはなれて、どこまでもどこまでも行ってしまいたい。

 古びた文庫本の、くたびれたページに目を通す。
 ――それでももしも……。
「その本――」
 不意に耳元で誰かの声がした。
 気がつくと、見知らぬ女の子が自分のそばにいた。
レモン色のスカートをはいた白いシャツの女の子。
 くっきりとした丸い瞳がかわいらしい。
 いつの間に?
 わっ、と小さな声をあげると、彼女はクスッとほほえんで。
「ごめん、驚かせちゃったね。その本、『銀河鉄道の夜』でしょ?」
「え? ああ……かなり昔のだけど」
「私ね、それに出てくる『星めぐりの歌』が好きなんだ」
「星めぐりの……?」
「あれっ、知らない?」

 あかいめだまの さそり
 ひろげた鷺の つばさ
 あをいめだまの 小いぬ、
 ひかりのへびの とぐろ。

「――っていうの。聞いたことないかな?」
 うまく返事ができなかったのは、その曲を知らなかったせいじゃなかった。
 彼女のきらめくような歌声に驚いて、心臓がドキドキしてしまった。
「私、よくここで歌の練習してるの。でも、今日はきみが先にいたからビックリしちゃった。ここって、ふだんあんまり人が通らないから」
「そうなんだ、ゴメン」
 邪魔しちゃったかな。
 彼女はニコッとして。
「いいよいいよ、気にしないで。きみはサイクリングの途中? ここの景色、キレイでしょ? つい足を止めたくなるよね」
「うん、そうなんだけど……特に目的地があるわけじゃなくて」
「え?」
「家にいづらくなったんだ」
 彼女のパッチリした瞳がいっそう大きく見開かれる。
「どうして? 家族とケンカしたとか?」
 ううん、そうじゃなくて、と僕は首を振る。
「母さんが再婚して」
「新しいお父さんと、うまくいってないの?」
「そういうわけでもないんだ。むしろ、すごく優しくていいひと」