昨日あんなことがあったというのに、朝は当たり前のようにやってきた。
カーテンレースの隙間から漏れる淡い光が、今日だけはやたら憎らしく感じた。
(——全然眠れなかった)
今日は一限からの講義だが、眠れなかったせいで桜花の頭はやけにぼーっとしていた。
鏡を覗き込めば目の下は黒く落ち窪んでおり、寝ていないことが一目でわかる。
眠れなかったのは桜花と同じようで、静歌は独り言をぶつぶつ言いながら、髪を長い爪でぼりぼりと掻きむしっていた。
綺麗だった髪は一晩のうちで、見る影もなくぼさぼさで艶がない状態になっていた。
「……ばれたのかもしれない。どうしよう、どうしよう……」
桜花と同じように目の下に隈を作り顔面蒼白で呟く様は悲壮感たっぷりで、同情したくなる。
しかし、桜花は心配する気持ちとは裏腹に、静歌に対して呆れの気持ちも抱えていた。
桜花はため息を吐きたい気持ちを隠しつつ、自分にも言い聞かせるように静歌を励ました。
「……大丈夫。あんなのただの悪戯だよ」
そう言ってはみるものの、あんなコメントがつく心当たりがあるせいで、心に平穏は訪れなかった。
(——パパ活なんて、早いとこやめておけばよかったんだ)
桜花は心の中で小さく悪態をついた。
静歌は地元では有名で、名前を知らない人はいないんじゃないかというほどだった。
というのも静歌は器用で、やらせればなんでも賞をとってしまうような天才だった。
天才、というのは言葉のあやではなく、静歌に備わった才は本当に天性のものだったと桜花は感じていた。
はじめは、小学校の夏休みに描いた絵画の宿題だった。
テーマが“ふるさと”と決まっており、クラスメイトの大半が自分のよく行くお気に入りの場所を思い思いに描いていた。
桜花もそのうちのひとりで、当時お気に入りだった近所の高台にあるブランコを、拙い筆遣いで描いたものだった。
ただひとり、静歌だけは違っていた。
静歌が描いたのは、『家族』の絵だった。
後ろに両親、前の方に桜花と静歌が並ぶ構図で、母の手は静歌の肩に乗っているような描写だったと記憶している。
みんなが微笑んでいるような、温かみのある絵だった。
ふるさとと聞けば、多くの人が思い浮かべるのはふつう自分の暮らす生活の中の風景の一部分で、家族の顔を思い浮かべる人はあまりいないのではないだろうか。
それが小学生ともなれば、限りなくゼロに近いとさえ思う。
静歌の感性に驚き、深く感銘を受けたのだろう。
当時絵画のコンクールがあり、担任から賞をとれるはずだから出してみないかと持ち掛けられた静歌はその通り出品した。
そして担任の期待を裏切ることなく、見事大賞である金賞を受賞したのだ。
これは、静歌の躍進の始まりに過ぎなかった。
挙げたらきりがないが、作文コンクールや工作のアイデアコンクールなど、小さいものも含めれば年間で受賞しない年はなかったのではないかと思う。
天は二物を与えずというが、天は静歌に二物も三物も与えたのだ。
生まれつき心臓が弱かったため運動はからっきしだが、それを差し引いても余るものが静歌にはある。
両親、特に母親はそんな静歌を溺愛し、大切にした。
時には厳しくもしていたようだが、桜花から見れば『甘すぎる』の一言だった。
期待をかけられ、茶道に華道、油絵にピアノなど、思いつく限りの習い事を静歌にはさせていた。
静歌の才と期待に応えようと頑張る性格が功を奏し、どの分野でも結果を残していた。
しかし、静歌もいつしか期待に応え続けることに疲れてしまったのか、たくさんやっていた習い事を高校生の時、一気にすべてやめてしまった。
なにも与えてもらえなかった桜花にとってはやるせない出来事だったが、静歌の気持ちも理解できてしまったため、なにも言わなかった。
過剰な愛は、棘にもなりうるのだろう。
それでも静歌贔屓に終わりは来ず、桜花は自分をないがしろにしてきた母親に今日までずっと嫌悪を抱いているが、静歌のことは好きだった。
桜花の気持ちに寄り添ってくれる、唯一の存在だったからだ。
(——なのに、こんなことになるなんて)
桜花は虚ろな目をしている静歌を見つめた。
