「日記にはそれらしいこと、何も書いてなかったな」

 当初の目的を思い出した二人は、電信柱の陰で静歌の日記帳をぱらぱらとめくってみた。
 だが、すべてのページが埋まっているわけではなく、ノートの後ろ三分の二ほどは空白が続いているようだった。
 もしかしたらこの一冊だけではなく、ほかにも日記帳はあったのかもしれない。

 そう思っても、もう一度あの家に戻ることはできないし、必ずしも犯人へと繋がる手掛かりが見つかる保障はないため、これからどうするか考えあぐねた。
 犯人の手がかりを掴むきっかけになるかもしれないと思いここまで来たが、糸口は見つからないままだった。

 だが、先ほど撮られた写真の件もある。
 明らかに害をなそうとしている人物が、いま近くにいることに変わりはない。
 自分をどうするのが目的なのか、静歌にあの日何かしたのか……。

 危険が伴うかもしれないとわかっていても、どうしても知りたいと桜花は思っていた。
 涙で湿ったマスクを外し、桜花は菅野をまっすぐ見た。

「……わたし、もう一度行ってみようと思うんです。あの公園に」

 日記帳をバッグにしまいながら桜花は唐突にそう言った。

「正気か?」

 桜花の言葉に菅野は眉根を寄せた。
 小さく桜花が頷くのを見て、菅野はこれ見よがしに大きなため息を吐く。

「……警察に任せるべきだ」

「でも、」

「もし本当にそいつが犯人であの日静歌に何かしたんだとしたら、きみだって危ないだろ⁉」

 菅野の言う通りだった。

(——確かに、あの公園に戻るのは怖い。だけど、何かに繋がるのなら、たとえ危ないとわかっていてもわたしは行きたい)

「……わかってます。それでも、行きたいんです」

 泣いて真っ赤になった桜花の揺るぎない瞳を見て、諦めたように小さく菅野はため息を吐いた。






 この公園は、静歌が家にいる日や習い事の日には誰もいないと、いつの日か桜花は知った。

 どうして自分は愛されないのだろう、どうして自分には何もないのだろう。
 家にもどこにも、居場所なんてない。

 そんなふうに考えてしまうとき、桜花はこの公園にひとりでよく訪れていた。
 誰もいない日のこの場所は、唯一桜花の心が休まる安息の地だった。
 静歌がいなければ賑わうことのないこの公園は、まるで自分と同じようだと桜花は感じていた。

 相変わらず人っ子ひとりおらず、木々のざわめく音しかしない。
 砂場の前を通り抜け、先ほど座ったブランコの前にある低い柵に桜花は触れた。

 菅野はこちらの様子が見える、公園から少し離れたところで待機している。
 何かあればすぐに駆け付けられる距離だ。
 不安や緊張でいっぱいなはずなのに、桜花の心は凪いだ海のように穏やかだった。

 錆びたブランコ、遊んだ形跡のない砂場、色あせた滑り台。
 どれもが時間とともに劣化していく。
 桜花の記憶に残るそれらは、鮮やかだったのに。

 どれくらいの時間そうしていたのかはわからない。
 だが、研ぎ澄まされた桜花の耳の奥に、靴底が砂を踏む足音が聞こえた。
 公園の入り口からこちらの方へ近づいてくるその音は、ちょうど桜花の背面で止んだ。
 それと同時に、桜花の胸は早鐘を打ち始める。

「もう一度、ここに来るって信じてたよ」

 肌にまとわりつくような低い声が桜花の鼓膜に絡みついた。
 振り返ると、そこには男がひとり立っていた。

 猫背だが身長は桜花より十センチほど高く細身、黒いティーシャツとパンツを身に着けている。
 細いつり目の片方は整えられていない前髪に隠れているせいか、どことなく陰鬱な雰囲気を醸し出していた。
 薄い唇の端は小さく上がっており、桜花を見るその目つきは粘っこい。
 不審者、という言葉にぴたりとはまるような見た目をしていた。

「……あなたが、このDMを送ってきた人?」

 先ほどの画面を開きながら、僅か二メートルほどの距離にいる男に、桜花は恐る恐る聞いた。
 桜花の声は小さいが綺麗でよく通る。
 その声を聞いた男は、嬉しそうに口元をさらに上げた。

