一歩足を踏み入れた構内は以前と変わらない様子だったが、すれ違う生徒の多くはもう初夏の装いで、自分だけ別の世界に取り残されたような、どこか不思議な気持ちを桜花は感じていた。
(——久しぶりだ)
震える足に鞭を打ち、やっとの思いでここに来たのは“あの男”を探すためだった。
桜花は一度深呼吸し、辺りを小さく見回した。
(——来てみると、意外とどうってことはないのかもしれない)
相変わらず足は震えるし、嫌な動悸もする。
この場所に体が拒絶を示しているのは明白だったが、桜花は案外平気なものなのだなと他人事のように思っていた。
目的がなければ、きっともう二度と来ることはなかっただろう。
この場所にまた立つことができたのは、このメイクのおかげかもしれないと桜花は思った。
普段より幾分か気合を入れたメイクは目の下にできた隈をしっかりと隠し、濃く太く引いたアイラインは桜花の眼差しを力強く見せてくれた。
何人かの学生が桜花とすれ違う際に振り返ったが、それは嫌な視線ではなかったように思う。
それでも、他人から向けられる視線は怖かった。
できるだけ人にピントを合わせないように、桜花はただ前だけを見て歩いていた。
(——金曜の二限、大講堂で行われる講義をあの男は受けるはずだ。あの講義は出席日数が最終評定に加味されるから、よっぽどのことがない限り出席するはず)
そう目論み、授業が始まる二十分前に講義室付近に辿り着いた。
桜花はちらりと講義室の中を覗き込んだ。
大講義室はこの時間は空いているので、既に何人かの学生が中にいるようだったが、その中に桜花が探している人物はいなかった。
あの日のことをよく思い返す。
あの男は、講義開始ギリギリに人の波に紛れて入室した。
きっと一限はほかの講義に出ているから、来るのが遅いのだろう。
(——講義が始まる前に、何としてでも引き留めるしかない。……できるのかな)
ただでさえ久しぶりに来るこの場所に緊張しているというのに、これからやらねばならないことがあると思うと、動悸はより一層激しくなった。
(——飲み物でも買おう)
大講義室のドア脇には適度なスペースがあり、小さなエレベーターホールのようになっているつくりだ。
自動販売機が二台と燃えるゴミ、燃えないゴミなどのゴミ箱がエレベーターのドアの向かいに設置されている。
桜花はいつも通りボトルのミルクティーのボタンを押し、一口だけ口にふくんだ。
(——甘い……)
緊張して口の中はからからに乾いていたので、ミルクティーの味はいまの桜花には甘すぎた。
(——もっと別のものを買えばよかった)
ミルクティーのすぐ上にはスポーツ飲料があったことに気が付いて、思わずため息を吐いた。
もうミルクティーを飲む気は起きず、かといって捨てるにも捨てられないので、仕方なしに持ってきたバッグへと押し込んだ。
時間まで、まだあと少しある。
ホールには壁をくり抜いたような大きな窓があり、桜花はそっと近づいた。
入学してから一年以上経つというのに、その大きな窓辺には桜花は一度たりとも近づいたことがなかった。
窓際には立派なパキラの鉢植えが置かれており、桜花はその葉を指先で優しく撫でる。
(——いいよね、植物は。いつでもまっすぐに光のある方を向くことができて)
五枚からなるパキラの葉は大きく青々としており、窓に近い方の枝は一生懸命太陽に近づこうとしているかのように見えた。
一方で構内側の葉には十分な日が当たっておらず、葉は小さくそれ以上成長できないようだった。
(——まるで、人間と同じだ)
最初から良い環境に生まれれば大した努力をせずともいい暮らしができるし、反対に恵まれない環境に生まれれば苦労する。
(——結局、最初から“持っている人”にはいくら努力しても敵わないんだ)
桜花は寂しげな瞳で、窓から外を見下ろした。
そうすると、桜花が普段通っていた道が真下に見えた。
いまも何人かの学生がそこを通っており、表情までは見えないがとても楽しそうな様子であることがうかがえた。
(——ほんの少し前までは、わたしもあんなふうに……)
「……桜花?」
「……!」
感傷に浸っている中ぽつりと呼ばれた自分の名前に驚き、桜花の肩は反射的に揺れた。
(——この声は、美樹だ……)
振り返らずともわかるその声は、入学してから毎日のように聞いていたから間違えることはない。