これまで本当に自分がやりたかったことをできずにいた静歌は、桜花が大学へ進学すると同時に上京した。
自分のことを誰も知らない場所に行きたいと言っていた静歌は最初こそ隠れるように生活していたが、メイクに目覚めてからは元来の好奇心旺盛な性格を取り戻したようで、動画投稿など興味があったことを始めたようだった。
いままで、望むものはすべて買い与えられ甘やかされてきた静歌だったが、地元を離れたことでそうできなくなった。
しかし、自分のお金で自分が本当に欲しい物を買うといった体験に心を奪われた静歌は、その行動にだんだんと拍車がかかっていった。
そうなれば、必然的にお金は底を尽きてくる。
そのときはまだ動画配信の収益は出ていなかったので、手っ取り早くお金を稼ぐため、パパ活を始めたらしい。
『みんながやっているから』という理由だけでパパ活を始めたのは軽率だったのではないかと桜花は感じていた。
けれど、静歌の羽振りがよくなったことで自分にもメリットがあったので、強く諭すことができずにいた。
(——こんなことになるってわかっていたら……)
今更になって桜花の中に後悔の念が渦巻いた。
あれだけ大事に育てられてきたのに、たったひとつ歯車が狂うだけで、人生は一転してしまうのだ。
いまの、静歌のように——。
だからきっと今回のコメントは、静歌がパパ活で出会ったうちのひとりから届いたのだろうと桜花は考えた。
静歌を貶めるためだ、と。
太いパパがいると言っていた静歌だが、動画投稿が忙しくなってからはパパ活の頻度は減っていた。
パパ活は、互いの利害が一致して初めて成り立つものだ。
その“太いパパ”は、静歌のつれない様子にきっと腹を立てたのだろう。
静歌もきっと、自分が配信者としてこんなにも有名になるなど思っていなかっただろうから、今回こうなってしまったのは計算外のはずだ。
自業自得だと思う気持ちは変わらない。
けれど、こんなにひどい隈をしている静歌を見ると、そんなことは言えなかった。
「……質の悪い悪戯だよ」
静歌を落ち着かせようとかたかた震える肩をぎゅっと握って、小さく桜花は呟いた。
寝ていなくて体がつらくても大学の講義は普段と変わらずあるので、静歌のことは気がかりだったが重たい体に鞭を打ち、いつも通りに桜花は大学へと向かった。
しかし、桜花はなにか異様な雰囲気を感じ取っていた。
(——何か、おかしい)
いつもなら何人かの人に、声をかけられている頃だ。
それなのに、誰ひとりとして桜花に朝の挨拶すらしてこない。
(——服装、おかしかった? それとも、メイク?)
不安になり一度立ち止まって自身の服装を見える範囲で確認したが、おかしい部分など何もない。
去年一目惚れして購入したカーキのシックなワンピースにオープントゥの黒いブーティーを合わせた服装は至ってシンプルだが、落ち着いた印象の桜花によく似合っていた。
それに合わせていまの時分に合う春らしいが派手すぎない、柔らかい色使いのメイクも施していた。
今日の桜花も、完璧なはずだった。
(——なに、なんなの?)
立ち尽くしながらあたりを窺うと、頻度は多くないが構内ですれ違うたびに声をかけてくれる他学部の女子生徒が目の前から歩いてくるのが見えて、その瞬間ぱちっと遠目に目が合った。
いつもなら「おはよ」と笑ってくれるが、今日だけは視線をふいと逸らされてしまう。
(——やっぱり、おかしい。わたし、なにかした?)
桜花は考えるも思い当たるふしはなく、変な汗が背中を伝っていくのを感じていた。
思い当たることがなくてもいつもと違う対応をされれば、自分が気付かないうちになにかしでかしてしまったのではないか、という気持ちになる。
周りで喋っている知らないグループが、なぜか自分の悪い話をしているような錯覚に陥って、どくどくと心臓が嫌な音を立てた。
(——ううん、たまたまだよね。こういう日だってあるに決まってる)
自分の悪い妄想だと思い込もうとしても、嫌な音を奏で続ける心臓が、これは現実だと突き付けているようだった。
講義室に入ってからも、桜花を取り巻く異様な空気は変わることがなかった。
(——気のせいなんかじゃない。でも、どうして?)