「そうだよ」

 にんまりと笑う唇の隙間からは、尖った八重歯が見えた。

「……あの動画のコメントも、あなた?」

「気付いてくれて嬉しいよ……!」

 男は歓喜のあまりか大きな声で言った後、桜花に一歩近づいた。

(——やっとたどり着いた……)

 だが、桜花はその男に見覚えはなく、なぜ男がこんなことをしているのか皆目見当がつかない。

「……こんなことして、あなたの目的はなんなの?」

 あくまで平静を装い、桜花は男を見つめ返した。
 気丈に振舞ってはいるが震えた声は、桜花の怯えを表わしていた。
 自分を見る目が気に食わなかったのか男の顔は一瞬にして真顔になり、色を失った。
 桜花の背にひやりと冷たいものが流れ、怖気が走る。

「きみをほんとの桜花ちゃんに戻すためだよ」

 抑揚のない声で、男ははっきりとそう告げた。

(——“桜花ちゃん”? そんなふうにわたしを親し気に呼ぶ人なんて知らない)

 男は桜花のことを知っているような素振りだが、桜花にはやはり心当たりなどなかった。

(——そもそも、“ほんとのわたし”って、何なの……?)

 自分は知らないのに、相手は自分のことを知っている。
 大学ではそんなことしょっちゅうだったが、辺鄙な田舎のここでは違う。
 それが何とも言えない気持ち悪さを醸し出していた。
 いくら過去を辿っても、記憶の片隅にすら男はいない。

「悪いけど、あなたのこと、わたしは知らない。それに、あなたの言う“ほんと”って一体、」

 桜花が言いかけた時だった。

「忘れたなんて、そんなこと言わせないぞ⁉ 僕たち、同じクラスだったじゃないかっ!」

 憤慨した様子の男は顔を真っ赤に染め上げ、こちらにまで唾が飛ぶ勢いでまくし立てた。
 その様子に、桜花はびくりと肩を震わせた。
 そこまで言われても、桜花の頭には記憶に結び付く人物など浮かんでこなかった。
 身体を縮こませ怯えた様子で自分を見る桜花に耐え切れなくなったのか、男は唇をわなわなと震えさせた。

「僕は須藤(すどう)大将(だいすけ)だっ! 隣の席だったじゃないかっ!」

(——須藤大将……?)

 そう言われて、桜花の頭にひとりの男の子が浮かび上がる。
 教室の片隅で誰とも群れることなく、たたひとりで俯き本を読んでいたおとなしい子。

(——そうか、この人は……!)

 須藤大将——その人物は、桜花が絶対になりたくないといつか思ったその人だった。

 須藤の顔を見てみても、あの頃の面影など微塵もない。
 人一倍小柄だったはずの体躯はいまや桜花より一回り大きく声も低くなっているし、なにより桜花の記憶の中の須藤は小学六年生で止まっている。

 もう七年は会っていないのだ。

 気付くことができなかったのは仕方のないことだったように思う。
 あの頃の須藤のことを、桜花は思い出してみた。

 須藤は運動が苦手でどんくさく、よくクラスの男子にからかわれているような存在だった。
 女子で浮いているのが桜花だとしたら、男子の方は須藤大将だった。
 “大将”という名前にそぐわない性格も相まって、クラスの男子のからかいの標的はいつも須藤だった。
 いじめというほどではないと誰もが思っていた。
 実際桜花も似たような目に合っていたし、現に須藤もそれが理由で学校を休むことなどなかったからだ。

 だが、いつしか須藤の姿は学校から消えた。
 まるで最初からそうだったかのように、ぱたりと。
 何が発端だったかはわからない。
 それまでずっと我慢していたのかもしれない。
 だが、誰かが気付いたときには、全員が行くはずだった中学校の教室に、その姿はなかったのだ。

 いないことが当たり前だというようにそれが生活に馴染んで、そのうち誰も須藤の名前を出すことなどなくなった。
 桜花はそのとき思ったのだ。

 こんなふうに自分も消えてたまるか、と。

 だから、まさかこんなふうに再会するなど夢にも思わなかった。

「須藤くん……」

 ぽつりと呟いた桜花の言葉に素早く反応した須藤は、また一歩桜花に近づいた。

「思い出してくれたんだね⁉ 嬉しいよ! それにまたこうして会えるなんて、僕らはやっぱり運命なんだ……!」

 須藤は大げさなくらいに喜び、興奮しているようだった。
 あの頃の須藤とは似ても似つかないような変わりように、桜花は戸惑うばかりだった。
 そんな桜花を置いてけぼりにして、須藤はどこか遠くを見つめている。