(——会うかもしれないとは思ってた。だけど、心の準備なんてできてない)
桜花は何も言えないまま、その場に立ち尽くす。
声だけで美樹だとわかる桜花と同じように、美樹も後ろ姿だけでなんとなくそれが桜花だとわかるのだろう。
「桜花、だよね……?」
確かめるような不安げな美樹の二度目の声が聞こえてきて、このまま無視することはできないと、やっと桜花は後ろを振り返ることができた。
こつ、とヒールの鳴る音がやけに響いて聞こえた気がする。
最後に会った時より美樹の髪は幾分か短くなっていた。
少し前まではスキニーパンツを好んで履いていたが今日はショートパンツを履いていて、周りと同じように美樹も夏仕様といった出で立ちに変わっている。
桜花が振り返った瞬間美樹の目が驚いたように一瞬見開かれたかと思ったが、それは気のせいだろうと桜花は思い直した。
(——何か言わなきゃ。だけど、何を話せばいいの……? いっそわたしのことなんて無視してくれればよかったのに)
ただ無言で見つめ合うこの時間が、まるで永遠のように長い時間に桜花は感じられた。
美樹はどういう気持ちで自分に声をかけたのだろうと、少し恨めしい気持ちを桜花は抱いていたからだ。
最初こそ桜花を心配してたくさんの連絡をくれていたが、そんなものはとうの昔に潰えたというのに。
なんて希薄な一年だったのだろうと何度思ったかわからない。
でもそれが、桜花と美樹の関係値をまことしやかに表しているようだった。
何度、通知の来ないメッセージアプリを意味もなく開いただろう。
もう来ることがないと、桜花は自分でもわかっていたはずだったのに。
『東雲さーん、ここ見てますかー?』
『美樹ちゃんも言ってましたよ? “桜花は最初からなんかちょっと怪しかった”って』
『もう、来てもひとりだね』
『もう誰もあんたを“高嶺の花”なんて思ってないから』
美樹が本当にそう言ったのかどうかはわからない。
だが、美樹からの否定もなくそれらのやりとりがただ流れていくのを見ていた桜花は、それが事実なのだと言われたようだった。
胸に太い杭を打たれたような、ひどく鈍い痛みだった。
それを機に、やっとそのグループトークを桜花は抜けたのだった。
それまでは、大学生にもなってこんないじめみたいなことがあるわけないと桜花は思っていた。
けれど、低俗な人間はどこにでもいるし、それに流される人間も、見て見ぬふりする人間も多くいるのだと改めて気付かされてしまった。
それは偏差値が高かろうが低かろうが関係ない。
その人間の“人としての性質”だ。
たとえ静歌の件の飛び火がなかったとしても、律と諒と変わらずつるんでいた時点で、きっといつかは別の出来事で今回のようなことになっていたのだろうと桜花はそれらのやり取りを見て思ったのだった。
(——あの子みたいにはなりたくないと思っていたのに)
桜花は頭の片隅で、教室の隅で俯き本を読んでいた、もう顔も思い出せない一人のクラスメイトを思い浮かべていた。
……二度と来ることはないと思っていた。
もう一度自分に会うなど美樹だって想像していなかっただろうと、桜花は思う。
複雑な気持ちでただ美樹を見つめていたが、桜花も心ではわかっているのだ。
美樹が桜花を見つめたまま逡巡したように口をまごまごさせるのは、桜花に対する引け目と、もう関わりたくないという本当の気持ちが混じっているからだ、と。
トークアプリで暴かれた本音とそれを言った本人を前に、桜花はただ立っているだけで精いっぱいだった。
だが、桜花が永遠のように感じていた時間は、本当はただの一瞬だったのだろう。
「……もしかして、桜花じゃなくて“seeちゃん”ですか?」
美樹の口から思いもよらぬ言葉が聞こえて、桜花は戸惑った。
しかし、どうして美樹がそう思ったのかが桜花にはわかった。
(——そうだ。今日はいつもとメイクが違うから……)
どうして先ほど美樹が驚いた顔をしたのか、やっと理由がわかった。
普段桜花がするメイクは、季節感やトレンドに合わせたナチュラルメイクが多かった。
今日のようにアイラインを濃く太く引くようなメイクは、いままで大学ではしたことがなかったのだ。
対して、動画で静歌はよくこのようなメイクをしていたので、素直な美樹は勘違いしたのだろう。
