『ついにパパ活女、完全に来なくなりましたー!』
『みなさん拍手~、留年決定! それか退学?』
『結局よくわかんないけど、東雲さんがパパ活してたってこと?』
『いや、知らんけど』
『知らないんかい!』
『でも、大学来なくなったってことは少なくともやましいことがあるから来れないんじゃないの?』
『それもそうか。それに、あの日やばかったもんね~』
『そうそう! 顔真っ赤にして、うるさいっ‼だっけ? やっぱやましいことあるんじゃーんって感じ』
『高嶺の花、みんなの理想、って感じで構内自信満々で歩いてたのにね~』
『綺麗な花には棘があるって言うけど、まさにそれだよね!』
『まあ、あたしは最初から怪しいと思ってたけど』
『これで男子もわかったんじゃない? あの女はやばいって』
(——最悪、最悪、最悪……)
鳴り止むことを知らないスマホの通知は、メッセージアプリのグループトークだった。
数十人からなるそのグループで発言しているのは主に四、五人だったが、きっと多くの女子生徒がそれを見ているであろう。
「女子少ないし、学部関係なく女子だけのグループトークつくろーよ!」
そう言ったのはたしか、あの日桜花に突っかかってきた女子のうちのひとりだった。
彼女の名前は——佐藤莉乃。
大学に入ってからすぐに学年男女別に健康診断があり、その際の彼女の一声でひとつのメッセージグループができあがったのだ。
佐藤莉乃は入学当初から目立つ存在で、自分の意見をはっきりと言える、明るい子だった。
特別美人とか可愛いとかではないが、親しみやすく人の懐に入り込むのがうまかった。
彼女は入学から一週間も経たない僅かな期間で既に数少ない女子を束ねており、入学後一か月の間はその輪の中に桜花も入れようと一生懸命だった。
というのも、桜花と美樹のグループに、学部で人気と言われていた橘律と津田諒がいたからだ。
間接的ではあるが、彼らとの接点を持ちたかったのだろう。
だが、桜花は佐藤莉乃の仕切りたがりな一面が苦手で、彼女からじわじわと詰められる距離に一定の距離を置いていた。
そのことに、佐藤莉乃自身も気が付いたのだろう。
次第に桜花への声掛けは減ったが、手の平を返すようにあたりが冷たくなった。
悪口こそ言わないが、自分たちを見つめるその視線が厳しいことは、桜花は誰よりも一番よくわかっていた。
四人は名簿順で席が近かったためただ仲良くなっただけだったが、周りからはそうは見えないらしかった。
桜花たちの事情を知らない学生は気軽に桜花へと声をかけるが、同学年の一部の女子はそうではない。
彼女たちと桜花の間に誰も気付かないくらいの確執があったのはたしかだった。
(——わたしがこのグループに入ってるってわかってて、話してるんだろうな)
いまだに鳴り止まないスマホの通知を一旦切る。
ブロックまではしなかった。
してしまったら、完全に『負け』を認めるみたいで嫌だったからだ。
(——もうなにもかも終わりだ)
桜花はもう何度目かわからない絶望の淵に立っていた。
もうずっと、美樹からも、律からも諒からも、連絡は来ない。
(——わたしはやっぱり“あちら側”へは行けないんだ)
陽の光を浴び羨望の眼差しを向けられながら輝いていた日々は、塵のように姿を変えて消えてしまった。
桜花はあの日々に帰りたいと願わずにはいられなかった。
二度あることは三度あるというが、こればかりは起こってほしくないと思っていた、そんな矢先のことだった。
「……なんなの? もうやめてよ……」
静歌は自分の動画に寄せられたあるコメントを見て、顔を歪めた。
指先からじわりと冷えていき、手のひらは嫌な汗でじっとりと濡れていた。
桜花もその画面に視線を落として、「なんなの……?」と震える声で繰り返し呟いていた。
暗転したスマホの画面に、自身の顔が映り込む。
腫れぼったい瞼の下には黒い隈があり、綺麗だった髪は見る影もなく絡まり合って艶がない。
うまく眠れないし、眠れたとしても見るのはずっと悪夢だった。
それなのに、どっぷりと落ち込むことも、絶望に飲まれることも、現実はさせてはくれない。
これ以上落ちる場所などないのに、現実はまだ自分をどこまでも下へ下へと落とそうとしてくる。
試練は乗り越えられない者の前には現れないなんて、大嘘だ。
——ほんとのおまえを知っている——
見覚えのあるそれは、いまはもうほとんど再生されない、静歌がまだ無名の頃に撮った動画についていた。
日時を見てみるとそのコメントがつけられたのは二日前で、ごく最近だ。
ユーザーネームに見覚えがあり調べると、以前そのコメントを書いた人物と同じであることがわかった。
ユーザーネームはランダムな英数字で規則性はなく、恐らく捨てアカだろう。
(——もう十分なはずでしょ? これ以上、どうしたいの……?)
