イタリア

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 13時間余りの飛行を終えてミラノに着いたのは朝の10時過ぎだった。空港にはルチオの親戚が一人で迎えに来ていて、シメオーニ・ボッティと名乗った。60歳前後くらいだろうか、がっしりとした体格と精悍な顔つきが印象的で、一般的に言われているナンパ系のイメージとは違っていた。彼らは熱い抱擁を交わして久しぶりの再会を喜び合っていたが、すべてイタリア語なので弦には何を話しているのかさっぱりわからなかった。

 彼が運転する大型のSUVでルチオの故郷へ向かった。皮張りのシートが高級感を醸し出しており、遮音性の高さも際立っていた。そのためロードノイズがほとんど聞こえず、カーオーディオから流れる音楽はまるでコンサートホールで聞いているようだった。弦の知らない曲ばかりだったが、うっとりするようなヴァイオリンの調べが車内を包み込んでいた。

 チンジャ・デ・ボッティに到着したのは午後1時を回っていた。2時間を超えるドライヴだったが、ルチオもアンドレアも元気いっぱいのようで、久しぶりの里帰りにワクワクしているのが手に取るようにわかった。
 
 親戚の家に到着すると、シメオーニがクラクションを鳴らした。すると、10人を超える人たちが玄関からぞろぞろと出てきて、代わる代わるルチオとアンドレアに熱い言葉と抱擁を浴びせた。それはいつ終わるともなく続いたが、弦への対応は握手だけだった。

 家の中に入ると、すぐにリビングに通された。テーブルの上には隙間なく皿が並べられていた。
「凄い料理ですね」
 機中でルチオから美食の町だと聞いていたが、目の前の料理は想像をはるかに超えていた。古くから畜産や農業が盛んで、特に肉料理が美味しいと評判らしく、肉を茹でたような料理や詰め物をしたパスタをスープに浮かべたもの、豚足だろうか、その中にひき肉を詰めたようなものなど、見たこともない珍しい料理がテーブルいっぱいに並んでいた。
「どれもうまいぞ。遠慮せずに食べなさい」
 ルチオに促されて次々に頬張ると確かにどれもおいしかったが、周りの会話がまったくわからないので取り残された感じもあって少し居心地が悪かった。しかし、そんな様子に気がついたのか、対面に座るシメオーニが気遣うような口調で話しかけてきた。
「イタリアは初めてかね」
 ちょっと訛りが強かったが間違いなく英語だった。初めてだと答えると、「クレモナのことは何か知っているかね」と訊かれたが、首を傾げるしかなかった。クレモナという言葉自体がわからないのだ。すると、「チンジャ・デ・ボッティのある県のことだよ」とルチオが助け舟を出してくれた。ロンバルディア州クレモナ県チンジャ・デ・ボッティというのが正式な地名だという。
 それでクレモナが地名だということはわかったが、ルチオの故郷であること以外は何も知らないことを伝えた。すると、まあそうだろうな、というようにシメオーニが頷いて、「ここはね、」と切り出したが、右隣に座るアンドレアがすかさず割り込んできた。
「クレモナはヴァイオリンの故郷なんだよ」
 それでちょっと不機嫌そうな顔になったシメオーニだったが、すぐに気を取り直すように咳払いをしてアンドレアの話を引き取った。
「アマティって知っているかい」
 弦は首を振った。
「では、ストラディヴァリは?」
 今度は頷けた。世界一高価なヴァイオリンの製作者だということは日本でも有名だからだ。
「そのストラディヴァリが工房を構えたのがこのクレモナなんだ」
 16世紀の名製作者『アンドレア・アマティ』や、17世紀から18世紀にかけての偉大な製作者『アントニオ・ストラディヴァリ』がこの地で次々と素晴らしいヴァイオリンを生み出したのだという。
「ユネスコの無形文化遺産に登録されるかもしれないんだぜ」
 またアンドレアが口を挟むと、「まだ申請中だけどね」とシメオーニが話を引き取り、「興味があったら偉大なヴァイオリンを見てみないか」と誘いの言葉を投げてきた。
 しかし頷くことはできなかった。ストラディヴァリウスをそんなに簡単に見ることができるはずはないからだ。ところがそれを察したのか、シメオーニは事も無げに話を継いだ。
「私はストラディヴァリ博物館の館長をしているから、いつでも招待してあげるよ」
 どおりで簡単に誘ってきた理由がわかったが、話はまだ続いていた。レンガ造りの美しい建物である博物館には新たな計画が進んでいて、来年にはもう一つの博物館と統合して『ヴァイオリン博物館』になる予定だというのだ。更に、ヴァイオリン職人の夫を持つ日本人女性をガイドとして採用することになっていることまで話してくれた。そして、「いつでもいいからね」ととびきりの笑みを浮かべて立ち上がった。

 シメオーニが別の席に移動したのを見て、弦はルチオに話しかけた。
「違っていたらごめんなさい。もしかしてと思ったのですが、アントニオとアンドレアは」
 するとルチオが右手の掌を弦に向けて遮った。わかったわかった、というように。
「その通り。アントニオは『アントニオ・ストラディヴァリ』から、アンドレアは『アンドレア・アマティ』から拝借したんだ」
「やっぱり」
「偉大な人物の名前を拝借したから、音楽をこよなく愛し、かつ、私を大切にしてくれる息子と孫になったんだと思うよ」
 ルチオが誇らしげに言い切ったのでアンドレアに視線を向けると、彼は目をパチクリとさせて微動だにしなくなった。