桜花は膝の上で握った拳に視線を落としたまま、小さく呟いた。
「……死んだんです。静歌」
その声はひどく澄んでいた。
空気に溶けるような淡さで、男の耳に届いたときには消えそうだった。
風が二人の間を通り抜けていき、桜花の髪は誘われるようにふわりと宙へ舞った。
毛先の行く先を辿るように顔を上げた桜花は、まっすぐ前だけを見つめていた。
景色に溶けて消えそうなほど、男の目に桜花の姿は儚く見えた。
「え、死んだ……?」
桜花の声を反芻するように呟いた男は、動揺しているようだった。
確かめるような男の声は震えており、まるで信じられないと言わんばかりだった。
桜花の表情は、男の言葉を受けても変わらない。
「……わたしのせいで、死んだんです」
前だけ見据えて、桜花はぽつりと話し出した。
自分の過去と対峙しているようだった。
「静歌のことは、好きでした。お母さんはいわゆる毒親ってやつでしたけど、静歌だけはずっとわたしに優しかったから。なんでもできて誰からも好かれている、自慢のお姉ちゃんでした」
桜花の語り口は柔らかかった。
淡々とした口ぶりだったが、桜花が本当に姉の静歌を好いていたことが男に伝わった。
「……だけど、心のどこかで静歌を妬んだり僻んだりする自分がいたのも本当でした。静歌に、心臓の持病があったことは知っていますか? あの日も、発作で苦しんでいて……。だけどわたしはあの日、嫌なことがあったんです。引っ越しも間近に控えていたので、朝からお母さんが静歌に離れるのが寂しいとかなんとか言っていて、それを聞いてしまって。わたしにはそんなこと、一言も言わないくせにって思って……。それで、ちょっと静歌のことが憎らしくなっちゃったんです。いつもなら近くにいれば薬をバッグから出してあげて、落ち着くまで背中を撫でたりするけれど。そのときは、どうしてもできなかったんです。いつものことだし大丈夫でしょって、放っておいたんです……」
(——あの日の静歌の言葉にならない声や、助けを求めるように自分へ向かって伸ばされた手、涙を浮かべた苦しそうな表情。全部全部覚えてる)
いまだにそのときのことを思い出すと、桜花の心は何とも言えない罪悪感と喪失感でいっぱいになる。
だが、忘れないことこそが自分への戒めなのだと桜花は感じていた。
「……でも、心の中で少し、思ってしまったんです。静歌がいなければ、もっとましな人生だったかもしれない。このまま静歌が死んでくれたら……、って」
(——我ながらひどいことを言っているってわかる。……だけど、これが変えようもないわたしの事実だ)
何度思い出しても、涙が滲んでくる。
自分はなんてことをしてしまったのだろう、と。
だが、何度悔やんでも、時間を過去に巻き戻すことはできない。
「……そうしたら、本当に死んでしまった。大好きだったのに。静歌のこと、大切だったはずなのに」
静歌の件は、不慮の事故として処理された。
持病もあったし、実際に発作が起因でなくなったと調べがついたからだ。
桜花の脳裏に焼き付いたあの日の静歌は、桜花が見た生きている静歌の最期の姿だった。
「わたしが、静歌を殺したようなものです」
淡々と桜花は言った。
自分があの日手を差し伸べ助けていたら、きっと静歌はいまも生きていたのだろうと桜花は思う。
男の視線を痛いほど感じ、その視線に責められている気がした。
責められて当然とわかっているからこそ、桜花の心はなにかに絞られているかのようにぎゅっと痛んだ。
「……なんで静歌の名前を使ったのかって、わたしに聞きましたよね」
桜花はやっと、男の顔を見つめた。
狼狽えている男の顔を見た桜花はさらに確信に近いものを感じていたが、そっとそれを胸の内に押し込めた。
その目に、悲しみの色と動揺の色が滲んでいたからだ。
男から返答はなかったが、桜花は事の顛末を話し始める。
「……静歌が死んでから、わたしは予定通り大学へ通うために引っ越しました。あんな母親と二人きりでいる意味もないですし。そして、整形したんです。静歌みたいな幅のある二重、ふっくらと艶のある唇。鼻にもヒアルを入れて……。ダウンタイムは入学式までに間に合うし、十八を越えていれば親の同意書もいらなかった。整形して、化粧で誤魔化せば静歌に見えるほど、わたしの顔はたったそれだけのことで見違えるように変わりました」
父の面影のあった顔はもう桜花に残されていなかったが、整形した当時、桜花の心は幸福感でいっぱいだった。
一歩静歌に近づくことができた、と。
だが、桜花の心は常にちぐはぐだった。
