うまく息ができない。
 そう思うようになったのはいつからだろう。
 自分は一番になることはできない。
 そう悟ったのはいつだったのだろう。

(——この男は、本当の本当に、最初から全てわかっていたんだ……。モディの前でわたしの手を掴んだあの時から、きっと……)

 もう言い訳は通用しないと感じた桜花は、力なく腕をだらんと下げた。
 抵抗しない桜花に、男は桜花が負けを認めたのだろうと小さく安堵のため息を吐く。
 男もそれまで気を張っていたのだろう。
 やっと掴んでいた桜花の左手を離し、桜花をベンチへ座るよう誘導した後、座ったのを見届けてから自分も人ひとり分空けたその隣へと腰を下ろした。

 鋭い視線でもなければ、その声は冷たくもない。
 まるで悩み事を聞くカウンセラーのような雰囲気の話し方で、男は桜花へ話しかけた。

「聞くけど、あの動画もパパ活も、全部きみだろ? どうして静歌の名前を使ったりなんか……」

 伏し目がちで言う男は桜花が思っていた通り静歌のことを知っていて、静歌の安否を案じているようだった。
 ちらりと横目で男を見るとブロンドの睫毛に縁どられた青い瞳は揺れていて、桜花の心もほんの少しだけ揺れた。

(——静歌のことを知る人がこんなに近くにいるなんて誤算だった。……どうしてこうなっちゃったんだろう。もっとうまく生きていくはずだったのに)

 いつかどこかでボロが出たとしても、それはもっと先のことだと桜花は信じていた。

「……どうして。どうして、わたしが桜花だって気付いたんですか……?」

 なんとなく桜花はもうわかっていたが、それでも聞かずにはいられなかった。
 そんな桜花の小さく震える声を聞き、男は自らの右手で桜花の左手を指さした。
 たったそれだけのことで、桜花は真意に気付いてしまう。

(——やっぱり、これで気付いたんだ)

 桜花は膝の上で小さく拳を握り締め、観念したかのようにやっと重たげな口を開いた。

「……そうです。わたしは静歌でも、ほかの誰でもない、東雲桜花。あなたが言った通り、あのメイク動画もわたしだし、パパ活してたのもわたし」

 所在なさげな声で、桜花は初めて事実を他人に打ち明けた。

 桜花は、ずっと隠していたのだ。
 静歌という姉がいるのは事実だったが、自分自身が双子の姉のふりをしているということは親にも誰にも話していない。

 それが桜花のついた嘘であり、偽りの姿だった。

 下を向きながら話していても、男の視線がこちらに向けられていることは桜花もわかった。

「どうしてそんなこと……」

「……どうして、って」

(——そう言われても、困る)

 ここに至るまでに複雑なことが多々あったので一言で言い表すこともできないし、話すとしたら長くなる。

(——それよりも、これからどう生きていけばいいんだろう……。もう大学にも通えない。動画で稼ぐことも、もうできないだろう。それに、この男の人は何がしたかったんだろう)

 最初はあのコメントをした人物を見つけて、もうやめてほしいと桜花は言うつもりだった。
 目的はなんだと、問うつもりだった。
 しかし、この男を見ていると、果たしてこの男の目的はなんだったのだろうと桜花は思うようになった。

 あんなコメントを残し動画を炎上させ、桜花の正体をこうして暴いてまで成し遂げねばならない重大なことが、この男にはあったのだろうか。

 そんなに静歌のことが心配だったのだろうか。
 それとも、ただの興味本位だったのだろうか……。

 考えてもわからなかったが、何にせよあのたったひとつのコメントがこれまで必死で作り上げてきた東雲桜花というひとりの人間の人生を狂わせたのだ。

 どうしてこの男が自分の正体を暴くことに執着したのか本当のところは桜花にはわからないが、この男も自分にはさして興味もなく、見ている対象は自分でなく静歌なのだろうと言葉の端々からわかってしまったので、それが桜花にはつらかった。