それがわかっていても、桜花は美樹からの問いかけに否定も肯定もできずにいた。
何か言わねばと思えば思うほど、喉元を締め付けられたかのように息苦しくなり、そこから何かが込み上げてくるような気持ち悪さがあったからだ。
桜花がなにも言えないのを肯定ととったのか、美樹が一歩桜花へと近づいた。
「……もしかして、桜花から聞いて来たんですか? それで、桜花は……?」
辺りを見回す仕草とその言葉に、桜花はすぐにピンときた。
(——そうか。美樹はわたしが汚名を晴らすために静歌を連れて来たと思ってるんだ)
大学を休みがちになる前、佐藤莉乃たちに言われた数々の言葉を、忌々しくも思い出してしまった。
「あ……、馴れ馴れしかったですよね。ごめんなさい」
眉根を寄せた桜花の顔を見て、美樹は半歩下がり小さく謝った。
(——美樹って、こんな感じだったっけ)
以前はもっとはきはきとしていて、明るかった気がする。
物言いもなんだか弱弱しく感じられた。
縮こまるように肩をすくめた美樹に、桜花はやっと「……大丈夫よ」と答えた。
(——勘違いしていてくれた方がありがたい。その方が話せる気がするから)
静歌のふりをした桜花の声に安堵したのか、美樹は表情をほっと緩ませた。
けれど、その表情はすぐに消えて、先ほどまでの沈んだ暗い色に染まってしまう。
「あの、それで桜花はどこに……?」
伏し目がちではあるがやはり美樹は視線をきょろきょろとさ迷わせて、桜花の姿を探しているようだった。
美樹のその姿に、桜花の心の隅がちくっと痛む。
(——今更わたしに会って、どうするつもりなの……?)
美樹の目の前にいるのは、紛れもなく桜花だ。
もし自分が桜花だと伝えたら、美樹はどんな反応をするのだろう。
「あのね、桜花は……」
続ける言葉が見つからず、美樹から視線を逸らして桜花は口を閉ざした。
(——会えるわけない。だって、いまわたしは“静歌”なんだから)
口をつぐんだ桜花の姿に、美樹は傷付いたような表情を浮かべた。
「……やっぱり、あたしになんて会いたくないですよね。ひどいこと、言っちゃったし」
正直であけっぴろげな美樹は、心の内を隠さずに漏らした。
(——そうか、やっぱり佐藤莉乃が言ってたことは嘘じゃなかったんだ……)
陰で美樹が思っていたことを今度こそ本当に正面からぶつけられたようで、桜花は奥歯を噛みしめた。
自嘲気味に笑う美樹は痛々しく、これ以上桜花は何も言えなかった。
ちょうど一限が終わる時間になったようで、各部屋からはざわざわと談笑する声が漏れだした。
「……あ、もうこんな時間」
スマホを見ながら美樹が残念そうに呟いた。
だけどそれにはどこか安堵の音も含まれていた。
(——わたしは、あの男を探さなきゃ)
桜花と美樹の近くを、何人もの学生が通りがかる。
みんな我先にと大講堂へ吸い込まれるようにして入っていった。
このホールで誰かが談笑していることなどさして珍しいわけでもなかったが、騒ぎになるわけにはいかないので、桜花は持ってきていたハットを深くかぶった。
通り過ぎていく何人もの人を横目で見て、美樹に別れを告げようと桜花が口を開きかけたそのときだった。
「飲みもんだけ買っちゃお~」
「えー⁉ 先に席取ってからでいいじゃん!」
「行ってまた戻ってくんのだりぃ~」
「……!」
エレベーターが開き、出てきた人物の会話、その声に背筋がすっと冷えるのを桜花は感じていた。
その男女二人組は桜花と美樹の間をすり抜けて、自動販売機へとまっすぐ近づいた。
「なにー? あんた、そんな甘いの飲むわけ? 逆に喉渇かない?」
「いーんですぅー。俺はこれが好きなんだからー」
迷いもせず男が選んだのは先ほど桜花が購入したものと同じボトルのミルクティーで、そんな些細なことにですら苛立ちを覚える。
きつくきつく、帽子の隙間から二人を睨んだ。
男はかがんでボトルを取り出している最中で、女……佐藤莉乃はもう一つの自動販売機に体重をかけてその男の行動を待っていた。
もう二度と会いたくないと思っていた。
姿さえ視界に入れるのが嫌だった。
(——思い通りにならないことばかりだ)
桜花は強く下唇を噛んだ。
そのとき、桜花の足元までころころとボトルが転がってくる。
ゆっくりと転がってきたそれは爪先に軽く辺り、動きを止めた。
桜花は息をのんだ。
