しかしその翌日、事態は急変していた。未明にアントニオが突然頭痛を訴えて、嘔吐を繰り返し、朦朧(もうろう)とした様子になったという。
 救急車で運ばれると、すぐにCT検査などを受け、くも膜下出血の疑いと共に脳動脈瘤破裂の危険もあると告げられた。それは一刻の猶予もない状態と判断され、緊急の開頭手術が行われた。動脈瘤の根元を医療用のクリップで留めて血流を遮断するという大変な手術だったらしい。
 手術は無事成功して一命は取り止めたが、運動麻痺や感覚麻痺、嚥下(えんげ)障害などの後遺症が出る可能性と共に構音障害や失語症の心配もあると告げられた。しかも回復に向けてのリハビリテーションは長期間必要で、退院できるのは早くて1か月後、回復が遅ければ3か月後ということもあるのだという。
 
 ルチオに頼まれて原材料や仕掛品の始末などをするためにベーカリーに急行した弦は、すべての作業を終えると、シャッターに臨時休業の張り紙をし、病院に急いだ。

 院内に入ると、そこには目を真っ赤にした奥さんと沈痛な表情を浮かべているルチオとアンドレアがいた。アントニオは救急治療室で点滴に繋がれて酸素マスクを付けられているという。
「大丈夫ですよ。絶対大丈夫ですから」
 長椅子に座っている奥さんの手を取ってしっかりするように励ますと、うんうんというように何度も頷いたが、声はまったく出てこなかった。その右隣に座るルチオは両手を組んでそれを前後に細かく動かしていて、「神様」という言葉が口から漏れると、十字を切って頭を垂れた。
 しばらくして顔を上げたルチオから「死ななくてよかった……」という安堵の声が漏れたが、それまで必死になって堪えていたであろう目から涙が零れた。それを見た途端、弦も耐えられなくなり、奥さんの手を握ったまま2本の筋が口まで流れ落ちた。
「でも、もう一度パンを作れるかどうか……」
 奥さんが苦悶の声を出した。運動麻痺や感覚麻痺がパン職人にとって致命傷になることは明らかで、その深刻さは弦にも容易に想像できた。
「もう無理かもしれない……」
 奥さんがアンドレアの肩に顔を付けて嗚咽を漏らすと、「大丈夫だよ。絶対大丈夫」と目を赤くしたアンドレアが肩を擦りながら自らに言い聞かすように呟いたが、それが楽観的なものであることは彼自身もわかっているようで、それからあとはどんな言葉も出てこなかった。