面識のない生徒でさえ、入り口から入ってきた桜花の方をちらりと一瞥して、こそこそと話している姿が視界の端に入ってくる。
訳が分からないまま平然を装い、桜花は空いている席に適当に腰を下ろした。
後ろからも横からも、誰かが常に自分を見ている気がする。
けれど、いつも通り姿勢を正し気丈に振舞った。
「……おはよ」
周りの視線に気を取られていたせいで、美樹が室内に入ってきたことにも気付かないほど、桜花は緊張していた。
「……あ、おはよう」
声をかけられて初めて美樹に気付いた桜花は、普段と変わらず隣に腰を下ろす美樹の様子を見て、張りつめていた気が一瞬緩んだ。
(——よかった。美樹はいつも通りだ)
しかし、ほっと胸を撫でおろしたのも束の間で、普段と違う様子の美樹に違和感を覚える。
その顔は心なしか強張っており、美樹にしては珍しく口を開くのを逡巡しているようだった。
「……なにかあった?」
意を決して口を開いた桜花に美樹は眉根を寄せ、重たい口をやっと開いた。
「……桜花ってさ、パパ活してるの?」
「えっ⁉」
思ってもみなかった言葉に動揺した桜花は、驚いた声を上げた。
桜花の小さな叫びにも似た声に、講義室内にいた一部の人からの視線が鋭く突き刺さる。
「……とりあえず、昼休憩にでも話そ」
弁明しようとしたが室内に教授が入ってきたので美樹は声を落としてそう言い、前の方を向いてしまった。
いつもならぴったりと隣にいるはずなのに、三人掛けの席の真ん中は空いたままだった。
食堂だと人目につくので、構内にあるコンビニで昼食を調達してから、桜花と美樹は外にある弓道場の脇にある古びたベンチへと腰かけた。
木陰になっていて人通りも少なく、今日はじめて桜花は大きく息を吸うことができた気がした。
「……さっきのことだけど」
美樹の言葉に、桜花はびくりと肩を震わせた。
コンビニで買ったサンドイッチの封を開けながら、美樹は桜花に視線を合わせずに言う。
「これって、桜花だよね?」
美樹はサンドイッチを食べながら、片手で器用にスマホを操作し、ある画面を桜花へと見せた。
それは学校裏サイトのようだった。
いつ誰に撮られたのかはわからないが桜花の大学生活の一部分を切り抜いた写真や、夜の繁華街で五十代半ばくらいの男と腕を組む写真、それからある動画をスクショしたものがいくつかそのサイトに貼られていた。
顔には気持ちばかりのモザイクがかけられているが、見る人が見ればそれが誰なのかすぐにわかってしまうであろう写真だった。
(——どうして、急にこんなことになったの?)
その写真のうちいくつかは、周りからはわからずとも桜花本人にはわかっていた。
自分ではなく、姉の静歌の写真が紛れていると。
けれど、桜花は狼狽えた。
まさか自分がこんなことで華の大学生活を棒にするとは思っていなかったからだ。
黙ったままの桜花を見てそれを肯定と受け取ったのか、まるで追撃とばかりに美樹は口を開く。
「これも、桜花だよね?」
そう言って次に見せられたのは、姉の静歌が投稿している『seeチャンネル』だった。
「これ……っ」
見てみると、その動画を発端に事が大きくなったようだった。
生配信がうまくいき、昨夜のサイト更新で初めて注目度ランキングに載っていたのだ。
ランキングに載ると、多くの人の目に触れる機会が格段に増える。
(——そんな、昨日の今日で⁉)
桜花は急いで自分のスマホを取り出して、静歌の投稿動画のコメント欄やSNSでseeチャンネルのことを検索した。
万人が知っているほどの知名度はまだないからかネットニュースなどにはなっていないが、一部の界隈でかなり話題になっているようだ。
静歌のチャンネルは高校生や大学生がメインに見ているようだったので、拡散力が大きかったのだろう。
そして視聴者の中に『ほんとのおまえを知っている』というコメントを不審に思い調べる人がいたらしい。
