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 翌朝、アンドレアとサンドロはチンジャ・デ・ボッティに帰っていったが、弦はフィレンツェにとどまった。パンの研修というのが表向きの理由だったが、本当は違っていた。
 10時の開店を待ちかねるようにしてサンタ・マリア・ノヴェッラ薬局へ行った。しかし、弦の目当ての人はそこにいなかった。休憩中かもしれないと思ってカウンターで訊くと、今日はお休みだというつれない返事が戻ってきた。その上、明日も休みだと付け加えられたので困惑してしまった。明後日の午前中の電車で帰らなくてはならないからだ。二度と会えないままこの地を離れると思うと、落胆は大きかった。しかし、どうすることもできず、礼を言って薬局をあとにした。

 一気に気力が落ちた弦の足取りは重く、旧市街にある立派な教会や歴史的価値のありそうな建造物や広場に陳列された見事な彫刻などを見ても気持ちは上向かなかった。もうどうでもいいという感じになっていた。しかし、お腹が鳴って我に返り、ベーカリーの見学だけはしておかなくてはならないと気を取り直した。

 お昼の時間帯とあって大通りに面したベーカリーはどこも込み合っていたが、その中でもひときわ長く行列ができている店があった。かなりの人気店のようだったので誘われるように足はその店に向かい、列の最後尾に並んだ。
 看板を見上げると、『Forno(フォルノ) de() Medici(メディチ)』という文字が目に入った。Fornoの意味がわからなかったのでスマホで調べると、〈オーブン〉と表示が出た。しかしそれだけではなかった。〈(かまど)〉という意味もあった。
 メディチさんの竈か……、
 呟くと同時に本で読んだパンの歴史が蘇ってきて、古代エジプトのパン職人の姿が浮かんだが、その時いい匂いが鼻に届いた。焼きたてのパンの匂いだった。たまらなくなって唾を飲み込んだ。
 順番がきて店の中に入ると、客でごった返していた。弦はその混雑から逃れるために店の隅に移動して店員がてきぱきと応対するのを眺めていたが、その中にあの美しい人にどこか似ている女性を見つけた。そっくりではなかったが目元や口元がよく似ていたので目が離せないでいると、その人が大きな声で名前を呼んだ。
「フローラ」
 その瞬間、心臓が止まりそうになった。それはあの美しい人の名前と同じだったからだ。すぐさま店内を見回して必死になって探すと、いた。その人がいた。あの笑顔があった。間違いなく、あのフローラだった。

 30分が経って潮が引くように客が少なくなったが、弦は店の隅に立ち続けていた。すると、あの美しい人が近づいてきた。
「いらっしゃいませ」
 英語だった。
「お探しのパンはございませんか?」
 長時間店の中にいたのを知っているかのような問い掛けだった。
「いえ、あの……」
 弦はしどろもどろになった。それは、声をかけられたからだけではなかった。存在を覚えてもらえていなかった落胆からきたものでもあった。だから思い出してもらうために「ノヴェッラ薬局で」と日本語で言うと、「あっ」と美しい人が右手を口にやった。
「先日お見えになった……」
 彼女の口から日本語が出たので、唐突かもしれなかったが自己紹介を始めた。
「弾弦と申します。ニューヨークでパン職人の修行をしています」
 すると彼女が目を丸くした。日本人とニューヨークとパン職人とフィレンツェ滞在がうまく結びつかないようだったので、弦はフィレンツェに来た経緯を話した。そして、明後日の朝には出発しなければいけないことを伝えた。
「そうですか……」
 何か考え事をするような表情になったと思ったら、急に振り向いてさっき名前を呼んだ人のところに歩み寄って話を始めた。
 何を話しているのかわからなかったが、少ししてその人を連れて戻ってきて、従姉のウェスタだと紹介された。そして手を差し出したので軽く握ると、とても柔らかだった。もしかしてと期待してフローラを見つめたが、残念ながら手は出していなかった。彼女の手に触れることができずガッカリしたが、思いがけないことを提案された。
「もしよかったらこの店でパンを焼いてみませんか?」
 突然のことに返事ができずにいると、ウェスタが英語で話に入ってきた。
「見ることも食べることも大事ですが、実際に作ってみることが一番の経験だと思いますよ」
 しかし急展開についていけなかった。
「ほんとにいいんでしょうか」
 すると、「si」となんの問題もないような笑みが返ってきた。そして背中を押されて、厨房へ連れていかれた。