身体が硬直し、そのボトルを拾い上げることもできずにいたが、男は気にする様子もなく自分でそれを拾い上げ、桜花に軽く謝罪した。
「すんませぇん。落としちまってぇ。ってか、この子だってミルクティー買ってんじゃんー。俺だけじゃねえしー。ね? ミルクティーうまいっすもんねぇ」
「あ……」
桜花のバッグからはみ出ていた同じボトルのミルクティーを目ざとく見つけた男は、馴れ馴れしく桜花に話しかける。
男の背から佐藤莉乃の鋭い視線を感じた気がして、ほんの少しだけ視線を上げたのがいけなかった。
「……あれ? どっかで見たことあると思ったら、もしかしてー?」
瞬間、にたりと嫌味な笑みを浮かべた佐藤莉乃が、桜花につっかかった。
男を押しのけ桜花の目の前に立ち、不躾にも帽子の下から桜花の顔を覗き込んで下品な笑みを浮かべている。
「ちょっと……っ、やめなよ!」
そのとき、美樹が間に割って入ってきた。
桜花の目の前には、美樹の薄い背中がある。
薄く面積も小さいその背中を頼もしく感じ、桜花の喉元がぎゅっと熱くなった。
桜花を庇うような美樹の態度が気に入らなかったのか、佐藤莉乃は吊り上がった目をさらに吊り上げ、おおげさにため息を吐いた。
「……あーあ、しばらく平和だったのに。パパ活疑惑女がまた来てるってみんなに教えなきゃ」
佐藤莉乃は意地悪い目つきでスマホを操作し始めた。
(——もう、そんなことどうだっていい……。けど、またこんな目に合うなんて屈辱的だ)
桜花たちの言葉の応酬でそれが桜花だとやっと気付いたのだろう。
語尾を伸ばした特徴的な喋り方をするあのときの男が前にしゃしゃり出てくる。
「えー? もしかして、あの東雲さん? なんかちょっと変わったー? あれから見なくなったから、てっきり俺らのせいで来なくなったんかと思ったわー」
相変わらずむかつく男だと桜花は思った。
けれど、口を開かないことこそが得策とわかっているため、何を言われても我慢しようと決めていた。
「さっきからごちゃごちゃうるさくない⁉ それに、この人はお姉さんの“seeちゃん”だよ! あんたたちがこの前変なこと言ったから、わざわざ来たんだよ⁉」
だが、桜花に反して美樹の堪忍袋の緒は簡単に切れたようだった。
佐藤莉乃は興奮気味に話す美樹にかまわず、余裕の笑みを浮かべた。
「へえ? それで、東雲桜花はどこにいるの? ていうか、裏では『あんなこと』言っておいて、東雲さんの味方するんだ?」
「そ、それは……」
大講義室横とあって、この場所は人通りも多く目立つ場所だった。
通りがかる人が何事かと桜花たちの方をうかがい、怪訝な目で見ていた。
いまだに言い合う美樹と佐藤莉乃の言葉の所々に“桜花”と出てくるので、勘のいい人は騒動の原因に気付き騒ぎ始めたようだった。
これでは、あの男を探すどころではない。
「……ごめんなさい。もう行かなきゃ」
騒ぎがだんだんと大きくなってきたのを感じ取った桜花は一度撤退すべく、美樹の耳元に小さく告げた。
すり抜けて去ろうとした桜花の腕を、美樹が握って引き留めた。
「あの、あたし、こんなことお姉さんに言うの間違ってるってわかってます……! けど、桜花に伝えてくれませんか⁉ ごめんって。待ってるよって」
美樹の目には涙が浮かんでいた。
佐藤莉乃がまだ何か騒ぎ立てているが、桜花の耳にそれは届かなかった。
美樹にそう言われ喉元が熱くなるのを感じた桜花は、ぐっとそれを堪えてその手を振り切った。
講義を受けようと集まってきた人と噂を聞きつけこちらの様子を遠巻きに見ていた人の波を潜り抜けながら、桜花は呟いた。
「……さようなら、美樹」
(——会うのはきっと、これが最後だ)
誰にも聞こえないような声で、桜花は小さく小さく呟いた。
桜花が向かった先は、あの日美樹と話をした弓道場のベンチだった。
全速力で駆けていく桜花のことを人々は何事かと振り返ったが、すぐに顔を前へ向けて歩き出していた。
(——あそこなら、滅多に人は来ないはず。早く、早く行かなきゃ……! そして、作戦を立て直そう)
考えながら走り、弓道場に繋がる道の角を曲がろうとしたときだった。
「痛っ……」
曲がった先に人がいるとは思わず、角から出てきた人物に桜花は真正面からぶつかった。
あまりの衝撃に足元がよろけ、桜花は小さく尻もちをついてしまう。
