家に帰宅して本を開く。
 どれだけ見つめても、どんな文字も踊っていない。何も浮かんでいない。改めて白紙だけの本だな、というのを実感する。
 あの時、彼女が言っていたことを思いだす。
 
 この本を使って文通をしてみようよ。
 お互いに質問や近況を書いて交換し合おうよ。
 
 それだけで僕たちは別れていった。もちろん約束を交わして。一方的な話を続ける彼女だったけど、不思議と悪い気はしなかった。
 どんな秘密があるんだろう。彼女への疑問というのは特にないけれど、この本のことを知れたら嬉しいな、そう思っていた。
 シャープペンシルを握る手はずっと動かないままだった。
 いざ文通をはじめるのは、SNSで相手をフォローするのとはだいぶ違っているからだ。プロフィールや過去の投稿があるわけではない。何もヒントを得られないまま、だいぶ時間が過ぎていく。
 もう寝てしまいそうであろう時間に、やっと質問が生まれる。まるでお見合いで顔を合わせたカップルのようにシンプルだった。

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はじめまして。
あなたのお名前はなんですか?
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 これで、来週の水曜日にあの土手で会うことになっている。
 でも、本当に彼女は居るのだろうか。なんだか狸にでも化かされているんじゃないか。実際、あの川のあたりで目撃例があるという。
 もし居なかったら質問を消しゴムで白紙に戻してしまおう。
 まだ半信半疑な気持ちのままだった。

 ・・・

 水曜日になった。
 僕はまた自転車で帰宅している。小川沿いをしばらく走っていると、橋げたのところにぽつりと立っている人物を見つけた。
 あの彼女だ。
 ......いや、本当にそうだろうか。背格好は似ているけど別人かもしれない。もしかしたら、自分が気づいていないだけで尻尾があるんじゃないだろうか。
 生まれた疑問は、彼女からの挨拶によって消えていった。
「やあ!」
 自分の姿に気づいた彼女は、こちらを向いて手を広げて挨拶してくれた。
 よかった、あの彼女だ。
 彼女の前で自転車を止める。こんにちは!と声をかけた。
「......ねえ、どんなこと書いてきたの!」
 まさか自分の挨拶に被せるように彼女は問いかけてきた。こんな人見たことがない。
 仕方ないと思って鞄から本を取り出して見せる。すると彼女は吹き出すように笑い出した。
「さっそく名前を聞いてくるんだね! なんかかわいい!」
 かわいいと言われると照れる。恥ずかしいからやめてほしい。
 仕方なく口頭で質問をしてみる。これはもう照れ隠しだ。
「で、お名前は何ていうんですか?」
 彼女はじいっとこちらの顔を覗き込む。あまり化粧を感じられない顔をすぐ近くに感じて、これまた照れてしまう。
「書いたことは聞いちゃったらダメだよ」
 それだけ言うと、彼女は顔を離してくすくすと笑いだす。口の前に手を置く仕草は女性というより自然体な少女のようだった。
 こう感じるのも無理はない。彼女が今日着てるのはセーラー服だ。あまりこの辺では見たことがないデザインは、上品さを感じるものだ。その姿を、どこかで見たことがある気がする。
 彼女は本を鞄にしまうと、振り返って歩き出す。
「じゃあね!」
 これだけを言い残して去っていく姿を、自然と見つめてしまっていた。

 ・・・

 次の週の水曜日も彼女はそこにいた。
「やあ!」
 こちらを向いて手を広げる仕草は前と変わらない。ちなみに、今日もセーラー服を着ている。お互いに学校帰りということだろう。
 にっこりと笑った彼女が、本を渡してくる。きちんと両手で差し出す姿は、とても丁寧だ。
「開いていいの?」
 質問に彼女はこくりと頷く。
 そこには自分の書いた内容の回答として、小さな自己紹介が書かれていた。

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高野(たかの) 百合(ゆり)()っていいます。
聖白百合学園の2年生、好きな教科は数学と音楽。文芸部に入っています!
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 なるほど、高野さんっていうんだ。僕の一つ上の学年だ。
 緑のボールペンで書かれた文字は細く流れるよう。それに、百合の偶然がおもしろい。
 すると彼女は質問の補足をしてくれた。
「高野さんって気楽に呼んでくれていいよ。百合(ゆり)()っていうのは嬉しいけど、ちょっと恥ずかしいな」
 少し頬を染める彼女に、つい見とれてしまう。
 そして、僕はあることを成し遂げていないことに気づかなかった。
「......あとさあ、私はきみのことをどう呼べば良いんだろう?」
 自分の自己紹介をしていなかった。
「ほ、星野(ほしの)って呼んでください」
 あ、と僕が小さい声をこぼしたのはそれからだった。高野さんはくすくすと笑っている。
 聞かれたならページに書いて答えればよかったのに。
「じゃあね!」
 僕たちはまた別れた。
 来週また会おう。彼女はどんな質問をしてくるのだろう、楽しみにしている自分がいた。