それまでは肯定的なコメントで溢れていたが、突然コメント欄が荒れて炎上したようだ。
静歌のパパ活疑惑がほのめかされ、パパ活支援サイトなるもののURLも貼られており、特定されたようだった。
seeチャンネルで静歌からの弁明の言葉もないので、それがさらに炎上を煽っているようだ。
桜花が感じた異様な空気というのは勘違いではない。
完全なる飛び火である。
(——まさかこんなタイミングで……)
ランキングに載るのは喜ばしいことのはずだったが、タイミングが悪すぎた。
それだけでは済まされないほどの事態に巻き込まれていると桜花は感じて、ようやく現状を飲み込んだ。
桜花のこめかみを一筋汗が伝っていく。
(——……大丈夫。だって、これは”静歌”で、”わたし”じゃない)
「桜花、なんとか言ったら?」
黙ったままの桜花に痺れを切らしたのか苛立った口振りで、美樹が桜花に詰め寄った。
桜花は静歌としたひとつの約束を頭の中で思い浮かべたが、重たい口を開いた。
「……わたし、お姉ちゃんと暮らしてるって言ったでしょ?」
「うん。だけど、いまその話になんの関係があるの?」
美樹は相変わらず棘のある言い方で、冷たく桜花に言う。
桜花は静かに大きく息を吸って、言葉を放った。
「……これ、お姉ちゃんなの」
「えっ⁉」
桜花の告白に驚いた美樹は、食べかけのサンドイッチを地面に落とした。
けれど、桜花の言葉を信じ切れず早口で桜花に詰め寄るばかりだった。
「嘘だよね? パパ活バレて、どうしようもなくなって嘘ついてるんでしょ? ヴィトンのバッグだって、突然だったし怪しいと思ってた! お姉ちゃんって、姉妹でもこんなに似るわけないじゃん! 双子だったら、」
饒舌に話していた美樹の言葉が、そこではたと止んだ。
「……まさか、双子なの?」
信じられないというような美樹の表情に、桜花は静かに頷いた。
桜花のその困ったような表情を見て、それが事実だと確信したのだろう。
美樹は「……うそ、ほんとに?」と呆然とした様子で背もたれに寄りかかった。
入学当初、桜花は周りに姉と二人暮らしであることは公言していた。
双子である、という事実を除いては。
話す必要もメリットも特別感じなかったからだ。
「……誰にも言わないでくれる?」
桜花は気が抜けている様子の美樹に前置きして、これまでの経緯を簡潔に述べた。
静歌は地元でのストレスでこちらに移り住んでいること、お金欲しさにパパ活をはじめてしまったこと、その間に配信者として有名になり今回のような事態が起こったこと。
(——パパ活のことは誰にも言わない約束だったけど、こうなったら仕方ない)
自分の生活が脅かされている以上、桜花は本当のことを言わざるを得なかった。
桜花が弁解すると、美樹はみるみる小さくなって「……ひどいこと言ってごめん。あたし、桜花の言うこと信じなくて」とすぐさま謝罪した。
「ううん、わたしも双子ってこと言ってなかったし。これだけ似てれば間違われても仕方ないよね」
「うん……。けど、桜花は完全にとばっちりじゃん!」
「そうなるね」
「あたし、みんなにちゃんと言うから! これは桜花じゃないって!」
「……うん、ありがとう」
桜花は肩の荷が下りたような気分だった。
(——これできっと、大丈夫だ)
ここまで美樹に話せてやっと呼吸がしやすくなった桜花の耳に、ある音が飛び込んできた。
背から矢を射る音が聞こえてくるのだ。
屋根がないので雨だと練習ができないのだと、誰かが言っていたのを桜花はふと思い出していた。
パンっという乾いた音ではなく鈍い音なので、誰かが巻き藁を使って練習をしているのかもしれない。
そんなどうでもいいことを考えられるほど、桜花の心には余裕ができていた。
「って、やば! 休憩終わっちゃう!」
「ほんとだ」
気付けばもうすぐ次の講義が始まる時間で、桜花と美樹は顔を見合わせた。
「……今日くらい、サボっちゃおっか!」
笑う美樹に頷いて、桜花も笑みを浮かべた。