「桜花ちゃんは覚えていないかもしれないけど、僕の人生はあの時確かに変わったんだ」

 そして、自分に酔っているかのように須藤は語り出した。





 当時のクラスには目立つやんちゃな男子が数人いた。
 彼らの標的はもっぱら自分だと、須藤も自覚していた。

「男のくせに本ばっか読んで、女みてーなやつ!」

 本に視線を落としているから自然と顔は下を向く。
 その上から容赦なく、言葉の礫が飛んできた。

 またかと須藤は内心思っていた。
 ゲラゲラと笑いながら飛ばされるヤジに、須藤はずっとうんざりしていた。

 名前負けだということは自分でもわかっていた。
 体育会系気質の父親に付けられた“大将”という名前が似合っていないことくらい、自分が一番よく理解していた。

 柔道の県大会で成績を残した父親のように体は屈強ではないし、母親のように医学部に出るほど聡明ではない。
 人前に出るのも苦手だし、どちらかというと外で遊ぶより室内で本を読んだり絵を描くことの方が好きだった。

 自分がどんくさくて名前負けしていて何も言い返さないから周りがつけあがるのだとわかっていても、言われる言葉はどれも正論のように感じていつも須藤は何も言えずにいた。

 その日も教室内はちょっとした騒ぎみたいになったが、クラスのみんなにとっては見慣れた光景で、咎めることをせず遠巻きに見て笑っている人がほとんどだった。
 ただその日違ったのは、直前に席替えをしていたことで、須藤の隣に桜花がいたことだ。
 ゲラゲラ笑い続ける男子にこれ見よがしなため息を吐いて、桜花が口を開いた。

「本くらい、誰でも読むでしょ。……ああ、バカだからあんたたちは本も読めないのか。かわいそうに」

 小学生にしては大人びた一言だった。
 だが、その瞬間だった。
 須藤の目の前に電気がはじけた様なぱちぱちと眩い光が走り、桜花を見る自分の目がその日から変わった。

 桜花のことは、どこか自分と似ている存在のように思っていた。
 ちやほやされている静歌の陰に隠れてしまう、かわいそうな存在だと。
 須藤自身、いつも脚光を浴びている静歌のことを羨ましくも妬ましくも思っていたし、そう思っているのは桜花も同じだと感じていたからだ。

 だが、桜花が男子に歯向かったその日から、須藤の世界は変わったのだ。

 桜花は自分とは違う。
 たとえ誰かの影に隠れていようとも言われっぱなしでは終わらない、いつか返り咲くのだという桜花の気迫を、須藤はなんとなくだが感じ取っていた。
 須藤の中で桜花の存在は、同士から憧れへと変わったのだ。

 その一件があった後、須藤への風当たりは多少和らいだ。
 だがその代わりに、桜花はそれまでにも増して生きにくそうだった。

 静歌の残りカス、とまで言われた桜花の心の内を思うと他人事ではなかったが、そのときの須藤は無力だった。
 桜花を守る勇気も言葉も、何も持ち合わせていなかった。
 自分を庇ってくれたかわいそうな女の子をいつかは自分が救うんだと、須藤は密かにずっと思っていた。





 須藤の話をそこまで聞いた桜花は過去に自分が言ったことなど覚えていなかったし、その出来事を須藤が宝物のように大事に思っていたことも知らなかった。
 ただ、どうして今回のことに結び付いたのかは、その話だけでは理解できない。

「……桜花ちゃんのことを貶める存在が、いつの間にか許せなくなった。こんなに優しくて芯が強い子ほかにはいないのに、どうして桜花ちゃんがこんな仕打ちを受けなきゃいけないんだ、って。自分だけが桜花ちゃんのことをわかってあげられる唯一の存在だと思う。だから、桜花ちゃんのそばにずっといたかった。だけど……」