「静歌が亡くなって悲しいはずなのに、心のどこかに別の自分がいた気がするんです。まるで悪魔みたいだと自分でも思います。でも、思っちゃったんです。……静歌がいなくなったいまなら。これからは、今度こそ静歌のように生きていけるんじゃないか、って。本気でそう思ってしまったんです」
男は桜花の話を静かに聞いていた。
桜花はまた視線を自分の膝に落とし、小さく呟く。
「それから、なんです。わたしは鏡を見ると、どうしてか本物の静歌がそこにいるように思えて。わたしが殺してしまったはずなのに。……高校を卒業したら、二人暮らしをする予定でした。お母さんのいない、幸せな二人暮らしです。それができたら、どれだけ幸せだったんだろう、って……。わたしはその夢を自分で捨てたはずなのに捨てきれなくて、ひとりで演じていたんです。わたしたちに訪れるはずだった、幸せな二人暮らしを……」
ひとりきりだったけれど、ふたりだった。
入学してから過ごした一年と少しの時間は本当に幸せだったと、桜花は過去を振り返りながら思った。
「必要最低限しかお金は与えてもらえなかったので、整形費用だけでだいぶお金を使ってしまいました。静歌がいればきっと、もっと普通の暮らしができたのだと思います。母は静歌には甘かったし、ふたりで暮らすならと仕送りもしてくれる約束をしていました。けれど、静歌は死んで、母は当てにならなくなりました。生活していくにはお金が必要ですよね。でも、わたしにはお金がなかった。だから、パパ活に手を出したんです。簡単そうだし、みんなやってるしと思って。本当に安易な理由です」
話しながら、桜花がどれだけひどくて安直な人間なのかが浮き彫りになる。
きらきらと輝くような大学生活はまやかしのようだと、桜花は思っていた。
「パパ活は思っていた以上に簡単に大きな額のお金をもらえました。バイトなんてバカらしくてやってられないなと思うようになりました。小さい頃からずっとわたしはなにも与えてもらえなかったから、買ってみたかったんです、ブランド品。最初は生活費を稼ぐためでしたけど、目的はいつの間にか変わっていました」
以前、姉が着ていて羨ましいと思ったジェラートピケの部屋着、それからハイブランドのバッグや靴。
そのどれもが桜花には煌びやかに見えて、喉から手が出るほど羨ましかった。
田舎から都会に出てくると、すれ違う人すべてが洗練されて見え、自分もそうなりたいと桜花は強く思ったのだ。
それと同時に、よく考えていた。
街中ですれ違う仲の良さそうな家族を見るたびに、いまも父が生きていたら母からもあの頃のようにかわいがってもらえたのだろうか、家族四人並んで歩くことができたのか、と。
桜花と同じ年頃の子がブランドバッグを持っているのを見るたびに、父が病気で死ななければ、あの日父からもらったものだと嘘をついたダミエのバッグも、もしかしたら現実になっていたのではないだろうか、と。
……それとも、大学生にはまだ早いと、厳しい母は買い与えるのを止めただろうか。
——父が生きていれば、静歌が生きていれば。
そう思うことばかりで、考えることの全部が、桜花にとっては夢物語のようだった。
「……わたしは、本当のわたしは。大学でもてはやされていたような、明るくて性格のいい人間じゃない。静歌の名前を使えば、万が一バレることがあったとしても言い逃れができると思って、わたしは静歌の名前を使ってパパ活していました。動画だってそうです。なんとなく静歌のように注目を浴びてみたくて軽い気持ちで投稿しただけでした。……結局、こんなことになってしまったけど」
これがあなたの知りたかった全部です。
そう桜花が締めくくると、男は「……そうか」と理解したように、小さく呟いた。
桜花を責める言葉もなく、たった一言、喋ったのはそれだけだった。
男の姿を、桜花はじっと見つめた。
男は膝に腕をつきながら前かがみになり、何か考えているようだった。
ただでさえ小柄な男が、桜花にはさらに小さく見えた。
「……あなたに正体がばれたのは誤算でした。まさか手のタコでばれるとは思いもしませんでしたけど」
皮肉めいた桜花の呟きに、男は俯きながらぽつりぽつりと話し始めた。
