「イタリア人パン職人から直々に教えてもらっただけのことはあるわね」
 予想外の褒め言葉がウェスタから発せられた。それは、中種作り、中種発酵、本捏ね、分割、成型、最終発酵、焼成と、昨夜から今朝にかけて行われた一連の作業に対して贈られたものだった。
「ありがとうございます」
 安堵の息を漏らして今までの緊張を解くと、「フローラが来たらびっくりすると思うわ」と予想外のことを言われたので思わずニンマリとしてしまった。しかし、すぐに話はパンのことに戻り、「それにしてもあなたの師匠はたいしたものね」と経験が半年弱の弦をここまでにしたルチオとアントニオへの賛辞になった。でもそれは最高に嬉しいことだった。師匠が褒められることほど嬉しいことはなかった。

 開店まであと10分という頃にフローラが顔を見せた。
「どうだった?」
 弦にわかるようにと気を使ったのか、英語でウェスタに話しかけた。
「最高よ」
 ウェスタも英語で答えた。
 それで照れ臭くなったが、「召し上がれ」とウェスタがトレイに乗ったチャバッタを差し出すと、口に入れたフローラから「おいしい」と日本語が出た。
 やったー! 
 2人に見えないように拳を握ると、続いて口にしたウェスタが指先を唇に当ててキスをして、天井に向けて指を開いた。おいしさを表すジェスチャーのようだった。
 褒められて天にも昇るような気持ちになったが、それを隠して貴重な経験ができたことへの感謝を伝えた。すると、「こちらこそ。とても楽しかったわ」と英語で応えるウェスタにフローラが何やら耳打ちをした。即座にウェスタが頷いたので、なんだろうと思っていると、「ウェスタが夕食にご招待したいと申していますが、いかがですか」とフローラが笑みを浮かべた。アルバイト料の代わりだという。
「いえ、こちらこそ御礼をしなければいけないのに……」
 招待なんてとんでもないと手を横に振ると、急にウェスタが鋭い目付きになってなにやらイタリア語でまくし立て始めた。するとフローラもウェスタの真似をして腕を組んで睨みつける目になった。
「年上の女性の誘いを断るものじゃないわよ」
 日本語だったが、美しい顔から発せられた凄みのある声に弦は声をなくした。しかし、ウェスタが笑うとフローラも笑い出して元の美しい顔に戻ったので、やっと気持ちがわかって、「ありがとうございます」という言葉を素直に出すことができた。

 ウェスタの店を出てからベーカリーを5軒ほど覗いたあと遅い昼食を済ませた弦は、夜までホテルで横になった。結構な時間眠ったが、それでもまだ眠かった。しかし時間が迫っていたので、大あくびをしながらシャワーを浴びて、念入りに髪を整えた。それからキャリーバッグからジャケットを取り出して羽織り、その姿を鏡に映した。中々サマになっていたので自画自賛したが、ルチオへの感謝は忘れなかった。彼のアドバイスがなければジャケットを持ってくることはなかったからだ。