自転車に乗るのが好きなんだ。
 高校に行くには電車を使ってもよいけれど、昼下がりの時間帯は本数が減ってしまうから、どちらを選んでも帰宅するには同じくらいの時間がかかってしまう。だから週に一日はこうして自力で頑張っている。
 
 この交差点を曲がると、小川沿いの道に進む。
 初夏を迎えた季節は、わずかなそよ風が吹いていた。汗をかく時期にはだいぶ早いから、少し歩いていこうか。少しくらい帰りが遅くなっても大丈夫。
 自転車から降りて、川の流れに目をやる。穏やかな川の流れを見ていると、まるで心の中に爽やかなリズムが流れているみたい。
 その心地よさはまるで軽い旅行のような気分。
 旅情が足止めになってしまったのは、スマートフォンが鳴るメロディーのせいだった。母親からの着信に妙な胸騒ぎを覚える。しぶしぶと電話口に耳を当てると、案の定買い物の催促だった。
「牛乳くらいで電話しなくてもさあ......」
「それだけじゃなくてさ......」
 最低限の抗議は買ってくるものアイテムが増えたことで打ち消されてしまった。どうやら自転車で帰宅することを当てにして電話をしてきたようだ。
 これじゃあ仕方がない。
 記憶が鮮明なうちにどこかにメモをしておかないと。川縁に腰かけて、筆記用具からシャープペンシルを取り出す。そして次に取り出したのは先ほど本屋で買った本だった。
 白紙だからいいだろう、そう思ってペンを走らせる瞬間だった......。
「......待って、書かないで」
 自分の頭上から声をかけられた。
 慌てて振り返ると、見知らぬ女性が立っていた。肩にかかるくらいの髪に白いブラウスを召した彼女は、土手の上から、こちらを見下ろしている。
 そして、また口を開く。......書かないで、と。
 誰なんだろう、何を言っているんだろう。当然浮かび上がる疑問は、自分の身体を動かすことを忘れてしまう。彼女の姿から目を離せなかった。
 彼女が少し顔を下ろしたのが分かった。その瞳は自分の手先に注ぎ込まれ、肩を撫でおろしているみたいだ。
 少し微笑んだように見えたのもつかの間、彼女は土手を降りてくる。そして自分の隣に腰かけると、僕の顔を覗き込むように見つめてきた。
「まだ何も書いていないんだね、良かったよ」
 そう言われるとますます分からない。僕は書くなと声をかけられてしまっただけなんだから。
 自分の疑問もよそに、彼女はこちらに視線を向けたまま質問してくる。
「ね、その本どうしたの?」
 どうしたもなにも、さっき僕が買ってきたものだ。だからその通り説明するしかなかった。
「買ってきたんですよ、本屋で」
「本屋で?」
「そうですよ、つい、さっきのことです」
 つい、さっき。僕の口はたしかにそう言った。この言葉のどこにポイントがあったのは分からない。目の前に居る人物の表情が変化していくのが分かった。
 彼女はゆっくりと口を開いて、両手で包み込むように覆う。頬が自然な朱色で染まっていくのが僕からも分かった。
 ビー玉のように輝く瞳が揺れる。その表情はまるで脱走してしまった猫を見つけた飼い主のよう。
 どういうことだろうか。本一冊でここまで喜ぶ人と出会ったことがない。
 
 ひとまず落ち着いてほしい。
 そんなに見つめられると困る。ひとりでに赤くなる頬を隠し切れずにいくつか質問をしてみる。
「ちょ、ちょっと待ってください。この本っていったい......」
すると、女性は一瞬だけ真顔になって、微笑んで答えた。
「私のじゃないんだけど、大切な物なの」
「えっ、どういう......」
 その通りのことなのよ。こう重ねて言われても、この人からは不思議しかちらついてこない。振り払うこともできずに、積もってしまった。
 落ちた埃を見つめうように、本のページに目を落とす。
 白紙だけの本。
 書いちゃ駄目だと言われた本。
 自分のではないのに大切な物だという本。
 まったく、何がなんだか分からない。
「......でも、書いてほしいことはあるよ」
 えっ、と小さい声を漏らして顔を上げる。彼女は微笑みのまま口角を上げてにこっと笑っている。
「私、ご縁を感じてる。今すごく実感してるんだ。
だから私の気持ちを受け止めてほしい」
 まじまじと彼女の顔を見つめる。まるで口笛でも歌い出しそうな表情には、これから楽しみだという気持ちに溢れていた。
「この本に書き込んでほしいんだ、君からの手紙を。
そして私は君への手紙を書くからさ」
 つい無言のまま固まる。お互いに顔を赤らめたまま見つめ合ってしまった。爽やかな風が頬を撫でる。
 ......つまり、この人がしたいことは。
「そう。ペンフレンドになろうよ」