「……きみのことは、よく静歌から聞いてたよ。ふたりがこの大学に入学することも。俺は遠目でしかきみを見たことがなかったけど、笑った顔が静歌そっくりだったから、この人が妹の……って、ずっと思ってた。整形してたのは知らなかったけど。大学できみを初めて真正面から見たあの時……、俺がバッグを落とした時のことだけど。あの時、静歌は?って、思い切って聞こうと思った。だけど、できなかった。静歌は何か理由があって俺を避けているのかもしれないと思っていたから。だけど、一向に連絡はつかないし、広い構内のどこを探してもいなかった。きみと一緒にいる様子も見られないし。だから、きみに話を聞きたいと、ずっと思ってた。……メイク動画が炎上したと知ってから初めて、動画を見た。やっぱり、静歌に似ていると思った。他人の空似とも思ったし、もしかしたら妹のきみが投稿しているのかも、とも思った。そして、あの生配信動画や過去の動画を見て、左手にタコがあるのがはっきり映っていて、それでなんとなく思ったんだ。これはきみだ、って。弓道をやっているっていうのは、静歌から聞いてたよ。だから、この動画の配信者はきみだ、って確信した。それなのに謝罪動画であんなことを言うから、混乱した。モディの前で見かけた時も、後ろ姿がきみにしか見えなくて、衝動的に手を取った。やっぱり左手にタコがあったから、わかったんだ。本当のこと言ったらって言ったのは、そういうこと」
どのくらい時間が経ったのかはわからないが、長々と話す男の声を聞きながら、遠くから人のざわざわとした話し声がするのを桜花は感じていた。
九十分はあっという間だ。
きっと講義が終わったのだろう。
昼休憩になれば誰かと鉢合わせる確率も上がるし、騒ぎになるのはごめんだった。
だけど、桜花は確かめなければいけなかった。
「……そうだったんですね。あなたの事情はわかりました。だけど、あなたが暴かなければずっと続くはずだったわたしの生活が壊れたんです。静歌がもうこの世にいないことはもう説明しました。だから……」
そこまで言って、桜花は言葉を切った。
喉が震えているのがわかる。
桜花は、怖かった。
(——どうか、この人が犯人であってほしい)
そう願いを込めながら、桜花は緊張で渇いた唇を開いた。
「だから、もう動画にあんなコメントを書くのは、やめてください」
全ての音が止んだような錯覚に、桜花は囚われた。
それほど緊張し、自身の心はいっぱいいっぱいだったのだ。
だが、男の言葉が桜花の希望を即座に失わせた。
「……コメント?」
訝し気な男の顔に、桜花の頭の中には懸念していたひとつの可能性が再度浮上した。
「……やっぱり、このコメントはあなたじゃない、ですよね」
——ほんとのおまえを知っている——
二度と見たくなかったその文字が書かれた画面を開き、桜花は男へとそれを見せつけた。
最初はこの男こそ犯人だと桜花は思い込んでいたが、男の反応を見るに、やはり違うのだろう。
「……俺じゃない。それに、こんなコメントが実際にあったなんていま初めて見た」
まじまじとその画面を見つめる男の横顔は、明らかに潔白のように見えた。
演技をしているのだとしたら、大したものだと桜花は思う。
(——でも、そうじゃないんだろう。この人は本当にただ静歌のことが知りたかっただけで、犯人じゃない。あのコメントをした犯人がこの人だったら、どれだけよかったんだろう)
桜花はため息を吐きながら、画面を閉じて口を固く引き結んだ。
(——もう、この人にも、この場所にも用はない)
遠くに感じた喧騒がすぐ傍まで迫っているのを感じた桜花は、すっと立ち上がり早口で男に告げた。
「……もう、行きます。さよなら」
この男が犯人ではないとしたら、桜花にはもう心当たりはひとつもなかった。
ただ、たったこれだけのことで終わるはずがないと思った。
二回もきたあのコメントが漠然とした不安と恐怖となって、いまなお桜花の心に大きく影を落としていた。
(——わたしの正体を知っている人が、ほかにもいる)
そう思えば思うほど、これだけ大きな騒動にしたことの理由もわからず、ただ自分が恨まれているのだという事実だけが桜花にのしかかり、それが見えない敵となって桜花を取り囲んだ。
ハットを目深までかぶり直し、立ち去ろうとしたときだった。
「待って。……きみは、このコメントをした人が俺だと思ってたってことだよな? 犯人を、見つけるつもりだった?」
桜花の左手をまたしても掴みそう言った男を、真正面から桜花は見つめ返した。
並んでみると男にしては背が低く、ヒールを履いている桜花と並んでも変わらないくらいの背丈だ。
男の問いに答える必要はないと感じた桜花は、握られた自身の手をほどこうと強く引いたが、見た目に反して男の力はやはり強かった。
震えるほど強く、桜花の左手を握っている。
「……俺、静歌は殺されたんじゃないかって、思ってたんだ」
「え……?」
消え入りそうな声でぼそっと呟かれた男の言葉に、桜花は反射的に返事をした。
(——わたしに殺されたと思っていた、ということ……?)