 饒舌に喋っていた須藤の言葉が突然止まり、表情は曇った。
 苦虫を噛みつぶしたような顔で、言いづらそうに須藤は口を開いた。

「……僕の両親は厳しくてね。僕がクラスに馴染めていないのを知ったとき、こっぴどく言われたよ。『こんな子恥ずかしい』『名前負けだ』『男なら男らしくしろ』って。父親も母親も名家の生まれだから、余計にね。それで、こんな子外には恥ずかしくて出せないって、学校には通えなくなった。ほぼ監禁だよ、監禁」

 笑いながら須藤は言うが、目は笑っていなかった。
 いつの間にか教室から消えた須藤が裏でそんなことになっているとは、想像もしていなかった。
 桜花は黙って須藤の言葉を聞いていた。

「……でも、桜花ちゃんのことが心配で、どうしても諦めきれなかった。高校卒業後の桜花ちゃんはどこにいるのかいくら調べてもわからなかった。だけど、偶然知ったんだ」

 たしかに卒業後、桜花は新たな人生を歩もうと地元の人間には行先など伝えなかった。
 どこで自分のことを知ったのか、桜花は不思議だった。
 須藤は自分のポケットに手を突っ込み自身のスマホを取り出した。
 いくつか操作した後、それを桜花の目の前に突き出す。

「え……?」

 桜花は、思わず声を上げた。
 その画面に表示されていたのは律のSNSで、桜花がフォローを返している数少ない人物のうちのひとりだったからだ。

「……実は、橘律とは親戚でね。この津田諒とも面識があるんだ。監禁生活だったけど、名家の出の両親は親戚付き合いも多くてね。向こうが長期休暇に入る時に、会う機会があったんだ。津田諒は橘律の幼なじみで、こいつとはたまたま会っただけなんだけど……。まあ、このくらいのことは桜花ちゃんなら知っているか。でもそのときは、まさかふたりが桜花ちゃんのSNSを知っているなんて思わなかったから、本当に運命だと思ったよ」

 桜花のSNSは、誰でも見られるように公開はしているがコメントなどはできないように設定していたし、ユーザーネームもイニシャルだ。
 たまにしていた写真付きの投稿も自分の横顔や指先などで全身が映っているわけではないので、地元の人間にばれるなど万が一でもありえないと桜花は思っていた。

「去年の夏。その定例会は珍しく長野の別荘で行われてね。図々しくも部外者である津田諒も橘律と遊ぶためについてきていたんだ。橘律がSNSを見ながら桜花ちゃんの話をしていてその会話から本当に桜花ちゃんなんだって気付いたんだ。まさかと思っていたけど、そのまさかだった。そして、あの動画を見つけた。毎日やることなんてなくて怠惰な日々だったけど、そのおかげで桜花ちゃんのことを見つけ出すことができた。……残念なものも一緒に見つけてしまったけど。でも」

 嬉々として話す須藤だったが、その表情は一気に暗くなる。
 感情の起伏が激しく須藤の様子が変わるたびに、何かされるのではないかという不安が桜花を襲った。
 自然と握りしめていたバッグの柄の部分は、汗を吸ってしわくちゃだ。

「……でも、どうして整形なんてしたんだ? その顔は、桜花ちゃんを苦しめ続けたあいつの、静歌の顔そのものじゃないか……っ!」

 桜花に詰め寄らんばかりの勢いで、男は地団太を踏んだ。
 まるで、大きな子供のようだった。
 自分の思い通りにならなければ騒ぎ、気に入ることがあれば笑う。
 監禁されていた影響なのかはわからないが、人としてまともじゃないと桜花は感じた。
 怖いという感情だけが桜花の中にあった。

「……だから、あんなコメントを残したの?」

 いくら聞いても、須藤から出てくる自分の話は押し付けでしかなく、桜花の気持ちなどひとつも反映されていない。
 須藤の目的がなんとなくわかったいま、桜花の胸にはもやもやと不快感がくすぶっていたが、できるだけ須藤の琴線に触れないよう言葉を選んだ。
 桜花の声を聞き落ち着きを取り戻したのか男は小さく頷いた後、細いつり目で桜花をじっと見つめた。