その反動で帽子は脱げ、バッグからはミルクティーが飛び出し、ころころと目の前にいる人物の爪先まで転がっていった。
薄汚れたナイキのスニーカーはどう見ても男物で、桜花はその人が手を差し伸べてくれるだろうと座り込んだままでいた。
だが、待てど暮らせど手を差し伸べるどころか「大丈夫?」の一言もない。
おかしいと思い桜花が靴から辿って見上げると、そこには探していたあの男がいた。
男は冷たい目で桜花のことをただ見下ろしている。
そして”あの日”と同じように、こう言った。
「……おまえは静歌じゃないだろ? 本当のこと言ったら? 全部“嘘”だって」
射貫くような視線は、桜花を試すようにまっすぐ捉えていた。
桜花は座り込んだまま、ごくりと生唾を飲み込んだ。
迷いの一切ない男の視線は自分のすべてを見通しているようで桜花は恐怖を感じたが、やっと自力で立ち上がり気丈に振舞った。
「……なんのこと?」
しらばっくれるように言い放ち、タイトスカートに着いた砂汚れを払い落とした後、桜花は男を睨むように見つめた。
そんな桜花に男はため息を吐き、スマホの画面を見せる。
「……!」
それはしばらくぶりに見た、学校裏サイトだった。
『P活女、久しぶりに登場~。三号館エレベーターホール』
『雰囲気違ったけど、あれって東雲さんだったの? ちらっと見えたけど』
『え、俺が聞いたのは配信者のseeちゃんが来てたって話だったけど』
そんな言葉とともに、先ほどの桜花の様子が写真でばっちり収められていた。
(——そうか。佐藤莉乃がスマホをいじっていたのは、これを投稿するためか)
すぐに合点がいった桜花は、顔を歪ませた。
「……お前は、静歌じゃないだろ?」
男は再度、桜花に問うた。
だが、それは桜花を責めるような物言いではなく、確認しているかのような口ぶりだった。
「だからあ、この前も言ったけど静歌って誰⁉ なんのこと⁉」
あまりにも男がしつこいので、桜花はいらない言葉を口走った。
それに気付いた桜花は、しまったと思った。
それが顔に出ていたのだろう。
男は呆れたように小さくため息を吐き、桜花が口を滑らせてしまった一言を突いた。
「“この前”ねえ……。やっぱりおまえはあの日パパ活やろうとしてた女だろ? そしておまえは静歌じゃないって言う。でも、ここに写真はある。じゃあ、おまえは本当は誰なんだ?」
男は毅然とした態度で、桜花に告げた。
どうしてこの男がここまで自信を持ってそう言えるのか桜花にはわからなかったが、その声の力強さからはったりではないことがわかる。
そして、この男が暴こうとしていること、あのコメントの意味に、桜花は気付いてしまった。
(——この男は、最初から……きっと気付いているんだ。わたしの“嘘”に。でも、それならわたしは、何とかしてこの場を言い逃れなければいけない)
桜花の顔には焦りが浮かんでいたが、なんとか取り直そうと早口でまくし立てる。
「たしかに、あなたとわたしはこの間会ったわよ。その写真は知らない。勝手に取られただけ。もちろん、わたしは静歌っていう人でもないわ。わたしの言いたいこと、わかる?」
あえて大げさな身振り手振りで男に告げた。
背中がじっとりと嫌な汗で濡れていくのがわかる。
桜花はじわじわと崖っぷちに追い詰められているかのような錯覚を覚えていた。
(——そうだ、この感覚は……弓を引く時のあの感覚に似てる)
外したら終わりだと、的を射ることこそが始まりだと言い聞かせていた、あの頃と——。
桜花の一瞬の気の緩みを見逃さなかったのだろう。
男は素早い動きで桜花の左手を掴み、その手のひらを開かせた。
「ちょっと⁉ 急に何するのよ!」
甲高い声を上げ身じろぎする桜花だったが、男の力が強く振りほどけない。
「やっぱり……」
桜花の手のひらをまじまじと確認するように見た男は、はっきりと告げた。
「おまえはあいつの……、静歌の妹の桜花だろ……?」
その瞬間、桜花の背中を汗が伝って流れていった。
男の口から飛び出た言葉は、桜花に終わりを告げる音を孕んでいた。
あの日、後ろから確かに聞こえた名前。
それは、いま呼ばれたばかりの『ほんとの自分』の名前だった。
さあっと足元を風が駆けていく。
このまま自分もどこかへ連れ去ってほしいと、桜花は心の中で叫んでいた。