その言葉に目頭が熱くなり、カッと頭に血が上った。
自分が人殺しをするような人間に見られていたのだと、桜花は思ったからだ。
怒りから口を開こうとしたが、男が先にある画面を桜花の目の前へ突き出したことで、それは憚られた。
見せられたのは覚えのあるアイコンが並んだトークアプリで、静歌とこの男——菅野理央とのやり取りだった。
「これ……」
受け取ったスマホを見るように菅野理央に促された桜花は両手でスマホを持ち、スクロールしてやり取りを辿っていく。
その瞬間、溜飲が下がっていくのを感じたが、別の何かが桜花の喉元を駆け上がっていった。
そこに並んでいたのは、桜花が初めて知る事実だった。
Shizuka(またつけられてるかも……)
理央(大丈夫?まだ家族に話してないの? 警察にも相談した方がいいって)
Shizuka(言ってない。これ以上、迷惑かけられない)
理央(そっか……、電話かけようか?心配だし)
Shizuka(大丈夫!いまのとこつけられてるだけで何もされていないし、もう家に着くから)
理央(そっか。でも一応、家入るまで連絡やめないで)
理央(大丈夫?)
理央(静歌?)
理央(おーい)
理央(本当に大丈夫?)
理央(家着いた? 連絡して)
何度か菅野理央の方から静歌に電話もかけたようだが、繋がらなかったようだ。
それを最後に二人のやり取りは終わっている。
「静歌がストーカー被害にあってたこと、知ってた?」
「……知らなかった」
(——それどころか、気付いてすらいなかった。静歌がそんなことになっていたなんて)
ぞっとした。
桜花の背筋を冷たいものが流れ落ちていく。
「ここから、連絡がつかなくなったんだ。だから、もしかしたら、って……」
言いながら菅野は、桜花が手にしている自分のスマホをじっと見つめていた。
もう何度も、そうやって来るはずのない連絡を待ち侘びていたのだろう。
そうしてふと視線を桜花と絡ませた菅野は、言った。
「……俺は、このストーカーに静歌は殺されたんだと思ってた」
「……!」
桜花は息を飲み菅野を見つめた。
「でも、違うんだよな? 静歌は発作で亡くなって、ただそれだけ、なんだよな……?」
菅野の必死な様子に、桜花はふとスマホにまた視線を落とし、あることに気付いてしまった。
「……日付」
桜花の声は、ひどく震えていた。
菅野と静歌の連絡が途切れたその日。
それは、静歌が亡くなったあの日と同じ、三月十二日だ。
(——そういえば、あの日の静歌の様子は少しおかしかった気がする。いつもなら、すぐに自分の鞄の中身をばらまいて、その中から薬を探そうとするのに。……だけどあの日は、わたしに何かを訴えかけるように必死で手を伸ばしていて……)
桜花は顔面蒼白になり、がたがたと震え出した。
(——もしあの日の発作がただの発作じゃなかったのなら、わたしは、なんてことを……!)
「おい、日付って、どういうこと?」
突然様子のおかしくなった桜花の肩を、菅野は揺さぶった。
桜花は震える唇を必死に動かした。
「……この日、静歌が亡くなったの」
ぱらぱらと雨が降ってきた。
稲光が天を走って、ひときわ大きな音が鳴った。
見る間に空は雲で覆われて、薄暗くなる。
バケツをひっくり返したような大雨が、ふたりを襲った。
まるで空は“これから何かが起こる”と告げているようだった。