「……そうだよ。僕は、かわいそうな桜花ちゃんが好きだった。守ってあげたいと思ってた。かわいそうな桜花ちゃんに戻すためにっ」

 須藤が鼻息荒く、桜花に迫ろうとした。
 だが、すんでのところで桜花は叫んだ。

「わたしはそんなこと、一度だって望んでない!」

 桜花が大声をあげるなど思ってもいなかったのだろう。
 擦り切れるような悲痛な叫びに驚いた須藤は、細い目をかっぴらいて桜花を見た。

「……たしかに静歌は、わたしにとってずっと苦しい存在だった。でも、他人からかわいそうなんて言われる筋合いない!」

 どうして自分が地元を遠く離れたのか、それでも静歌と一緒に暮らそうと思ったのか、どれだけ静歌が自分に優しかったか、須藤は知らない。

 たしかに、静歌のことは憎かった。
 母に愛されて羨ましいと、桜花はずっと思っていた。
 だがそれは、静歌には関係のないことだ。
 自分と母との問題だと、心ではわかっていた。

 そうだというのに、あの日静歌を見殺しにしてしまったこと、静歌の名前を使って悪事を働いたこと、そんな低俗な自分が許せないのだ。

(——他人からかわいそうなんて思われる人生を捨てたくて、わたしは一歩踏み出したのに。それなのに……っ!)

 だが、桜花ははっと気付いた。
 結局自分が敷いたレールは、他から見れば“かわいそう”なことに変わりはないと。
 亡くなった静歌を模倣した人生。
 故人の名前を使って生活するなんて、冒涜だ。
 結局何も変わることができなかったんだろう。
 新たに築いてきた人生をも台無しにしたのが須藤ではなく自分自身だということに図らずも気付かされ、桜花の胸はぎしぎしと痛んだ。

 そんな桜花の内情を知ってか知らずか、須藤はまた一歩桜花に近づき口を開いた。

「静歌になってみて幸せだった?」

 それは菅野に言われたセリフとおんなじだ。

(——悔しい。何も言い返せない)

 桜花が何を考えているのか手に取るようにわかるのだろう。
 男は薄い唇の片側を持ち上げ、皮肉な笑みを浮かべた。

「静歌になってみても、何も変わらないだろ? 違っただろ? 桜花ちゃんに普通の人のような幸せは得られない。だって、桜花ちゃんは僕と一緒だから! 静歌みたいにはなれない。人の根本はそう簡単に変わらない。僕は知っているからな。桜花ちゃんが静歌のノートを隠したことも、汚い人間だってことも!」

「……!」

(——どうしてそのことを知ってるの……?)

 一時期、クラスで静歌の持ち物がなくなるという事件が度々起こった。
 それは自分が仕組んだものだったが、桜花はずっとそれをひた隠しにしてきた。
 それすらも気付かれていたとは思わなかった桜花の目に、涙が滲んだ。
 自分の一番汚い部分が丸裸にされたような気分だった。

「桜花ちゃんのことをよく見てたから、気付いたんだよ。人間なんて、みんな何か隠してる。橘律なんかは生粋のマザコンだし、津田諒は最低の遊び人だ! 知らないだろ? あんな奴らがフォロワー千人以上いるなんて、みんな騙されてるんだ!」

 須藤は狂ったように頭をがりがりと引っ掻きながら、髪を振り乱した。
 ぎろりとした瞳が桜花を捉えている。

「愛されていいわけがない、そんな人間ども! この世の中はおかしい! 陽の当たらない僕らのような人間がいるからお前らが輝いているんだって、いつになったら気付くんだ⁉」

 須藤は全身で、この世が憎いと叫んでいた。
 気持ちがわからないわけではない。

 だが、桜花は須藤の肩を持つことはできなかった。
 同情の目を桜花は須藤に向けていた。
 そんな桜花の姿が須藤の目にどう映ったかはわからない。
 静かな眼差しを向けられた須藤は、冷静さを取り戻したのか桜花を説得するように呟いた。

「……だけど、僕だけは違う。桜花ちゃんがそういうことをしてしまう気持ちは、僕にはわかる。僕らは恵まれない者同士だ。僕は桜花ちゃんの唯一の理解者だ。きみの傷跡は僕が一番わかってる。だから、僕とふたりで、ここからまた新たな人生を歩もうよ。この時が来るのを、僕はずっと待っていたんだ……!」

