「本気でパンに向き合ってみないか?」
「えっ?」
「センスがあるから向いていると思うんだけどね」
「私もそう思うよ。物覚えが早いし、器用だし、リズム感もいいし、美的センスもあるし」
 タコ焼きを食べ終えたアントニオがルチオに続いてすかさず畳みかけてきた。
 弦はどう反応していいかわからず口をすぼめるしかなかったが、「2人ともそれくらいにしたら。ユズルはハーバードへ行って、卒業したらお父さんの会社に入って、将来は社長になるんだから誘惑したって無駄よ」と奥さんが話を切ってくれた。それでルチオとアントニオは母親に叱られた子供のように首をすくめて情けない顔になったが、それでも「アンドレアは継ぐ気がないから、ユズルが継いでくれたらな~と思ってさ」と諦め切れない様子のアントニオはルチオと顔を見合わせてため息をついた。
 それでその話は終わりになった。ホッとした弦は再びひらひらと桜の花が舞い降りるポトマック川の水面に視線を向けたが、耳の奥にはルチオとアントニオの声が残り続けていた。
 本気なんだろうか……、
 水面(みなも)に浮かぶ花びらを見つめながら弦は、自らの行く末に思いを馳せた。 

 弦がニューヨークの自宅に戻ったのは夜の10時を過ぎていた。電車の中ではパン職人の話は出なかったが、頭の中にはその言葉がグルグルと回っていた。それはルチオたちと別れたあとも同じで、部屋に戻ってからも彼らの声がエンドレスで続いていた。
 パン職人か~、今までそんなこと考えたこともなかったな~、
 呟くような声がギターのホールに吸い込まれていった。
 そういう道もあるということか、
 ゆらゆらと首を横に振った。

 ハーバード大学への願書提出まであと8か月ほどとなっていた。この1年で英語力はかなり上達しており、文法だけでなく、アルバイトを始めてから英会話力がぐんと上がったので、6月に受ける予定のSATとTOEFLの試験で高得点を取る可能性は高かった。それに、内申書、つまり、高校3年間の成績にはなんの問題もなく、提出が義務付けられているエッセイの準備も着々と進んでいる。だから受験に関してはなんの不安も持っていなかったが、それでも奥さんの言葉がいつまでも耳に残って離れなかった。
「ユズルはハーバードへ行って、卒業したらお父さんの会社に入って、将来は社長になるんだから誘惑したって無駄よ」
 その通りなんだけど……、
 弦の呟きが力なく床に落ちた。