桜花も静歌も、最初は静歌のパパ活相手からの報復だと思っていた。
しかし、二度目のコメントがついたことで、それは果たして本当だったのかと疲労で回らない頭を駆使して考え始めた。
(——わたしたちに恨みを持つ人が、ほかにいる?)
だが、考えてみても思い当たる人物などふたりにはいない。
もしあるとするならば、幼い頃の静歌を知る者からの腹いせだろうか。
静歌は多才だったゆえに大会受賞などを多くしており、先輩たちからちくちくと嫌味を言われているのを桜花は見たことがあった。
(——でも、そうだとしたら、こんなに時間が経ってから復讐をするものかな)
静歌の学生時代を思い浮かべると、大会受賞自体はズルでもなんでもなく静歌本人の努力のたまものというべきものだったので、その復讐としては今回の件はいきすぎなものを感じる。
もうひとつだけ可能性があるとすれば桜花に心当たりがあるのは佐藤莉乃のことだったが、グループトークでの会話を見る限り彼女ではなさそうだと桜花は考えた。
(——そうじゃないとしたら、いったい誰が……)
どうしてこんな事態に陥ってしまったのか、考えれば考えるほど謎は深まるばかりだった。
わかっていることは、ひとつだけだ。
桜花たちに犯人の考えは掴めなかったが、これには明確な意図があり、自分たちを貶めようとしていることだけははっきりとわかる。
ただの悪戯ではなく完全なる悪意であると、そのコメントは桜花たちにはっきりと伝えている、そんな気がするのだ。
だが、桜花は思った。
コメント主が言う“ほんと”とは、いったいなんなのだろうか。
いままで静歌が隠してきたことは、あの一件で世間に暴かれたはずだ。
この人にとっての“ほんと”とは、いったい何なのだろう。
それともこの人は、桜花たちですら知らない『ほんとの自分』とやらを知っているのだろうか。
そこで桜花の頭の中にもうひとつ、小さな可能性が浮かび上がった。
(——まさか、この人は本当に知っている? ……ううん、そんなことあるわけない、絶対に)
桜花は自身の考えを否定するように、一度だけ大きく首を横に振った。
(——気付かれなければいい。バレなければいい。いままでも、これからだってそう。もし、知られていたとしても、そのときは——)
桜花が密かに考えを巡らせているときだった。
「……あ、エルメスの新作」
何か手掛かりがないかと静歌の生配信動画を流し見しながらコメント欄を読んでいると、それまで見ていた画面がパッと切り替わり、エルメスの新作紹介の広告動画が流れ始める。
それに一瞬目が釘付けになるが、我に返った静歌は首をひと振りした。
「……もう、ほんとうにやめなきゃ」
ぽつりと呟かれた言葉は小さく震えていた。
だが、まだ流れ続ける広告動画に吸い寄せられるように目線はまたそこへと向けられた。
(——わかってるのに。でも……)
頭ではわかっているはずなのに、染み付いた習慣をなかったことにするのは難しかった。
考えなければならないことは山積みで、世間から爪弾きにされたとしても、生きていかなければならないからお金は必要だ。
こんな事態に陥っても欲しいものは欲しいし、だけど自由に使えるお金は少ない。
(——わかってる。だけど……、どうしてもこれが欲しい)
静歌の目は、ギラギラと光っていた。
一度底まで落ちたら、這い上がるのは並大抵のことでは難しい。
それがわかっているのに、静歌は自分の中の欲望に打ち勝つことはできなかった。
これが最後だと自分に言い聞かせ、慣れた手つきで急ぎスマホを操作し身支度をはじめてしまった。
人が大勢通り過ぎていく渋谷モディの前に静歌は立ち、目当ての人物が来るのを待っていた。
世間を賑わせた張本人が堂々と佇んでいても、静歌に気付く様子もなく大勢がただ目の前を通り過ぎて行く。
それもそのはずだ。
静歌は得意のメイクで自身の面影を残しながらも、別人のように姿を変えていたからだ。
夕日が落ち始める中、ひとりの男が静歌の目に留まる。
五十代半ばほどの男は事前に聞いていた特徴と合致しており、その人物が静歌の待っていた相手だとなんとなくわかる。
