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 死んでしまった……、
 ピサへの従軍から帰ったダンテに訃報が届いた。あの美しい人が24歳の若さで亡くなったという知らせだった。9歳の頃から愛し続けたあの美しい人がこの世から姿を消してしまったのだ。ダンテは狂わんばかりに泣き叫んだ。
 ベアトリーチェ!
 あの美しい面影に向かって叫び続けた。しかしその叫びが彼女の魂に届くことはなかった。一度も会話を交わすことなく終わった片思いの残骸だけが頭の上を舞っていた。

 失意のダンテは来る日も来る日も聖トリニータ橋に立ってベアトリーチェの面影を探した。しかし、比類なき美しい顔を思い出す度に後悔が募って気分は闇に落ちた。
 もはや何をする気も起らなくなり、生きる意味を失って屍となるしかなかった。すべてがなくなったのだ。息をすることさえ苦痛だった。それでも橋へ向かう足を止めることはできなかった。あの日彼女とすれ違った橋に向かわないわけにはいかなかった。

 その日も聖トリニータ橋に立って川面を見つめていたが、目に映るものは無だけであり、魚がはねてもその姿は目に入ってこなかった。
 もう何度目だろうか、数えきれないくらいのため息をついた時、突然、風が頬を撫でた。それに誘われるように顔を上げるとまた頬を撫で、すぐにそれが強い風に変わった。背中を押されるようにふらふらと歩き出すと、いつの間にかヴェッキオ橋に辿り着いていた。それを渡って緩い坂を上っていくと大きな建物が見えた。見たこともない建物で、宮殿のような威容を誇っていた。

 隣接する庭園に足を踏み入れると広大な敷地の至る所に彫刻が飾られ、奥に向かって真っすぐな道が長く続いていた。それが余りにも見事なために暫し立ち止まって見とれてしまったが、この先に何があるのか興味を惹かれ、再び歩き始めた。すると池が見えて、噴水が上がっていた。ネプチューンだろうか、三叉槍(さんさそう)を持つ海の神が魚を捕らえようとするかのように水面を睨んでいた。
 それを過ぎると小高い所に像が立っているのが見えた。階段を上って近づくと、圧倒されるほどの大きさの女神像が松明(たいまつ)を掲げるかのように左手を大きく上げていた。持っているのは小麦の束だろうか? 右手には(ツノ)のようなものを持っていた。その姿に見惚れていると、突然声が聞こえた。
「私は豊穣の女神です。戦争や飢饉(ききん)で苦しんでいる人々を救うために天から(つか)わされました。この場所から小麦の豊作とこの地の?栄と平和を祈りながら日々過ごしています」
 突然のことに驚いたダンテは喉が詰まったようになったが、しかしそれは序章に過ぎなかった。更なる驚きの言葉が女神から発せられたのだ。
「ダンテよ、あなたは間もなくこの地から追放されます。そして二度と戻って来られないでしょう。しかし案ずることはありません。あなたは後世に残る偉大なものを書き上げる運命を授かっているからです。ダンテよ、失意に閉ざされてはいけません。例え地獄に落ちても、煉獄(れんごく)の炎に焼かれても、あなたは必ずや天国に辿り着くことができます。そして、そこでベアトリーチェと再会を果たすことができるのです。ダンテよ、前を向くのです。真っすぐ前を向いて歩くのです。さあ、行きなさい。運命の命ずるままに進みなさい」

 声が消えると、厚く覆われていた雲が開いて一筋の光が射してきた。更に雲間が開くと七色のシャワーが女神像に降り注いだが、それも束の間、一瞬にして姿が消えた。(おのの)いたダンテが来た道を振り返ると、ネプチューンの像も大きな宮殿も消えていた。何がなんだかわからなくなって口をポカンと開けていると、突然風が頬を撫で、続いて「目を瞑りなさい」という囁きが届いた。言われるままに目を瞑ってじっとしていると、しばらくしてもう一度風が頬を撫でた。目を開けると景色が変わっていた。何故か聖トリニータ橋に戻っていた。訳がわからなくなったダンテは立っていられなくなって欄干(らんかん)に右手を置いた。するとベアトリーチェの顔が水面に浮かんだように見えたが、それは瞬く間に消えてどこかに行ってしまった。
 ベアトリーチェ、
 呟きの先に面影を探したが、川は静かに流れるだけで何も与えてはくれなかった。
 ベアトリーチェ……、
 それでも呟きを止めることはできなかった。