 そう言い切り、須藤は桜花の方へ手を差し伸べた。

(——そっか。そういうことか)

 須藤の話を全て聞いたうえで、やはり言い分は利己的だと感じた。

(——わたしは須藤くんにとって、自分が幸せになるための道具でしかないんだ)

 静歌の名前を使い分け、いい人を装い、仲の良い家族がいて幸せだと演じていた桜花の生活を脅かされた時点で、それはわかっていたことだった。

——ほんとのおまえを知っている——

 あのコメントに悪意があると感じたのは間違いなんかじゃない。
 いまここで須藤を選んだとしても、自分が一番になれないことなど明白のように思った。

 目の前に差し出された手は何があっても、たとえ天変地異が起ころうともとることはない。
 桜花は差し出された手から視線を外し、須藤の目を見つめた。

「……須藤くんの言いたいことはわかった。わたしからも聞きたいことがある」

 その声は何かを覚悟したようにまっすぐで、もう震えてはいなかった。

「もちろん! なんでも答えるよ! これからどうしようか?」

 その手がとられると信じて疑わないような言葉に桜花は反吐が出そうになったが、ぐっとそれを押し込めた。
 きっとこちらの常識など、頭のねじの一つ二つ外れた脳内お花畑な須藤には通用しないだろう。

「……須藤くんは、静歌のことが嫌いだった?」

 あの頃、静歌を嫌う人は少なかった。
 一部の先輩からはやっかまれていたが、静歌に媚びへつらう方がお得だと、周りはみんな思っていた。

 美人で多才で性格もいい。
 そんな静歌と友達でいるということは、ひとつのステータスだ。
 実は静歌ちゃんと知り合いなんだよねと一言付け加えれば合コンにも誘われやすいし、有名人と友達だと公言できるのは自分の格を上げてくれる気さえする。

 静歌の周りには、いつだって人がいた。
 だが、果たしてそれは静歌が心から気を許している人物だったのだろうか。

 こんなことになってやっと、桜花は静歌のことを本当の意味で知ろうとしていた。

 桜花は試すように須藤を見つめた。
 そして予想していた通り、須藤は顔を歪めた。

「……さっき言わなかった? 桜花ちゃんを貶めた静歌なんて、大っ嫌いだったよ」

 冷たく吐き捨てられた言葉は、桜花の心にずっしりと重く沈んでいった。
 考えたくなかった可能性がどんどんはっきりと輪郭を表わしていくのがわかる。

「静歌のストーカーをしていたのも、須藤くんなの……?」

 須藤に追い打ちをかけるように放った言葉。
 それを聞いた須藤は眉毛を上げ、愉快そうに笑った。

「知ってたんだね⁉ ほんと、特にあの日は傑作だったよ!」

「“あの日”……?」

 桜花はその一言を聞き洩らさなかった。
 ひっかかる言葉を繰り返した桜花に、須藤は平然とした顔で言った。

「そうだよ。静歌が死んだ、あの日」

 そして、当たってほしくなかった予想が的中してしまう。
 須藤はその日のことを思い出しているのか、喉を鳴らしながら笑っている。

「ちょっと驚かせるだけのつもりだったのに、背中を押して転ばせたら急に苦しみだしてさ。すぐに家の中に引っ込んで行ったけど。そういえば心臓が悪いんだったっけ? あの日に死んだって風の噂で聞いたなあ。でも、別に僕は何も悪くないだろ? 知り合いが目の前にいたから驚かしただけ。その後に死んだんだとしても、驚かしたタイミングが悪かっただけ。僕にはなんの罪もない。実際発作が起因で死んだって調べがついたんだろ? これも噂で聞いたよ。な、俺は悪くない。むしろそんなタイミングで驚かした俺がかわいそうだ。なあ、そうだろ?」

 何がそんなに面白いのか、心底愉快そうに須藤は言った。
 桜花の唇は正反対に、わなわなと震えていた。

(——やっぱりそうだったんだ。静歌はあの日、須藤に驚かされて怖くて……。いつもなら普通に対処できるはずなのに、助けを求めてわたしに手を伸ばしたんだ)