相手の男も迷いなく静歌の方へ近づいてくるので、お互い目配せをして向かい合った。
「……“ヤマダさん”ですか?」
「そちらは、“ウタ”さんですか? 見せていただいた写真の通り、お綺麗ですね」
男は高そうなスーツを上品に着こなしていた。
年は食っているが小綺麗な見た目だったので、金を持っていることは一目でわかる。
双方名前の確認が取れたので腕を組み、事前に打ち合わせした通り、まずはレストランで食事をするために歩き出そうとした。
——そのときだった。
いきなり左手を強く握られた静歌は、そのまま後ろへと引っ張られた。
あまりの力強さに男と組んでいた腕はほどけて、ぐらりとよろける。
「やだっ! なに⁉」
振り返ると、ひとりの小柄な男が立っていた。
どこか見覚えがあったが、それが誰なのか、静歌は思い出せなかった。
鋭い眼差しを静歌と“ヤマダ”に向けるその男に気圧されたのか、“ヤマダ”はほんの少しの焦りを見せた。
「……君、彼氏がいるのにこんなことは良くないよ。今回はキャンセルにしよう」
そう言った“ヤマダ”の背中はあっという間に人ごみに紛れてしまった。
引き留める間もなく断たれた今日の予定に、静歌はわなわなと肩を震わせていまだ左手を握っている小柄な男を振りほどいた。
「余計なことしないでくれませんかっ⁉」
目を吊り上げて、静歌は怒鳴った。
しかし、その小柄な男は今しがた振りほどかれたばかりの自分の手のひらをじっと見つめ、ゆっくりと静歌の方へ視線を移した。
「……おまえは静歌じゃないだろ?」
それはひどく冷たい声だったが、寂しそうにも聞こえる声だった。
男の口から出た自分の名前に一瞬だけ狼狽えたが、すぐに気を取り直した静歌は「なんのこと? 人違いじゃない? 世界には似ている人が三人もいるって言うものね」と誤魔化した。
そんな静歌に一歩も引くことなく、男は顔色を変えずに言った。
「俺が言いたいのはそんなことじゃない。おまえは……、“本当のおまえは”、」
「……‼」
男のセリフに、頭の中があのコメントで支配された。
——ほんとのおまえを知っている——
(——あれを書いたのは、この男だ……!)
散りばめられていたパズルのピースがかちりとはまる音が、頭の中でした気がした。
気がつけば静歌の足は勝手に動いていた。
後ろから自分を呼ぶ声が聞こえた気がしたが、嘘だと思いたかった。
耳にこびりつくその名前を振り落とすように、静歌は駅まで息を切らせながら必死で走った。
つい数時間前までは新作のバッグとお金のことで頭がいっぱいだったのに、それらは跡形もなく静歌の中から消え失せていた。
「小柄。男。ブロンドの髪。青い目……」
ぶつぶつと呟きながら、静歌は薄暗いリビングで自分の腕を掴んだあの男のことを考えていた。
「……それから、独特なファッション」
それどころではなかったのでよく観察はしなかったが、柄物の派手で大きなストールを腰に巻き付けていたような気がする。
(——やっぱり、どこかで見たことがあるような……)
だが、それがいったいどこだったのか、静歌はなかなか思い出せない。
答えはすぐそばにある気がするのに思い出すことのできないそのもどかしさに、ネイルの剥げかけた汚い爪でこめかみを軽く掻いた。
そんな中、桜花が小さく声を上げた。
「……大学で見たことがあるかも」
頭の中を整理するために男の特徴を口に出していただけだが、その小さな静歌の呟きに対して桜花が同じように小さく呟いたのだ。
桜花は思った。
(——あの日ダミエを落とした、あの男だ)
桜花の頭にぱっと浮かんだのは、あの日悪びれもせずに軽く謝ってきた、色白なひとりの男子学生だった。
目の色は青く輝いていて、睫毛までもが髪と同じように輝いていた、小柄な男。
あの時もたしか、パンツにスカートを合わせた奇抜なファッションをしていたので、桜花は断片的に覚えていたのだ。
「……もしかして、その人が犯人かもしれない」
辿り着いた答えに、桜花と静歌の喉が、ごくっと鳴った。