メディチ家の隆盛はローマで金融業を営んでいたジョバンニ・デ・メディチが1397年に故郷フィレンツェに本拠を移した時から始まった。メディチ銀行が創設されたのだ。ローマ教皇庁が最大の顧客であったため、その信用を基にローマ、ナポリ、ヴェネツィアと次々に支店を開設し、繁栄の礎を築いていった。更に、大富豪となったジョバンニは財と名声を利用して市政に関与するようになり、それは息子のコジモ、孫のピエロ、更にその子孫にまで引き継がれ、メディチ家はフィレンツェを実質的に支配するまでになった。それだけでなく、高い教養を身に着けたメディチ家の当主たちは、その財力をバックに芸術を保護するパトロンとしても存在感を高めていった。特にロレンツォ・ディ・ピエロ・デ・メディチはボッティチェリやミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチなどの芸術家を支援し、ルネサンスの興隆を後押しする存在となった。
 
 その後もトスカーナ大公として栄華を誇ったメディチ家が王家御用達精錬所の称号を与えたのがサンタ・マリア・ノヴェッラ薬局だった。それだけでも名誉なことだったが、更に名声を高めたのがフランス王家のアンリ2世に嫁ぐカテリーナ・デ・メディチの嫁入り道具として『王妃の(アックア・デッラ・レジーナ)』を製品化したことだった。それはカテリーナによってフランスで大々的に広められ、その貴重な香りが女性たちを魅惑した。それだけでなく、彼女は食文化にも大きな影響を及ぼし、イタリアの優れた料理技術をフランスに移転する役割も果たした。更に、政治の世界でも力量を発揮し、国王や長男の死去に伴って王位に就いた幼い子供を支えるために摂政(せっしょう)として30年に渡ってフランスを統治した。
 
 しかし栄枯盛衰は世の常であり、メディチ家もその例にもれず衰退の道をたどることになり、18世紀に断絶することとなった。栄華を誇ったメディチ家はこの世から姿を消したのだ。それでもイタリア各地に移り住んだ系列のファミリーは今もその血筋を繋いでいる。その末裔(まつえい)に繋がっているのが、フローラなのだ。