 事実を知った桜花は、あの日静歌を助けなかったことを激しく後悔した。

「死んでよかっただろ? 僕のおかげだろ? 感謝しろよ!」

 桜花の目は涙で濡れていたがきつく鋭い眼差しは、確実に須藤を捉えていた。

 須藤は一切悪びれない。
 それどころか自分が正しいとさえ思っている。
 睨みを利かせたまま動かない桜花に痺れを切らした須藤は、声を荒げた。

「いい加減、早く僕の手をとれよ! 一緒に行くって言えよ! 僕もおまえも、もうどこにも帰る場所なんてないんだから!」

 須藤の伸ばされた手は少しだけ震えているように桜花の目に映った。
 前までの自分だったら、あの日の静歌のように自分に助けを求めているようにも見えただろう。
 だが、いまの桜花の目には、須藤の手とあの日伸ばされた静歌の手は何ひとつ重ならない。

(——この手だけは、絶対にとっちゃいけない。わたしはもう、ここからなにひとつ間違えちゃいけない)

 頑なな桜花の様子に須藤はいらつきを隠せないようで、じりじりと近づいてきた。
 須藤がにじり寄った分後ろへ下がろうとしたが、膝裏にブランコの柵が当たりそれはできない。
 もう二人の距離はあと僅かだった。

 須藤の影が自分にかぶさって、桜花の視界は一気に暗くなる。

 だがそのとき、遠くから駆けてくる足音が桜花の耳には聞こえてきた。
 その音はどんどんこちらに近づいているが、興奮状態の須藤は全く気付いていないようだ。

 須藤の生臭い息が桜花の頭上に降り注いだと感じた間に視界は一気に開けて、気付けば須藤は地面に倒れていた。
 束の間の出来事だった。
 危なげな雰囲気を感じ取った菅野が走ってきて、その勢いのままに須藤に横から体当たりをかましたのだ。

 手足を投げ出して倒れている須藤を見下ろした菅野は、急いで桜花に近寄った。

「平気? 怪我してない?」

 桜花はふるふると首を横に振った。
 それを見た菅野はほっと息を吐き、安堵の表情を浮かべた。
 自分とそれほど背丈は変わらないのに、どうしてか菅野が大きく見えた。

(——安心感って、体の大きさでは決まらないんだ)

 自分の目の前に立って視界を遮ってくれた、あの日の美樹の背中が重なった。
 場違いにもほどがある。
 だが、桜花は本音でそう思った。
 しかし、危機的状況に陥っていることにはまだ変わりない。

「おまえ、何なんだよ! さっきも桜花ちゃんと一緒にいた男だな⁉ 邪魔するのも大概にしろよ……!」

 突き飛ばされた須藤はほんの一瞬意識を手放していただけのようですぐさま起き上がり、二人の方を睨み上げた。
 すると先ほどスマホを取り出したポケットと逆の方をごそごそと漁り始める。
 不穏な動きだった。

 菅野は怪しげな須藤の動きを警戒し、守るように桜花の前へ立った。
 須藤の手に、きらりと光る鋭利なものが見える。
 小さなそれは、果物ナイフのようだった。

 須藤は右手にそれをきつく握り締めている。

(——こんな日がいつか来るかもしれないと思ってた)

 桜花の頭は、この場にいる誰より冷静だった。
 菅野のこめかみを流れていく汗や、須藤の眉間に寄ったしわまではっきりと見える。

「邪魔なんだよおまえ! いまさら、一人も二人も変わらないんだよ……っ!」

 言いながらこちらへ襲い掛かってきた須藤の動きさえ、桜花の目にはスローモーションのように見えた。

 桜花は、覚悟していた。
 事実を知った、そのときに。

 須藤のナイフは、まっすぐ菅野を狙っている。

(——……死んでもいい。それがきっと、あの日犯した罪の償いだ)

 桜花は後ろから勢いよく、菅野の腕を引いた。

 あの日自分がされたように、強く、強く。

 バランスを崩した菅野は、桜花の左側に後ろ向きで倒れていく。
 少しだけ触れた菅野の左手のタコは新しくできたようで固かった。

 同じものを持っていても、同じようには生きられない。

 桜花の心はずっと穏やかだった。
 目の前には驚いたような、恐怖を携えたような瞳をした須藤が迫っていた。

 ナイフが到達するまで、あと僅か。

 桜花は静かに目を閉じ、そのときが来るのを待っていた。