 桜花はそれまで固く握りしめていた自分の左の手のひらをそっと開き、じっと見つめた。
 そこは、先ほど男が触れていた場所で、指さされた場所でもある。

 桜花の左手には、小指の第一関節とその指の付け根に薄黄色の固いタコがあった。
 それは、射法八節の中の動作で弓の打ち起こしから大三の型に入る際にきつく手の内を握るためにできる、弓道をたしなむ人ならわかるであろうものだった。

 桜花にあり、静歌にないもの。
 それが、ふたりを表わす相違だった。

(——こんなもので……。これは、わたしの落ち度だ)

 桜花は自身の手のひらを見つめながら、乾いた笑みを漏らした。

「……それ、俺にもあるからわかるんだ」

 桜花の様子を見てそう言った男は、自分の左手を桜花へ見せた。
 その手には、小さいが桜花と同じようなタコがある。

「大学でサークルに入ってから始めたんだ」

 そう言う男の横顔は笑みをたたえていた。

(——そうか、だから……)

 この場所がどこか、桜花は思い出した。
 人気のないこのベンチは弓道場の小脇にある。
 背にはちょうど弓道場がありいまはなんの音もしないが、ここで男とかち合ったということは二限が始まるまでここで過ごしていたのだろう。

 以前講義室内に入ってきたのが時間ぎりぎりだったのを桜花は思い出した。
 きっと毎週この時間、男はここにいたのだろう。

「……ここで待っていれば、またきみが来る気がしてた。前にも来てただろ、友達と」

 その言葉に、桜花ははっとした。

(——あの日、巻き藁で練習していたのはこの人だったんだ)

 桜花は合点がいったようで、またそのまま俯いた。

 しばらく、二人の間に静かな時間が流れた。
 木々を擦りながら吹く風の音だけが聞こえてくる。
 二限もとっくに始まっているだろう。

 ……どのくらいの時間が経ったのだろうか、隣で男が動く気配を感じた桜花は、目線だけそちらに向けた。
 男はまっすぐ桜花を見ていた。
 そして、まるで警戒心を解くような優しい語り口で、もう一度桜花に言った。

「……教えてほしいんだ。なんで静歌の名前を使った?」

 それはどこか懇願しているようにも感じて、桜花はますます混乱した。

(——この人は本当に、あのコメントを書いた人物だろうか……)

 どうしてか疑ってしまう自分がいることに桜花は気が付いた。

 あのコメントには完全に悪意を感じたのに、この男からは一切それを感じないからだ。
 それどころか、心配の色が声音に交じって聞こえるのだ。

 探るように桜花が男の横顔を見つめていると、男が小さく口を開いた。

「……ずっと、静歌を探してた。教えてほしいんだ、彼女のこと」

 まるで過去を思い返すような懐かし気な瞳で、男は自分の手にできたタコを優しくなぞろように触れていた。

(——この人は最初から、静歌のことが知りたかっただけ? それで、わたしに近づいた?)

 桜花はじっと男を見つめる。
 その青く輝く瞳は切実で、桜花の目にはその男が嘘などついていないように見えたし、どうしてか胸の奥がぎゅっと痛んだ。
 
(——そうか。この人はずっと、知らなかったんだ……)

 あるひとつの可能性に気付き、桜花はぎゅっと手を握った。

(——いまのままじゃ、この人があのコメント主だと断定も否定もできない。……だけど、どうしてか静歌のことは、この人には話さなきゃいけないような気がする)

 男の真剣な表情を前に、桜花は人知れずそんなことを思った。

(——どこから話せばいいのだろう。こんなとき、静歌が隣にいてくれたら……)

 そこまで考えて、桜花は天を見上げた。
 桜花の心とは裏腹に雲一つない青空が、目の前には広がっている。

(——ううん。静歌がいたら、そもそもこんなことになってすらないか)

 静歌のことを思い浮かべ、ついに自分の過ちと向き合うときが来たのかもしれないと桜花は感じていた。
 それでも、すべてを打ち明けるには勇気がいる。

(——だって、静歌はあの時わたしが……)

 本当のことを告げたら、この男はどうするだろう。
 桜花は男の切なげな顔を横目に、心の内で過去を思い浮かべた。